目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

ついに世をディストピア化して仕舞う資本主義ーユートピアは決して資本の論理の中にはあらずー

さて文明の歴史は今まさにディストピア化して行くのだらうか?

ディストピアユートピア

 

まさに其れは認識上の価値分別上の命題です。

また其の価値としての捉え方は人により違うと云うことなのです。

 

 

其れは今がまた未来がどう見てもディストピアに見える人が居る一方で其れがどう見てもユートピアに見える人もまた居ると云うことだ。

またコロナ禍のやうな一見マイナスの価値も逆にプラスの価値として捉える向きさえもがありませう。

 

然し多くの人々はむしろ中庸である価値、つまりはどっちつかずでの価値をおそらくは選んで居やう。

ですが其の曖昧な価値は實は理性的なものでは無くむしろ獣的な価値観の選択其のものでせう。

 

また宗教的な価値も元来はどっちつかずではありません。

本来の宗教は自律的な思考を伴うものでむしろ其の価値観は常にハッキリもして居ります。

 

私が今述べて居ることとは大衆が其の種の選択に就き本質的には其れを放棄して来たと云うことに対する批判です。

 

 

其の理性的闘争とは常にとても厳しいものです。

まさに其れは一歩間違えば奈落の底へ落ちる程のものでなければなりません。

 

其れはかっての藝術家や宗教家の内面的闘争を見るにつけ誰にでも了解されることです。

 

さうしたまさに「生きるか死ぬか」の闘争の機会を大衆は本能的に避ける訳だ。

よって現代では藝術家ですら大衆化し其ればかりか學者ですらサラリーマン化し骨のある作品や學説を出せなくもなりつつある。

 

価値の全てが数的還元価値へと落ち込みかってのやうな理性としての矜持が見られなくなりすでに久しい。

 

 

要するに私の世に対する悔しさの内容とはまさに其処にある訳です。

其の問題が山積みなのはむしろ其の馬鹿であることから全てが引き起こされて居る。

 

また其れが究極的には理性としての選択の放棄に繋がる訳だ。

ですが理性の意義とは其の選択にこそある訳だ。

 

と云う事はですよ、今みんなはまさに理性を放棄し御遊戯して居る最中なのです。

其れも資本だの科学だの技術だのと云う価値に踊らされまさにパッパラパーにてさうして遊んで居る最中なのです。

 

 

さて問題は、

ディストピア=✖⇔ユートピア=○

 

であることは人類としての共通認識であると云う部分です。

先に、

ディストピア=○⇔ユートピア=✖

 

である認識なども示しましたがー理性的認識としてのー、無論のこと其れは一過性のものでイザ全ての未来がお先眞っ暗になって仕舞えば其処ではもはや人間などやっている甲斐が無いと云うものです。

 

ではどうしたら人類は社會的に理想郷を築けるのかと云った部分です。

其れに就き過去に私は様々に書き込んで来ても居ます。

 

其れはひとつにはさうした理想的な社會への体制の枠組みなり努力だのが観念レヴェルではかって幾つも存して居たと云う事實です。

例えば老子による其の「小國寡民」としての社會制度にせよまたトマス・モアによるユートピア なる体制こそが其れに當たります。

 

ユートピアは500マイル×200マイルの巨大な三日月型の島にある。元は大陸につながっていたが、建国者ユートパス1世によって切断され、孤島となった。島の中の川はすべて改造されまっすぐな水路とされ島を一周しており、その中にさらに島がある。この、海と川で二重に外界から守られた島がユートピア本土である。ユートピアには54の都市があり、各都市は1日で行き着ける距離に建設されている。都市には6千戸が所属し、計画的に町と田舎の住民の入れ替えが行われる。首都はアーモロートという。

ユートピアでの生活は、モアより数世紀後の概念である共産主義思想が提示した理想像を想起させる。住民はみな美しい清潔な衣装を着け、財産を私有せず(貴金属、特には軽蔑され、後述する奴隷の足輪に使用されている)、必要なものがあるときには共同の倉庫のものを使う。人々は勤労の義務を有し、日頃は農業にいそしみ(労働時間は6時間)、空いた時間に芸術や科学研究をおこなうとしている。ーユートピア より

 

 

まあ所謂空想的社會主義とでも申すのか、其処では私有財産は放棄され公的資源に依拠する生活を営む訳だ。

また服装は質素で清潔であることをモットーとし仕事としては農業をやり空いた時間に藝術や科学研究まで出来るのです。

 

