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文明批判と美と心の探求と

「環世界」を生きる人間の認識とは?-弐 カントによる認識論との整合性-

ユクスキュルの生物から見た世界を分かりやすく簡単にまとめる。環世界と機能環の具体例。 | コテンto名著 (kotento.com)

さてまずは此の「環世界」の簡単な解説の方ですが實際此れだけでも可成に難しい話です。

此れで分からなければむしろ難しい方の解説を読んでみませう。

 

ユクスキュルの生物から見た世界とは。具体例で簡単に分かりやすく解説、要約する。 | コテンto名著 (kotento.com)

すると余計に分かりにくくもなって参ります。

なのですが概ねのところでは何となく分かった筈です。

何せ頭の良い皆様のことなので、でも私は結局分かりませんでしたがね。

 

 

尤も「環世界」の理解其れ以前にカントによる認識論を是非理解して置かねばなるまい。

カント純粋理性批判とは、物自体とコペルニクス的転回:具体例で分かりやすく解説・要約する哲学まとめ | コテンto名著 (kotento.com)

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かうして物凄く分かり易く解説されて居ます。

要するにカント以降の認識論は人間の知覚による「素朴實在性」を否定して居ります。

 

つまるところ我我は持って生まれた五感により自己の外側に世界が何処までもあるものとさう感覚的本能的に信じ切って居るがまずは其れこそが疑わしいことです。ーあくまで理性的にはー

さうしてとどのつまりは世界があり我我人間が其れを認識するのでは無く我我の認識によりさう見える世界が現象して居る訳だ。

 

ですが此処に妻もまた子も居りますが…。

だから其れは君の認識が生んだ妻と子であり眞の意味での實在即ち物自體なのでは無い。

 

じゃあ學校も仕事も都會も田舎も何も無く有るのは只我の認識だけなのですか?

だって持って生まれた感性の形式の範囲内でしか其の限度の中でのみ妻と子が居るだけなのであり其の妻と子が實在するつまりどんな認識の形式にも従い在るとは全然言えません。

 

では其の妻と子は捨てろともしやさう仰るので、其れもかのトルストイの如くに…。

まあ最終的には捨てた方が良いことかとは存ずるのだが君の場合はあくまで文人や哲學者では無く単なる俗人なのでじぶんの思うところ其の正直なところを生きた方がむしろ世の中の為になるやうに思わぬでも無い。

 

 

さうか、時空は結局感性の形式による分解だ。-其の分解とはわたくしが導き出した哲學上の結論だ-

次に悟性によるカテゴリー分解により概念的に物ー客体としての物ーが規定される。

 

で、其処にようやく妻と子と學校と仕事と都會と田舎が形成されるのだ。

でもそんなややこしいものである筈が無い!!

 

僕の妻と子は現に今ちゃんと此処に居るぞ!

だから君は所詮馬鹿なんだよ。

 

君はちゃんと御勉強をして来たのか?

御勉強をするフリをして實は教科書の裏にエロ本を隠し持ち其ればかりを読んで居たのではなかったか?

 

尚其のアンチノミーに就いては話がややこしくなるのでまたの機会にでも取り上げさせて頂きます。

 

 

問題は其の素朴實在性に基づきいまだに現代人は意思決定し行為すると云う其の事實に於いてのことです。

つまり人間はいつまで経ってもカント以前の認識でしかあり得ないと云うことなのだ。

 

ですが今地球が太陽の周りを回ると云うこと位は小学生でも知って居ます。

つまるところさうした科学的知識はあるのだが哲學的思考には常に欠けて居るのが壱般的現代人の認識=大衆的認識です。

 

 

上での解説にもあります通りにユクスキュルの生物学はカントによる主體の論理の自然科学への応用です。

つまり其れは観念論的な生物に於ける認識論のことです。

 

