目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「反自然」としての「意識の反逆」

さて部屋の掃除を進めるにつけつくづく思うのですが、我我は資本主義と云う消費システムの中にドップリと浸け込まれて居てむしろどんだけ要らぬ物に囲まれて生きて居たかと云う其の事實に於いてまずは驚かされる訳だ。


特に我が家は断捨離の頻度がむしろ低い家ですのでもう要らぬゴミだらけになって居り其処はまさかゴミ屋敷と云う程でも無いのだが元来潔癖な筈の我にとっては其れがまさに地獄としての様相を呈しておる訳だ。

で、結局は潔癖な性格の人に其の合理化としての仕事が回って来るやうにさえ出来ておる。


結局宗教のことなどにせよ私がさうした人間だからこそ此処でかうして其れを書く羽目となって居るのです。

 

尚以前病院の同僚と話して居た時にー四國出身の方とーたまたまそんな掃除の話が出て、其の折に「掃除をしない👩が居る」と云う話となり普通は其れがまさかとも思う訳ですが實は家の母がまさにさうなので其処はどうなんだとお尋ねしましたところ、其の方は「むしろダラダラなのは👩に多い」とさう申されても居りました。


其の方の話は實に面白く色んな話を聞いたものでしたが、中でも一番面白かったのがアノプロゴルファーの尾崎 建夫と同じ高校の出だったとかで、当時四國の練習場で球を打つのを見たが其れが凄過ぎてついには打球が見えなくなったとかそんなことを話されて居りましたものです。


尚我の場合は實は性格的に二元分裂して居りましてつまりはダラダラなのと超潔癖なのが相剋し且つ相即すると云う實にややこしい精神の構造を持ちどちらか一方には決めかねぬところなのですが基本的には矢張り女中上がりだった父方の祖母の血を引いて居りむしろビシバシに潔癖なのです。


潔癖な人は世の不正やら矛盾やらにも概ね潔癖に反応し要するに其れが許せなくなるものなので私はむしろ其処から自分自身を救う為に無視を決め込むことと致しました。

だからTVなどでもワイドショーやニュースの類などはもはやほとんど視て居りません。


今屡視て居るものと言えばEテレのみです。

特に高校講座などは最も樂しく視て居られるもので、其れから矢張りと言うべきか「心の時代」だの「百分de名著」等は視て居て至極面白いのです。


ちなみに私はお笑い番組とか視て居ても何が面白いのやらまるで分からぬので所謂吉本流では無いのですが面白いと言えば實は私の話程面白いものは此の世には無い。ー其れも吉本流では無いボケの持ち主でもってしてー

 

其処で高校講座の「生物」を視て居りましたところ丁度植物の窒素固定のところをやって居り改めて植物型生命の凄さに就き思いを馳せたりも致しました。

さらにEテレではガーデニングの番組等もやって居りさうした番組を視て居る方が殺伐とした内容のニュース番組等よりも余程に心が休まるが故にいつの間にか其れのファンとなって仕舞いました。


また「日曜美術館」だの「CLASSIC TV」だの良い番組が目白押しで嗚呼まさにEテレは僕の為にこそあるのだね。

たとえ老いても御勉強が大好きなボクと云うインテリジェンスの為にこそあるのだね。


などとも思い兎に角喜んで毎回其れ等を視て居ります。


アレッ?此の廿年余りTVはほとんど視なかった筈なのに其れを視るやうになったの?

其れも此処弐、参年は。

 

TVはな、還暦を過ぎてから視ると丁度程良いものなのだ。

だってネットはネットでまさに情報過多で結構鬱陶しいものではないか。


ネットは善も悪も正も誤も追求し放題で實際何処までをも行けてしまうものだらう。

だから次第に其れが鬱陶しくもなるのだ。


さうしてEテレと新書があればもう何も要らねえんだよ。

でもかうしてネットもやってるじゃないか。


まあね、主に大學の論文の検索とアマゾンとヤフオクだけなのだが。

ネットをやり過ぎるとむしろバカになるから要らねえと言えば要らねえのだがかうして現代社會がじぶんをおバカ化して居る分其処はどうしやうも無いのさ。

 

