目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

そんな「無能者」が生きられてこそ實はまともな社會となるーリベラル的合理化社會への批判などー

そんな「無能者」が生きられてこそ實はまともな社會となるーリベラル的合理化社會への批判などー

 

 

 

 

和田秀樹「コンビニ弁当」が長寿につながる!?歳を重ねたら「栄養があまる害」より「栄養が足りない害」のほうが大きい (msn.com)

 

歳を取ったらさうして兎に角「食う」。

普通は其れが出來なくなるが無理にでも「食う」べき。

 

また兎に角やりたいことをやるべし。

逆に初めて其処に「樂園」が生まれるのだから。

 

主に宗教的な見地より「酒池肉林」は御勧め出來かねるがもしや其れをする方が性に合う人などもまた居るのやもしれぬ。

 

 

プーチンを追い詰めたら…政治学者・姜尚中が語る「アメリカの外交が失敗を繰り返す」理由 (msn.com)

 

其の米國なんですが結局右翼バカー但し実際には左翼バカーなんでせう兎に角自分等の其のリベラル・デモクラシーとの考えを兎に角世界中に広めたいー普遍化したいー訳ですが其の考えはそも間違いです。

さうして米國は何でもモノがあるつまりはモノの樂園ですがどうも哲學の方は弱いのではないか。

 

其の哲學ならばむしろ独逸や🗾の方が当然ながら優れて居ります。

 

自分は思想的には明らかに反米の方でむしろ米國流のヒーロー気取りの底の浅い思想が今の🗾人のおバカ化を招いたものとさう考えても居るのです。

またプーチン氏や北朝鮮の金氏などは嫌いですが他方でマルクス主義が間違って居るとは思いません。

 

兎に角其の米國の思想は極めて壱義的であり其の壱義的な思想に限り即「全體主義」化して仕舞うのです。

だけれどもプーチン氏や北朝鮮の金氏の國などはまた違う形にて「全體主義」化して仕舞うのです。

 

全く困ったもんだ。

其のやうに「デカい抽象的な価値」は兎に角「全體主義」化して仕舞うのです。

 

よって「デカい抽象的な価値」をむしろ放棄して行くことこそが特に理性的な人による方向性の選択でありまさに其のことを「デタッチメント」と申します。

自分は本質的には其の「イデオロギーの放棄」をこそ御勧めして居る訳であり「祖国を守れ」などとはまるで言うて居りません。

 

「祖国を守れ」ずともつまりは祖國が滅びやうがどうしやうが壱インテリジェンスとして何処までも生き抜くべきだとさう言うて居りますのです。

 

だから「プーチンをやっつけたれ」では逆に「バイデンをやっつけたれ」となりまた其処にアノデブ迄もが加わりもうエライことになって仕舞う。

ですので兎に角「敵を愛す」ことが無理なのではあれ此の記事にて姜 尚中先生が述べて居られるやうに「敵を知る」ことこそがむしろ最も大事なこととなる。

 

でもって利口と馬鹿の違いとはまさに其の「敵を知るか否か」にて決まって來るのです。

利口は兎に角其の意思決定の仕方が多義的でありつまりは概念的な意味での双方向性を常に保って居ます。

 

 

NHKオンデマンド | 【無料】NHKスペシャル 「戦艦武蔵の最期~映像解析 知られざる“真実”~」 (nhk-ondemand.jp)

 

さてかうした番組を是非良く視て置かないと「國家が行う犯罪としての全體主義」を「知る」ことが出來なくなる。

さう「國家」は偉いのでは無くむしろ「犯罪者」のやうなものになり易いものだ。

 

また其のことは社會科を其れも突き詰める形でもって「御勉強」すれば誰にも分かることだ。

だが世間にはむしろ其れが分からない人の方が多く其れは何故かと言えば「御勉強」して居ないからなのである。

 

尚右の思想の反對の共産主義にせよまた他の理想主義的社會體制にせよ體制と名の付くものは大概の場合「危険」である。

よってむしろ體制の無い方がより理想的な統治システムとなる。

 

いや統治システムなんぞそも無い方が良い。

だがそも其れは出來ぬ相談なので現在のやうなこととならざるを得ぬ。

 

