目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

カール・マルクスの思想を読み解くー参 マルクスの物質代謝論Ⅱ-1ー

さうしてとりあえずは「資本の論理」を悪者として糾弾し理性的により望ましい社會主義國家、ひいては共産主義國家を建設するべく思想闘争して行かうと云うのが左翼思想の基本的な思考の流れです。

 

其れは何だか過激なのでもあらうが實際に此の世の中の様、即ち矛盾にまみれ不潔なー理性的にー世の流れを見て居りまするにむしろソッチの方が正しい選択なのじゃないかと正直さう思われて参ります。

其れも金まみれ威張りまみれしかも仕出かしたことの責任を誰も取らぬ与党自民党の不潔さ馬鹿さ加減ウンコ垂れ度No.1の様をかうして實際に見て居りまするにもはやコレではイカン、さうしてじぶんのケツも拭けぬやうな奴にまさか大事な國の舵取りを任せられやうものか。ー但し其処で与党公明党は除外し考えて居ります。其のやうに宗教政党はまた別の価値観でもって動いて居りまするが故に。ー

 

兎に角其の下の方の始末が最低限人間であるのならばやれねばなりません。

ですが彼等自民党のやってることとはまさに🐕畜生以下のことでありのみならずさうして👩の尻ばかりを触るわ、大酒は飲むわ賄賂は受け取るわでまるでもって精神の潔癖さが無い。

 

いや精神其のものに欠けて居り兎に角頭が悪い。

頭が悪いからそもマルクス主義など理解しやうが無い。

 

頭が悪いからさうして軍國主義ばかりをやりたがる。

また頭が悪いからつい特攻へと走りたがる。

 

 

三島先生を今侮辱したな!

いやさうでは無い。

 

三島先生の御考えは自民党の考えなどとはまるで違う。

其れも三島先生はな、ああして美しい特攻をなされたのだった。

 

美しい特攻?

根本のところではマルクス主義者の癖に何故右翼をさうして讃美するのだ?

 

 

何故なら私は「君が代」を聞くのが結構好きだ。

尤も其れも音樂として好きなのだが…。

 

でも僕は根の部分がアナーキストなので思想的にはあくまでどんな國家も嫌いだ。

だがたとえば日本刀もまた綺麗だとは思わないか?

 

だから其れは國家だとか武士道だとかさう云うことでは無しに其れが如何にも物として美しいではないか。

なので僕は日本のそんな美しいモノが基本的に大好きだ。

 

ですから其の國以外の日本だけが好きなのかもしれない。

 

 

ところでほんたうに召集されたらおまえは兵隊に行けるのか?

だってこんな人間を無理矢理兵隊にすると軍隊の秩序がまるで乱れませう。

 

其れも休み時間に「マルクス主義講座」だとかをやり始めてもうエライこととなるのではないか。

 

 

おまえは所詮アカの元教師か?

いえ其れ程眞面目に思想をやって来た訳では實はありません。

 

學生の頃も眞剣に其れをやってる人は地下に潜ってやるだとかして僕のやうなノンポリ學生とはまるで違い其れこそ命を懸けて其れをやって居たやうです。

尚私に取り其の思想は専門外なのです。

 

エッ、さうなの?

じゃあ壱體何が専門なの?

 

ペンコレクターであることこそが専門です。

所詮はヲタクが専門の人だと云うことでせう。

 

其れに左翼思想は左翼思想で實は矛盾をも抱えて居る。

左翼思想とは近代思想其のものですので所謂「人間中心主義」からは脱却し得ない。

 

まあ私の場合は其の「革命」だの「変革」だのも可成に醒めた目で見詰めて居るのだが其れをやらねば人類が滅ぶのであればやらねばならぬことでもまたあることでせう。

 

 

ところでアンタはさうして世捨て人なの?

ズバリ申して其の世捨てのコレクター第壱号だ!

