目覚めよ!

文明批判と心の探求と

悲観主義の行方ー弐 「理性的解脱」の方法Ⅰー

哲學10

 

 

 

 

カントの現象と物自体との二元論に対し、フィヒテシェリングヘーゲル等はこれを克服するため、理性一元論をとったのに対して、ショーペンハウアーは、現象と物自体の区別を承認する。ショーペンハウアーによれば、カント物自体は意志であるとされる。世界は意識の仮現にすぎないとした。ーアルトゥル・ショーペンハウアー|思想と哲学 | Hitopediaより

 

さても其の「理性壱元論」はそもオカシイですね。

其の壱元化を出来ない弐元的な根本矛盾こそがそも生の正體でせう。

 

故に其のカントの認識こそが正しい訳ですが、「現象⇔物自體」→「現象=意志=物自體」としたところにこそ其処に壱種東洋的な哲學的要素が加わったのだと思われる。

尤もより正確には、

「現象=意志≠物自體」なのだと私は考えます。

何故なら眞我=物自體と非我=現象は違うものです。

 

よって、

物自體ー實在ー⇔現象

であり、

物自體ー實在ー⇔意志

なので、

結局、

物自體ー實在ー≠意志=現象

です。

 

但し間違い無いのは其の意志ー盲目的なーこそが本能であり欲望であることです。

 

まさに其の盲目的本能、盲目的欲望にはまず歯止めが効きません。

対して理性には本来其の欲望を抑える働きがある。

 

 

主著の『意志と表象としての世界』では、さまざまな現象の根底にあるものを意志(欲望)とした。意志は盲目的で、それは常に満たされない欲望を追いかけるものであり、それゆえ人生は苦悩に満ちている(厭世主義)。アルトゥル・ショーペンハウアー|思想と哲学 | Hitopediaより

 

結局其の意志ー煩悩又は罪としてのー其れ自體を脱出することが出来ぬので人生乃至は此の世又は人間の社會が地獄の様相を呈するのはむしろ当たり前のことです。

事實としてキリストも釈迦もまたショーペンハウアーも世界をさう見据えました。

 

ところが世俗の人々に取りまず出来ないのがまさに此の聖なる認識です。

尚其のことはすでに二千五百年も前にお釈迦様が指摘されても居ます。

 

 

ー真の仏の智慧からみれば誤っている四つの考え。無常を常、苦を楽、無我を我、不浄を浄と思う凡夫のまちがった考え。また、涅槃ねはんの実相に対して、常を無常、楽を苦、我を無我、浄を不浄と誤り解すること。四倒。ー

四顛倒とは - コトバンク (kotobank.jp)より

 

其の四顛倒とは人間の認識のー癖のー誤りを説いたものでー佛教ー哲學的には最重要の部分です。

其の凡夫とは大衆と云うことでまた良いのでせう。

 

 

其処で即ち、

常樂我浄⇔非常苦非我不浄

である訳だ。

 

また、

非常苦非我不浄⇔常樂我浄

でも同時にまたある。

 

お釈迦様は共に其の概念的価値を否定される訳ですが、とりあえずは常樂我浄こそがまずは否定されねばならない。

何故ならまさに其れがみんなの認識だからなのです。ー圧倒的に多数派の認識ー

 

然しお釈迦様は其の世俗の認識ーある意味での樂観主義ーをまずは否定されます。

 

しかる後にインテリ層による其の悲観主義を否定される訳なのですがまさにソコが難しい命題でもまたある訳です。

何故なら知性のある人や佛法を少々學んだことのある人々などは大抵は其の悲観主義へとなだれ込んで行くものと相場は決まって居ます。

 

 

さうして其の非常苦非我不浄と云う認識こそがまさに悲観論です。

事實わたくしなども其の「非常苦非我不浄」こそが正しい認識なのだとさう長年に亘り思い込んで居りました。

ですが、こと涅槃=悟りの階梯に於いてはまさに其の認識こそが其れへの妨げとなることです。

 

で、其の「非常苦非我不浄」=悲観主義としての認識を元に論を組むと其れは魔道へと落ちて行くことともなりかねぬ訳だ。

但し其れは涅槃=悟りを前提とする限りでのことです。

 

現實的には、常樂我浄→非常苦非我不浄の認識へと至ることは普通誰にでも出来ることではありますまい。

 

 

ですので、端的に申せば其のショーペンハウアーの哲學其れ自體も純粋な意味での悟りの為の教えでは無いのです。

何故ならショーペンハウアーの哲學を履修すれば悟れるのであればたとえば禅宗の御坊さん達の存在意義が無くなって仕舞います。

 

なのではありますが其のインテリ層の悲観主義には「限定」としての意味が大きくあると云うのがわたくしの論拠なのです。

少なくとも「常樂我浄」の世をみんなでもって渡る=近現代としての世界観、よりは自制的であり持続可能性すらもが其処にはあることでせう。

 

とのことで、わたくしは皆を悟りに導きたいだの云った所謂新興宗教の教祖としての妄想を論じて居るのでは無くあくまで其の哲學の効用を説いて居るだけのことだ。

ですので究極的には其れは宗教の話では無い訳だ。

 

兎に角わたくしは其の理性的選択の誤りを説いて居るに過ぎず宗教を語る者なのではまるでありません。

 

 

でも結局哲學では社會を直せないではないですか?