どだい其の戦艦武蔵戦艦大和は世界壱強い戦艦であるにも関わらず軍部の意思決定が✖なので其れを正しく使えずさうしてやられて仕舞った訳だ。

🗾人などもまたさうして世界壱頭が良いにも関わらず組織のトップの意思決定が大抵は✖なのでやがて沈没させられる可能性が實は可成に高くある。

 

自分が最終的に言いたいこととは組織として「デカいもの、力のあるものを盲目的に信じてはならぬ」とのことである。

だからアノコイズミやアベがやりたい放題して居るのにキャアー、コイズミさーんだとかキャアアー、アベさーんなどと其れに摺り寄る奴はすでに全體主義に頭がスッカリ洗脳されたもはや「人間では無い」者である。

 

逆にワシなんぞは「デカいもの、力のあるものを徹底的に叩く」との癖がありつまりは徹底されし反権威であり反権力であり反體制主義者である。

だからそんなヒエラルキー體制であり文明は前近代迄はむしろ上手く機能したが現代ではすでに無理である。

 

そんなヒエラルキー體制であり文明は今後民を守るどころか其の生活基盤を破壊するに至る可能性などもまた高くあらう。

其れは無論のことプーチン體制や習 近平體制もまた同様なのである。

 

むしろ其のプーチン體制や習 近平體制こそが我我庶民の生活を破壊するに至る可能性は相当に高い。

またつまりは其れが「社會の限界」としての「國」其のものが抱える大問題なのだ。

 

他方でバイデン體制とキシダ體制などもまた我我庶民の生活を破壊するに至る可能性が相当に高い。

 

兎に角全體主義とはさうして「デカい価値の場」に巣食うであらう「惡夢」でありまさに「破壊」としての場なのである。

 

 

【世界はなぜ地獄になるのか】誹謗中傷が渦巻く「大衆の狂気」の時代 平穏な人生を送るにはどうすればよいか (msn.com)

 

さて其の「大衆の狂気」は無論のこと大衆自身には自覚されません。

自分は半分文人でありつまりはインテリですが後の半分は其の大衆でありズバリ「洗脳者」だとさう思うことにして居る。

 

と云うことは其の「価値に於ける洗脳」を自覚して居る訳でありむしろ其れとこそ闘う訳ですので矢張り理性としての側の人間なのでせう。

 

リベラル化=合理化

 

ーすべての個人を同じ基準で一律に評価するー=リベラル主義=普遍的価値判断=普遍的合理化

 

しかしながら社會的価値を合理化し過ぎて行くとむしろ「破壊」が生じます。

其処にて何が壊れるかと言えばつまりは其の「普遍的価値」への不適合者が切り捨てられて行く。

 

ところが「社會」と云うものは元元「能力の有る者」もまた「能力の無い者」も壱緒になりつまりは「能力の無い者」が社會を下支えすることにより成り立って行くものだ。

其のことをかっての封建制社會は確かに担って來た。

 

ところが「社會の合理化」はむしろそんな社會に取っての健全なシステムを否定し「能力の有る者」だけが勝ち残りあらゆる賞賛と對価とを独り占めするに至る。

ーさうして大谷氏は年に100億位を稼ぐが貧乏バイトは年に百萬も稼げやしないー

 

其れは元元米國流の合理化の流れであり壱言で評せばまさに其れは「血も涙も無い」人間の能力や人間の価値の数値化社會の構築である。

つまりはさうした考え方により他方では勝ち組として必要以上に賞賛され逆に負け組ともなれば年に百萬しか貰えぬこととなる。

 

 

だがソコでもってよーく考えてみやう。

 

例えば自分にはかって伯父が居たが其の伯父は酷く稼ぎの惡い人で無論のこと世間の評判は芳しく無かった。

ところが何せ善人でありつまりは良い人なのである。

 

其の伯父には娘が参人も居て其れが自分の従姉となるが物凄く其の親父を恥ずかしがっても居た。

 

其の伯父が道端でションベンなどもまたする訳でー昭和三十年代後半にはさうして道端でションベンをするオッサンは普通に居たものだったーまた日雇いの仕事を少しする位なので其の親類の家は常に火の車であり故に伯母さんは常に内職仕事をやって居たものだった。

 

