2.此の春に得た美しき螺鈿軸のボールペン
春は気温を上げ生命活動をより活発にする。
だが多くの生命活動は主に本能にて営まれる。
第壱猫共には所謂サカリが付き何やら常ならぬ唸り声を上げ夜中でも家に寄り付かなくなる。
まさに其れは人間も同じで若い子等にも同じくサカリが付き其れも大抵の場合はサカリが付くと御勉強が出来なくなるものと相場は決まって居らう。
されど星霜を経た我の如き文人は其のケモノの所業を横目にしつつ猶もさらなる御勉強を、さらなる理性的精進にて其のケモノを追い払おうとしむしろ其れに必死である。
いやもはや必死にはならずともかやうに静かなる理性的境地に達して居るが其れでもケモノが飯を欲するので此の壱年に亘りジャンクフードと菓子ばかりを食って居たところどうも高血圧になって居る可能性さえもがあるやうだ。
いやダメだ、こんなのではイカン。
だから兎に角運動するのだ。
では今日もサイクリングへ行かう。
サイクリングをやるとどうも足腰の調子が良く無いのだがもはや其れどころでは無い。
おや、あんなところに沢山の木蓮が咲いて居るぞ。
木蓮は汚れ無き白が何より美しい花だ。
だが弐、参日でまさに散って仕舞う。
ある意味では桜の花よりも散り際が見事な🌸なのだ。
さて我は昔から桜よりも木蓮の🌸の方が好きである。
其の木蓮の白い🌸が咲く台地の上に我が生活圏は拡がって居る。
家へ帰ると道路から見ても紅梅の🌸が見事に咲いて居る。
今年は寒かったので梅や椿の開花が随分と遅れた。
門の格子戸を開けると左手に桃色の椿の🌸が今を咲き集う。
さらに玄関の前の右手には大輪の赤い椿の🌸が。
そんなこんなでまさに🌸尽くしである。
🌸は植物の生殖器である。
だから春になると咲き競うこととなるらしい。
🌸はさうして本能の手先なのではあるが例えば画家などは其の🌸を好んで描いたりもする。
また歌人や俳人などもまさに其の花花の世界を短歌や俳句の世界に謳い込む。
我もまた其の花花が好きな心優しき詩人である。
だけれども我に取り春は🌸と共に筆記具の季節なのでもまたある。
其の筆記具とは何より理性の為の道具である。
だからケモノ其のものみたいな人ですとそも筆記具などには余り興味が無いのやもしれぬ。
だが我に限り長年に亘り筆記具コレクターをして来て居る。
其れは僕がケモノでは無い何よりの証拠だらう。
僕はそんな理性派なので兎に角本と文房具には目が無い。
と言っても文房具屋へ行くと👩共が必ず居て其れこそ色紙の類だのまた便箋の類だのを樂しさうに選んで居たりするものだがまさか我にそんな趣味は無い。
つまりは人に見せる為にする文具趣味では無く純粋に何かを書くことの為の筆記具趣味である。
要するに他人なんぞ生きやうが死のうが知ったことでは無い。
あくまで僕にとっては自分の為の良い筆記具が欲しいだけのことなのだ。
そんな我に取り春は毎年筆記具がやたらと増える季節なのだ。
では画像の解説に入らう。
まずは百年以上前のL.E.Watermanの大珍品である。
つい先日我は此の大珍品を入手し損ねた。
其れはL.E.Watermanの6号フレキシブル・ニブであり我もまた初めて見たものである。
レアー度から言えばまさに五つ☆級の品だ。
だが萬年筆として使い込んであったので金額としての限度を決め入札して置いたので結局世界の誰かに持って行かれて仕舞った。
此のペン先に弐度とまみえることはあるまい。
其れ程の品であったが要は金をケチり負けたのである。
其処でひとつ思ったことは、矢張り世界は広いと云うことである。
かうした物は分かって居る人しか手を出さぬ筈だ。
だが世界には分かって居る人が己以外にもまた必ずや居るものだ。
此のペン先はおそらく日本には無いものだらう。
つまるところは在庫が零だ。
其の位のところで常に勝負しても居るのだけれど残念ながら次点となり落札出来なかったまさに幻の金ペン先である。
もう頭に来たので安い中國の万年筆を壱挙に参本も落として仕舞った。
だが其の中華万年筆に就いてはまた後の機會に述べてみたい。
本日語るのはヤフオクにて得たボールペンのことだ。
まずは螺鈿 - Wikipedia軸のボールペンである。
其の螺鈿仕上げの軸の万年筆やボールペンは意外と少なくまたあるにせよ高価なものが多い。
螺鈿仕上げの軸の万年筆やボールペンはアマゾンやイーベイ・オークションに沢山売られては居ても数万円単位での買い物となるのでさうさう気軽には手を出せない。
ところが何故か銘木軸の万年筆やボールペンの方が手を出し易いのである。ーこちらの方がより安価な為かー
そんな訳で我の場合も銘木軸の万年筆やボールペンは多く持って居ると云うのに螺鈿仕上げの軸の万年筆は壱本があるのみでしかも其れを分解してボールペン化して居るのでまともなものは壱本たりともありはしない。
だが昨年の夏頃より兎に角其の貝の輝きに魅せられて仕舞った訳だ。
尤も僕は元元螺鈿細工の箱などが好きである。
