目覚めよ!

文明批判と心の探求と

カール・マルクスの思想を読み解くー弐 資本の論理による具象的・抽象的破壊ー

かうして日々生活に追われる貧乏な我我は生活上の様々な物資を節約し且つ購入を断念しつつ生きて居ざるを得ない。

尤も其れが酷くなればカップ麺やレトルトカレーのみで日々の食事を賄わなければならぬ。

 

あれさう言えば最近肉ートンカツやステーキ、また焼肉などをーを食って無いが果たして大丈夫か?

いやまだ死にゃあしないよ。

 

人間はさう簡単には死にゃあしない。

だが一部の人間達は逆に贅沢三昧をして其れこそ酒池肉林のやりたい放題をやってるのに何故そんな酷い格差が生じて仕舞うのだらうか?

 

 

もしや其れは社會の責任では無いのか?

個の自己責任であるとかそんなことでは無しにあくまで社會其のものが悪いのでさうなって居ることなのではないか?

 

産業革命以降其の「資本の論理」が横行し人をこき使うことで資本家が儲けること即ち剰余価値を最大限化するべく合理化が行われて来たのだと言えやう。

即ち人類はまさに其の「儲け至上主義」の為に頭を使って来たつまりは理性を使って来た訳である。

 

だが所詮其れは「ウソの理性」の履行であるに過ぎなかった。

何故なら理性は其の際限無き一部の人間の儲けに対し使うべきでは無くまさにみんなー全体ーの今の利益の為に使うべきものなのだから。

 

 

イエス・キリスト様と云う救世主の方が居られ此の方が何を思ってかイキナリ物を売ってる市場を破壊するに及ばれた。

其の行為の本質的意味が分からぬ弟子やら周りの者共はイエス様は気が狂って仕舞われたのではないかと思った訳だが何のことはない、其のイエス様はさうして物を売買して儲けると云うこと其れ自体が神の意に沿わぬことであるとさう判断されたが故に市場を片っ端から蹴っ飛ばし商品を其処らへ撒き散らし「こんなことはすぐさま止めよ!」とさう仰せになられたのであった。

 

ですが兎に角頭の出来が悪い俗人には逆にイエス様の方が頭がおかしいとしか思えなかった訳なのだった。

 

かように馬鹿とは明らかに罪である。

こんな馬鹿が居るから此の世はいつまで経っても良くはならぬ。

 

では貴殿がもし其処に居合わせたならイエス様と共に市場を破壊なされたのか?

無論のことさうだ。

むしろわたくしが率先して市場を破壊しイエス様に頭を撫でて頂いたことであらう。

 

 

あー、分かりました。

むしろアンタだけが聖人の味方であり即ちものが良く分かった聖人に御仕えする僕であり他の者はー特に現代人はー皆馬鹿であり獣であり生きるに値せぬ者ばかりだとさう仰りたいのでせう?

 

まあ半分位は事實さう思ってます。

正直馬鹿が多い世の中だなあとは日に何度もさう思いますものですから。

 

 

其のやうにイエス・キリスト市場経済其れ自体を否定されて居られた。

同様にお釈迦様の場合にも市場経済其れ自体に対し極めて厳しかった。

 

だから沙門は労働をして対価を得てはならず故に出家者は常に其のやうに布施されし物を黙って食い其れに対し不平を述べては決してならない。

 

また佛教は所有と云うことに対し極めて潔癖であった。

故に沙門が所有するものと云えば體を包む衣と托鉢の鉢ひとつきりだ。

 

何故ならまさに所有することにより人間の欲望は掻き乱され次第に其れが増幅し際限無き欲の虜となって仕舞うからなのだ。

つまりは深く所有の煩悩に捉えられ眞理への道を閉ざされて仕舞う訳だ。

 

 

で、近代以降は特に其の眞理への道筋とはあえて逆の方向性を選び今日まで我我はやって参りました。

なので我我が地獄へ堕ちるのは其れはまさに自明のことまさに自業自得でのことなのだ。

 

さうして我我文明人が目指して来た「豊か」で「平和」な世界を求めると云うイデオロギーの裏側には實は👿の魂胆が隠されて居たのです。

 

 

あああああああー其れは恐ろしい。

でもまた何でソコまで言いますかね。

 

其れを言っちゃあお仕舞いでしょうに何でさうして何でも言っちゃうのでせうか?

