さて私は相変らず毎日多くのことに就き思考を巡らせて居る。
其のことは勿論私にとっての苦です。
ですが理性を持つ者の一人として其れは逃れられぬ運命だと其れをさうも受け取って居る。
私の苦は八割方が其の観念苦であり社會苦でした。
むしろ己の苦では無く他がさうならしめて居ることでの苦、謂わば公としての苦のことでした。
拾代の頃はさうでは無くむしろ自分の特殊性に悩み果てて居たのだったが、特に四十を過ぎてからは一体何で此の世はこんなに低級なのだらうと云う悩みがほとんどのこととなった。
で、其の悩みから逃れる為には石の世界へまた万年筆の蒐集の世界へと没入して行くより他は無かった。
さうして實は私はひとかどの筆記具蒐集家なのですよ。
だが其のこともまた大きな矛盾を抱えて居た訳です。
即ち逃避の為の其の物欲への没入が本質的に私の観念苦を救って呉れる訳では無論のこと無い訳だ。
其れもまあ人から見れば如何にも高尚な趣味なのですけれども。
いや別に酒と👩へ走ることが下劣な趣味だなどとさう断定して居る訳では御座らぬのだが。
まあ私は👩にはもう懲り懲りですね。
まだしも♀🐈の方がマシだとさうも思います。
また酒飲むと最終的には内臓がやられまさに家の父のやうに齢70でもって死にますのですよ。
煙草も勿論悪いのですが酒など本当はもっともっと悪いものだ。
さて其の社會に対する苦と云うのはどう考えてもインテリ苦としてのひとつでせう。
何故なら馬鹿は社會が悪いなどとは實際余り思いませんので。
しかも私はもう中学生の時分よりそんな社會による苦だの文學上の苦だのまさに抽象的な苦にばかり悩まされて来たが故にまさに其の点では其れが幸せな人生だとは勿論言えなかった訳だ。
ところが今ふと気付くとさうして本をしこたま読み、其の知識を元にして様々に考え、また時には現實の上での様々な矛盾に苦しみ、特に人間関係と申しますか人間の馬鹿さ加減にこそ苦しめられ、ああー、もう其れを放棄したい。
其ればかりか人間であることから早う去りたい。
と其の位にも悩むのですがイーベイだのヤフオクだのでつい石だの筆記具だのを買って居るとそんな憂鬱もまた晴れて来たりもする。
いやむしろ私の精神のバランスを保って居たのはまさに其の物の美に対する関心の高さからなのだった。
なんですがほんたうにまた最近は酷く苦しんでも居ました。
其れがヤッパリ社會が馬鹿であり性悪であることに対する怒りのやうなものなのだ。
つまりは社會に対する正義の怒りです。
でも其の正義の怒りはほとんどの場合は通用しない、其れは単なる思い込みであると先に私は述べても居ます。
では何で私の其の正義の怒りだけが通用するのでせうか?
何故なら私は此の怒りの根拠をむしろ外部に求めて居る、世間での正義と思われる意見と擦り合わせることにより其の正統性の根拠を確認する作業を決して怠らぬからなのだ。
例えば私は所謂ソーシャルメディアの価値をまずは否定的に捉えます。
ですが其れと同じことをかのマルクス・ガブリエル氏がまさに述べられて居る訳だ。
かうして高名な哲學者と同じ結論に達すること程私にとって嬉しいことは無い。
事實私は彼等と同じ位に理性的な人間なのです。
ですが地位も名誉も金もまるで無いので此れ迄まるでウソコキのやうに扱われざるを得なかった。
むしろおまえはガキだ、低能だ、ほんたうの馬鹿野郎だ。
兎に角いつもそんな風に軽くあしらわれても来たのです。
でもほんたうは至極重いのだ。
僕の哲學は至極重いのだし其れにボクの藝術はもっともっと深くて重いぞ。
何故みんなには其れが伝わらぬのだらうか。
其れはおまえが人間の社會のことを蔑みまさにウンコたれだの肥溜めに落ちよだのそんな下品な表現に終始して居るからだ。
何故もっとロマンティックな例えばブラームスの愛の歌のやうな旋律を此処に奏でられぬのだ?ブラームス ワルツ第15番【ピアノ名曲】 ピアニスト近藤由貴/ Brahms Waltz Op.39-15, Yuki Kondo - YouTube
何を仰いますか、アノモーツアルトはな、いつも貴婦人たちに対し「ウンコ、ウンコ」とさう連呼して居たのだと云う。
其れに天才はな、さうして常に逆のものをこそ見詰めて居る。
例えば美はむしろ醜を見詰めることでこそ完遂され得るのだ。
だから其の位のことは例えば東京藝大出ならば誰でもが知って御座る。
でも此の辺には余り居ないのだなソコまで分かって居る奴そのものが。
兎に角おまえは変わって居るな。
一体全体おまえは何者なのだ?
だからあくまで外見は至極普通のおじさんにしか見えません。
また服装も地味なのでむしろ目立たぬ位だ。
でも頭の内容がブッ飛んで居ることだけは確かでせう。
そんな苦悩する私は今心に泪を流して居る。
エッさうして泣いて居るのか?
其れは一体何故だ?
其れはかの斎藤先生の本にスッカリやられて仕舞ったからだ。
斎藤先生、今私はアナタ様の僕に是非なりたい。
アナタの下の方の面倒を是非みさせて頂きたい。
いやだがそんな若手の哲學者にはまだ介護は必要じゃない筈だ。
むしろおまえの方が危ないのではないか、實際もうギリギリではないのか?
いや最近は健康診断の方もロクに受けて居ませんので此の體がどうなって居るものやら確かにまるで分かりません。
ですがまだ生きて居ます。
其れだけは確かなことでせう。
ワクチンの方もまだやって無い?
