さて、一体此の世の中の何が悪いのだらうと云うことをかねてより私は考えて来て居ます。
尤も其処での考え方には弐種がある訳だ。
社會⇔個
の両方が悪いとする考え方がおそらくは最善であり、其の逆にどちらも良いと捉える考え方こそがむしろ最悪でせう。
ところが實際には其の弐項対立価値に於いて相剋し且つ相即する関係が存するが故にまさに相対的に価値規定されるより他は無く分離した要素同士が切り離せなくなって居る。
たとえば、
理性⇔獣性と云う対立軸で言えば其れは決して純粋には切り離せない訳である。
なので科学的思考こそがまさに理性であり其れ即ち正でケモノの思考は理性以前のもので其れ即ち誤であるとは言い切れぬ訳です。
勿論部分的にはグオーギャオーでもってしかもウンコたれなケモノ共はもう其の侭で獣なのですが、其れこそ次元の違う形にて人間共は余計にケモノでありむしろ獣としての度合いは我我人間の方が酷かったと云うところこそが實相なのやもしれません。
其のやうにして私の論理では其の人間の認識に於ける根本のところでの錯誤なり過誤なりを放置した侭でイケイケドンドンにしちゃってる訳ですからもはや其れは獣共が見境い無く野山を駆け巡り揚句に深い落とし穴だの穴だの肥溜めに落ちるのと同じで要するに全ては自明のことであり其の災難に対して誰も同情しては呉れないと云うことのみを此の際申し上げて置きませう。
だから其のウンコを垂れること自体が問題なのでは無く其のウンコたれ以上に害毒を撒き散らし見境いが無いことを私は馬鹿だとさう申して来て居ります。
尚社會のあり方其のものが悪いと結局個も其れに引き摺られ心根が悪くもなりませう。
其の悪いと云うのは知識はあるのだが心が汚れて居ると云う意味で悪いのです。
ではどうすれば心の穢れを取り除くことが出来るのだらうか?
ひとつには矢張りと云うべきか宗教的自我に生きることでせうが、但し現代は恐ろしい時代で其の宗教でさえもが色々と屈折して仕舞って居ます。
最近私が考えて居ることは矢張り自然に親しむことで抽象的価値からあえて離れ自らの心なり感度なりを具象的に解放してあげることです。
其れは宗教が悪いと云うことなのでは無く宗教だけですと社會的に齎される抽象的価値に引き摺られて仕舞う部分がどうしてもあると云うことをこそ申して居る。
其れも個人的な序列ですと、其れこそ1.自然2.宗教3.社會と云うやうなもので従って私はもはや社會的な評価だの社會的な価値などにはまるで振り回されて居りません。
正直なところもはやどーにでもなれと突き放した視点にて社會其れ自体を見詰めて居る。
社會的な価値は範囲が大きくなればなるだけどーにもならんようになって行くものですので其れに対し實存としての価値ー理想ーを投影しない方がより自己實現の機会は増すと云うものです。
要するに眞に知的な方ならば其の社會に合わせて居るやうなフリだけをし本心ではむしろ其れをバカにして居ると云うたとえシニカルではあれ其れが昔からのインテリのひとつの生きる道なのでも御座りませう。
さう云うのを「無視」と申しまして、其の無視が昂じるとかの竹林の七賢だの老荘思想だの何だのに近寄って行きまするが其れは利口なアナタが此の世でもって必ずや通らねばならなかった道であり別に其れは其れで良い訳で要するに社會は罵倒して置く位で丁度良い訳です。
何故かと申しますと集団でやることは結局ロクなことにはならぬものと昔から相場は決まって居てだからまずは其の集団心理による見境無きシンポの様をこそ止めて置く必要があるのです。
でも最近は誰しもがさう思って居るのに文明は何かをやることに対して止められない即ち歯止めが効かぬのです。
其れはいつしか文明其のものが抽象化された価値にのみ邁進するやうになりしかも其の意思決定のプロセスに於いては「止める」と云う選択がそも無いので止めるに止められないのです。
さうです、我我はすでに何事も止められ無いのです。
