目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

縄文時代より學ぶ太古の知恵ー見晴台遺跡と美術とタイムマシンの融合ー

28.見晴台遺跡と美術とタイムマシンの融合

 

 

 

 

其の社會的な課題こそがホモ・サピエンスに取っての最大の命題であり究極の課題である。

だが其れは其の侭にして置けば解決不可能な根本矛盾即ち人間存在にとっての自己矛盾を愈愈加速させて行くこととなる。

 

ひとつには社會を理性化ー合理化ーし矛盾を平衝化することが近代的理性に取ってのユートピアの實現を図ることであった。

具體的にはまさに其れが社會を変革する即ち革命して根本矛盾即ち人間存在にとっての自己矛盾を打ち消す働きである。

 

其の社會に関する實験は所謂進歩思想と革命思想と云う唯物的領域にて此れ迄行われて来たのだと言える。

進歩思想とは資本主義経済體制により物を増やし且つ物を進歩させることで社會が享受する便益を最大限化することであり其れを主に自然の合理化により達成しやうとする試みである。

 

 

対する革命思想とは社會制度其のものを合理化する即ち社會制度其のものに対する合理化の道筋である。

 

資本主義経済體制では社會體制其のものは変革されず物ばかりが増え且つ便益の追求が果てしなく行われるので次第に世界は意味化、価値化されより便利に其れが享受されるやうにはなるが其れも金さえあれば其の世界の利己主義化が樂に行えるやうになると云うことに過ぎない。

 

対して革命された社會體制は平等と計画の原則の下により理性的に人間の社會を再構成する働きであるがむしろ壱党支配での暴走を其処に抑え込むことが出来ずさらに計画経済に於ける経済的矛盾に苛まれ崩壊する運命をも担って居た。

其れは此の世が必ずしも理想通りには進まぬことを何よりも物語る出来事だった。

 

だが問題は社會主義體制其のものの矛盾以上に社會主義體制を維持しつつも経済體制だけを資本主義化しても良いのかと云う根本的な疑問である。

また社會主義體制を維持しつつも覇権主義独裁政権を生み出して仕舞う其の社會的に齎される矛盾のありかこそが問われなければなるまい。

 

 

わたくしは其の原因を「獣性」にこそ求めて来た。

其れは人間に取り隠された顔としてのケモノの顔である。

つまりはケモノ人間の顔だ。

 

さてもケモノは悪いの?

いや別に🐗だの🐅だの🐊だのが悪いのでは無い。

 

では🐼は悪いの、🐒が悪いの?

悪くない、悪くはないよ。

 

 

では何が悪いの?

つまりはケモノ人間が悪いのだ。

 

ケモノ人間って自民党の奴等のことかい?

いやさうだとは限らないね。

 

例えば折角の革命思想を資本主義化することは明らかに其のケモノ人間共のやり方だ。

また日本國の労働をほとんど派遣社員化した政治家の考えなどもまた其のケモノ人間のやり方だ。

 

其のケモノ人間共が今自分だけ美味い汁を啜りつつー便益を受けつつー日本と云う國を壊さうとして居る。

 

 

日本は壊れるの?

さうして壊れて仕舞うの?

 

いや別に日本だけでは無く世界中がむしろ壊れかかって居る。

だから逆に其処は無視して置くに限る。

 

逆に「今」と云う時を大事にしつつ歩め。

だが「今」を大事にする壱番のやり方がむしろ「今」を忘れることだらう。

 

 

其の唯物的領域に於ける弐種の實験はすでに破綻の時を迎えつつある。

資本主義と社會主義と云う近代的社會體制がすでに綻びを通り越し修正不能な段階へと至りつつある。

 

資本主義⇔社會主義

 

だったら互いに良いトコ採りを是非すべきではないのか?

勿論其れもやって来ましたがな。

 

かうして資本主義は修正を繰り返しやって来、さらに社會主義は経済を市場化し少しでも豊かにならうとして来て居る。

 

でもダメなんでせう。

だったらもうどうにもなりまへんがな。

 

 

資本主義と社會主義は共に現状に於いてケモノ化して来て居る。

ではケモノでは無い社會體制とは壱體何なので?

