改めて手作り万年筆の価値を論じてみるー横浜からこんな「黄昏れたペン」が届いた!ー
【どうする家康】家康「命がけで働いておる者を笑うな!」に共感の声続々 格差社会やコロナ意識の“エール”か? (msn.com)
まあさうしたことです。
自分も以前に其の勞働のことに関しあれこれと書いて居りますが元來勞働の内容に貴賤の別などはありません。
問題は其の勞働の内容に貴賤の別を付けたがるヒエラルキー社會としての「認識」の方にこそありまた其のことは勞働に限らず社會とはどんな社會にせよ其のヒエラルキーを設定したがると云う根本での命題に換言される訳です。
つまりは現存在による其の社會的認識其のものにこそ誤りが生じて居ます。
だから實は余り眞面目に其のことに對し向き合わぬ方がむしろ良い。
そんなアホ社會だから変わりやうが無いなとさう観念しむしろ自分のやりたいことをやれる範囲にてやっていくことの方が常に此の世では大事なことでせう。
まあやりたいやうにやりたとえドツボに嵌まるにせよやりたいことをやったのだからむしろ其れで良いではありませんか。
とまるで螽斯の如きことを相変わらず詩人は述べ立てますが其の言葉を余り信用したりはしないやうに。
猶螽斯詩人は今まさに藝術に生きる人でまるでカタギの人間ではありませんので常に話半分として是非其れを聞いておきませう。
但し其のヒエラルキー社會の中で自分が偉いとさう思い込んで居るヒエラルキー社會の支配層に関しては是非糾弾されてしかるべきでせう。
さう云う奴等は壱遍エッセンシャル・ワークのひとつでも是非やらせてみるべきでせう。
さて庶民は結局打たれ強いので其の分インテリ層よりも元気です。
其れ即ち庶民は其の「元気さ」だけが取り柄なんだ。
でも其れがまさに羨ましい。
彼等はもしや「不眠症」とかにもならないのですか?
まあ其の不眠症詩人とはそも違うのでさうなりやうが無いのです。
だがお前も半分は庶民だらう?
嗚呼まさにさうだった!!
よーく考えれば自分も確かに半分は其の「打たれ強い」俗人なのでした。
さて其れでは以下に其の「懲りない」文房具詩人が今如何に万年筆と遊び戯れて居るかと云うことに就き述べて置きます。
ー以下は昨日書いたものー
さて其のdeepな世界が此の世にはしかとあると云うことをこそ此のところ述べて居るのです。
また其れは精神的な領域に限らず所謂「モノ」の領域にもしかと拡がって居るものです。
どだい精神と物質の領域は其れこそ「縁起的」に相剋し且つ相即するやうな関係性を保ち其れ即ち精神が単独にて存立することが現象界には無くまた物質が単独にて存立することさえもが現象界には無いものと考えられやう。
つまりは「現象」其のものを其の両極には還元し得ぬものと考えられやう。
まあしかしながら其れはまさに幼稚園児でも分かることでつまりは其処で自分の肉體の存在と自分の心ー精神ーの存在をたとえそんなガキ共であるにせよすでに別箇に感じて居る筈である。
別箇なのだが其れでも無関係なのではよもや無い。
両者が無関係で居られるのは其れこそ「神の認識の次元」か又は「石などの無機物」であることなどに限られることでせう。
其の石は自ら「感じ」たり「考え」たりすることが無く其の分至極静かである。
勿論其の「静けさ」に屡是非遭遇せんが為にわたくしは日頃から石を愛でて居るのです。
例えば昨日、今日と天気が良く我は鉱物標本の観賞と標本の整理及び掃除をして居りました。
其れもパイロクスマンガン鉱の標本の整理及び掃除をして居りました。
自己採集の標本と合わせると結構な数となる為に實は其れだけで壱時間程を要するのです。
パイロクスマンガン鉱の標本の多くは現在幾つかの標本を組み合わせプラケースに入れてあるので其の組み合わせや組み方を変えるなどすればまた違った石の見え方にもまたなる訳です。
今日はパイロクスマンガン鉱がクリアーで且つ強い日差しに赤く輝きまさに特別な価値を其処に醸し出して居た。
其れ即ち矢張りと言うべきか田口鉱山産のパイロクスマンガン鉱の結晶標本と棚山や赤瀬、さらに寶坂産のノーブルオパールの標本こそが最高の鉱物標本であることはまず間違い無いことだ。
ところが其の後多くの時間を費やしメンテナンスに勤しんで居たのは萬年筆の方でした。
其れがまさに本日届いた所謂インク止め式の萬年筆です。
但し戦前の品では無く戦後の所謂「手作り」タイプの御品でせう。
其の種の物に所謂「兜木金ペン先」を付けた物があり高く評価されて居ますがまさに其の御品です。
何故なら其の14金ペン先には「GK」の刻印があるのですぐに其れと分かります。
今は亡き兜木 銀次郎氏は其の金ペン先の職人さんでした。
彩の国工場 有限会社 カブトギ工業 -会社概要- (kabutogi-filter.com)
こちらでの會社の沿革から1935年より其の兜木 銀次郎氏が東京浅草にて金ペン先作りを始めた旨が書いてあります。
さらにこちらに興味深い記事がありました。
要するに明治40年生まれの兜木 銀次郎氏は当然ながらとうの昔に亡くなって居て其のペン先は絶産となる。
では何故万年筆の愛好家其れもdeepなレヴェルでの愛好家は兜木ペン先を求めてやまないのか?