其れはわたくしが至って正直者だからなのです。

 

正直者と云うのはアスペルガー体質者のことです。

丁度あのグレタさんなどが其の体質の所持者でせう。

 

信長公もまたアスペルガー体質であった可能性が高く御座ります。

ですが家康公の場合はまた違い如何にも腹黒い理性派の狸爺だった訳です。

 

 

「資本の論理」とは其の「所有」への欲を最大限に合理化したものでせう。

つまりは其の虚の欲望を合理化したものであるに過ぎぬ。

 

だから其れは必然的に獣の世界でのものとなる。

決して聖なる精神的世界でのものとはならぬ。

 

また極論を言えば其の「資本の論理」が生み出す物とは須らく精神的に汚染されし物なのだともまた言える。

 

ですが観念としてはさうではあれ我我人間は所詮半分は獣なのですから何かを限定して愛することはむしろしても良いことなのです。

但し子だとか孫だとか妻だとかまた共同体だの國家だのを愛することはむしろ邪道なのだと今の私には感じられる。

 

逆にさうした血縁だの地縁だのから隔たった物を愛するべきです。

其の考えを推し進めれば観念は其の愛するに足る最大の領域です。

 

純粋に観念を追い求めて居られたかってのルソーだのマルクスだのさうした哲人は天才であると同時に壱種幸せな人々でした。

 

其の「資本の論理」に対するマルクスからの問い、懐疑の眼差しが投げかけられたのは当時の労働環境が過酷なものだったからです。

ですが現代のグローバル資本主義が其の酷い労働環境に似たものをまた生み出して来て居る。

 

其処には其れが具象的な搾取であるか抽象的な搾取であるかと云った形での違いがあるかとは思われますが其の搾取に抑制がかからぬ点では今も百五拾年前もまるで同じだと云うことです。

 

 

マルクスの理論には「疎外」と云う概念が盛り込まれて居ます。

 

ー哲学経済学用語としての疎外[1](そがい、Entfremdungalienation)は、人間が作った物(機械商品貨幣制度など)が人間自身から離れ、逆に人間を支配するような疎遠な力として現れること。またそれによって、人間があるべき自己の本質を失う状態をいう。ー

有機的身体と非有機的身体に分かれ、自然に抗う「自然疎外」が起こることで生命が始まったように、近代的・私的所有制度が普及し、資本主義市場経済が形成されるにつれ、資本土地労働力などに転化する。それに対応し本源的共同体も分離し、人間は資本家地主賃金労働者などに転化する。同時に人間の主体的活動であり、社会生活の普遍的基礎をなす労働過程とその生産物は、利潤追求の手段となり、人間が労働力という商品となって資本のもとに従属し、ものを作る主人であることが失われていく。また機械制大工業の発達は、労働をますます単純労働の繰り返しに変え、機械に支配されることによって機械を操縦する主人であることが失われ、疎外感を増大させる。こうしたなかで、賃金労働者は自分自身を疎外(支配)するもの(資本)を再生産する。資本はますます労働者、人間にとって外的・敵対的なもの、「人間疎外」となっていく。ー疎外より

 

事實として人間が作った諸制度か又は物は逆に人間を振り回し人間を支配するかのやうに見受けられる。

と云うことは人間存在其れ自体の矛盾性をまさに其れは指し示して居ます。

まあ哲學的にはまさにさうしたこととなるのでせう。

 

他方で社會制度、其れも市場経済が形作る「疎外」はより具体的な疎外過程でありまさに深刻であり恐ろしい部分を含んだものです。

我我は普通社會が「豊か」になることは良いことだとさう思いがちです。

 

其れ即ち善か悪かで言えば其れは善の価値なのです。

ですがマルクスはさうでは無いと述べました。

 

