目覚めよ!

文明批判と心の探求と

トルストイの「逃げ」ー弐 理想論としてのトルストイの「理性的調和」ー

 

尚私の思考ではむしろ過去の蓄積を重視致します。

何故なら我我の「今」を形作るのはむしろ「過去」なのです。

 

さうして實はさう云うのこそが自然を形成するところでの摂理です。

謂わば大自然の掟のやうなものであり大宇宙の摂理でもあるかのやうなものだ。

 

其の過去の経験の蓄積を重視するのは思想的には保守派の考えです。

ですから基本的にはわたくしは保守派です。

 

ですが人類の営為即ち文明は今其の「保守」の立場からは守り切れぬところへと至って居る。

また其のことは此の世のことを學べば學ぶ程にさう明らかになって来る。

 

 

結局其れは文明其れ自體の自己矛盾の問題です。

其の自己矛盾も結局は人間の心のあり方にこそ帰結する。

 

要するに人間の心のあり方が悪いのでさうなって行く訳だ。

 

但し其処を見詰めるには相当な心理的鍛錬が必要です。

 

即ちまさに其処こそが学校では教えては貰えない問題なのです。

従ってとりあえずは個としてまずは大學教授や作家の方々並に御勉強を進める必要が是非ある。

 

ですのでわたくしは其れをまさに自ら進んでやって来た人間だからこそあくまで自称ですが文人だとさう名乗って居ります。

 

さて其の文人は過去に皆大悩みして来て居ります。

其れは画家や音樂家並にいや其れ以上に精神的苦闘を重ねて来て居ることだらう。

 

 

其の文人の悩み苦しみはかって宗教家が直面した精神的苦闘に近いものがある。

つまりは釈迦やキリスト並に彼等は考え且つ悩み挙句にどうにかなって行って居ます。

 

で、我が國の文豪も芥川、太宰、三島、川端と其の結末が滅茶苦茶でしたが其れは壱流の知性だからさうなる訳で従って凡作家ならば皆畳の上で胡坐をかきつつ死んでも居ります。

故にわたくしは凡作家などにはまるで興味は無く要するに其の天才作家にのみ興味が御座ります。

 

詩人で言えば矢張り中原だの宮澤だのそんな天才詩人が大好きで特に此の弐人に関してはかって随分と研究を進めて居たものです。

でも文學だけでは無く哲學の方もまた強いと申しますか好きですのでショーペンハウアーだのカントだのまたレヴィ・ストロースなどに関しては特に深く研究を進めて来て居ます。

 

そんな訳で其の文哲だけで御勉強がもう膨大な量となりますので皆様のやうに恋愛して居る暇等無くまた大學までは一応行きましたが實は自分の御勉強の方がより大事なのでありよって法学部出だと言ったって法律なんぞにはまるで興味が無くむしろ藝術などの方が強い筈です。

 

なのですが其の大學では主に露西亜革命をやりましたので其れが結局還暦になっても忘れられずまた壱學徒に戻りかうしていつの間にか日本共産党などとも近づいて来て居る。

 

また小説家の方ではズバリ坂口 安吾のまさに半分頭が壊れた部分などが好きだ。

太宰は若い頃には良く読みましたが今読むのはほとんどが安吾の作品です。

 

 

で、トルストイは読んだのかと言えば實はほとんど読んで居りません。

尤も我は若い頃アレクサンドル・ソルジェニーツィン - Wikipediaに傾倒して居りました。ー1970年 ノーベル文學賞受賞ー

 

其のソルジェニーツィンの根性の据わった反体制振りに心底屈服して居り矢張り作家と云う者は此の位の信念を持って居なければならぬと自分が作家でも無いのにさう思って居たのでした。アレクサンドル・ソルジェニーツィン #逮捕と収容- Wikipedia

 

此のやうにソルジェニーツィンは何度も逮捕され投獄されましたが作家魂を貫き最終的には國家にも認められた壱級の文化人だった。プーチン大統領と歓談するアレクサンドル・ソルジェニーツィン - Wikipedia

 

まあ此の、作家としての爺の髭、其れはトルストイもまたさうなのですが如何にも作家の思考の威儀をさえ指し示すものだ。

よって我も髭もじゃの爺にならう。

 

 

だがおや、何だコレは?