 

まさに其れは「人間を辞める」方向での理性的選択のことだ。

其れぞ即ち佛法が指し示すことだらう「ある種諦めた」現實を選択することなのやもしれぬ。

 

さて文化の限界とは其れが體制を規定するまでの力にはなり得ぬことだ。

文化はさうして體制を批判はしても最終的には其れに従わざるを得ない。

 

何故なら文化は元より精神的営為なのだが腹が減れば是非食い物が要り最終的には其の飯を食わんが為に精神は妥協せざるを得ぬ。

妥協しないのであれば反體制をやり獄に繋がれ獄死するか又は三島先生の如くに自ら腹を切る他は無い。

 

 

現在のまさに殺伐とした世界の情勢は其の唯物的領域に於ける弐種の社會的實験の失敗により引き起こされしものだ。

即ち誰が悪いと云うことなのでも無く社會其のものが齎す矛盾によるものなのだ。

 

では唯物論に対抗すべく観念論の方でまた弐種類位の社會変革が出来さうなものですが其れに就いては如何か?

いやだから観念論の方で行くなら矢張りカントとショーペンハウアーの考え方でせう。

 

カントならば理性による社會の倫理化を目指さねばならぬがそんなのにも近いものが東洋の思想や日本の新興宗教の中にもまたありませう。-例えば實践倫理宏正會の考え方など-

ショーペンハウアーならば佛教、其れも禅宗が其れに近いのではないかしら。

 

 

すると現在の思想詩人さんの考えとしてはカントかショーペンハウアーの考えを社會的にやるしかない、と云うものなのですね?

まあ大體そんなところです。

 

今皆様には現代社會の脆弱性がまさに身につまされる形にて分かって来て居る筈だ。

例えば地震、其れは結局社會が備えるべき問題です。

 

地震に限らず疫病の蔓延や食料問題や人口問題などもまた結局は社會問題です。

だから社會は便益のみを只ひたすらに享受すると云う進歩のあり方ではもうまるで其れ等の危機には対処出来ぬこととなる。

 

 

要するに文明其れ自體に危機意識が欠けて居た訳であり其れは何でかと申しますと近代と云う理性万能の時代への盲信が社會的に存在したと云うところでせう。

先に述べました如くに理性にはまた弐種がある。

 

其れは謂わば直観的理性と合理的理性である。

其の直観的理性こそが所謂文化領域ですが文化は危機を予感することは出来ても社會を変える力ー行動力ーには常に乏しくせいぜい其処で藝術をやったり宗教法人化して俺が教祖だとさう威張って居る位でのものだ。

 

合理的理性には功利性があるつまりは現金でありより實質的なので次第に直観的理性は隅に追いやられて行くこととなった。

 

尤もゴッホは矢張りなかなか良かったですよ。

ゴッホもまた社會を変えることは出来なんだのだが自分の絵をクソ高いものにすることにだけは成功致しました。

 

 

藝術はさうして時間を超越し人間を問うて行く力其のものですがあくまで社會を変えて行く力では御座りません。

さても其のケモノ化した社會をどう直すのですか?

 

まさに其れが難事業です。

其れもまた皆様でもって是非御考え下され。

 

僕は僕でもって考えたものを今此処に貼り付けて置きますが畢竟其れは世の中には無視される考えであるに過ぎません。

どだい分からず屋にどんなことを述べても其れはまさに暖簾に腕押し、馬の耳に念仏であり全然心の中には浸透していかぬと云うことだ。

 

すると其れが観念論なのですね?

もしや独逸観念論の復活のことですか、まるでかのマルクス・ガブリエル氏の弐番煎じみたくに見える思想のやうですが…。

 

まあ観念論です。

さうして唯物論がダメなら観念論でもまた良いのではないでせうか。

 

 

さてもケモノ人間の何処が壱體イケナイのでせう?

そんなケモノ臭い奴等は良い筈が無い。

 

第壱ケモノ人間共は自分の頭でもってまるで考えて居ない。

じゃあ思想詩人はさうではないのだと?