そんな従姉は父の口利きで市役所の職員となりまた素晴らしく仕事の出来る良い旦那を見つけ長男を何と日本航空パイロットに仕立て上げた。

 

だが自分が思い出すのはむしろ其の如何にも飄飄とした伯父の生き方の方である。

いつも「ほいほーい」とか言いながらにこやかに其の伯父は現れ家ー本屋ーの庭の草むしりを主にするのである。

 

そんなまさに「ロクでも無いやうな父ちゃん」が昭和の時代迄はまた何処にでも居てそんな金は無いが穏やかな伯父などはまだ良い方で其れこそ「飲む」は「打つ」は「買う」はに兎に角熱心な父ちゃんなどもまた当時はザラに居たのである。

 

またそんなヤクザな父ちゃん達は屡妻を殴ったりもして居たものだった。

 

そんでもさうしてちゃんと社會は回って行けたものだった。

其れは要するに昭和と云う時代其のものが今程には合理化されて居らなんだからなのだ。ー但し明治や大正に比べれば合理化されて居たのであらうがー

 

さて個人的には其の「👩の忍耐」との部分が今や完全に放棄されむしろ逆転されて居るやうに思うのだ。

逆に今は「👨の忍耐」が強いられる時代となったかのやうである。

 

さてわたくしは「👩には厳しく接する」ことが多い。

其れは何故か?

 

 

其の「👩に取っての自由」を野放しにすれば其れでもって即人類は破滅するに至るからなのだ。

また其のことを「パンドーラーの罠」だとさう述べて來て居る。

 

従ってわたくしは所謂「リベラル」派だとは言い難い。

されど其の「リベラル」派的な合理的側面をもこと思考の上では常に保って居る。

 

さて、

 

自由⇔不自由

 

とのことであるが其処で正解としての認識を示せば、まさに其処には完全な自由もまた完全な不自由も無いのである。ー自由の不自由と不自由の自由とが其処には常に有るが故にー

 

有能⇔無能

 

此の場合にもまた完全な有能もまた完全な無能も無い。

 

さらに言えば、

 

🚹⇔🚺

 

に関しても完全な男性もまた完全な女性も居らん。

感覚的には互いに其れを含み合う部分があり所謂オカマやオナベの人は其の比率が著しくなって居るだけのことなのだ。

 

また自分はオカマ的な人間ではまるで無くむしろ彼藤岡 弘的な古風な男性観を好む人なのであるが♀の気持ちなどは人間であれ動物であれ大概の場合は分かる。

 

さてさうして何を申したいのかと言えばむしろ「社會の合理化」=「社會の数値化、条件化」により「破壊」されるに至る領域が「自然」ばかりか「人的領域」へも出て來ることへの危惧である。

 

で其の侭に其れを思想として規定すれば其れは反リベラル主義での保守思想其のものとなる。

ところが保守思想の方がむしろ間違えて居て逆に「合理化」する方が良い領域などもまた有るのである。

 

 

右翼バカ⇔左翼バカ

保守思想⇔リベラル思想

 

現實的にはあくまでさうなって居るものと思われる。

従って其の場合にもまた、

 

完全な右翼思想もまた完全な左翼思想も無い。

またつまりは完全な保守思想も完全なリベラル思想も無い訳だ。

 

従って其の寄って立つ思想的立場其のものが常に左様に弐元分離ー其れも場合に寄り四元分離ーする。

なのでまさに壱義的に思想的立場を表明し逆方向の立場を貶し続けることなどはこと哲學的には全くの誤謬となる。

 

但し政治的に左派が与党政権をまさに何処迄をも貶し続けて行くのは間違いでは無くむしろ正解なのだ。

ところが往往にして其れでは解決が付かなくなるが故にかうして哲學化し考えて行くことが是非必要となる。

 

そんな風に元來此の世には「絶對的な解としての思想的立場」がそも「無い」のである。

其れを「有る」かのやうに勘違いをしつつー洗脳されつつーどうだかうだと言いつつやって居るのがまさに此の世の様としての實相なのだ。

 

 

また現代文明の奉ずる「普遍的価値」にも逆に疑問を突き付けてみるべきだ。

 

普遍的価値=近代的価値⇔非普遍的価値=前近代的価値

 