何故ならさうして人間をも商品化され其れを生活の為に資本へ売ることで我我は生活しつまりは生き結婚し子を残しやがて死んで行きます。

即ち多くの人ー労働する人々ーにとり其の自分自身の商品化こそが最も大事な人生の上での価値となる訳だ。

 

だから学校を出る頃ー高校や大學を出る頃ーは皆血眼でもって少しでも良い企業へ入ろうとする筈です。

また其の為には良い高校や大學を出て居ることが有利ですので兎に角偏差値を上げるべく進学塾へ通い其処でもってしこたま御勉強し志望校へ入ることだけを考えて居ます。

 

 

ですがかうしたマルクスの言い分を聞いて居ると何だか其れも空しいことのやうに思えて参ります。

まあ其れは釈迦やキリストの教義などに接しても分かることなのですが逆に其れと縁が無いと其の善を謳う社會の価値観の方に洗脳されて仕舞い易い訳だ。

 

私自身の経験から申しますとむしろそちらの方ーマルクスや釈迦やキリストの価値観の方ーこそが眞の意味での御勉強と成り得るものです。

故にほんたうの意味でのインテリジェンスとは偏差値が高い奴のことでは無くかうしてマルクスの如くにズバリと社会の矛盾を突いて来る奴の方だらう。

 

まあ私の場合もどちらかと言えば其の社會攻撃が得意なのですがね。

 

 

で、問題は其の悪の構造の中で労働を続けて居ると次第次第に疎外感が増大していくと云うことでせう。

さて以前にも私は書いて居ますが日本人には「仕事が嫌いだ」と思う人が事實として多いのださうです。

 

で、普通は、仕事はイヤだが家族だの親類縁者だのつまりは世間体の手前プータロ―で居るともはや精神的に生きて行けぬので仕方が無く其れをやってます、と云うことなのでせう。

でも中にはタレントのやうな自由業や作家だの絵描きだのの藝術方面の人などは其れがやりたいからまさにやって居る仕事なのでせう。

 

だから私もほんたうは作家であり詩人でありたい訳なのだ。

でも還暦を過ぎてから何もかもが面倒になって来ても居るのでもう此の侭でも良いのかな。

 

尚私の従弟に實は凄いプータロ―の人が居るのですがー其れも理系の大卒でもって壱歳下のー拾年前に祖母の葬式の時に会い話したばかりで其の時彼は現代社會に対する悲観論ばかりを延々と述べ立てて居ました。

 

ともあれあくまで理論的には資本主義をやって居る限り其の疎外感は増すばかりなのですしおまけに其の悪としての疎外を再生産すると云う謂わば悪の片棒を担がされる訳です。

で、最終的に資本はもう何処までも「人間疎外」を引き起こす悪の権化としてより強大なものとなって行く訳だ。

 

いや恐ろしい話だ。

ですが現實の姿とはまさに此の様其のものなのでせう。

 

 

さて保守とは体制を守る立場のことですので基本的に保守の立場の人間は資本主義を止めたらうだとか革命したらうだとかは思わぬ訳です。

ですがさうして保守をやりつつも「果たしてこんなんで良いのかなあ?」などと自問自答して居る部分は誰しも明らかに御座りませう。

 

其の「何やらスッキリとしない社會」であることが實は要注意です。

即ち其れは社會的に「宿便」が溜まりに溜まっておる可能性が御座ります。

 

また下ネタですか?

また下ネタで御座ります。

 

下ネタでは御座りますが重要なことです。

人間は兎に角快食快便をこそ心がけて行かねばなりません。

 

 

何故なら大抵の🐈や🐕はまさに其の快食快便です。

尤も其れは彼等に労働の義務が無いからです。

 

ですが人間の場合はかうして朝も早うから起きさうして會社へ出向きおまけにイヤなことばかりをやらされてまた上司には馬鹿呼ばわりされまた最近は上司も部下から罵倒されもう壱體何の為に働いて居るものやら。

そんなこんなで其処に宿便が溜まる可能性が高く御座ります。

 

宿便ばかりか酷い精神的なストレスを抱え悶え死ぬ可能性などもまた高く御座る。

 

 