 

それにつけてもみんなが●糞いやマルクス主義を學ぼうとかうして此処に注目して居ると云うのに何だか全体的に不眞面目だな。

いや至極眞面目ですよ。

 

だからかうして私にも世に対する怒りがあるのです。

何より其の不潔な世の中がイヤなのだ。

 

なので其れを是非「理性的に」浄化したい。

 

尤も壱番良い浄化の仕方は世の中とは縁を切り「逃げる」ことだ。

其れも山奥へと逃げて行くのが完璧な逃げ方だ。

 

 

でも山奥へ行くとな、

 

まずは暗い。

さうして虫が出る。

また食い物が何処にも無い。

 

但し空気だけは良くしかも極めて静かだ。

ああー、また逃げたくなって来たぞ。

出来れば明日逃げられないかなあ…。

 

 

まあ其の思想的浄化は枝野弁護士や志位氏に任せそのうち我はさうしてスッカリ隠遁文人と化すことであらう。



ー「抜粋ノート」と呼ばれるマルクスの勉強ノートー佐々木隆治×斎藤幸平 『マルクスとエコロジー』刊行記念対談「マルクスのアクチュアリティ」より

 

其の斎藤 幸平氏による人新世の「資本論」 (集英社新書)を今年の六月だったかにようやく読み始めたことからまさに私の中での左派思想への回帰が始まった訳である。

私は學者や作家の方々程本を読んで居ないのだしむしろ何かをやりつつー動きつつー自分でもっていつも何かを考えて居るタイプなので此の種の話題の本であれ其れを読むのがさうして遅れたりもする訳だ。

 

いまひとつ私が今興味を持って居ることがありまさに其れが東京のルンペンさん達ーこれもひょっとして差別用語なのか?ーの動向であり彼等の死に様と生き様のことである。

其れでもって柳 美里氏のJR上野駅公園口 (河出文庫)と云う本をまさに今読んで居る。

 

勿論此処名古屋にも浮浪者さん方は結構居られるのだがとりあえずは文明が生じさせた其の掃き溜めみたいな部分がより色濃く出て居るのが東京の浮浪者さん方の現状だと思われるのでまさに其れにこそ関心を寄せて居る訳だ。

 

其の浮浪者さん方と資本主義社會であることとの関連は極めて深いものでもある筈だ。

謂わば資本主義を理解するに壱番手っ取り早いのがさうした「資本の論理」から落ちこぼれた方々の動向であらう。

 

其れはおそらく資本主義社會の抱える矛盾を端的に示すものであらう筈だ。

資本主義社會とはもしやさうして根本のところで人間を大事に扱わぬ社會なのではないか?

 

と云う問いの部分が私にはずっと以前よりあり、其の問いに対する私なりの結論を導くべくさうした社會の所謂暗部の部分を問うた書籍を読み始めたのだと言って良い。

 

 

で、其の斎藤先生の話に戻るがお若いのだが彼は権威ある賞を取られた優れた學者さんであることらしい。

経歴を見ると主に海外で學ばれたやうで其処は所謂日本的な封建的感情論理に邪魔されず何でもストレートに批判する精神的素地を持たれて居るやうに思われる。

 

其れで本を読むと實際にそんな感じがしたものだった。

日本のみんなのことを思えばコレを言っちゃイケナイだとかそんなことでは無しにあくまで理窟の面からマルクスの理論を持ち上げられて居る事に共感が持てた訳だ。

 

其れに問題はあくまで何故日本社會が此処まで閉塞感を持ちまさに未来無き希望無き様を露呈するに至ったかと云うまさに其のことである。

其れは勿論自民党による政策が米國に盲目的に追随したもので要するに合理化されし近代原理によるものであり其れが日本的封建社會の實情には合わずむしろ日本社會への破壊をも齎すものであったと云う点がまずはあらうかと思う。

 

但し其れだけでは説明が付かず、即ち多くの資本主義の先進國がまた同じやうに数々の矛盾を抱え特に環境問題に関してはほとんどお手上げである状況を鑑みるに、まさに其れが資本の論理其のものから発した問題なのではないか、其の資本主義とは實は労働者の生き血を啜る吸血鬼であるのみならず地球をくいものにして自らだけが肥え太るまさに👿の如き輩なのではあるまいか。

 

との疑念が生じ其の疑惑に最もストレートな形で斎藤先生の御考えが答えて呉れたのでまさに其処に私は思想的に参って仕舞った訳なのだった。

 

 

で、其のマルクスの「抜粋ノート」こそが問題なのだ。

其の「抜粋ノート」にこそマルクスの眞意が盛り込まれて居るのだと斎藤先生は仰る。

 

