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文明批判と美と心の探求と

カール・マルクスの思想を読み解くー参 マルクスの物質代謝論Ⅱ-2ー

さうして問題はあくまで其のマルクス主義に於けるエコロジーの観点である。

 

ーそもそも「エコロジー」について、日本と世界の一般的な認識について差を感じます。いま僕がいるカリフォルニアでは数年にわたって歴史的な干ばつが続いているのですが、そもそもカリフォルニアの広大な土地での生活というのはとてつもなく莫大な量の化石燃料を必要とする車社会であるだけでなく、長い時間をかけて貯められた地下水も大量にくみ上げ、生活用水や農業用水を確保しなくてはならない消費社会です。明らかに持続可能なスタイルではないのですが、そこに気候変動の影響が加わって極めて深刻な事態になっているわけです。環境問題が悪化し日常の問題として感じられるようになるなかで、これまでの生活を抜本的に変えなければならないという議論が生まれています。
 そのなかで、現在の対立軸は、リベラルの多数派として資本主義を維持したまま、地球工学のような技術革新によって環境問題を解決して生き延びようという陣営と、そうした生活を根本的に変えないで問題を解決することは不可能であり、資本や商品化の論理を抑制しなければ人類の生存はないという左派陣営で、後者の議論にマルクスの思想の影響力が及んでいます。たとえば、マルクス主義者ではないナオミ・クラインも、フォスターの「物質代謝の亀裂」という概念を採用して気候変動の問題を分析するようになっている。ー


マルクスが重要なのは、環境危機をそうしたネオ・マルサス主義や消費者主義ではなく、社会的生産の次元で把握する必要性を明らかにしてくれるからです。マルクス自身は「人間と自然の物質代謝の攪乱」という概念を用いて資本主義の固有な矛盾の現れとしての環境問題をとらえています。そのうえで、物象化あるいは商品の力の抑制という主張をしていて、現在でも非常に示唆的です。ー

佐々木隆治×斎藤幸平 『マルクスとエコロジー』刊行記念対談「マルクスのアクチュアリティ」より


其の「人間と自然の物質代謝の攪乱」こそが認識の拠点に於ける自然と人間の立場の違いから生じると私は考えて来て居る。


元より自然には其の相対的世界認識による価値世界が生じて居ない。

其処を平たく言えば自然こそがまさに絶対的価値世界に縛られ絶対的次元を生きる精神なのである。


対して人間の精神は其の絶対的価値をさらに分離ー遊離ーさせ謂わば弐重の相対的価値構築を為して居る。

其の相対的価値構築と絶対的価値構築としての世界認識が違うのは其れは当たり前のことだ。



また「矛盾」は其の相対的価値認識に固有の問題である。

其処を平たく言えば、「人間は観念的にのみ価値構築し其の故にこそ悩む」のであり、対する自然は「考える以前の価値ー本能の世界ーに踊らされて居るだけのことなので其処で何ら悩む必要が無い」のである。


つまりは彼等が矛盾を矛盾として捉える以前の認識をして居るので實は矛盾があっても矛盾だとは思わずー気付かずー故に何処にも観念苦などは無く有るのは基本的に本能苦ー肉體苦ーのみである。


但し哺乳類の如くに高等な生命ともなれば種の進化の度合いに応じて少しづつ其の観念苦のやうなものがまた生じても来る。

たとえば🐈には確かに悲しみの感情があるのだしまた🐕にも主人を慕うと言った情動や喜怒哀樂のやうなものを持ち合わせて居るものだ。



だが環境問題は個としての人間の次元の問題である以前にまさに其れは社會的次元での問題なのだ。

さうまさにみんなでやって仕舞って居る問題なのだ。


其の「人間と自然の物質代謝の攪乱」という概念により資本が如何に其れを食いものにして来たかと云うことが明らかとなる。


さうみんなは只何となくモヤモヤと「コレをやっていたらいつかはマズいのではないか?」とさう思って居りしが結局其れも資本の論理だの近代の論理だのに押し切られさうして只グズグズと流される侭に流されて嗚呼こんなに全てが壊れて行くと云うのに僕等は何故かうも平然として居られるのだらうか?


だから私はまさに其れが「洗脳」の態であり人間の精神の破壊であるとさう申して居るのであります。


其の「洗脳」はまさに社會的に生じて居る現象だ。

其の「洗脳」を止める為にこそ己の理性を磨く必要が御座る。


但し其の理性は現状維持の為の方便には非ず。

むしろ体制を疑い理性自身をも疑う為の闘争の手段なのだ。



尚「批判」とは逆の立場を指し示すことです。

何故なら此の世は其れこそ壱元的に価値尺度を決められぬところなのだから。


人間の観念其のものが左様に右左、上下と云った具合に分離するからこそさう行われるー見えるーことなのだから。

逆に申せば其の両極としての弐元的展開があるからこその生命現象であり其の矛盾的推進なのだ。


聖なる価値観の履行とは其の誤謬を超越者へ丸投げするか誤謬其のものの因を自らが滅して行くものだ。

生命現象其のものが左様に如何にも不確かでさらに信じ切れぬものなので其れは必然として生じて来る。

ー宗教は左様に人間の精神にとっての必然の道程であるー


然し理性にとり最終的に行うことが可能であることとは其の生命現象其れ自体を疑うことです。



生命現象其れ自体を疑うことで他力救済と自力救済の道が両極として其処に拓かれる訳だ。

でもマルクスは宗教は要らぬとさう考えて居たのでは無かったか?


共産主義社會の實現はあくまで人間が社會的に救われると云う話であり其処で心が救われると云った御話では元より無い筈です。

結局其の心の救済と社會的救済と云う話は別次元でのことでせう。


けだし其の社會的救済と云うものは心の救済以上に難しいことなのだと私は考えて来て居る。

其れは社會には様々な意味での枷のやうなものがあり結局個に於けるやうに自己流では行けぬ部分を多分に抱え込んで居るからです。ーまさに其れが制度的、構造的に齎される枷だー


社會と個とは常に其のやうに対置され駆動されるものであり両者の本質的合意、和解はまず望み得ぬものであることをまずは理解して置く必要がある。

其処を平たく申せば個には個のまた社會には社會の論理がしかとあると云うことです。


ですがいざ「資本の論理」にて駆動される社會のあり方は搾取過程を経て破壊へと直結するものです。

ですので其の破壊を食い止める為には「資本の論理」に引導を渡し所謂エコロジカルな論理にて「人間と自然の物質代謝の攪乱」から離れ地球環境を再生させて行かねばならない。


さうか、まさに其れが其の左翼の「田舎暮らし」としての価値なのですね?

はい、左翼でもってしてさうして頭が良く全てを理解しおまけに無理な都会化などはせずしかも男女同権で其れに子供は野っ原でもって走り放題です。


でも左翼の「田舎暮らし」はあくまで思想的田舎暮らしであり其れも在の田舎の方々の垢抜けぬ生活とはまるで違う理性的理想生活なのだ。


つまりは其れが倉本 聰氏や晩年の菅原 文太さんのやうなまた加藤 登紀子さんのやうな全共闘生活なのですね!

いや文太さんが全共闘なのかどうかは知りませんのですがね。


いずれにせよ左派は概して田舎でもって理性的価値観に生きやうとするものです。

じゃあアンタの理想とまるで同じではないですか?