要するに其れが鍛造金ペン先で其の本質的性質が強いのです。
たとえ薄めの金ペン先でも本質的に強いので曲げても曲がらないと云う訳だ。
但し本気で曲げれば勿論すぐに曲がります。
ですが書いた場合に金ペン先に負荷がかかったにせよ所謂「しなる」だけで其の負荷が無くなれば復元する訳です。
其れはまた變な例えをすれば戦前の日本男子は皆精神的に鍛えられて居り苦難があらうが強いので乗り切るが戦後のなまくら男子は其の「鍛え」が入って居らず即ち弱いので何かあるとすぐにへこたれて仕舞うと云うやうなものです。
まあ可成に右翼的な物言いとなって仕舞うのですがでも其のことは確かにあると思います。
特に我我還暦世代以降の日本男子は正直日本男子じゃ無いとさう思う。
だけれどもまた左翼は左翼で其れこそ腹の座った凄い日本男子が居るのでせう。
ですがわたくしの場合は逃げるばかりでも無いのですが兎に角逃げ腰でせう。ーむしろ思想として逃げたがるー
其処を逃げずに👪を守らんが為に「特攻」も辞さぬと云うのがほんたうの日本男子でせう。
兎に角其の「思想云云」では無く要するに筆記上は金ペン先が強い性質の方が所謂筆記や筆記感の上での本格性が味わえます。
要は其の「筆記や筆記感の上での本格性」だけのことです。
但し其れは「萬年筆」に於ける本質的な価値です。
つまりは其の金ペン先其のものが「本物」なんだ。
ところが現行の万年筆の金ペン先には酷いと筆記圧により曲がる物さえある始末です。
自分は弐、参度さうして現代の万年筆の金ペン先をかって曲げて仕舞ったことさえある。
ではさう云うのを何と言いますのですか?
つまりは「鈍らペン先」と言うのです。
金の品位を18金や21金などに高めつまりは見榮えばかりを追求しおまけに鍛金工程をプレス化しつまりは合理化するものですから特に組み合わせが悪くなるとさうして「弱い」金ペン先が出来上がって仕舞う。
其れでもって最終的には万年筆を使う側の「運筆圧」を悪者にして其処をこそ責めるのだがそりゃまるでお門違いです。
なので僕はそんな間違った現代の万年筆界の論理にまずは喰らいつきまして兎に角其れに對し批判を加えて居りましたものです。
自分は何せかの信長公の如くに潔癖ですので其の社會的通念に對しまるで誤魔化しが効かないんです。
そんな訳で兜木ペン先に限らず戦後暫く位迄の萬年筆の金ペン先はさうして鍛金が念入りに施されて居るので本格性を保ち其の本格性の部分より良い「書き心地」の部分が醸し出されて居る。
ところが現代の18金や21金ペン先の万年筆は兎に角「書き味」を良く感じさせより売れる品にすることだけが目的で兎に角ゴチャゴチャとペンポイントの方を特殊化しだまくらかして居るのです。
其れは丁度巷の不細工な女性がなんだか知らんがドーランを塗りたくりしかも訳の分からぬ口紅だの何だのでもって化けアナタを騙し誘惑して居るのと全く同じ理屈です。
またまた今日も口が悪い。
だが自分の其の口の悪いのこそが我が「文學」其のものなのですぞ。
さうか、すると兜木ペン先に限らず万年筆のペン先は古い物の方が良いのだね?