さて掃除の話に戻りますと其の掃除と云う無秩序な状態から秩序ある状態つまり汚い状態から綺麗な状態へと変えて行くことこそが合理化と云うことです。


だから理性の無い動物等に掃除は出来ぬかと云えばむしろさうでも無いやうです。

例えば鳥は巣を作りしかも其れを綺麗に保つことだらう。

また概ね🐈は潔癖でウンコをした後で其れに砂や土をかけ隠そうとさえします。


と云うことは其れは理性が無いのでは無く謂わば其の理性の顕在度が低い状態にあるのです。

また植物などは其の理性が冥落して居り最も顕在度が低い状態に保たれて居る。


ですが共に所謂エントロピーの上ではむしろ秩序化された状態にこそある。


他方で石だの土だの所謂無機物には意識は無く無秩序的に其処に放置されて居ます。

但し石や土其れ自体の形成に関してはむしろ思い切り秩序化されても居ることだらう。


即ち、


エントロピー小⇔エントロピー


且つ、


エントロピー小→エントロピー


のやうな関係がどうも同時に其処には成り立って居るのではないか。


生命とは結局は其の無秩序に抗する秩序化の流れでせう。


だから元々生命とは合理化されたものなのだと思う。

但し其れが数的還元され得るものであるとは思えない。


其のやうに機械論的に規定出来ぬダイナミズムのやうなものを其れは宿して居るからだ。

 

ちなみに私は高校の頃必修活動として「生物クラブ」を選んで居りました。

其処でもって「生物の再生」と云うテーマを掲げ他の美術部の二人と共にプラナリアの再生能力に就いて調べたりもして居た。


ですが美術部の感性野郎二人と文學馬鹿野郎の私だけのクラブ活動ですので兎に角数式だの化学式だのがまるで分からぬ訳だ。

美術部の数学が出来ないのもまた酷いもので結局彼等は数学のテストでは廿点くらいでしたが私の場合はもっと凄く七、八点が最高点なのです。


また私は中学時代に必修活動として「地学クラブ」に入り主に地層だの石などを研究して居りました。

要するに私は理系其れも地球だの生命だのが嫌いでは無い。


ですが正直文學の方がずっと上だと思って居りますのですし、またこんな際限無き科学技術の発展よりは宗教的自我を確立させることの方がずっと大事だとも思って居りますのです。

 

問題は其の秩序化の流れー生命としての進化の流れーがより意識化される方向で流れて来て居ると云う事實でせう。

つまりはより顕在化される形で意識的な流れ即ち抽象化の傾向が増して来て居る。


其れは、勿論、


植物→動物と云う進化の流れに於いてもさうなのですし、


また、


旧石器時代新石器時代→農耕牧畜文明→産業革命→情報化社會


との流れに於いてもまさにさうなのです。


即ち、


「生命現象とは意識を顕在化させて行く進化の流れの内にこそある」


とも言い得るのではなからうか。


いやあまた凄いことを発見しちゃったな。

其の意識を顕在化させて行く流れとは明らかに合理化過程にあることだらう。


すると、其れは、


エントロピー大→エントロピー


と云うまさに自然の秩序状態とは逆向きの流れを有するものなのだ。


であれば、生命とは「反自然」としての謂わば「意識の反逆」とも言い得ることなのだ。

 

其処を分かり易く言い換えれば、植物、まさに此の生命の状態であればまさか「反自然」でも無く且つ「意識の反逆」でも有り得ぬ訳だ。

ところが動物となりウンコをたれるやうになり、のみならず♀にも飛び付くわ、しかも孫は可愛がるわでもうまんま自己利益の権化つまりは利己主義の典型と化しやがては肥溜めをもつくるやうにさえなった。


そも其れは何でか?

だから其れが「反自然」としての「意識の反逆」を行わんが為にです。


實際に今文明では「消臭、消臭!」と其ればかりをTVのコマーシャルでやって居りませう。

全くバカかと思いますのですが逆に申せば其れを支持するバカ大衆が居るからこそあくまで社會的にはさう規定されて行かざるを得ぬ訳だ。


さてお気づきでせうか?

私がウンコたれただの、また肥溜めが懐かしいだのとそんな下ネタばかりを好んで連発して居るのはそんな社會的に規定される価値への強烈な反発なのだ。


あえて其れを難しく申せば「反自然」としての「意識の反逆」への痛烈なる批判其のもののことです。


さて其の意識の流れとは時間の経過を認識する能力のことだらう。

要するにあくまで抽象的に規定される能力だと云うことだ。


其の能力こそがまさに、


エントロピー大→エントロピー


と云う願望ー欲望ーをこそ生み出すのです。

 