其処でのマルクスの考えの中には所謂「エコロジカル」な視点が多分に盛り込まれて居るのだと言われる。

 

マルクスが重要なのは、環境危機をそうしたネオ・マルサス主義や消費者主義ではなく、社会的生産の次元で把握する必要性を明らかにしてくれるからです。マルクス自身は「人間と自然の物質代謝の攪乱」という概念を用いて資本主義の固有な矛盾の現れとしての環境問題をとらえています。そのうえで、物象化あるいは商品の力の抑制という主張をしていて、現在でも非常に示唆的です。ー佐々木隆治×斎藤幸平 『マルクスとエコロジー』刊行記念対談「マルクスのアクチュアリティ」より

 

其の「人間と自然の物質代謝の攪乱」という概念は重要である。

ちなみに小学生の頃私はカブスカウトの組長さんをやって居た。


其れでもってかって世界ジャンボリーへも参加したのである。

尤も私は人嫌いで団体生活が嫌な筈なのに何でまたそんなこととなったのか今思えばまるで分からぬ訳だ。


其の折に自然の中へも分け入って行った。

其の自然は当時潔癖症の私にはそんなに綺麗なものには思えず逆に都会の真ん中のデパートなどの方が如何にも綺麗なものに思えて居た。


然しどこか優しい其の自然の感触が其の侭にずっと残りだからまた三十代から森や山へと出掛けるやうになって行った。

大人になって感じた其の自然の姿こそは「完璧な調和」其のものだった。

 

人里離れた森や山で私はそんな「完璧な調和」の姿に触れ其れの一部になりたいと云う気分さえもが芽吹いて来た。

さてさうした實體験としての人間に対する齟齬と観念的な意味での文明への疑念を基に我が生涯は構築されて来たのだと言って良いことだらう。

 

ところが惜しい哉人間は所詮人間なので幾ら其処に大矛盾が潜んで居るにせよ我我個は其の人間を捨て去ることなど叶わぬのである。

さうした意味で我我は所詮、其の人間以外の何者を生きるのでも無い。

 

だって人間なのだもの。

 

 

其の事實はほとんど私にとり死刑宣告に等しいものなのだけれど其れでも猶人間をやってかなければならぬ其の現實に於いて全ては悲劇化して仕舞う訳だ。

だからソコまで追い込まれた知性はもう気が狂うか其れとも自決するかと云うところまで實際のところ追い込まれて仕舞う。

 

なので逆に其処にコレクター体質を無理に被せるつまりはバカになる、其れも河村市長の如き馬鹿は如何にもみっともないので社會はもう見捨てモノマニア馬鹿で行く。

と云った経緯こそがほぼ私の人生を要約するものであり何よりドキュメンタリーとしての私の文學作品其のものなのである。

 

 

其の「環境問題」は資本主義が引き起こして居る、と云う結論はけだし重要な認識であり結論なのであらう。

其の環境が何故大事なのかと云う視点、認識をすでに家畜化されし我我現代人は見失いがちである。

 

其れは其のやうに現代社會に洗脳されて仕舞って居るからだ。

 

我我は教育を受けるが其処で主に「人間の大事さ」に就き學び動植物やら海やら山やらの価値はたとえば文部省唱歌などのごく限られたところで讃えられるだけのことであり實際には我我が常に見下し意の侭にして操って居るものこそが其の自然でありつまるところ我我の生にとっての価値体系とは其の自然からの収奪であり改変の様なのだ。

 

だが夏休みにでもなれば我我は海や山へとさうして自然とくり出すこととなる。

つまり、社會は我我を完全には都會の中に閉じ込めて居られぬ訳だ。

 

だが日本人は変わって居りさうして欧米の人々がヴァカンスをやる間にもたった三日間だけのお盆休みを取り海と山へ行こうかとさう思ったところ盆には決まって坊主が来るので其れも結局行けやしない。

其れもよりにより佛教がそんな洗脳の片棒を担いで居て果たして其れで良いのか?

 

さうして日本のみんなは何故其のことに怒らぬのだ?

みんなは壱體何を思い何を考え今を生きて御座るのだ?

 

僕はもうお前達など見捨てた。

サアかうして独りで筆記具の世界へと埋没して行かう。

 

 

うーむ、今日もまた凄いペンを創っちゃったぞ。

尤もどう凄いのかと云うことを説明するだけで最低壱時間は要することだらうが。

 

 

さても其の環境は潔癖に守られるべきなのでせうか?