 

まあね、思想詩人はかうして毎日物凄く思想をし続けて来た。

思想詩人はまるで思想の教祖様の如くに考え続けて来た。

 

 

尤も其の挙句にあらゆる思想、あらゆるイデオロギーを放棄するに至った。

どうだ、偉いだらう?

其れもまるで教祖様の如くに偉いではないか。

 

じゃあ教祖になりたいのか?

ヘッ?今何と申されましたか?

其の思想の教祖に是非なりたいのだな?

 

さには非ず。

我は壱億円が是非欲しい、されど金輪際教祖などにはなりたく無い。

 

 

資本主義の壱體何処が悪いのだ?

だってゴミだらけじゃありませんか。

かうしてゴミだらけなのにさらにゴミを増さうとするのが資本主義の悪いところだ。

 

社會主義の壱體何処が悪いのだ?

だって矛盾ばかりじゃありませんか。

かうして矛盾だらけなのにさらに矛盾を増さうとするのが社會主義の悪いところだ。

 

でも思想文人のやうな世捨て主義では人間の社會は壊れて仕舞いますが果たして其れでも良いのですか?

…別に良い。

 

人間の社會を成り立たせるものは所詮は思想です。

其の思想は完璧なものを選び取ることが出来ない。

 

逆に容易に原始退行し本能化ーケモノ化ーして仕舞うものこそが思想だ。

故に思想よりは藝術の方がやりたいことが出来る。

 

 

但し藝術に世の中を変える力などは無い。

だが世を生きた其の悩みをまた其の苦しみを作品として遺すことは出来る。

 

藝術は常に其の意味で永遠なるものだ。

永遠なる其の反抗の流れに身を任せ小宇宙としての己を旅する。

 

そんな旅人の壱人であることに誇りを持ち生きて行くのだ。

 

アンタまた言ってることが世間離れして仕舞って居るよ。

良い、別に…。

 

 

僕の人生が藝術其のもので、藝術こそが其の我が人生なのだ。

うわあー、また詩人の悪い癖でもってもうまるで現實を見て居ない。

 

見てますよ、ちゃんと片目を開けて。

近代以降文明はさうして革新的な社會的實験としての道をひた走りに歩んで来たのだと言える。

 

革新的な社會的實験⇔過去の文明のあり方

 

其の過去の文明のあり方には、

 

1.前近代的な文明のあり方ー農耕、牧畜の社會を含むー

2.狩猟、採集の社會

 

との弐種が考えられ今注目されて居るのが我が國の歴史で云う「縄文時代」なのだと云う。

其の縄文時代の価値観に就きかって哲學者の梅原 猛氏や藝術家の岡本 太郎氏などが其れを最大限に評価されて居たものだった。

 

縄文時代に対し近年分かって来たこととは、

1.自然に対する尊敬心や埋葬の習慣などから推し測られる精神性の高さ

2.単なる狩猟、採集社會では無く「計画的」に狩猟若しくは採集をして居たであらうこと

 

との弐点が明らかにされて来つつある。

要するに彼等は野蛮人などでは無く歴とした文明人だった。

 

 

元より文明人とは「理性」に基づき生を営む者の謂いである。

また其のことは壱見理性的で居て實は野蛮な現代文明のあり方とはまるで異なるものだ。

 

眞に理性的な文明とは、

3.環境ー自然ーと仲良くやれること

4.「計画的」に物事を行い無理や無駄を生じさせぬこと

 

なのである。

だから現代文明よりも縄文時代の方がむしろ余程に理性的な文明のあり方だ。

 

其の理性的な文明とは必ずしも合理的な社會と云うことでは無い。

其の合理化などはされずとも文化的また心理的に高度な文明を築くことは可能である。

 

まさに縄文文化こそが其の文化的また心理的に高度な文明である。

だけれども無論のこと我我はすでに縄文時代には戻れ無い。

 

決して戻れはしないのだが近頃はそんなところまで取り沙汰されて居るのが實情なのだ。

 

 