其の止められぬ病こそが社會的に文明が今まさに抱えることだらう不治の病のことだ。
やる⇔やらぬ
實は自然界でのことの方がやらぬことの選択は可能であるやうにさえ思う。
対して近代的価値は不可逆、不遡及での進歩概念を打ち立てそも其れが選択不可能な一方通行での価値なのでまさに病的なものなのだ。
とは言え、一般に理性的では無い自然界の獣共はむしろやる方にばかり傾き食って寝てウンコをたれ挙句に♀に飛び付きやりたい放題をもして居ます。
但し重要な点は彼等が所謂自然界の摂理、大自然の摂理のやうなものに常に縛られ其れ以上はそもやらうとしても出来ぬ点なのだ。
其れは獣共には所詮文明を形つくることなどは出来ぬと云うことだ。
ですが彼等は目一杯にさうして獣性を発揮致しますが其れでもって地球を汚したり破壊したりすることは無い。
だが人間の理性のみ、唯一其れのみが其れをやったと云うことなのだ。
其れは何より罪深いことであり且つ煩悩に深く捉えられし様のことです。
其の理性による自己矛盾の様即ち暴走の様を人文理性の面から捉え直し考えて行く場こそが即ちこちらなのです。
さて此処でひとつ植物型生命の立場でもって文明世界の価値を捉え直してみませう。
やる⇔やらぬ
植物もまた生物なので何もやらずに居る訳では無くやるにはやって居ます。
ですが其れをほとんど無意識のうちにさうして居る。
故に植物に於いても純粋なー単独としてのーやらぬことは成り立たぬ訳ですが比較して仕舞えば動物などよりは遥かにやっては居りません。
逆に申せばさうした一種の冥落した意識に於いて彼等はさうした一種の理想郷の様を實現して居る訳だ。
其れに彼等は獣ー人間をも含めてーのやうに何かを食うことをしません。-一部の植物を除いては-
要するに彼等はむしろ初めから「やらぬ」生命達なのだ。
其のやうに自然として規定された分限を生きて居ると云うことだ。
だとすればむしろ神や佛に一番近い生命であるのは植物の方なのやもしれません。
で、彼等はやって無いにも関わらずかうして繁栄して居ます。
其れも元々酸素は生命にとり猛毒物質だった訳ですがむしろ其れを吐き出すやうになってさえ居る。
其処でもってよーく考えて見ればすぐに分かりますが我我にとって不要な二酸化炭素が彼等のエサで逆に我我のエサとなる酸素を彼等は供給して居る訳だ。
動物⇔植物
なる程、かうして生命もまずは大枠にて二元分離して居る訳だ。
しかもソコにも相剋し相即する関係が成り立って居るやうに見受けられる。
無関係では無いのだがでも違う。
👨⇔👩
コレも無関係では無いのだがでも違う。
利口⇔馬鹿
確かに無関係では無いのだがでも違う。
問題は二元的価値規定は本質的には価値を一元化出来ぬと云う部分である。
論理⇔感情
なども勿論さう。
無関係では無いのだが明らかに違う。
私の論理とはどちらかを突き詰めたらバランスが崩れるので其の場合には反対方向の価値をトコトン見詰めてみるべきだと云うものである。
其れを本質的に価値統一するのでは無くーそも其れが人間には無理なことなのでー一方をやったら必ずや暴走するーバランスを失い失墜するーので相剋し且つ相即する関係性を取り戻す為にむしろ逆方向を見詰めて行くと云うものである。
だから、
動物⇔植物
と云う其の生命のタイプに就いても理性が自己矛盾しむしろ獣方向へと突っ走って居る事だらう文明社會に於ける諸価値に対し其の植物の性質のやうなものを与えて行くこと。
社會其れ自体が意思決定のみで進むのでは無く無意識的な自己規制としての植物的要素を是非取り入れて行くべきなのだ。
無意識的な自己規制の要素を是非取り入れて行くことに必要なのは毎日會社へ通い儲けたりまた毎日家事労働に勤しみ今日もまた頑張りました。
と云うことよりもむしろ頑張らんで済む価値をシステムとして確立すると云うことだらう。
また知らんぷりで居ることの価値を要するに文明を無視して置く価値を。
まさに其れを個の範囲にて意図的に行って行くべきだらう。