さう云うこととならう。
古い萬年筆の金ペン先は壱字書くだけで自分の場合はすぐに其れと分かる。
また逆に現代の鈍らペン先も壱字書くだけですぐに其れと分かる。
ふーん、でもそんな敏感で果たしてどーするの?
まあ其処を突かれますともはや何とも申せません。
でもって重要なことは兜木ペン先に限らず古い萬年筆の書き心地は現行の万年筆の書き心地と本質的に異なると云う点にこそ尽きて居る。
じゃあ現代とは嘘コキの時代なの?
まあ物に限らず思想にせよ政治にせよおそらくはさうなのだらう。
全く恐ろしいことながら多分其れが真實なのだと思う。
するとアンタはまるで現代を信用して居ないのか?
ほぼ信用などはして居ない。
むしろ嘘コキでもって偽物ダラケなのが此の「文明の現在」なのだ。
…また過激な。
過激で無いよ、只正直なダケだ。
其の酒井 榮助氏は軸の方を挽く職人さんでした。
でもって其の軸に高橋 吉太郎さんが漆を塗り其の軸と兜木金ペンを合わせ土田 修壱さんが組み立て及び調整を行う。
手作り万年筆 土田修一・兜木銀次郎・酒井栄助・高橋吉太郎 デッドストックだから娶ったわ♪ | 萬屋あっちゃん商店 レンズ・万年筆沼にようこそ♪ (ameblo.jp)
こちらにも其の辺りでのことが述べられて居ます。
でもってわたくし自身が此の種の手作り万年筆の世界のことを知ったのはすでに四拾年程前のことです。
其れで廿代の頃に早速名古屋丸善でもって其の手作り万年筆を参本求めました。
其の後結局は全部で五本程を持ちましたが使ったのは壱本のみで其れは小振りで細長い所謂オノトタイプの特殊なタイプでペン先はまた特殊な細身のフレキシブルタイプの物だった。
猶自分はかって書道塾にも勤めて居ましたので筆の扱いと申しますかつまりは柔軟なペン先の扱い方を元元心得て居る。
ですのでそんなものでも難無く扱えるのです。
でもって結局他の萬年筆は勿体無くて使えずよって此処拾年ばかりは其の酒井軸でもって兜木ペン先付きの手頃な品を求め続けて來て居た。
尤も其れ以前は主に百年以上前のアンティークのL.E.Watermanの愛用者でした。
ところが其の使うL.E.Watermanを入れた筆筒が現在行方不明となりつまりは大掃除をしないと出ては來ない。
そんな訳で何とか安く手に入らんかとさう思って居たところヤフオクにて横浜の骨董屋が變な品を出して居た。
其れが兎に角画像の方が汚いんです。
汚いので普通は万年筆の方も汚いんです。
なんですが其れこそもう延べで言えば千位は此れ迄に筆記具の売買をして來て居る自分です。
つまりは兎に角場数をこなして來て居るので其処では所謂「直感」がしかと働きます。
其の「直感」は海外オークションの方での拾年程の経験で物凄く磨かれたものです。
何故なら海外オークションの方で下手をコクともうとんでも無いことになります。
だから自然とそんな「直感」が働くやうになったのです。
どだいこんな汚ねえ萬年筆を誰が好き好んで落としますか?
だけれども其の時に「直感」が働いた自分にはむしろ此れが「イケてる御品」に視えて居た。
なので其の「視点」か又は「認識」こそがまさに普通じゃ無い。
其の普通じゃ無い「直感」はでも万年筆の場合に限れば所謂「経験値」によるものです。
だから別に哲學的な意味での「直観」でもまた文學的な意味での「藝術的直感」の類のものには非ず。
要するに其れは単なる物趣味ですのであくまで物の世界の上での「経験値」こそが頼りとなる。
でもって僕は懲りずに此のまさに腐ったやうなペンを落としましたのです。
値段の方は酒井軸+兜木ペン先の手作り万年筆の相場の半値位でのものでせう。
さて其れが本日手元に届いた。
サイズ的には細身の酒井軸でもって其れでも長いペンで筆記状態で175ミリ程もある。
自分は長いペンが好みですのでまずは其れが良い。
でもって最初から兎に角汚い御品でしたが洗うだけで良くなることもまたすぐに分かった。
まずはミューズ石鹸を歯ブラシに付け兎に角隅隅まで洗います。
其れも参度位は其れを繰り返すのです。
また今回はオレンジの香料入りの界面活性剤入りの水にも浸した。
其処までやればもうすでに萬年筆はピカピカです。
うーむ、思った通りに軸に傷などのまるで無い素晴らしい品ではないか!