と云うことは現代文明其れ自體が此の侭ではヤバいと気付き始めたのだとも言えることだらう。

其れも疫病、戦争、地震とまさに現代文明は御難続きである。

 

ですが個人的にはまだまだこんなものは序の口なのだと思う。

さう、眞の意味で文明がヤバくなるのはむしろ此れからなのだ。

 

でもって其処で「絶望せよ」などと我はまるで述べては居ない。

むしろ気概を持って其の苦難の道に挑んで行かねばならぬ。

 

其の気概とは与えられるものでは無く個人的に創り上げるものだ。

眞の己ー理性ーを創り上げ其の世の齎す悪夢と常に闘え。

 

 

其の3.と4.から縄文文化は凡そ壱万弐千年にも及ぶ持続可能な文明圏を築いて来た。縄文時代 - Wikipedia

 

対して地球を破壊するまでに急速に機械文明であり自然からの資源の奪取文明をやったのは僅か此処参百年の間、其れも廿世紀の百年余りが其の自然の破壊と人口爆発とを生んで居る訳だ。

故に我我人類は今と云う特殊な時代であり世紀を生きて居る。

 

だが日頃から余り勉強することの無い大衆は其の事實にさえ気付けぬ始末である。

だが僕に限り御勉強だけは欠かさず続けて来られた。

 

まさに其のことを神佛に対し感謝して置きたい。

かうしてみんなが嫌がる御勉強を続けて来たからこそ事の眞相を見破ることが出来た。

 

ちなみに我は博物館や資料館などが好きで其の種のところを屡訪れて居る。名古屋市見晴台考古資料館 (tabi-mag.jp)

 

 

昨年末ー12月のはじめーには此処を訪れじっくり見学し何か資料本なども買ったのだったが其れもまだ読めずに居る。-読まねばならぬものが余りに多くすぐには読めない-

つまりはわたくしには性エネルギーを解放して居るだけの時間など何処にも無い。

 

つまりは生活の全てが御勉強に向けられて居り其れも食って寝てウンコして兎に角御勉強だけなのだ。

其の折に資料館の学芸員のやうな人に「此処のことを是非書きます。」とさう言ったのであるが實は其のことをスッカリ忘れて仕舞って居た。

 

見晴台遺跡 - Wikipedia

其の笠寺公園と云うのがつまりは見晴台なのであり眺望がきき實際にはもっと遠くまで見渡せる。Kasadera_Park_(1),_Miharashi-cho_Minami_Ward_Nagoya_2021.jpg (1500×1000) (wikimedia.org)

つまりはとても良いところなのだ。

 

其の良いところに遥か昔より人が住んで居た訳である。

ちなみに此処は自転車でもって弐拾分で行ける。

要するに我が生活圏となる場なのだ。

 

見晴台考古資料館 | geezenstacの森 (ameblo.jp)

内部の様子がこんな具合になって居り小さな資料館ながら結構楽しめる。

其れも歴史だの文明だのに興味のある人ならば随分と樂しめる訳だ。

 

 

尚僕が小学校四年生の頃ー1969年ーに👪でもって登呂遺跡へと出向いたことがあった。登呂遺跡 | 静岡市立登呂博物館 (shizuoka-toromuseum.jp)

 

其の折に学校を早退して行ったので担任の先生が行き先を知って居り其の後社会の時間に「登呂の遺跡のことを話しなさい」とさう言われたのだったが其の頃自分は皆を笑わせるのが得意な馬鹿で結局其れを上手くは纏められなかった。

其の折に何ぞ嫌味を皆の前で其の先生が言ったことを今でも良く覚えて居りとりあえずは其の言葉に反発して猛勉強し壱年後には教師も壱目置くインテリ小学生と化して居たのであるから恐ろしい話である。

しかも其の後塾にて社會科を主に教えることにならうとは…。

 

アノ馬鹿教師Kはもうとっくに死んで居らう。

だが僕が利口化した時の担任である上品でインテリジェンスを感じさせるT先生は常に胃が痛いらしく時折教壇のところで胃を抑えて苦しんで居られたことを良く覚えて居るが其れもまた昔のことながら酷え話だった。