何を言って居られるのだかまるで分かりませんが…。
分からずとも良い。
やる⇔やらぬ
当たり前のことではあるがやり過ぎると壊れるがやらぬとじぶんが損をするだけで終わりませう。
金輪際損などしたくは無い。
だからまさにソコが君が洗脳を受けて居る部分なのだ。
生に於ける価値は元々多様なもので一元化などそも出来ぬものだ。
其の一元化は宗教が目指すところでの価値とならうが其れは「分離を前提」としたところでの非現世的な救済であるべき。
さうして現世利益を求めることや文明による価値を一元的に奉ずることは正教としての宗教のあり方にはむしろ背くことである。
いずれにせよ何でもやり過ぎると破壊が生じる。
老子による小さくつましい社會体制を始めまた空想的社會主義であれ何にせよつまりはやり過ぎぬ価値即ち理性的に抑制の効いた社會のあり方をこそ規定するものであった。
もしや、もしや我我はすでにやり過ぎちゃったので?
さうだ、君等はすでにもう長くやり過ぎて来ちゃったのだ。
じゃあ一体全体どーすれば良いので?
バカ、其れ位はじぶん等でもって考えよ。
第一植物を見よ、其の植物をこそ。
其れも全部が緑色でしかも動かずですので至極退屈なのですが…。
さうだらうな、もはや君の眼には其のやうにしか見えて居ないのだ。
其の根性其のものがいや認識其のものが誤謬だ錯誤だ変態だ異常だ。
では人類とはもしや何かの間違いなのですか?
勿論此の侭突き進めば其の全てが間違いとなって仕舞う可能性は高くあらう。
であるからこそ其の植物から學ばせて頂かずしてどうする?
文明での価値は諸価値が二元分離であることを忘れ只一元的に突き進む。
まさに其処こそが誤りであり錯誤であり変態であり異常であることの証拠である。
さても植物は其のイノチが瞑想状態の方に振れて居るものなのでは?
其の通りで彼等は余分な思考をせずとも良い訳だ。
思考もまた本質的には分離としての一形態なのだ。
其の分離により欲望もまた生じる。
だが其れをじぶんでもって救うだけの力ー理性の力ーには常に欠けて居るのが我我だ。
我我はそんな馬鹿其のものだから其の侭に突き進めば破壊が複合的に起き即ちカタストロフィに襲われ結局我我はあと五拾年持つか持たぬかだらう。
そもそもの私の疑問とは一体全体何で植物から動物へと進化する必要があったかと云うことなのです。
何故なら独立栄養生物である植物はそも何でワザワザ従属栄養生物 である動物となりウンコ垂れて生きて居らねばならぬのでせうか?
さても貴殿は何でソコまでウンコに拘るのですか?
単に面白おかしくして居るだけのことです、其の下品で不快な点もまた含めて…。
第一植物はウンコを垂れません。
コレは偉い、兎に角高尚である、まさに哲學者の如き理性的な命だ。
もはやコレゾ観念論だ、其の姿や理性の極みであり御上品なこと此の上無い。
ー相違点の一つは、植物細胞の全能性である。この能力のため、ほとんどの動物では難しい無性生殖が可能になる。また、植物には、倍数性の受容能力がある。倍数性とは、両親からの染色体を、通常は2セットのところをそれ以上持っていることである。倍数性により進化が速やかに進行することを可能にする。また、種子植物は長期間の休眠を行うことが可能であり、絶滅への耐性をもたらす。環境が厳しい期間を耐え抜き、温和な時代まで生命活動の再開を待つのである。ー植物の進化 - 植物の進化の概要-より
ゲエッ、こりゃ明らかに植物の方が上だよ、上。
だとすれば人類が文明を維持出来ず退化することだらう2100年頃に地球上に大繁栄するのがむしろ植物なのではなからうか。
即ち灼熱の地球上で休眠し温度が下がるのをじっと待つのだ。
でも温暖化による気温の上昇はおそらく下がることなど無いよ。
結局は植物もまた其の前に人間も灼かれ死ぬことであらう。
但し絶滅への耐性は明らかに植物の方が上であらう。
だから私はもう一刻も早う植物へと生まれ変わりたいのです。
しっかしおまえは馬鹿か?