其の主體としてのしての内的世界と客體としての外的世界は弐元分離して居る筈なのだが基本的には我我人間が見るのは内的世界であるとさう捉えるのが観念論でせう。

 

我我は特定のー限定されし固有のー形式に於いて世界を認識して居るだけのことであり其れは世界其れ自體を認識して居る訳ではよもや無い。

高等な生命は脳の機能が良いので其の「機能環」をより多く複雑に持つ事となるがむしろ其のことで膨大な世界の可能性からは自らを閉ざして行くこととなる。

 

とは言え理性無き動植物が其の膨大な世界の可能性に目覚めて居ると云うことでは無くむしろ彼等の限定はより狭いが故に意識的なものとはならない訳だ。

 

 

「生きた主體無しには時空は生じ得ない」

 

時空もまた生と云う限定に伴う分離である。-私の哲學-

但し認識の形式ー質ーにより世界観ー住む世界ーはそれぞれに異なる。

 

つまりはダニやらミジンコやらの世界観とオタマジャクシやヤモリの価値観は異なりまた其れと🐈や🐕が住む世界はまた異なりまた其れ以上に違うのが自民党の🐵ーカンとアベーや🐊ーアソーーや🐕ーキシダーの価値観が狂って居る事だ。

もしやアベもついに🐒化したのですか?

 

さうです、さうしておサルの大将にコノほどなりましたのです。

其れとキシダもまた否定的人格の中へと仲間入りしたのですか?

 

まあ岸田氏も再配分さえちゃんとやれれば必ずや人間になれます。

おそらくはカンとアベのやうに馬鹿では無いので其の辺のところは分かって居る筈です。

 

 

即ち認識が違えば住む世界が違うと云うことなのだ。

 

またとどのつまりは人間の認識により自然を理解することはむしろ決定的に難しいことだ。

カントの認識論もまたユクスキュルの生物学もかうして壱種限定的な論理によるものである。

 

其の限定的な論理をこそわたくしは支持する。

何故なら其れこそが眞に理性的なものの見方を可能とするからなのだ。

 

「生物が住する小宇宙はそれぞれの認識により異なる」

 

ダニやらミジンコやらの宇宙とオタマジャクシやヤモリの宇宙と🐈や🐕が住む宇宙は其々に別のものである。

また無論のこと人間が今をかうして生きるまるで肥溜めの如き問題の多い宇宙も其れとはまた別のものである。

 

何で人間が生きる宇宙だけがそんな肥溜めになっておるのですか?

うーむ、其れはまた難しい問題だがおそらく其れはウンコを垂れた人間の後始末が悪いのでさうなって居るのではなからうか。

 

 

視覚を持つ=分離

触覚を持つ=分離

 

其の「分離」こそがわたくしの哲學としてのミソの部分だ。

即ち「有る」こと自體がそも「分離」なので必然としてさうなる。

 

「最遠平面」ー各動物に備わる視覚や触覚による空間把握の能力は能力的に限定されるー

 

むしろ人間のみが抽象的飛翔力により其の限界を飛び越えて来て居る。

なのだけれども其れでも限度がまた必ずやある。

 

何故なら生其れ自體がむしろ限定性による産物なのだから。

 

さて其の主観的な認識のトーンが狂うと悲劇が起こることがある。

其れはかって作家の安部 公房氏が述べて居たことながら例えば鯨の集団自決などの案件である。

 

 

「環世界」とは世界を純粋なる主観性の中に閉じ込める非常に興味深い思想である。

其れはむしろ異なる生命による認識を尊重すると云う意味に於いて多様性を認める先駆的であり且つ脱近代的な思想なのだ。

 

作用標識=「作用トーン」により限定されて居ることだらう生命活動其れ自體が全て限定されて居る。

然し其処で新たな経験が新たな行為可能性を育むのだ。

 

つまりは今となった過去がむしろ未来への可能性を育む他は無い。

 

