目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

『存在と苦悩』がむしろ我を救って呉れた話

哲學8

 

 

 

 

さうして藝術家の生と死が常に我我に語り掛けるものとは望んでも叶わぬ理想であり結局此の世では充たされることの無い心の調和であり安寧の境地の様です。

結局は藝術家もまた此の世界に絶望し其の短い生の幕を閉じて行かざるを得ない。

 

其の意味ではむしろ大衆の方こそがより元気でありより打たれ強いのやもしれない。

まあ其れは壱種鈍感に出来上がって居るからなのでもまたありませう。

 

ちなみにわたくしはかって夭折した文學者や画家に興味を持ち其の手の本を読んで居たことなどもまたありました。

其処で思ったのは結局此の現實とは無慈悲なものでもあると云うことでした。

 

 

其の生に於ける煩悶だの懊悩だのは結果として彼等の命さえをも奪い去って行く。

其れを奪われぬ人々はむしろ其の藝術には縁の無い人々ばかりです。

 

又は信仰に生きて居られる方々なども其の種の苦しみには概して強いことでせう。

ですが其れ以上に強いのが所謂「悪い」人間達の方です。

 

其の「悪い」と云うのは社會的洗脳の様がさうして居る確率が高くあると最近はさう思うやうにもなりました。

其の「悪い」ことをむしろ「良い」とさう信じ込まされて其の悪を頑張るのが其の「悪い」人間達の特徴でせう。

 

対して其の悪の様、悪逆の行為の本質を見抜くのがまさに正義のミカタである藝術家や壱部の無垢な學者、また宗教家達ー邪教の教祖を除くーなのだと思う。

ですが、其の善悪に対し潔癖に拘れば拘る程に世の劣化、其の悪への流れがより鮮明に見えて来よって大抵は絶望へと至って行かざるを得ない。

 

 

巌頭の感

藤村操


 悠々たる哉天壌てんじょう遼々りょうりょうたるかな古今。五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲学ついに何等のオーソリチーをあたいするものぞ。万有の真相は唯一言にしてつくす。曰く「不可解」。我このうらみを懐いて煩悶ついに死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを。藤村 操  巌頭の感 (aozora.gr.jp)より

 

 

たとえば此の「巌頭の感」などはかってのさうしたインテリ靑年の遺書なのですが其の旧制高校生をあえて今生きるわたくしめー其れもひとつの主義としてーなどには此の気持ちは痛い程に分かります。巌頭の感 - Bing images

 

 

藤村操 - Wikipedia

其の彼は何と十六歳でもって没して居る。

 

十六歳と言いますとわたくしの場合などはまだ太宰 治位しか読んで居らずよってまさか死んでも死に切れぬ境遇だったのです。

其の後芥川全集も読め尚且つユリイカだのまた参拾位からは宮澤 賢治や坂口 安吾なども読めましたので其処からどう考えても我には時間が必要だったのです。

 

さらに法華経原始仏教を學んで行くことなども出来ました。

ですのでまず問題は其の生に於ける時間のことです。

 

 

其の時間が無いと學ぶことさえもが出来ずに其の侭に死んで行かざるを得ません。

尤もかってはさうして廿代、参拾代で世を去るインテリだの藝術家だのが特に多かった訳だ。

 

なのですが、どうも其の時間と云うことが気になります。

ですが他方で時間を経た生命は化け物となって行くやうな気も何処かで致します。

 

化け物つまりは悪の権化です。

なので長生きすることが良いことだともまた壱概には申せません。

 

つまり老醜を晒す位ならば夭逝もまたやむをえずと云う考え方が無いでは無い訳だ。

 

 

ー当時のエリート青年たちに流行していた悲観主義厭世観ショーペンハウアーを受容し、この遺書に漂う人生への懐疑と煩悶は、時代の雰囲気をありありと反映したものであった[24]アルトゥル・ショーペンハウアー - Wikipediaより

 