手鏡に映しよーく其れを観察してみたところ髭が参分の壱位白鬚になって居る。

 

素晴らしい!

コレを此の侭伸ばせばもう其の侭でトルストイソルジェニーツィン級の風貌となれやう。

 

でも我は顔が平たいつまりは凹凸が少ないタイプなので其れが似合うかどうかはまた別の話なのだが…。ーつまりは可愛い顔のタイプー

 

では早速其の読んで居ないトルストイの思想に就き語ります。

 

 

トルストイの『人生論』をかんたんに解説する。 | コテンto名著 (kotento.com)

 

1.幸福になりたい⇔幸福になれない=煉獄

さて皆様は幸福になりたいですか?

 

わたくしは世間的な尺度での「幸福」をむしろ否定的に見詰めて居ります。

何故なら此の世は「現象」と云う限定物でしかありません。

 

限定物とは其のやうに分離、分解されたものでありそも不完全で限界がすぐに来るものだ。

で、實際に此の世の全ての価値は有限的価値です。

 

よって其の有限的価値を奪い合うことでしか達成されぬ「幸福」とは利己的幸福にしか繋がらない。

ですので我の場合はまず其の世間的な尺度での「幸福」を「間違った考え」であるとして否定しむしろ自己流に「幸福」である状態を焼き直し其れを達成することこそが僕にとっての幸福ですとさう申しておるのです。

 

 

さてそも間違ってる「幸福」を近代人に擦り込んで居るのはまさに近代以降の近代的社會です。

故に自然と其の社會の価値観に対しても否定的とならざるを得ない。

 

なのでトルストイもまた社會の価値観に対して否定的なのです。

 

 

2.唯物論ー物質主義ー⇔観念論ー精神主義

其の間違った思想を誰が広めたのかと云うことこそがまずは問題です。

 

トルストイの場合は科学による物質主義こそが犯人だとさう述べて居ます。

「ひっくり返った遠近法(世界観)」とは、「1.モノ→2.動物→3.人間」であり其れは✖で「1.人間→2.動物→3.モノ」こそが○となる。

 

さうして人間は諸価値を人間クサく見詰め過ぎて居る。-全てを脳内願望のバイアスがかかった視点からさう見詰めて居る-

ー客観(客体)的なモノとは、主観(主体)的な構成物でしかないというその出自を、自己欺瞞的に忘却することによって、生ずるものでしかありませんートルストイの『人生論』をかんたんに解説する。 | コテンto名著 (kotento.com)より

 


眞理や眞實方面での認識に於いてはさうして主体的な考えこそが客体化されて居るとされて居る事がほとんどです。

先の環世界論でも、またカントの観念論哲學にせよまた養老先生の唯脳論にせよまさにさうした系統のものであることだらう。

 

だから其れはむしろ我我人間の所謂素朴實在性の感度とは逆方向での認識の流れのことだ。

なのでもしも其の素朴實在性を押し通そうとすれば自己欺瞞ー自己矛盾ーに陥る他は無くなることだらう。

 

でもみんなはむしろ其れが正しいとさう思って居ることでせう。

僕の家族は今此処にあり其れを守り通すことこそが僕の命としての使命である即ち善であり完全に正しいことである。

 

さうかなあ、僕はなんだか其れは違うと思いますよ。

なのでほんたうの理性と云うものはむしろ其の理性の自己欺瞞性の方をこそ暴いて行くもののことだ。

 

 

ところで還暦を過ぎて居るにも関わらずお前のやうなことを言う人間を此れ迄に見たことなどは無い。

お前の正體とは壱體何だ、👿か其れとも👽か?