さうした苦しい毎日を日々御過ごしの方には是非マルクス主義を學ばれることを御勧めして置きたい。

何故ならかってマルクスはアナタが悪いのでは無く「資本の論理」が悪いのだともう此れ以上も無くハッキリと述べて居られるからなのだ。

 

ですから全部の悪は其の「資本の論理」が生じさせて居ることです。

さうして全てを自由化し日本の秩序を破壊したかのA級戦犯小泉 純一郎もまたまさに悪人顔である財閥出の麻生 太郎も其のマルクスなんて壱度も御勉強したことがありません。

 

だから彼等には庶民の経済的苦しさがまるで分からぬのです。

でもって、マルクスの理論の恐ろしさは所謂「常識」的価値をも其の根本から批判する部分です。

 

 

曰く、

 

「いつも笑顔でもって喜んで働きませう」

 

ですが其の喜んで働くことで資本は最終的に人間疎外を最大限化しのみならず気が狂う壱歩手前まで労働者を追い詰め最終的には自殺へと追い込みませう。

 

だから、

「喜んで笑顔でもって引退させて頂きます」

です。

 

其れにもはやびた一文資本からは金を貰いたくは無い。

でも作家さんなどは本を売り出版社から金を貰うのではないのですか?

 

でも社會主義の國だって作家や詩人は居るじゃないか。

 

 

さうして働けば働く程賃金労働者は「資本の論理」の為に奉仕することとなりまさに其れが資本の蓄積、資本の増大を可能として行くと云うことなのだ。

 

さらに、

資本の蓄積、資本の増大からは必ずや破壊が引き起こされる。

つまるところ其れは人間の破壊であると同時に環境の破壊である。

 

すると今問題となって居る環境破壊とは畢竟其の「資本の論理」が齎したものなのですか?

だって其れ以外に犯人は居ないことでせう。

 

最終的に資本主義は地球を其の資源を喰らい尽くしもはや何をも生み出せぬ星へと変えて仕舞うことだらう。

さらに地球を汚染しまくる訳なので生態系をも破壊し最終的には生命が棲めぬ場所へと変えて仕舞うことだらう。

 

うわあー、何故だ?神よ、佛よ。

まったくどんだけ罪深く且つ欲深い行いなのでせうか。

 

資本主義はな、さうして兎に角甘いものでは無い。

其れは👿に心を売った者の仕業だと捉えて置く方がより實態に近くなることだらう。

 

其の根本での問題とは利潤の追求と云う「利己主義」が齎して居るものだ。

であるからこそ其の利己的な行為を戒めんが為にかってイエス様は市場を破壊されやうとなされたのだ。

 

よって人類をまた文明を滅亡へと追い込むものこそが其の「資本の論理」によるものなのやもしれぬ。

 

 

嗚呼仕事はイイなあ。

かうして仕事の後に壱杯飲んで其れからマイホームへと帰り妻と子供の寝顔を見つつ、

 

「サア、明日も頑張るぞ!」だな。

と云うのがおそらく世間では善き価値観の上のものだと考えられて居る筈ですが、

 

逆に私は若い頃から其の価値観に対し大きく「違和感」を感じて居りました。

まあ私は何せこんな天邪鬼ですので或は日本共産党へでも入党して大いに体制批判を繰り広げることこそが性に合って居るのやもしれません。

 

 

ですがコレクターでもある私は、…私は其れを決め切れない。

 

コレクターである限り資本主義が無いと逆に其れをやって行けぬ訳です。

あれ、でも体制には関係無くコレクターでは居られるのかもしれない…。

 

資本主義は必然として自己矛盾により崩壊するとマルクスは述べたが私は其の考え方はあくまで正しいものだと思う。

事實資本主義による矛盾は今最大の域に達して居り且つ其れによる破壊は社會の深部にまで到達しあらゆる価値をより合理化された資本の論理に委ね益々其の破壊の度を増そうとして居るかのやうだ。

 

また現實として顕在化する大問題のほぼ全てが資本主義による拡張主義が生み出して居るものである。

さうして資本は地球を食い潰すまでまた人間の心を壊し尽くすまで其の利己的欲望の矛先を変えはしないことであらう。