其の左側が成立するのはまさに其のリベラル思想に染め上げられし先進國のオフィス街のビルの中だけのことでありそんなものはつまるところ其の特殊的価値=前近代的価値を主に履行することだらう発展途上國や自然界などにはまるで通用しない。

また英國の田舎生活での田舎主義などにも通用しない可能性が高いことだらう。

 

さらに此処日本でも物凄く田舎臭い場などには其れがまるで通用しない可能性が高いことだらう。

 

でもって其れでは何故ネットの住人などが反對の思想的立場や行動をしつこく批判するのかと言えば其れは彼自身が「価値に於ける洗脳」を受けて御座る可能性が高くあるからなのだ。

 

ではアナタが自民党なり日銀なりを批判して居られるのももしや其れなのではないのか?

いや其れはまるで違って居てあくまで自分の場合は「全體主義の履行者としての自民党及び🗾銀行」を全否定して居るだけのことですね。

 

ですがたとえばアナタの言い分は🗾共産党の言い分とまさにソックリですよ。

いえだから🗾共産党が絶對に正しいとは言えずまたプーチン氏やアノデブの彼などが正しいともまた言えません。

 

其のプーチン氏は兎に角過激ですがもしや彼は地球を破壊に導くのですか?

うーん、すでにプーチン氏を止められるのは人間には無理で要するに👽の方方だけだらう。

 

もしや其のプーチン氏は「左翼バカ」なので?

いや其の「左翼バカ」はアノバイデン氏の方がまさにそんな感じですね。

 

ではキシダは広島産のもしや「右翼バカ」なので?

うーん、個人的には彼に是非「文太」化して欲しいところですがどうも👪主義のボケ野郎みたいなのです。

 

 

左様にまず批判すべきなのは権力であり體制なんです。

ところが「正義のネット民」はむしろ弱い立場の人を叩くのでせう。ー尤も其れも良くは知らないがー

 

 

1.現代社會のあり方はあくまで惡い

2.ハードルを下げる

3.認識を變えるー現代的価値への洗脳を解くー

 

いずれにせよ其の2.の部分には所謂「子宮思考」への自分の批判の部分がまた込められて居ます。

先にも御話をしましたが「能の無い父ちゃん」を嫌った従姉ー拾歳程上ーは息子をパイロット=エリートにまで仕立て上げた。

 

其れは確かに「上昇志向」が生んだところでの価値でありある面では揺るがぬ価値なのだらう。ー尤もコロナ惨禍でもって彼がどうなったのかは知りませんがー

なのですがあくまで自分には其の「能無しの伯父」こそが心根の優しい人であったやうに思えてならぬのです。

 

其の後自分もまた社會生活の中で様様なキャラクターに出逢った訳ですがそんな人を直に見たのはもう其の時ー小学生の頃ー限りであり逆に其の「のほほん」とした其の笑みの中に「人間らしい何か」を感じて仕舞わずには居られません、其れも其の頃よりすでに半世紀が経過したと云うのに。

 

またさうして「ハードルを下げ」たにせよ我我人間は普通に生きて行けたことこそがむしろ「社會の余裕」のやうなものであった気がどうしてもする。

逆にドンドン「ハードルを上げ」続けまたドンドン生きる意味での条件を謂わば合理化しつつある現代社會こそがむしろ「余裕の無い狂った社會」であるやうにわたくしには思えてならない。ー米國流のリベラル社會がまさに其れに当たるー

 

さて其の3.の部分は「自ら御勉強すること」でもってあくまで其の「洗脳状態」を脱するのです。

「自ら御勉強すること」とは此処でもって此れ迄にわたくし自身が書き記して來たこと其のものです。

 

兎に角常に理性的に問題に食い下がり逃げぬこと。

かうして文明が抱える大問題や🗾の不安な将來や「もう死んだ方がマシだ」と云う気持ちなどと何処までも闘い続けること。

 

さらに申せば其処からは決して逃げてはならぬ訳であり逆に「資本の論理」だの「合理化」だの何だのかんだのつまりはそんな社會的な価値からはむしろ逃げられるだけ逃げて置けば良いんです。

 

 

「リベラル化」の潮流が若者を絶望に追い込み、「無理ゲー社会」を生んでいる | マネーポストWEB (moneypost.jp

 

