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文明批判と美と心の探求と

そんな眞夏の夜に出る妖怪の如き🖋とボールペンー今回の蒐集にて得た筆記具2ー

そんな眞夏の夜に出る妖怪の如き🖋とボールペンー今回の蒐集にて得た筆記具2ー

 

 

 

 

さて其れでは「ディープ」な筆記具論を是非壱つ。

尚「思想」であれ「筆記具」であれまた「石」であれこと此の世の価値を「有」として捉える限りはまさに怖ろしい程の深みの世界、其の「ディープ」な趣味の領域が必ずや広がって居ります。

 

問題はこんな温暖化により其の種の「ディープ」な趣味の領域が壊れて行くことにこそある。

實際温暖化はおそらく容赦無く其の「破壊」を行って行く筈である。

 

つまるところ其の「温暖化」とはどんな感情論でも無くまたどんな夢や希望としての産物なのでも無いのです。

そんな「温暖化」とはまさに其の「文明」を破壊し尽くすに至る「惡夢」の如き存在なのだ。

 

ですが其の「温暖化」を招いたのはあくまで我我現存在が築きし「近代文明」です。

ですから「近代文明」を批判するのはむしろ「温暖化」をさせぬ為に利口な人がフルに考え其れをするものです。

 

ですがどんなに言ってもダメなことが此の世の中にはまた有るのです。

さう其れは「無い」のではなくあくまで「有る」。

 

嗚呼まるで眞夏の夜の夢の如き其れは惡夢だらう。

 

 

だからさう云うのが「詩のモード」=「死のモード」なのでありさう云うのは世間でやってる宴會だとか結婚式だとかまた葬式であるとかさう云うのとはそもまるで違うのだ。

 

まあですがむしろ其れはどうでも良い事です。

 

問題は自分に取り此の「間違った文明」のあり方がどうならうがすでに知ったことでは無く心配と言えば其の「ディープ」な趣味の領域が壊れて行くことへの危惧のことばかりである。

だから今のうちに其の「ディープ」な趣味の領域のことに就き語って置かう。

 

でないと多分五年後には語れなくなる筈だ。

いや拾年後には温暖化+大地震でもってそんな「ディープ」な趣味の領域どころか飯を食うことだけでもう精壱杯となるのやもしれずで。

 

さて本日語るのは筆記詩人の最終蒐集に於いて遭遇せし「不可思議なる體験」のことに就いてです。

まさに其れはこんな夏の夜の夢であり訳の分からぬ妖異現象のやうなものであった。

 

 

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まずは此の出品者さんなのですがおそらくは相当なコレクターさんなのでせう、兎に角出されて居る御品がまるで並みでは無い。

兎に角此の方が今「断捨離」中とのことである。

 

でもって結果的に自分は六月以降此の方より参本の萬年筆を譲り受けることとなった。

其の最後の壱本が「まるで妖怪のやうな御品」である。

 

まさに其れがコレです。

 

20号ペン先付き インク止め式 萬年筆

20号ペン先付き インク止め式 萬年筆

20号ペン先付き インク止め式 萬年筆

 

でもってまず此の萬年筆はかうしてペン先が大きい。ー廿号ペン先付きー

 

ところで最終的に自分の萬年筆趣味は其のデカいペン先へと向かいましたのです。

ですので此の御品をかうして引いて來て居ります。

 

デカいペン先付きの万年筆は兎に角「筆記感」が違って來る。

其れもペンポイントの仕様がどうであれ「筆記感」がより充實したものとなり易い。

 

故に万年筆は最終的に其のデカいペン先付きの物をこそ選ぶべきなのです。

 

ところがそもデカいペン先付きの🖋は数が少ないと來て居る。

要するに常に其れは「レアー」なものとなる。

 

特にデカい金ペン先付きの🖋は現行の品であれまた古い品であれむしろ壱番入手が難しいものだ。

でもって今回の蒐集ではまさに此の方より其のデカい金ペン先付きの古い🖋を参本求めて居ます。

 

 

尚かうした御品は其れを世に出すコレクターとしての體力ー地力ーのやうなものが無いとまず出ては來ないものです。

 

さて物は兎に角さうして何でも「ヒエラルキー化」して居る。

また其れは「限定万年筆」にせよ「古い萬年筆」にせよ其の全てが「ヒエラルキー化」して居る。

 