ですが本来ならば自然は、


秩序化→無秩序化


と云う流れの内に運行されて居る筈。


其処を、

無秩序化→秩序化


と云う流れに変えて仕舞うことこそが生命の目的であるのだとすればもうコレはエライことともなりませう。


何故なら、


無秩序化→秩序化⇔秩序化→無秩序化


とのことで、要するに生命は次第に反自然的な存在となって行かざるを得なくなる訳だ。


さうか、ヤッパリね。

ヤッパリ生命は其の根の部分が「悪」だったのだな。


「悪」だったのだが、例えば植物の場合には意識が眠って居る訳ですので其の「反自然」としての「意識の反逆」が目立つと云う訳では元より無い。

またおバカな動物達もまた其の点では救われて居り要するに其の理性の力が顕在化して居ないが故に「悪」をやる力には元々欠けて居たのである。


其処を逆に申せば人間存在、まさに其の段階に於いて初めて生命は理性の灯を点すことに成功した訳だ。


だから其れは偉いと言えば偉い。

なのですが、悪いと言えば明らかに悪い。


つまりは理性を最大限に発揮させることで一歩間違えば悪其のものとなり得るリスクを同時に抱え込んだのだ。

 

さてもまた懲りずに人間を地獄へと突き落したな!

うわおー、ぎゃあおー、苦しい、とっても苦しいぞ、是非もう止めて下され!


ダメだ、むしろもっともっと突き落としたる。

何故ならアノ善なるハンサングンを殺した大悪人チェサングンなどは崖から落ちてたった今死ぬるべきだからなのだ!

 

じゃあ其の理性こそがそも悪だとさう仰るので?

まあ本質的には多分さうなのだらう。


然し其の「反自然」としての「意識の反逆」を抑制することが可能であるのもまた理性としての力なのだらう。

とどのつまりは其の理性の力を止めるのは理性の力によるものでしか無い訳だ。


なのでむしろウンコは垂れ流しても良いのだ。

またむしろどんな汚部屋でも良いのだ。


またどんなにパンツや靴下が臭からうがまさに其れが自然であることの証拠なのだ。

 

まさかそんなもん我慢がならんわ!

だから其の「我慢がならん」部分こそが文明による病気の部分だ。


ほれ、コレが其のパンツだ、ガマンせい。


うわあー、こんなもんガマンする位ならもう死んだ方がマシだよ。

 

偉い!

良くぞ申した。


君は實際物凄く潔癖な人だね。

だが潔癖なのは其の掃除だけにして置く方が良いことだらう。


何故なら我我生命の本質とは所詮は「悪」なのだからな、わあ―はっはっはっは―のはー。


要するに其の秩序化=合理化の流れにこそ落とし穴が開いて居る訳だ。

其れもまさにひとつきりの深くて暗い穴が。

 

其の無秩序であること、意識的では決して無いことにも大きな意味がある。

だから我我は其れを決して劣って居るとか、また自らよりも下だとか思い蔑んだりしてはならない。


逆に申せば其の「悪」の現象としての我我に理解されることとは一体何が「善」であり得るかと云うことのみだ。

但し其れは己の悪を自覚した時のみに限られやう。


それにつけても人間は偉いぞ、かうして何でも出来たぞ。

頭も良いぞ、其れに恰好良いぞ、兎に角イケてるぞ。

 

コノタワケ者めが!


おまえらヤッパリ一度位肥溜めにでも落ちてみよ。

では此の際ひとつだけ述べて置かう。


馬鹿はな、其の理性としての悪ー理性としての暗黒面ーの性質に決まって酔い痴れるものだ。

対して利口はな、自らの悪を自覚しむしろ自制して行くものだ。


要するに其れこそが眞の意味での理性の働きなのだ。

では文明には理性が何処にも無いとさう仰いますのですか?

 

…さうだ、何処にも無い。


むしろ其れはな、釈迦とキリストとカントと僕の頭の中にだけあるのみだ。


生命とは其の無秩序化への反逆過程其のもののこと。

故に生命体は代謝により生を其の都度再構築して居る。


其れはまさに破壊と創造を繰り返す神の御業の内にあることなのだ。

だが其れでは本質的な救済は無いが故に逆に釈尊は生命活動の停止を人間の究極としての目標となされたのだ。


まさに、


生命活動の停止=悪の終焉


なのであらう。

 

だがキリスト教の考え方はまた其れとは違う。


然しキリスト教は例えば現世其れ自体を👿の誘惑だと捉えても居る。

で、生命活動が停止してから審判を受け神の國へと生まれ直すのが善人としての宿命である。


カントの考え方はまた其れとも違い、理性の及ぶ範囲には限界があるとして其れを説いた。

つまりは理性の暗黒面をまさに彼は知って居たのである。


いずれの思想でも理性を其の侭に良いものであるとは誰も捉えては居ない。

 

其の点でこそ其れ等の考え方こそは正しい。

よって理性を神の如くに信奉するなど其れはまさに愚の骨頂だ。


人間よ文明よ、其の馬鹿にだけはならぬやうに是非して頂きたいものだ。

何故なら其の馬鹿を続けるだけで悪が履行され世界は滅びの淵へと追い込まれることは必定なのだからこそ。