まるでやっては居ない。
年寄りはワクチンでもって死ぬる可能性もあるので出来れば打ちたくは無いのだが。
さて眞面目な話私の頭の中身は今革命されて居る最中です。
其の『人新世の「資本論」』に就き本日は276ページ迄読み進めてみました。
其れで余計に凄いことになって来て居ますのです。
まさに此の本の全編を通じ斎藤先生は我我が今受けて居る制限や苦しみが資本主義が齎す必然的弊害である旨を述べられて居る。
まずは其の御意見に対し全面的に賛同させて頂きます。
私の場合正直其処まで資本主義を悪者扱いして居た訳ではありません。
但し地球環境をまさに破壊しつつあるのは其の資本と結託せし科学技術であることだけは疑うべくも無いことです。
ですが問題はむしろ其の資本の力こそがすでに長く現代文明を推進させて来たことです。
現代文明ばかりか我我個としての生活其のものを成り立たせて来て居るのです。
なので其の資本主義を否定的に扱うことは一面では我我の生活其のものを否定して行くことにも繋がらう。
だから其処で其れこそ右だらうが左だらうが全面的には其れを否定し切れぬ訳だ。
しかしながら其の辺りのことは日本共産党の偉い方々にでも私が直に聞いて確かめて置くべきなのやもしれません。
もしも政権を掌握した場合に日本共産党はどんな経済体制を布く積もりなのか、まさに其の部分をこそハッキリさせて置く必要がある。
ですが『人新世の「資本論」』によるところでの新解釈でのマルクス主義は其の日本共産党の党是とはまるで無関係なところにあります。
其処からもどうも此の『人新世の「資本論」』によるところでの新解釈でのマルクス主義を左の思想と決め付けるべきでは無いやうな気がしてならない。
まさに其の右だの左だのと云ったイデオロギー対立を超越して仕舞って居るのです。
果たして其れは如何なることか?
では其の部分に就き以下に述べてみませう。
1.本書の思想的目的とは世界を破壊に至らしめる資本主義体制を打倒し新解釈としてのマルクス主義による新たなる体制を世界標準として規定して行くことです。
2.本質的に其れは思想としての対立から選択されるものでは無く地球を破壊に至らしめぬ為にこそ選択する刷新であり変革の流れです。
3.現實として現代社會に於ける矛盾を生み出して居るのは資本主義による利益至上主義でありつまりは其の強欲としての非道なる部分だ。
4.斎藤先生はさうした破壊はイデオロギーに関係無く今すぐに止めるべきだとさう述べられて居るが其の御意見には全面的に同調させて頂きたい。
で、最終的には文明に是非制限が加えられるべきだと述べられて居る。
でも其れ即ち私の限定論と全く同じ結論ですね。
しかも其れが理性的に制御されねばならぬのであり其れ即ちかのカントによる「定言命法」のことなのでもまたありませう。
其の理性の限界を指摘して居ると云う部分に於いてまさにカントこそが史上最高の哲學者です。
文明ー社會ーの問題は全てが最終的には理性のあり方にこそ帰結する訳で其れも結局は「眞の理性は自己規制」すると云う命題にこそ突き当たる訳だ。
逆に申せば儲け主義の強欲資本主義に於ける理性とは名ばかりの理性であり嘘の理性のことです。
どだい投資でもって儲けようとして居るやうな奴の馬鹿さ加減に良くぞ社會は付き合って来たものだ。
つまりは其れも社會其れ自体が狂って居るからこそさうなって仕舞うのだ。
尚いつも私が「馬鹿」だ「阿呆」だと罵倒して居るのはまさにそんな社會の誤りに就きさうしてストレートに指摘して居るのです。
まあ其れ以外にも大衆のおバカな様を罵倒してもおる訳なのですがむしろ其れ以上に社會としての価値観の誤りに就きさう指摘して居る訳だ。
要するに口は悪いが其れこそ眞心からして居ることなのだ。
で、最終的には其れこそ論理的哲學的には其の資本主義を今すぐに止め新体制へと移行させないと文明の継続がもはや無理なところまで来て仕舞って居る。
ですが結局「しがらみ」がまとわりつき結局は何も変えられずにいつも終わって仕舞う訳です。
だが今其れをすればもはや文明の未来などは無い。
だから孫がウジャウジャ居ても彼等を将来苦しめるだけのこととなる。
インテリー心の?ーは普通其処ら辺りまでは考えますので子孫が欲しいなどとはまるで思わぬ訳です。
イザ本を読み終わったら資本主義批判の部分、またマルクス主義の新解釈の部分と云うやうに各論的に此の新解釈のマルクス論を読み解いて行ってみませう。
斎藤先生による資本主義批判は辛辣でもって至極手厳しいものです。
まあ私は仰る通りだとあくまでさう思いましたのですが。
いずれにせよ斎藤先生の論理が頼もしくも思え何やら安心さえしました。
此処まで言える學者が居る限りはまだまだ日本の知性も捨てたものでは無い。
と同時に私自らが進もうとして居た体制としての方向性にお墨付きを与えて下ったやうな気さえもし其処はむしろ頗る気分が良い訳です。
また『人新世の「資本論」』を読んで左派の人々は勇気付きられまた逆に右派の人々も勇気付けられこととなる可能性が無いでも無い。
そんな稀有なるケースでもって現代の苦悩する理性に対し此の本が一筋の光明を投げかけて呉れるのであればまさに其れは先生の論理の大きな価値を示すものとなる。
今回もまた総論的に論じて仕舞いましたので兎に角次回からは各論的に其のマルクス主義新解釈の論理的整合性を重視しつつ見て行かうかと思って居ります。