但しBBインクーブルーブラックインクーのこびりつきが酷く其れでもって参時間程は確り水に浸した。
ところが余り長時間水に浸すと軸の漆への悪影響などもまた考えられます。
午後四時頃其の洗浄を終え早速机上にてインクーインク壺の中のパイロットのブラックインクーにペン先を浸し書いてみる。
おおおおおおー、やったあー。
つまりはスッカリヤッターマンだ。
うわああー、實際なんて気分の良い書き心地なんだ!!
さて自分が此のペンに求めたものこそが其の「書き心地」の良さ其のものだった。
では何故其れが自分には分かって居たのか?
何故なら其れは「太字」仕様の兜木金ペン先だったからなのだ。
實は此の「太字」仕様の兜木金ペン先こそが得難い物である。
要するに昔の萬年筆は所謂「細字」が中心でまた有ってもまず「中字」止まりなのだ。
特に日本の萬年筆の場合はほぼ「細字」ばかりとなる。
但し金ペン先自體が本質的に「強く」また昔の日本語の筆記は線に強弱を付ける所謂「御習字」のやうな書き方即ち「カリグラフィー」での書き方をして居たのである。
其のやうな書き方をする限り實は「細字」の金ペン先でも線の強弱が付けられ従ってあえて「太字」仕様は要らなかったのだともまた言える。
勿論わたくしもまた其のやうに古い萬年筆を操りもう長く書いて來て居たものだった。
故に「太字」や「極太字」の万年筆はモンブラン149等の軸が太い万年筆に限って來ても居た。
だけれども最近はもう筆記其れ自體が爺さん化したので樂に書けしかも書き心地が良い「太字」の物を好んで使うやうになった。
そんな訳で結局横浜くんだりからそんなピッタシカンカンの御品を今回引いて來ちゃったのだ。
しかも相場の半値程で。
だからもう此れを「成功」其れも「大成功」と言わずに居られやうか?
さてでは早速また此の御品でもって中國製の便箋に何ぞ文字を書いてみやう。
「御品」
うーん、軽いねえー、此の筆記感は。
さても太字でもってこんなに軽い書き心地の萬年筆を自分は他に知らない。
ところで金ペン先の方は念入りに洗うとまるで新品の如くに綺麗になった。
要するに此のペンは只汚なかったのである。
でもって此のペンは我が好む「赤軸」である。
いや我は「赤軸」専門の軟派では無く基本は「黑軸」派の硬派なのだが結局ドッチも好きなんである。
自分はかうして何でもイク人間なので兎に角何でもイク。
さて壱月~参月位迄は例年万年筆の良いものが出ることが多い。
つまるところ此の春先の季節はまさに「文房具の季節」なのだ。
従って此の時期は兎に角何時の間にか万年筆を買って仕舞うことなどが多い。
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かやうに古い萬年筆には時折規格外の御品が出て視覚的にも樂しむことが出来る。
1.筆記具としての本格性
2.規格外の形状
古い萬年筆にはまず1.の要素が備わって居ます。
其れをさらに分析すれば、
a.材質としての本格性
b.作りとしての本格性
c.實用品としての本格性
などの要素となる。
例えば古い萬年筆はエボナイトやセルロイドと云った魅力的な素材で軸が作られて居る。
また多かれ少なかれ職人仕事が其処に加えられて居るので作りの上での本格性などもまたある。
さらに實用品として完成された品が多くよって結局「書き易い」訳である。
また2.の要素は所謂「多様性」の観点より論ぜられる点でせう。
要するにかっては萬年筆こそが筆記具に於ける主流の座にあったので其れこそピンからキリまでまた大から小までさらに柔軟なペン先から剛直なペン先まで選択肢としての多様性があった。
まさに巨大な萬年筆よりミニサイズの物まで、さらに作家御用達のやうな物から御婦人用の物まで其れこそどんな物でもまたあったのだと言える。
但し古い萬年筆の方が絶對に良いとは言い切れない。
何故なら現行の万年筆にも充分に「本格性」があり且つ「規格外」の趣味性を保つ御品などもまたあるからです。
ではあれ其れ等は概して高価な物とならざるを得ない。
また其の「高価さ」は多分に現役世代の物としての値の高さ=社會的な意味での値の高さでせう。
まあ最終的に我は其の社會的な意味での値の高さに疑問を持ち古い萬年筆の愛好家へとシフトして行くこととなった訳です。