物とはまさに其の「ヒエラルキー化」するものであり其の面では「非本質的」なものである。

ですがまだしもモノは「ヒエラルキー化」するから逆に「確か」なのだ。

 

逆に社會其れ自體を「ヒエラルキー化」するとロクなことにはならない。

社會はさうして物質化させずにむしろ徹底したところでの「観念論」でこそ歩むべき。

 

いずれにせよ其の「社會の失敗」により現行文明はいずれ立ち行かなく可能性が高くある。

其れも最近は其のヤバくなりさうなペースが早まって來て居りおそらくは拾年後にはもはやヤバくなって居る感じすらもが致します。

 

 

ですが其の文明の御話はむしろどうでも宜しい。

元より其れはわたくしが関知するところのものではむしろ無い。

 

どうぞ勝手にやって下さいまし。

勝手にやってどうにもならなくなり嗚呼アノ時にアノ變な詩人の提言を聞いて置けば良かったなどとさう心より思うにせよつまり其れは「後の祭り」と云うものだ。

 

祭り?

さう言えば明日の夜は母校中根小学校でもって「盆踊り大會」がある。

勿論其れを観に行く積もりである。

 

でもって結論から言えば此のペンは相当に「分からん」御品であった。

 

まずは其の筆記感が異常に軽い。

また軸もエボナイト製では無くおそらくはセルロイドか又はタダの合成樹脂であり兎に角軽い。

 

また即ち「金ペン先」では無い可能性なども50パーセント程はある。

だけれどもペンの作りが惡い訳では無く要するに紛い物だとは決め付けられぬ。

 

またとりあえずペン先には「JISマーク」も付いて居り其処からも紛い物だとは決め付けられぬ。

 

 

尚相變わらず首軸は回らずつまりは取れない。

其れを色んな手で回すやうにする方法などもまたあるが其れをすれば当然に面倒臭い。

 

故にさうした場合自分はインク止めの中芯をカットし其の中芯の通る尻軸側の穴つまり「尻の穴」から注射器にてインクを注入する。

さすればインク止め萬年筆としての価値は無くなるが自分はそもインク止め式萬年筆をインク止め式萬年筆としては使わず所謂「点眼式」=「アイ・ドロッパー」として使うことが多い。

 

左様にインク止め式萬年筆は所謂「知識」が無いと使うに使えず要するに素人では「扱いが無理」となる。

但し其の場合にも「付けペン」=「ディップ・ペン」として使うことなどは常に可能である。

 

要するに万年筆としてはダメでも其のペン先をインク壺に浸せば使えぬペンは此の世に無いのである。

我我「ディープな」万年筆蒐集家は其の位のところで常に万年筆を考えて居るからそも其の🖋に對する認識が違うのである。

 

 

そんな訳で此の最後に引っ張って來し萬年筆こそがズバリそんな「萬年筆としての妖怪」だった。

其の「萬年筆としての妖怪」はしかしながら非常に面白い書き心地を有し他のドレにも其れが相当しないので逆にむしろ此の御品を日日使って行くことで「可成にカルトな🖋生活」が其処に営めるのではなからうか。

 

尚現行の万年筆はたとえ其れがどんなに高価な物であれあくまで本質的には「同じやうな筆記感」の物なのだと考えられる。

以前我が文化+🖋の掲示板の主筆だった頃に関東のとあるコレクター氏が「現代の🖋は皆同じ書き味がする」とさう述べて其れをコキ降ろしにかかったことがあった。

 

其の折に自分は「現代の🖋には其れなりに筆記感の違いが認められる」とさう反論しつまりは現代の万年筆を擁護する発言をしたが其れは其の頃自分がまだ現代の🖋の愛好家だったからなのだ。

でもって後に彼の言い分が「正しかった」ことを自分は其の掲示板にて認めた。ー彼とは暫くのことながらメールにて交流があったー

 

また其れは其の時すでに自分が「古典の🖊の愛好家」としてまさに其処に立って居たからなのである。

 

同質性⇔異質性

 

其の筆記具の上での「合理化」に限らず文明の上での「合理化」とは其の「異質性」の排除へと向かうものと相場は決まって居る。

其処では要するに「違い」を認めず何でも「同じ」にしたい訳だ。

 

「同じ」にしたいつまりは「普遍化」したい。

ところがそんな「普遍化」をすればする程にモノにせよ社會の様にせよ「異質性」つまりは「差異」要するに「違い」を無価値なものとして遮断して行くこととなる。

 