其のショーペンハウアーは別に自決を讃美して居た訳では無くむしろ隠遁して長生きせよとさう言って居たのではなかったか。

事實として彼ショーペンハウアーは当時としては長生きをしました。

 

 

 

 

ちなみにわたくしの座右の書は其のショーペンハウアー『存在と苦悩です。

まさに此の薄緑色のカヴァーの本で、其の内容も薄緑色?でもって至極快適です。

 

實は此の本を弐冊持って居り、美本の方を保管し汚れた本の方を今は台所の書棚に入れ屡其れを読み返して居る。

此処でショーペンハウアーは悪いことは壱言も語って居らずむしろ我我に対し勇気付けるやうな厭世観を其処に提示して居ます。

 

従ってショーペンハウアーがかって述べた言葉こそがわたくしにとっての希望、とまでは言えぬまでも大きな慰めとなって居る。

ショーペンハウアーは所謂「女の敵」として有名ですが結局彼の思考が所謂子宮思考の敵とならざるを得なかったからなのだと思う。

 

 

尚其の萩原 朔太郎や筒井 康隆には壱時期傾倒して居たことが個人的には御座りました。

 

即ちショーペンハウアーの思想は決して眞っ暗なものでは無くむしろ眞の意味での光のありかを我我に対し指し示すものなのだと思う。

ところが其の「眞の意味で」と云う部分こそがミソでもある訳だ。


「眞の意味で」と云うことこそがまさにキリストの如くに磔刑死したり佛陀の如くに國や👪を全部捨て出家せねばならぬものなのである。

 

 

漱石は自殺直前の授業中、藤村に「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っていた。この事件は漱石が後年、神経衰弱となった一因ともいわれる[26]

 

其の漱石が何故か藤村の死に関係して居る部分こそがある種面白い話です。

 

ですが漱石自身もまた精神を病む程に悩んだ訳ですので元より其れは漱石の責が大きかったと云う訳では無いことでせう。

さて其のインテリ思考程柔軟性に欠ける訳なので個人的にはインテリさん方はむしろなるべく長生きすべきものなのだとも思う。

 

即ち時の流れの集積により解決し得る悩みの部分がまたあるのではなからうか。

 

で、たとえ70歳まで生きて其れでもって自決するのと20歳そこそこでもって何処かの滝から飛び降りるのとでは其の内容が違うとわたくしは考える。

つまるところは其処での精神的な成熟度がまるで違うことでせう。

 

其の精神的な成熟度こそが時間が解決するものなのだ。

また還暦まで生きればまず知識も智恵もまず身に付いて来ます。

 

 

個人的には五十代までは其のことも分からなかったのだけれど最近になりようやく其のことが實感出来るやうになって来たところです。

 

以前にも申しましたが人間は動物とは異なり抽象的な概念の世界を生きる生命です。

其の抽象的な概念の世界の構築には必然として膨大な時間がかかります。

 

逆に申せば動物が「今の其の時」だけを生きて居るのは其の抽象的概念を規定する能力に欠けて居るからです。

 

だから特に凡人が早死にすると或は動物としてだけしか死ねないのではないかしら?

まあ其れも天才の場合には其の限りでは無いのやもしれませんが…。

 

さても其の漱石の悩みもまた天才としての壱級品です。

つまりは其れはかのゴーガンやショーペンハウアーと同じ位に悩んだと云うことです。

 

 

人間とは苦悩する存在であり、同時に、苦悩に耐える存在 | フランクルの「名言」に学ぶ心を強くする考え方 | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)

 

こちらはなかなか良い記事で「ホモ・パティエンス」(Homo Patience)と云う概念やと「苦悩とは人間の業績」云う言葉には感銘を受けました。

 

其のフランクルの『夜と霧』を読んだのは四拾五歳位のことで確かに其れはまるで宗教を超越するかのやうな心理學の書でした。

 