さうしてそも疑問があるので現代の万年筆に對しかっては辛辣な批判を展開致しましたのです。
ですがそんな自分も今は至極「自由」に新旧の万年筆の数数と付き合えるやうになって來た。
要するに「此れでなければならない」との拘りのやうなものが逆に次第に薄れて來た。
其れでも今メインで使う万年筆はほぼ古い品や改造した物ばかりなのですが。
1980年代 酒井栄助作「晩栄」万年筆。兜木ニブ搭載 もう手に入らない品です。 (seforce.jp)
こちらではインク止め式をプランジャー式に改造して居る旨が書かれて居ますがと云うことはかっての國産インク止め式の萬年筆はほぼ全てプランジャー式に改造出来るのでせう。
さて其のインク供給のシステムこそが万年筆に於ける最大の問題点である訳ですが個人的には最近まるで気にして居りません。
其れはどう云うことかと申しますと自分に限り此処数年は「つけペン」の状態で万年筆を使うことが多いのです。
「つけペン」とは所謂西洋で云う「dip pen」のことで要するに漫画家がペンをインク瓶に浸しながら使うアノ書き方のことです。
だったら其れは万年筆でも何でも無い訳ですが兎に角書き方其れ自體がさうしてより時代を遡りつまりは原始的になって仕舞いました。
其れは壱面では「文明人離れ」して來て居る訳でだから自分で自分のことを「万年筆仙人」だ、とさう述べて居るのである。
其の「dip pen」=万年筆と云う構図は万年筆の愛好家がほぼ言ってはならぬことなのですが自分はもう何でも言うたれですのでかうして何でも言っちゃいます。
だからもうほとんどの万年筆にインクを入れたりはして居ません。
どだい万年筆にインクを入れたりするとまさにトラブルの元です。
ですが万年筆にインクを入れずに使う愛好家はひょっとすれば此処日本で我壱人なのやもしれません。
即ち我が万年筆道はすでに「偏執的万年筆趣味」の世界へと突入して居るのです。
なのだけれどもまた其れとは全然違う話で今回「横浜から良い万年筆をしかも安く引っ張って來たよ」との御話を以上にてさせて頂きました。
ちなみに関東や関西からは時折安くて良い古い萬年筆などが出ます。
ところが其の古い萬年筆に限れば東北のクソ田舎などから凄い御品が出ることなどもまたありソコがまた面白いところです。
また此処名古屋から凄い御品が出ることなどもたまにあります。
そんな御品をまた自分は色色と持って居る。
持って居る?
いや暫くの間御預かりして居るだけだ。
ところで其の兜木ペン先の萬年筆を例えば歌で喩えるとどうなるんですか?
何せ赤軸なので其れはかうなります。森昌子 よこはま・たそがれ - YouTube
左様に矢張りと言うべきか関東圏には兜木ペン先付きの手作り万年筆が多いことかとさう思われます。
但し兜木ペン先付きの手作り万年筆は今や30~20年前の販売価格の倍~参倍もの取引価格となって居る。
ヤフオク! - SAILOR/セーラー [長原 宣義 作] すす竹 純金プ... (yahoo.co.jp)
ちなみに最近其の落札値の高さにビックリしつつ視て居たのがこちらでの長原作品でした。
個人的には長原作品はすでに全て売り払って居りほぼ興味がありません。
ですが此の御品は軸が太く個性的な所謂煤竹モデルです。
其の長原作品にせよ兜木ペン先付きの手作り万年筆にせよつまりは「日本独自」の万年筆です。
尤も洋物の方が至って好きな自分は其の「日本独自」の万年筆を日頃から好み特に大事にする訳では無い。
でも良い物はまた良い訳ですのでかうして良い手作り万年筆がたまたま廉価に得られるととても嬉しくなる訳だ。
最後に少し右翼的な物言いをすれば「兜木金ペン先」やまた評価の高い「石川金ペン先」などはまるで日本刀の如きペン先としての切れ味を保つ物でもあることでせう。
要するに現代の高品位の鈍らペン先とは其れはまるで違う。
ですがあくまで自分は武人では無く文人ですので其の日本刀よりは矢張り萬年筆の方が良い訳だ。
またつまりは「剣よりもペン」の方が良い。
其れと赤軸は何処と無く詩人っぽくて良い。
つまりは壱種「気障」であり良い。
さてそんな如何にも詩人っぽい万年筆などもまた自分は結構持って居ます。
でも其れに就いてはまた後日に。