 

是非宇宙理性とでもして置いて下され。

つまりは宇宙の摂理、自然の摂理を語る詩人のことだよ。

 

 

3.簡単で分かりやすい「明快さ」⇔正確で真実である「明らかさ(覆いの無さ)」トルストイの『人生論』をかんたんに解説する。 | コテンto名著 (kotento.com)より

しかしながらコレは凄い考えです。

 

さても其の科学に対し文學的にはなかなか批判がならぬものです。

尤も哲學的になら或は可能かとも思われるのだが…。

 

トルストイが此処まで哲學的に思考を進めて居たとは此れ迄わたくしも知りませんでした。

 

つまりは「明快に分かる」と云う理解又は認識と「明らかに分かる」と云う理解又は認識とはまた別物です。

「明快に分かる」と云う謂わば間接的な理解又は認識に基づくものこそが科学的思考を構成し「明らかに分かる」と云う理解又は認識こそが宗教的乃至文學的、哲學的、さらに藝術的な直接的把握によるものではなからうか。

 

確かにモノによる本能的欲求を満たすことの為にだけ生きると人間は次第に精神が腐って行くことだらう。

自民党による政治を腐らせたのもまさに其の物質偏重主義でせう。

 

他方で史的唯物論の方もまた「明らかに分かる」と云う理解又は認識とはまた別物なのやもしれませんが…。

 

 

ー人間の理性を中心にして、世界を再構成し直すトルストイの『人生論』をかんたんに解説する。 | コテンto名著 (kotento.com)より

 

エエッ!確か誰ぞ此処でそんなことを言ってませんでしたか?

即ち我が毎回其れを言って居ませんでしたか?

 

まあ結局はさうしたことです。

其の理性のあり方がそもオカシイと世界のかっての大文豪と倭國のタダの自称詩人がさう述べ立てた訳だ。

 

もしやわたくしは彼トルストイの生まれ変わりなのでは?

 

 

で、壱體どーしたいの?

其の半分頭が壊れた文人さん方は此の世を壱體どーしたいのだ?

 

いや僕は単に否定したいだけです。

宇宙開発だとかAI開発だとか何とかコインだとか何とか投資だとかそんな抽象的な価値を全否定したいだけなのさ。

でもってかの露西亜の文豪の爺様も82歳で家出をし野垂れ死んだ訳だ。

 

 

4.理性的調和とは?

まずは僕の考えを述べます。

僕は現代文明を推進する理性は自己矛盾化しむしろ原始退行に陥って居るとさう哲學的に結論付けて来て居ます。

 

其れは理性が先祖返りして仕舞い本来の役目を果たせなくなって居る状態のことだ。

だから其れをもう止めませう。

 

止まれ!

 

だから僕にとっての理性的調和とは抽象的価値を幸福追求の要件からまずは外して仕舞うことです。

すると具象的に自然児となり野っ原を駆け巡れば其れで良いのか?

 

其れとも倉本聰加藤登紀子のやうに左派となり自然的生活に勤しむことか?

 

まあ其れでも良いのですが最も簡単なことは何処に居やうと此の文明を是非否定的に見詰め其処に自らとしての価値観の再構築を行うことだ。

自らとしての価値観が特攻や自爆だったらどうするのだ?

 

ま、其れも御自由にどうぞ。

何せワタシは気が弱いのでそんな自決などは是非御免被りたい。

 

何度も述べて参りましたやうに、文の側の理性とはむしろ唯物的価値を離れ精神的な階梯を自ら設定し其れを壱段壱段登って行くことなのだと思う。

其の途上で絶望しかっての文豪達のやうに自決に至るのだとしても畢竟其れは「精神としての死」なのではないか。

 

 

なる程、すると貴殿は其の「精神としての死」を認めると云うことなのだな。

 

かって釈迦は弟子の自殺を咎め立てたりはしなかったさうだ。

「精神としての死」は「逃げの死」なのでは無くむしろ眞の意味で理性として闘った上での死のことだ。

 

ではかの太宰治などもまた逃げて居ないのか?