またイザさうなれば言わば「愉快な逸脱」のやうな「個性」がモノからもまた社會からも消え失せて行くこととなる。

 

 

尤も現行の万年筆の世界はむしろ21世紀となり「個性化」が進むこととなった。

なんとなれば万年筆はカルトチックな趣味の場と化し要するにコアなファンばかりとなり其のコアなファンが求めるものとはむしろ「個性化」なのだ。

 

ところが幾らメーカー側が「限定万年筆」などで個性を出さうとしても其れ即ち素材や製法にそも限界があるが故に「本質的な意味での個性化」などはまず出來ぬ相談なのだ。

だからどんなに凄い現行の万年筆を手に入れたにせよ常に其処には「限界」が付き纏って居ることとなる。

 

ところが其の🖋もまた時代を遡るにつれまたとんでもない御品が出て來たりするのである。

故に現代の🚹諸氏はたとえば80以上の婆さんと付き合ってみたりなどするともうとんでもない「何か」に巡り合えたりもまたするのではないか。

 

だがみんながそも「洗脳」されて御座る可能性が高いので其れが出來る人はおそらく拾萬人に壱人位のものであらう。

 

うわあー、まさにとんでもない婆さんだわい。ー婆さんに限らず「とんでもないジジイ」であることなどもまたあるがー

 

してみると「🖋に於けるよりコアな趣味」とはむしろ「世間で良いとされる🖋」にはむしろ擦り寄らぬ部分にこそ生じることが御分り頂けるのではないかと思う。

尚現在此の東京の出品者の方がまた機械式のムーヴメントの古い時計などを澤山出品されて居られるがいずれもまた至極「趣味の良い御品」でありなかなかかう云う物は田舎からは出て來んだらうなとさう思わせる物ばかりである。

ヤフオク! - pxxsq12421さんの出品リスト (yahoo.co.jp)

 

そんな訳で資本主義が本質的に惡であらうと何であらうと其の価値に於けるヒエラルキーは實質的に決まって居り其の上位での部分をむしろ目指すのであればかうして物の流通の部分にむしろドップリ浸かり要するに血眼になりモノを探し見つけた時点で其れに飛び付く他は無いのである。

 

 

さて次に語るのが最近得たボールペンの御話である。

實はこちらも「妖怪級」の御品である。

 

其れがまさに此れである。

 

ヴィンテージ木軸ボールペン1

ヴィンテージ木軸ボールペン2

 

さて此れの何処が凄いかと云うに其の落札額は何と110円であった。

でもって送料が210円であるから送料の方がむしろ倍程もする。

 

でもってイザ品を確認するとむしろ材が高級ー唐木系か?ーであり弐千円だと言っても良い位の御品である。

 

また画像では金具が汚く見えるが実物はむしろピカピカだった。

 

だから此れが計320円である。

 

其れも首が真鍮製であり所謂低重心であり筆記上の自分の好みにも合う。

しかもキャップは1920年代のシェーファーセルロイド製のグリーンのキャップがピタリと嵌まり長くして使える。

 

筆記全長 187mm

重量 25グラム

バランス 6對4

 

さうして意外と低重心でも無い。

 

いずれにせよまさにとんでもない話ではないか。

 

筆記具趣味もまた昂ずれば次第に「妖怪」染みた物に魅力を感ずることとなる。

だけれども別に其れは「妖怪」其のものなのでは無く歴とした🖋でありボールペンなのだ。

 

ちなみに今年自分が好んで使うのがJET STREAMやACRO BALLなどの1.0mm芯である。

要するにそんな太い低粘度油性芯を好んで使う。

 

其の書き心地の方はとりあえず凄まじいのだと言える。

特に此のボールペンに入れて其れを使うと其の書き心地の方が「ヌメヌメ」となる。

 

尚ボールペンは自分の場合所謂書道と同じで軸を立て筆の如くに扱い書くことが多い。

また此の広島の工房の作品などは軸が長めでしかも直線的でありつまりは筆的な軸なのでまさに其のことがやり易くなって居る。

 

要するに安くてもまた良いモノを手に入れることが常に可能な資本主義社會としての現状なのだ。ー其の資本主義社會が良いか惡いかは別としてまさにさうなって仕舞って居るー