「客観的な現實」ばかりを追い求め其れを未来へと繋げやうとすると其の作用標識が齎す罠に捉えられて仕舞うのではないか。

なんとなれば「客観的な現實」などそも無いのであるから。

 

客観的な物自體などは元より何処にも無く何故ならカントがかって述べたやうに物自體はあくまで認識出来ないからだ。

と其のやうに「環世界」としての認識とは動植物のみならず人間の認識をも相対化し限定的に捉えるまさに自然的な思想なのだと思う。

 

 

逆に申せば「其の人間だけが偉い」とする変な考えに対し猛省を促すものなのだらう。

だから其の「其の人間だけが偉い」とする変な考えは理性から生まれたものでは無くむしろクソ垂れでの悪魔的獣性から生まれた考え方なのだらう。

 

ほんたうの理性は自然をむしろ敬い其れになるべく影響を及ぼさぬやうに謙虚に生きるところから育まれやう。

だからまさにさうしたところへと自らの心のあり方を運ぶことこそがほんたうの理性としての働きなのだ。

 

で、何度も言ってすみませんのですがアンタの妻や子に實在性があるのでは無く其れはタダの現象性でありしかも其れは客体でも何でも無い。

またアンタの彼女に實在性があるのでは無く其れはタダの現象性でありしかも其れは客体でも何でも無い。

 

其れはタダ君等がさう認識して居るだけのことなのだ。

其れもお🐒としての認識、いやスーパーなお🐒としての認識でもって「可愛い子だなー」とか「立派なかーちゃんだなー」とかまた「うつくしい彼女だ」とさう思い込んで居るだけのことだよ。

 

 

でもっておまえ自身は其の「環世界」の生命論をしかと支持するのか?

勿論支持しますのですよ。

 

でも別のこともまた考え込んで居ります。

では壱體何を考えて居るのだ?

 

實はトルストイの思想に就き考え且つ思い悩んでも居りました。

左様にトルストイの思想とはまさに西洋の仙人思想です。トルストイの『人生論』をかんたんに解説する。 | コテンto名著 (kotento.com)

 

 

また此の爺はまさにとんでも無いことを述べて居ります。

「人間の理性にとっては、むしろ個人の幸福と生命の否定が自然で本質的なもの」

だなどと述べて居たやうですがではまさか家出や自決を推奨でもして居たのでせうか?

 

此処からもトルストイ程根性の据わった文人は他に居りません。

流石に脳減る文學賞を自ら辞退しただけのことはあります。

 

其れでもって次回は必然的に此の仙人爺の思想を紐解いて行くこととなるだらう。

 

 

ー1901年、第1回ノーベル文学賞は、あまり知られていなかったフランスの詩人、シュリ・プリュドムに与えられ、欧州の文壇に憤懣を呼び起こした。スウェーデンの作家、文学者たちは、ロシアの作家レフ・トルストイに対し、選考委員会(スウェーデン学士院)の決定に反対である旨を書き送った。この年、トルストイは25人の候補のなかにも入っていなかった。

 その後4年間は、毎年候補に顔を連ねたものの、スウェーデン学士院とその院長カール・ヴィンセンは頑固だった。彼は、トルストイの思想に大反対で、こう決め付けた。「この作家は、文明のあらゆる形態を非難し、その代わり、高度な文化のあらゆる事物から隔絶した単純な生活をしろと主張している」。ーノーベル賞作家になり損ねたロシア人 - ロシア・ビヨンド (rbth.com)より

 

かうしてトルストイは頭がおかしいとさう見られて居たフシがある。

さうだ、まさに此の仙人爺は兎に角文明を大批判し単純な田舎暮らしをしやうとさう全世界に対し呼びかけて居たのだらう!!

 

でも其れ、まるでアンタと同じことではないか。

さう言えばさうですねえ、何故か似て居ますねえ、でもなんでかな?

 

なんでだろーなんでだろーなんでーだーなんでだろー。