 

 

ところが今思えば其の有名な登呂遺跡は弥生時代後期の遺跡であり其処からし旧石器時代の遺構も出て来る見晴台遺跡の方が年代的にはより古い訳である。登呂遺跡 - Wikipedia

でもって竪穴式住居にせよ其の「住居跡観察舎」なるところにて常に見られる訳である。

 

昨年我が見学した折りには此の竪穴式住居の柱が折れたかで倒壊し復元したと確かそんなことが書かれておった。

いずれにせよ其の竪穴式住居に壱度是非住んでみたいと思うのであるが其の願望こそが矢張り変態チックなのであらうや?

 

 

いずれにせよ変態チックな文明否定論を毎日考え続けて居る我は其の遺跡物こそが大好き♡なのだ。

つまりは其れがそこいらの姐ちゃんの尻などよりも余程に魅力的なのだ。

 

ああー、いいところだなあ、此の遺跡は…。

 

實際何度でも行きたい。

でも實際には年に弐度程、其れも笠寺観音を訪れる折に行けるかどうかである。

 

 

ちなみに此の高台を降りて行くとすき家があり其処にて牛丼を買う事が可能である。

但し昨日の場合はゴッホ展の帰りに松屋へ寄り其処にて牛丼と創業🍛を買い家に帰ってから両方を食った。

 

牛丼は安くてまずまずの味だがすき家の方が美味いのだと思う。

但しカレーの方は美味いと思った。カレー | 松屋 | 松屋フーズ (matsuyafoods.co.jp)

 

其れに今日は従妹が甲羅の蟹ちらし寿司を買って来て呉れ其れを🐈と壱緒に食ったところである。

かやうに日日美食を重ねまさに御勉強の為のエネルギーと化して居るのである。

 

 

さて今回の御話は、此の番組を視た上で書いても居ることだ。NHKオンデマンド | 先人たちの底力 知恵泉(ちえいず) 「今こそ縄文に学べ!持続可能な社会を作るには」 (nhk-ondemand.jp)

 

其の「持続可能性」の無い社會ではどんなに立派な文化を育んで居るにせよ容易に限界が来て仕舞う訳だ。

またつまりは其処が文化の限界なのだ。

 

あくまで文化は社會が持続しての文化である。

もしも社會が食うや食わずでは其処には文化もクソも無い訳だ。

 

また戦闘中には文化もクソも無い。

即ち文化はさうして常に社會から制約を受け続けて居る。

 

だが逆に言えば縄文時代には文化こそが社會を規定するに及んで居たのやもしれぬ。

さうして文化が社會を規定するに及び社會の欲望を解放する暇が無かったのやもしれぬ。

 

まさに其れはひとつの理想郷のやうなものであったのかもしれない。

其れも太古の世界に花開いて居ただらう、格差の無い、且つ限度を守り、また多くを望まぬ文化であり社會のあり方だったのだらう。

 

 

其処でもって我はひとつの疑問に突き当たる。

何故人類の未来には希望が無く逆に過去には決まって持続可能性が拡がって居るのだ?

 

まあ其れも当たり前のことだ。

さうして時間は常に過去から未来へと流れて行くのだから。

 

時間が逆に過去の方へと流れて行けば現代文明は概ね助かりませう。

まあ其れは無い話ではあれ科学技術とかでむしろ時間を逆転させられませんかね。

 

つまりはタイムマシンだ。

タイムマシンを早う造るべきだ。

 

だがそもタイムマシンは理論的に可能なのか?