其れも韓國の箱などにはそんなものが多くありかって求めたものを現在も使って居たりもする。
またポケットナイフの方ではそんな螺鈿ハンドルのMOKIナイフを持って居たりもする。
いずれにせよ其の螺鈿物は筆記具趣味の中でもまさに上位構造を形作るものなのであらう。
ところが筆記具では此れ迄余り良い物が出て来なかったのだとも言える。
其れもことポケットナイフの世界では装飾としてむしろポピュラーな素材なのだが筆記具の軸に使うとなると何せ円柱なので細工が難しかったのやもしれぬ。
そんな訳で此の壱年ばかりはそんな螺鈿軸のペンに絞り探し続けて来たのだと言える。
xezo in Collectible Fountain Pens: Search Result | eBay
lachieva in Collectible Pens: Search Result | eBay
其のXezoやLachievaの螺鈿のペンは魅力的である。
だが此れ等のペンには金ペン先が付く訳では無い。
要するに其れがほぼ軸の値段なのだ。
ですが特にLachievaのペンのデザインは悪くは無い。
其れでもってLachievaをいずれ求めペン先を交換し使おうとさう考えて居た。
そんな折ー昨年の夏頃ーにヤフオクを視て居たらどうも其のLachieva臭いペンが出て居るではないか。
ヤフオク! - isamu1949jpさんの出品リスト (yahoo.co.jp)
つまりはこんな出品者を知り其れが神戸から出されて居ることを知った。
でもって、
ヤフオク! - マザーオブパール ホワイトシェル螺鈿の万年筆 (yahoo.co.jp)
ヤフオク! - アバロン螺鈿ボディの万年筆 カリグラフィーニブ (yahoo.co.jp)
の弐本を昨年の秋と冬に求めたのだった。
特に其のマザーオブパールの万年筆の出来は良かった。
また此れはおそらくLachievaの製品であらう。
なのですが其れが安く手に入る。
神戸と云うところは横浜に似て洋物に極めて強く其の輸入物の価値を良く分かって居るところなのだらう。
ところが商品説明の仕方が何故か不細工で何となく胡散臭いものだから売られて居るのが変な筆記具だと思い易いのである。
其れも至極疑い深い我はどうもウソ臭いと思いつつ其れをずっと眺め続けて居たが昨年の秋にマザーオブパールの万年筆を落札してみたら素晴らしい物が届いた訳だ。
其処で取引連絡にて訊ねるてみると要するに木工品の加工會社が販売して居る物であるらしい。
だが貝の加工まで果たして請け負ってして居るのであらうか。
商品説明には「乱獲が祟り、ペンボディに適したサイズのアワビが少なくなり苦戦」との記述があるので或はLachievaブランドのペンのOEM生産でもして居るのかもしれない。
ヤフオク! - kiyoukan_woodyartさんの出品リスト (yahoo.co.jp)
其の折にこちらの方がむしろ本業だと云うやうなことを出品者さんが確か言われても居た。
確かに銘木ペンである。
其れも結構個性的なキングサイズが用意されて居て其れは是非とも欲しいところだ。
ヤフオク! - アバロンシェル螺鈿 ボールペン (B136) (yahoo.co.jp)
でもって此の文房具の春に思い切って落札してみたのが此の御品である。
何故なら、
「決して派手に写らなくて、それでいてセレブな感じのボールペンです。是非お手元に一本揃えて置きたいペンです。アウトレット商品です。好評に付き継続出品中です。」
と商品説明にあり、其のアウトレットと云うのが非常に気になる部分でありつまりはヤバい商品のやうに感じられとても落札出来なんだのだった。
だが本日届いた御品はむしろ完璧な螺鈿軸で其れも滅茶苦茶に綺麗なアワビのキラキラ軸である。ー画像よりもずっと美しい、まさに使うのが惜しくなるやうなペンなのだ。ー
そんな風に此の世の中には値打ちに良い物を得る機会がまた必ずやあるものなのだ。
ですが逃してはならぬものを逃す場合さえもがまた往往にしてある。
尚、神戸の木材加工の會社がかうした物にまで手を拡げて売って居る背景には色色と事情もあることかとは思うのだがあくまで我我消費者にとっては購買での可能性が拡がり悪いことでは無い。
資本主義のグローバル化はかうして消費者に取り選択の機会を拡げて居るのだとも言える。
ー其れも観念的には資本主義のグローバル化が宜しく無いのであれ事實上我我消費者の立場としては安く良い物が得られる機会が増して来ても居る訳だ。ー
物事は常に多面的に見詰め今やれることは積極的にやって置いた方が良い。
其れは功利主義と云うことでは無く個に取っての合理化の意である。
あくまで文明其れ自體は悲観的に見詰めて置かねばならぬとは言え其のことを個に対し適用する必要など何処にも無いと云うことである。
むしろ色色とやってみると頗る面白い、と云うのが壱コレクターとしての我が現在であり其れがまさに正直なところなのだ。