橘玲 - Wikipedia

 

尚此の方は兎に角なかなかの作家さんであるやうです、まさに同い年の方ですが。

 

 

さて戦前の超インテリ氏などはまさに「思想的」に闘い挙句の果てに「煩悶」し高い滝の上から飛び降りたりもまたした訳です。

ですが今やさう云うのとは違いまさに社會的な意味での「絶望」の度が色濃く中間層以下の層を覆って居る。

 

ですが其の中間層以下の層を大量発生させたのはまさに自民党による人的合理化による失策でせう。

ところが大衆はむしろ「キャアーコイズミー!」とか当時は言って居りました。

 

自分も当時は其の「新自由主義」による「人的合理化」のカラクリを見破られず兎に角自民党の抱える本質的なヤバさにハタと気付いたのがまだ参年程前のことです。

元元自民党は嫌いでしたのですがまさか此処迄此の政党が腐り切って居たとはまさか思いませんでした。

 

ですがイザ其のカラクリを見抜いてからはもはや何があってもオカシクは無い位に思っておったのです。

故に彼アベがイキナリ天誅にてやられましたが實は全く驚かず「嗚呼ヤッパリ罰が下ったな」位に思って居りました。

 

尤も其れ以前に「コロナ禍」により社會の機能が麻痺しつつありそんな折にはむしろ「社會の余裕」の部分が力を発揮する筈ですのに自公政権は結局其れをやれずに逆に金持ちだけがヌクヌクと相も變わらずに生き延びて來し感じでせう。

 

つまりは何処にも「社會の余裕」がネエー無いーんです。

其のアノアホのコイズミやアノバカのアベなどにより🗾と云う封建體制へ米國流のむしろ最先端の合理化を施して來しツケが全部ソコへと回り込み「社會の余裕」もクソもまるでネエー無いーんです。

 

 

4.現代社會のあり方はあくまで惡い

5.世間軸では無く自分軸で生きる

6.樂しいものを追求し生きる

 

そんな社會ではむしろ「社會が惡い」とさう見て置くべきことかと思う。

何故なら實際に其の「社會が惡い」ので。

 

ところが其の「社會が惡い」のと何処迄も付き合って行くともはや「絶望感」しか抱けぬこととなりがちだ。

いや實際に其の「絶望感」しか無いのですが其れでも皆様はかうして毎日屁をコキながら生きて居ます。

 

詩人もまた別に威張る訳でも無くさうして壱庶民として毎日屁をコキながら生きて居ます。

其の様やまさに「健気」と云うものでせう。

 

 

其の「健気」なみんなに實は朗報がある。

まさに其れが「自分軸」にて生き抜いて行くことです。

 

「世間軸」で生きてそんなに生き辛いのは其れは「社會が惡い」のであり且つ社會が「ロクデナシ」なんです。

故に「能無し」が「ロクデナシ」なのでは無く其の「能無し」を生かして行けぬ「ロクデナシ」の社會の方がもう何百倍も「罪」が重いのです。

 

つまりはそんな「ロクデナシ」社會なんでありであるからこそそも生き辛いのは当たり前のことだ。

だったらどうしてやるかですがそんな「ロクデナシ」社會は此の際是非見捨ててやって下され。

 

でもって後はもう自分に取り樂しいことダケをやって行きませう。

其の樂しいことダケをやって行くとなるとまた小さな罰が当たる可能性が80パーセント位はありますがいいじゃないですか、もう其れでもって。

 

其れも滝から飛び降りたりまた壱家心中するよりも遥かに其の方が良くはないか。

 

まさに此の世はそんな樂しいところであっても良い筈です。

但しわたくしの言う享樂とは酒や👩遊びやまたギャンブルや薬浸けなどを離れたところでの即ち知的な意味での愉樂ー愉悦ー世界のことだ。

 

さてわたくしは此の秋より此処にてまさにそんな場をスタートしてみたい気分でもってすでに壱杯です。

其れは「精神的に苦悩」する場其のものでは無く「精神的に苦悩」する場其のものを忘れんが為に自分でもって「価値」を創り上げんが為の場のことだ。

 

言わば其れこそが「創造的な自我」が語るところでの「藝術」の場其のものであり眞の意味での此の世に於ける「価値」の場なのだ。