逃げてません。

決して逃げてないよ、其れも全然。

 

では爺トルストイは結局逃げたのか?

逃げてません。

決して逃げてないよ、其れも全然。

 

 

だから君の言ってることは訳が分からん。

君等のやうにそも文明から逃げて行くことこそが「逃避」なのだらう?

 

ちゃいます。

其れは「逃避」では無く「調和」の實現です。

 

 

尚リンクのところではエゴ論が展開されて居りますが其処もまた我なりに焼き直し述べてみます。

 

理性の不調和=非我の調和ー眞我の不調和ー⇔理性の調和=眞我の調和ー非我の不調和ー

です。

 

其の個我と云うことの捉え方が難しく、個我=謗法=悪とでももし受け取って仕舞うとまたエライこととなるのです。

故に個我は其のやうに弐元分裂して居り、要するに其れは、

非我⇔眞我

と分離されて居る。

 

何故なら現象はどんなものでもつまりは物質的なものでもまた概念的なことでも全て弐元分離するからなのだ。

 

問題は理性と個我の関係性自體がまさに上のやうに分離されて居ることだ。

 

で、善悪で言えば左側が悪で右側が善です。

但し善悪規定をしない佛教的な価値観でもって申せばより正確には左側も右側も同時に否定し其の分裂其れ自體ー概念分別其れ自體ーを消し去る訳なのだが其れもまた難しい話ですのでとりあえずはキリスト教的に善を指向致しませう。

 

つまりは、

理性の調和=眞我の調和ー非我の不調和ー

であることをこそ目指すのだ。

 

ー関係性(つながり)を見ない個我への執着が、個我同士の闘争を生み、本来苦しみでないことを苦しみと勘違いさせ、死への恐怖や虚無への不安という幻影を生み出します。
人生を責め苦にしていたのは、世界なのではなく、理性(目的)とモノ(手段)を転倒してとらえていた私自身なのです。ートルストイの『人生論』をかんたんに解説する。 | コテンto名著 (kotento.com)より

 

最終的には其の理性にて「明らかなる世界」に生きることこそが人間の生の目的たり得るものだ。

ですが佛教などでもまたさうですが明知を得ることとはまさに狭き門から入るかのやうなもので難しいことです。

 

常識的発想に留まる限りは其れが難しい。

 

ー私たちは、理性を取り戻し、つながりを認識し、その世界というつながりの大きな流れ中で生きることが必要です。
そして、それが、人間が幸福を実現するための唯一の道なのです。

人々は世俗の転倒した世界に生きながらも、時折そのつながりの世界を、知らず知らずのうちに体験しています。
それが、いわゆる「愛」と呼ばれるものです。ートルストイの『人生論』をかんたんに解説する。 | コテンto名著 (kotento.com)より

 

 

但し多くの人はむしろ自己の思想が理性的だとさう思い込んで居る筈です。

ですが、其処でもってトルストイは語ります。

「人間の理性にとっては、むしろ個人の幸福と生命の否定が自然で本質的なもの」なのだと。

 

 

理性とは本来個を反省する力のことだ。

其の反省に従うと云う意味に於いてトルストイはむしろこんなマイナスの論理を述べる。

 

ですが至極正しい論理なのだとわたくしは思う。

理性とは利己主義に対しても鋭く批判の矛先を向ける筈です。

 

其のやうに理性が回復し本来のものとなれば誰に言われずとも世間的な幸福の定義や生命偏重主義を疑いもっともっと静かに生きられるやうになるものだ。

其の生き方としての観念の倒錯ー顛倒ーを治し調和された理性のバランスに立てば世間の尺度とは違う意味でのほんたうの幸福への自己の尺度が出来て来るものだ。

 

さて其の「つながり」とは何か?

どうも其れは「神の愛」へと連なって行くものであるかのやうだ。

 

理性とは其のやうに常に自らを疑い且つ反省するものでなくてはならない。

其の意味では彼トルストイの文學もまさにそんな内容を含むものであったのやもしれぬ。