 

 

既に実現しているタイムマシン

動いている物体の中では、静止している物体に比べて時間の経ち方がわずかに遅くなる(相対性理論)。例えば、新幹線を使って東京から博多まで行くと、博多に着いた時10億分の1秒だけ未来に行くことができる。つまり、タイムマシンは新幹線という形で実現している[3]。ータイムマシン - Wikipediaより

 

僕は昔宇宙論が好きで其の種の啓蒙書を読み漁って居たものですがー弐拾代の頃にー其の折に数式を壱切使わずに相対論的世界観のことを本気にて考え込んで居りました。

数式を壱切除外して考える相対性理論は所詮ウソの相対論でありあくまで人文の範囲での思考となりませうが其れでも所謂常識的判断を打ち破る為の強力な尺度とはなり得る筈です。

 

相対論はあくまで現實として重力場により空間が曲げられまた時間は絶対的な尺度では無く運動する系の速度により静止系に対し相対的に遅くなることを論じたものですが我我が生きて居る世界では事實上無視出来る程の誤差でしか無いが故に逆に其処ではニュートン力学が誤って居るとは言えなくなる訳だ。

 

要するに運動の速度なり物質の質量なりを限定すればニュートン力学もまた正しく記述されるものとなり得る訳だ。

でもニュートン力学では宇宙の現象を説明することが出来なくなる。

 

 

ー例えば、双子の赤ちゃんの兄を地上に残し、弟は光速に近い乗り物の中で暮らしたら、80年後、地上に戻ってきたとき弟は10歳。70年後の未来に到着したことになるのだ。これが「ウラシマ効果」。

「新幹線に乗って東京から博多まで1200キロを移動すると、10 億分の1秒だけ未来に行くことができます」と話すのは、自然科学研究機構の機構長、佐藤勝彦東京大学名誉教授(宇宙物理学)だ。

「未来に行くのは簡単。光速に近いスピードで動く乗り物さえ開発すればいいのですから。でも、過去に行くのは難しい」ータイムマシンは実現可能?「未来に行くのは簡単」と東大教授〈AERA〉 | AERA dot. (アエラドット) (asahi.com)より

 

光速🚀さえ造ればさうして未来へ行けるのでせうか。

其の「過去」へは行けないと云うのは確かに昔からさう言われては居ました。

 

 

ー【今回の結論】あらゆる機械は、変化する「現実の“物”の世界」の中に存在しているので、「過去や未来の世界」に行くタイムマシンは原理的に製作できない。しかし、「過去や未来の世界」を想像するタイムトラベルは可能であって、これは人類にとって大きな価値がある。ーどんなに科学が発達しても「タイムマシン」を絶対に作れない理由 <子どもの素朴な疑問に学者が本気で答えます>(3/3)〈dot.〉 | AERA dot. (アエラドット) (asahi.com)より

 

尤もこちらではタイムマシン其れ自體が否定されて居ます。

どうもどちらかと言えば其の「心としてのタイムトラベル」が可能なばかりであるやうだ。

 

まさに其の「心としてのタイムトラベル」を今現代社會は是非やらねばならぬことでせう。

其れも空想科学小説としてでは無く現實として過去から學び文明のあり方を正して行かぬ限り文明に未来は無いと常にさう思って置くべきだ。

 

よって今其の縄文時代から學ぶことこそが重要な訳だ。

其れは難解な数式をこねくり回してあれこれと理論を考えて居ることよりも遥かに有意義であり重要な未来への価値を模索することとなる。

なので是非壱度は竪穴式住居にでも入り其処にて壱ヵ月位皆で暮らしてみるのは如何だらうか?

 

 

みんなは古代人に戻り其処にて食って寝てウンコして暮らせば其れで良いのです。

電気も来ない、スマフォも無い、自転車すら無い。

 

いやー、實に爽快な暮らしだな。

其れに藝術すら無い。

 

さうか、此の際自分でもって壁画でも描かう。

うわあー、たった今良い絵が描けたぞよ。

まるでルドンのやうな壱ツ目お化けの良い絵が描けた。

 

さうか、アノ絵はさうして僕がかって描いた絵だったのだ。

其れが何故名古屋市美術館によりにより飾ってあったのだらうか?

 

嗚呼、ルドンのキュクロープスの絵が壱體何でまたこんなところに飾ってあるのだ?Redon.cyclops.jpg (814×1033) (wikimedia.org)

キュクロープス (ルドン) - Wikipedia

 

 

だから其れはまさに君がタイムマシンに乗り過去に戻った証拠ではないか。