ーモアの『ユートピア』はユートピアの完成形が示されているだけで、そこに至るプロセスは示されておらず、現実社会で実現するのは困難である。しかし、16世紀にスペイン帝国新大陸に入植した際に、広域国家が崩壊した中央・南アメリカ原住民の文化や秩序を白紙状態に戻して、知識人宣教師の思いつきを実行に移せるチャンスを得た[2]イエズス会は入植開始からパラグアイグアラニー人を使って、モアの『ユートピア』に記されているとおりの生活を実現させる実験をイエズス会が追放される1767年まで行った[2]

また、初代ミチョアカン司教になるフランシスコ会修道士バスコ・デ・キロガは、モアの『ユートピア』に影響を受け[2]メキシコ市郊外に「サンタ・フェのオスピタル」と呼ばれる実験的セツルメントを構築した。ーユートピア より

 

 

何とかうして部分的に實験まで實際に行われて居たのである。

其処にもさうしてキリスト教が絡んで居た訳だ。

 

其処からしてもキリスト教は元々其の現世の樂園思想には縁があるものなのかもしれない。

要するに神が創造した地に穢れが満ちて居てはまさに其れは👿の支配によるものなので其れは無くなるに越したことは無い。

 

但しキリスト教はあくまで現世での樂園を築こうとして居る訳では無く其の目的はあくまで霊的に選ばれ神の御國へと再生されることなのだらう。

 

 

ー面白いのは、奴隷をつなぐ鎖に金や銀が使われていること。通常の国であれば金銀は尊ばれるはずだが、ユートピアでは金銀や宝石、真珠などが、つまらない争いの原因になることを見定め、そういったものは「汚いもの、恥ずべきもの」として考えるようにし、身分の卑しい奴隷を金銀で飾り立てる習慣がある。便器にすら金銀を使うのだから徹底している。ー『ユートピア』トマス・モア著 ベルギーで誕生した社会思想 - ベルギー青い鳥 (aoitori.be)より



ー本書『ユートピア』には、現状の否定、平等な社会に対する期待、キリスト教の教義への執念、強い政治と経済による他国に対する優越感が見て取れる。理想郷ユートピアは、モアの心のなかで英国の輝かしい未来を投影したものだろう。ー

ー内政では共有財産や男女同権、労働者の保護をうたい、一方の政治・外交・軍事の分野では帝国主義孤立主義を標榜する。現代人の目には不思議なキメラ。モア自身もそれが分かっていたのか。書名の『ユートピア』は「どこにも存在しない場所」の意味である。ー『ユートピア』トマス・モア著 ベルギーで誕生した社会思想 - ベルギー青い鳥 (aoitori.be)より


尚最近私は、

資本主義⇔共産主義

と云う頑張り過ぎる体制と頑張り過ぎぬ体制は矢張りと言うべきか逆向きの体制であり其れも元はと云えばキリスト教に於ける二元分離思考ー神⇔👿ーから齎されたものではないかとさう考えるに至りました。

 

重要なのは其の平等な世界の實現こそが此の世では實現し得ぬと云う点でした。

何故ならかっての社會では搾取が横行し人権も平等も何も無かったからなのでした。

 

其の搾取は資本に限らずかっては封建制其のものがまさに奴隷として人間をコキ使いさらに農民からは重税を取り立てても居りました。

 

其の平等と云うのは然しあくまで神の下には人間は皆平等である筈です。

實は其ればかりでも無く佛の前にも平等なのであります。

だから宗教とはたとえ社会性を持ったものであれ平等をこそ尊重する組織です。

 

ですが資本主義経済体制に於いてはむしろ其の逆のこととなります。

資本主義経済体制は自由な金儲けと云う表向きの看板を掲げつつも實際にはむしろ貧富の差を生み出すことにより其の儲けを出して居るのですからズバリ其れは根性の悪い強欲な体制であり心根の腐った奴等ばかりともなる体制なのです。

つまりは金に目の眩んだ悪人共が好む体制なのだ。

 

だから會社とはズバリ悪人の巣窟のことです。

一方で資本主義がやれたこととは其のかっての王による抑圧、搾取からより抽象的合理的に搾取し儲けを生み出すと云うまさに其の合理化を成し遂げたことなのです。

 

なので此のユートピア思想は其の資本主義以前での社會にとっての理想的な体制を述べたものでだから其処には少なからず宗教的な価値観が含まれて居り何故なら金や銀はむしろ賤しいもので其れが便器などにも使われて居るのです。