だから別に社會を直そうなどともまるで思っては居ない。

其れも決して直せないからもはや捨てたとさう言って来た筈です。

 

では壱體何を治したいのだ?

みんなの認識がオカシイとさう述べて居るだけのことです。

 

だが先に、

「キリストも釈迦もまたショーペンハウアーも世界をさう見据えました。」

と述べたではないか?

 

 

いやお釈迦様やキリスト様も其のやうに壱度は現世否定をなされて居ます。

いえキリスト様の場合は結局のところ永遠に現世否定なのやもしれません。

 

ですがお釈迦様はさうした現世否定や所謂断見、また逆に常見などに対しても全否定的なのだと思われます。

ではお釈迦様の佛法は結局全否定教なのですか?

 

まあ佛性至上主義での全否定教なのやもしれません。

よってキリスト教からは屡「無の宗教」などとも言われ批判されたりもまたする訳だ。

 

 

お釈迦様の佛法は高度過ぎて我我普通の人間には論理的に理解出来ません。

なので其処を何とか理解出来るやうにかって中國にてつくり変えたのがたとえば禅宗でもまたある訳なのだらう。

 

何とか理解出来るやうにとは言っても其れは僧侶レヴェルでのことですので凡夫には無論のことインテリ層にも理解出来ない可能性が高くある。

ですがインテリ層には概ね其の「悲観主義」ならば理解される可能性が高いので今わたくしは其れに就き論じて居るのです。

 

だとすると大衆は救われやうが元々無いのだと?

いやだからまさに其の為に浄土教日蓮宗などがある訳ですので救われたい方々は是非そちらへ行かれるべきだ。

また無論のことキリスト教でも良い訳です。

 

だが僕はあくまでインテリ層に対し其の選択の誤りに就き話しかけたいのだ。

 

 

ー世界は意識の仮現にすぎないーアルトゥル・ショーペンハウアー|思想と哲学 | Hitopediaより

かうした観念論もまた大衆にとっては至極分かり難いものです。

 

ショーペンハウアー悲観主義と云う立場を貫くことで結局認識を正せとさう知識層に対し語りかけて居るのではなからうか。

カントの場合もさうした面があったことだらうがカントの場合の方が壱面では政治的、社會的でありショーペンハウアーの場合はより個人的に其れを述べて居るのだと思う。

 

では其の「盲目的な意志に従うのは止めよ」とショーペンハウアーは述べるのですか?

 

 

ー意志は世界最深の本質である。意志とは、もともと衝動や欲求であり、タンタルス的な悩みが意志であり、充たされることは永久にありえない。ー


ー芸術によって、意志は自己を超脱して平安になる。ー


ー永久的解脱である。これは結局、意志の断滅によって達成される。意志がある以上、われわれの悲劇は耐えることがない。ーアルトゥル・ショーペンハウアー|思想と哲学 | Hitopediaより

 

結局かうして「盲目的な意志に従うのは止めよ」と述べる訳ですが、其の意志の断滅による永久的解脱なるものが「涅槃」其のものでは無いことだらうが理性なりの解脱のやうなものにはなり得るのやもしれません。

先にも述べましたが悲観主義」=非常苦非我不浄の論理であり壱種断見的なものですのであくまで釈迦の教説に拠れば其れは偏ったインテリ思考の方にも近い訳だ。

 

ですが欲求を抑えて行く訳ですので禁欲的、限定的ではある世界観のことです。

まさに其の部分は悪い考え方なのでは無いものと思われる。

 

さて此のやうにショーペンハウアーは藝術を大変重要視して居ました。

むしろ藝術に沿って生き「アタラクシア」に至れとさう述べて居るかのやうだ。

 

僕などもまた其の考えを支持しますが、反面藝術とはあくまで其れを分かる人のものであるとさう限定的に捉えて来ても居ります。

 

 

ー人間が生きていく根源は知でも理でもない、生きようとする意志(欲望)である。知性や理論は単なる案内人にすぎなく、我々は生きなければならない存在なのであって、意志(欲望)がその根本にあるといえる。したがって、意志こそが人間の本質であるといえる。ーアルトゥル・ショーペンハウアー|思想と哲学 | Hitopediaより

 

事實として眞の意味での知性的でも理性的でも無い人がほとんどです。

學者に至っても猶其の傾向がありますが個人的には其の學者の知性を是非信じたい方です。

 

知性や論理がはち切れんばかりに此の世には存して居ても其の意志(欲望)ー我の言葉で言うところでの獣性ーが其れ以上に勢力をふるって居ますので大抵は其れを抑え切れぬ訳だ。

 

ちなみに僕自身もまた其れを抑え切れはしない。