潔癖に守ったにせよ守り切れぬ程に精妙であり壱種気難しいものこそが其の自然でせう。

 

また其のことは自然と親しむことでこそ体感されることです。

自然はさうして神経質でもって壊れ易いものでもまたある。

 

他方では其れは鈍感ー理性的にはーで幾らでもそれこそ自然に涌いて来るものなのでもある。

ほれ丁度🐜やらボウフラやらオタマジャクシやらが自然的に幾らでも涌いて来ることと其れはまるで同じことなのだ。

 

其処からして自然とはまずは両極の性質を持った物質的過程である。

故に生命の尊厳を只ひたすらに其処に追い求める思想などは誤りですらある。

 

要するに自然は愛らしく美しいと同時に凶暴であり醜悪でもまたあるのだ。

 

但し其の分離度が壱次的である。

対して人間の方の分離度は弐次的である。

 

精神⇔物質

 

と云うやうに分離される其の観念領域こそが人間の持つ固有の認識上の癖である。

 

 

では自然は分離されては居ないの?

いや分離されて居るからこそ其処にさう現象して居る。

 

但しあくまで精神的に分離されて居る訳では無い。

其の弐元的分離と云うか弐重の分離と云うか其の点に於いて人間の観念は常により危険な状態に置かれて居るのだと言えやう。

 

 

もしや其れって詩人さんの考えなの?

さうだよ、其れも廿年位森や山の中を歩き回って自然に頭の中に浮かんだ其の考えなのだ。

 

尚僕は結局文明世界での所謂放浪歴と云うやうなものは無い。

さうして私は山野を放浪することだけが好きなのだ。

 

では無人島生活などもお好きなので?

いや私は観念人間でもって手は動かぬ人なので無人島生活すれば多分すぐに死んじゃうことだらう。

 

さうではなくさうして彷徨いながら考えることこそが何より得意なのだ。

 

 

自然が其の「完璧な調和」をして居ることが何で分かりましたか?

何故なら何処にも余分なもの、不要なものが其処には無いからなのだ。

 

謂わば其れ自体で満ち足りたもの、加工する必要が何処にも無いものこそが其の自然の本質である。

 

其れをまた何で我我は穿り返し加工し価値の再構成を行うのでせう?

 

観念が其れを欲するのだらうよ。

まさしく観念的な価値が其れを欲して止まぬ訳だ。

 

 

故に壱面ではまさに其れが「人間の馬鹿さ加減」を象徴する出来事なのでもある。

 

加工せずとも良いものをあえてさうして加工し其処に膨大な虚としての価値を生み出す。

其の虚としての価値を信奉し易いのが其の観念としての働きなのだらう。

 

では観念こそが悪者なので?

 

尤も其れは善悪に分かれて居る、其の善悪が同時的同列的に存在して居ると考えて置くべきだらう。

だが其のやうな分離のあり方がまさに苦を生む訳なのでキリスト教は其の苦を神に丸投げし且つ佛教は苦其のものを消し去ろうとする訳だ。

 

尚其の善悪の区別、所謂価値分別に関しては特に注意を要する。

たとえば基本的には善は悪と壱セットであり、正もまた誤と壱セットなのだ。

 

だから其のセットを含めての話でありつまるところ善其のものとしての善だの、また正義其のものとしての正義と云うものは此の世に實は何処にも無いのである。

 

 

でもそんなんじゃ其れこそ不可知論であり其れが最終的にはニヒリズムへと繋がって仕舞うのではないか?

でも實際にさうなって居るので其れは仕方が無い。

 

仕方が無いつまりは其れをどうかうすると云う術が無い訳だ。

 

其処で価値分別ヒエラルキーの逆としてのマイナスの価値ヒエラルキーをもしも構築したとすればさうして観念的に価値分別に振り回される人間達、またさうして虚の価値に惑わされ相対的世界観をより堅固に構築せんとして躍起となる文明世界の価値観の愚かさが立ちどころに分かることだらう。

 

其れも何かかうマルクスの考えとはまた別のもののやうな気が致しますが…。

あれ、さうでした。

つい僕の考えを延々と述べて仕舞って居た。