私有財産を認めると結局は資産の上での競争が繰り広げられることとなり其れはかって國家間で繰り広げられた熾烈な戦争が経済戦争へと置き換わっただけのことで本質的にはまるで獣と同じだと云うこととならざるを得ない。

 

 

さて本質的にはまさに「競争原理」こそが世界の破壊へと直結する根深い倒錯の価値だと言えることでせう。

 

何故なら進歩は「競争原理」により推進されます。

また「競争原理」により資本は増強されます。

 

でもトマス・モアの考えた理想郷にはそんな余計な競争などは設定されて居りません。

みんなはさうして一種の空想的なる社會主義の世界に生きむしろ労働から解放され自由を満喫して居るやうにさえ見える。

 

要するに馬車馬の如くにコキ使われずとも良い訳です。

コキ使われることが無いのであれば馬鹿な庶民、實は其れが一番幸せな人生のあり方です。

 

何故ならじぶんの頭でもって考える人は常に苦しくじぶんの頭でもって宗教をやる人もまさに荊としての精神の道程を歩んで行かねばなりません。

 

そんな苦しいまさに聖人様のやうな生き方よりも飲んで食ってしかもちょろりと姐ちゃんの尻を触ることの方がずっとずっと樂ではありませんか。

要するに獣であることこそが樂で、其処を何を間違えたのか理性体にでもなるともう兎に角毎日が苦しくてなりません。

 

 

だからみんなは今一見幸せにも見えます。

でも日本のみんなは實は其れ程幸せでは無い。

 

其れは自民党の政策の方も悪いのですが其れ以前にみんなが共産主義の良さを知らないからさうなって居るのです。

 

共産主義と云うよりも公的価値を重視する社會が齎す安全、安心である点を知らぬからさうなって居るのです。

 

で、資本主義って一体今何をやって居ますか?

其れも新自由主義政策により金融資本ばかりをさうして拡大して弱い會社は潰すわ世界中にコロナを蔓延させて仕舞うわ、其ればかりか神佛が人間は皆平等だ、みんなは其の侭で幸せになれるとさう仰って居ると云うのにみんなを搾取してさうして長時間労働ばかりを強いて居るではないか。

 

いや長時間労働ばかりか結局24時まで働いても15万の給料なので其れではとても子は育てられずよって妻をパートに出し其の五万位の継ぎ足し分にてようやく糊口をしのいでいる始末である。

アア其処では藝術も何も無く音樂もまた文學も何も無い。

 

只々搾取されたった壱パーセントの超金持ち共の為に善なる心まで売り渡しさうだ、母ちゃんの為子の為にココはひとつ心を鬼にして営業成績を上げるのだ。

ええい此の際何でもやったるわ。

 

バコンバコンと人を蹴落とし必ずや我は勝ち組となるんだわ。

 

で、是非ひとつ其処で聞きたいのだが果たして其処までやる価値のある社會なのか?

ハッキリ申そう、君は奴隷だドレイ。

其れも資本のどれいなのだ。

 

君を其のハケンの地位に甘んじさせて居るのはまさに資本による合理的搾取、合理的奴隷制度でなくて一体何であらうや?

兎に角其の部分はまた徹底的に追求させて頂きたいところなのだが資本主義の非合理性、不合理な眞實の部分を端的に表して居る部分である。

無論のこと其の部分につき斎藤先生もかの著書の中で徹底的に追求して居られる。

 

 

其の「競争原理」其のものが錯誤であり誤謬であると?

 

いや私は日教組には入ったことが無いが少なくとも其れは理性的に齎される概念的帰結では決して無いことだらう。

 

第一今スポーツ界はどうなってるのだ?

何とかのなおみちゃんが泣いて居るではないか!

 

でもアノスーパーマンが二刀流で活躍して居ますのですし女子ゴルフでも快挙があったばかりですが…。

いずれにせよ今やスポーツの世界もおかしくなりつつある。

 

其れは資本と結託したスポーツマン精神がまさに汚れたからであり其処からしても資本主義こそが我我の心を金まみれにし全てを破壊していくことの其の証拠なのだ。

 

ではもはや革命ですか?

愈革命へと走るのですか?