おまえの其の拘り、しかも変な処への拘りは如何にも業が深いが故に植物になど生まれ変われる筈など無い。
じゃあ完全なる菜食主義者にでもなりますので是非それでもって宜しくお願い致します。
ダメだな、おまえの場合はたとえ死んでもまた地球上に生まれて来るよ。
今度はデカい蜘蛛だのデカい🐍だのまたデカい百足だのもうとんでも無い醜いものに生まれて来ることだらう。
さうか其れは樂しみだな。
エッ?怖くはないの?
何せ人間以外の者に一度生まれてみたいもので。
さうか余程人間が嫌いなのだな。
さうだ余程人間嫌いなのだよ…。
兎に角其の点に関してはNHKの「生命大躍進」をまた通して視てみるべきなのだらうが昔の番組で「生命ー40億年はるかな旅ー」の方はテキストもあるので是非視たかったのだが何故か其れがオンデマンドには出て来ない。
よって其のテキストを調べれば其の理由を明らかにすることが可能となるのやもしれぬ。
いずれにせよ其の物質的肉体の進化と心の上での進化はまた別物であらう。
科学技術の進歩と心の上での進化もまた別物であらう。
だがそもさうして意識がうち沈んだ状態で完璧な物質循環の枠内にある生命程ある意味では高度に理性的でありまさに美しさを体現した生のあり方其のものなのではなからうか。
もしや植物と結婚したいの?
植物其れ自体と出来れば結婚したい。
アレだけど植物には♂や♀があったのだっけ?
雄蕊と雌蕊を持ってるのだから其れも両方行けるのだよ、要するに。
凄い!
まさに理想的な生物だらう。
其れにミント類を手で揉んで其の香りを嗅ぐと嗚呼なんて良い香りなのだ。
其処からしても獣臭い動物とはもうまるで違い如何にも高踏的な生命としての品格が備わって御座る。
ところでおまえには植物への愛があらう?
へい、我は昔から植物が大好き人間ですが。
たとえば今ボクの目の前には朴歯餅を食った後の葉が束ねられた形にて飾ってある。
僕はさうしてドライな葉等を飾りとして部屋のところどころにピン留めしたりして居るのだ。
其のすぐ横の台の上には労苦の末に集めた棚山と赤瀬のオパールの標本瓶が沢山並んで居たりもする。
さうかおまえには其の石への異常な愛ー執心ーがあった訳だった。
ところでそもそんなもので何で満足出来るの?
姉ちゃんの裸の方はもう見たくも無いの?
いやもし結婚すれば其れも見てしかも触ることだらうが今の処其れは無いのでシスタードールや尼僧フィギュアで百パーセント満足して居る。
あれまだ持って無かったのでは、其の種の変態チックな趣味のお人形は。
さう持って無い。
だって其の持って無いシスタードールや尼僧フィギュアの衣の下を想像することこそが最高にいやらしいことなのだから。
兎に角其の私の切なる思いでの疑問、何故完璧とも言える植物生命体が動物生命体へと進化せざるを得なかったと云う部分につき是非本を読み調べてみたい。
丁度今拡大鏡が壊れ眼鏡にテープで張り付けたりして苦労しつつ読書をして居る。
なのでアマゾンのセールにて今日其れも買って置いた。
かうして目が弱くなっても本が読めると云う確かに一面では至極便利なご時世となったものだ。