 

 

いやさうでは無く、きちんと事の道理を理性的に理解して置くべきだとさう申して居るのです。

例えば其の理性の必然的帰結としてかってマルクスの思想が展開された訳だ。

 

だが其れが正しく理解されて居ないと斎藤先生は仰る。

 

だが私は其処まで言う理論的根拠を持って居なかった。

だから昨年の時点でもって私が考えて居たことは以下のことであった。

 

1.社會主義、共産制社會のことをより詳しく學び直して行くべき

2.「平等」と云う価値の再認識

3.公的な資本や権利の分配制度、公的な扶助と云うことの再認識

4.マルクスの思想其のものの再評価

 

と云う点に就き實は私も論考を進めて居たのである。

 

何故さうしたのかと言えば、資本主義の限界がまさに實現化しつつあったからだ。

 

端的に言えば終身雇用制を崩壊させた侭で米國流に金融資本の方を加速させれば借金まみれの奴が増えるのはむしろ当たり前のことだ。

で30代、40代の人々はさうした不安定な労働環境に甘んじた侭で高額な住宅ローンなどを組む羽目となる。

 

でも其れでもってどーやって子や孫を残すの?

要するに政策以上に体制其のものが悪いから必然的に日本社會は沈没して行かざるを得ぬのだ。

 

でも日本人は如何にも我慢強い。

其れも我のやうにキャンキャン鳴いたりはせず只じっと我慢しつつクソ仕事をこなす為にセッセと會社へ出向いて居る。

 

 

其の所謂平等な「ユートピア」の世界は後に成立した社會主義思想と重なる面が多々ある訳です。

 

逆に大國としてのソヴィエト連邦などは其の社會主義國家の建設に結局失敗し今は逆に例の彼が専制國家を築きまるで王様のやうに威張ったりもして御座る。

また中國は中國で酷い矛盾國家です。

 

其れは何でか?

何故なら古臭い覇権主義思想である「中華思想」に凝り固まりつつ其の一方で共産党一党支配をまさに合理的に続けようとして居るからだ。

 

ですが私の意見ではさうした社会主義陣営よりも資本主義陣営としての経済的矛盾の方がより問題が根深くありより治し難い病だとさう見ても居ります。

資本主義と云う経済体制はあくまで理論的には諸悪の根源であり現實的に矛盾をより増大させて行くことだらう誤ったイデオロギー其のものです。

 

かう申しますとまたアカがぶり返した理想論だとさう思われるのやもしれぬが實はさうでも無いのであります。

何故さうなるのかと申しますと、まさに時代の要請と申すべきか地球の願いと云うかそんなところからも是非共産制社會の再評価が待たれて居るからなのであります。

 

さうして私も長年に亘り理想の体制のことに就き考え込んで来て居たことだけは事實です。

ですが其れが明確には規定され得ぬ侭に其れこそ宗教だの藝術だのと云った価値へと其の都度気が向いて仕舞い纏め切れなかったと云うのが正直なところです。

 

なのですが、私が大學でもって専攻したのがまさしく其の体制史のことだったのです。

まさに其の頃は他のなにものでも無い其の露西亜革命のことを調べ上げて居たりも致しました。

 

斎藤先生の著作を読んで居ますと其の当時の記憶が蘇って来たりも致します。

 

さて最初に示した其のディストピアとしての社會のことですが、斎藤先生の御考えによればまさに其れが資本の論理が齎す社會とのことです。

要するにほぼ全部の社會的問題が資本の論理によるー悪の論理によるー仕業だと云うことです。

 

まあ其の辺りは如何にも若手の哲學者らしく直球勝負なのですが其れも私に限れば至極良く理解出来る部分です。

 

私はむしろ今保守の方々にこそ其のマルクス主義を理解して頂きたい。

丁度アノ石破氏が「赤旗」を読んで居られるやうに其の位の柔軟な理性的解釈こそが保守としての構造的腐敗を食い止めるのだと是非さう思いたい訳だ。

 

即ち自民党一党支配はすでに限界を迎えて居る。

また東京一極集中も或いは限界を迎えて居るのやもしれぬ。

 

 

其の資本の論理によるディストピア化と云うことこそが斎藤先生の論理の主要な部分を占めて居ることだらう。

其の解釈こそがまさに理性的に展開される解釈です。

 

其の理性的に展開される解釈なり學説なりが今時代には求められて居るやうな気がしてならない。

要するに感情的にまた精神論的に資本の論理を耐え忍ぶことにはすでに限界が訪れて居るのです。

 

其れがたとえ御法度である反体制の思想であれ何であれまずは其れに就き學んでみねば何も見えては来ないと云うことを今まさに申して居るのです。