ーそして、もうひとつ大切なことは、現在の悩みが誰かの役に立つのだと信じることです。未来の可能性を否定しないことです。

もし、今の悩みを解決できたら、それは「知恵」となって、将来的に同じ悩みを抱える人を救う可能性があります。ー人間とは苦悩する存在であり、同時に、苦悩に耐える存在 | フランクルの「名言」に学ぶ心を強くする考え方 | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)より

 

個人的には現在の個の悩みはあくまで将来の自分に取り役立つのだと思う。

其の「知恵」の方もまた然り。

實際には天才級の知性でもない限り其れは人の役には立たないですね。

 

其れと個にとっての同じ悩みと云うものは厳密には存在しません。

即ち我の悩みとアナタの悩みはまた別のものでどだい其の悩みの解決に対応する宗教などもまたそれぞれに違うものです。

 

である訳なので究極的には自分の悩みは自分でもって悩み其れもなるべく時間をかけて悩み其れでも解決出来ないならばキリスト様や阿弥陀佛様に救って頂く他ありません。

ですが、其の前にまずは己の知性や悟性をトコトン磨き込む必要があることでせう。

知性及び悟性を磨き込むにはある程度孤独な修行の場が必要ですので、「外の世界に向けて自分を開いておくこと(世界開放性)」ー以上よりーだけに拘ると自己が雁字搦めにされむしろ其れを見失いがちです。

 

どだい内向的な人に取り無理に社會的自我を形作ることはむしろ危険な行為となります。

ですので内向的な人は内向的に考え其れもなるべく長く考えたとえばゴーガンやショーペンハウアーのやうなことを述べてもまた良いのだと思う。

 

つまり其れは何も前向き思考ープラス思考ーだけが正解なのでは無く、むしろ時代背景などによっては後ろ向き思考ーマイナス思考ーが大きな励ましとなる可能性もまた高くある訳だ。

ですので其れは元々どちらがより優れて居て正しいと云う問題なのでは無く元来どちらもバランス良くあることが大事なのであり逆に文明の病気とは其のプラス思考ばかりを延々と述べるまさに其の部分にこそあらう。

 

ですが其のナチス強制収容所に於いては確かにプラス思考で居た方が生き残れた訳だった。

 

とのことで、僕の主張点とは、

 

1.人間は皆悩む

2.悩む奴は大抵頭が良いのですぐに滝から飛び降りやうとするが其処をガマンし還暦まで行けば君の精神は何とかモノになる

3.悩むのこそが藝術であり哲學であり宗教である

 

とのことでした。

 

つまり其の悩みを耐えて長く生き続けることで「精神的業績」が其処に刻み込まれて行く訳だ。

うわあー、其れもなんかイヤだなあ。

其れもなんかかう思い切りアカデミズムの世界、其れも所謂主知主義の世界のやうで…。

 

いやさうでは無く其れは社會とは基本的に関係の無い君自身の精神の開拓のことだ。

此の際耐えて耐えて耐え抜いて其処に精神の樂園を築かうではないか。

 

でも相変らず政治がこんなですよ?

しかも學者もまたこんな御用學者ばかりですよ。

 

いやだからあくまで其れは社會の話だらう。

其の社會こそが最初から馬鹿だとさう思って居れば余計な苦しみを其処から与えられずに済む訳だ。

 

 

でもソレ何処かがオカシイですよ。

さうかなあ。

 

六拾弐年もかけてようやく此処まで辿り着いたのだったが何処かが変かい?

 

 

「いや、其れは変では無い。」

おや、誰だ?

 

たった今さうして言葉を発したのは誰か?

まさに其れは彼ショーペンハウアーの霊の御言葉でした。

 

さうか、今まさに僕を助けて下さったのだ。

さうして悲観する彼ショーペンハウアーの言葉はむしろ滝壺へのインテリ層の投身を制止して呉れるのだった。

 

 

 

其のヘーゲル弁証法より以降は所謂進歩史観が確立されて行く訳です。

ですがショーペンハウアーの思考に限りかうしてほぼ其れを否定して居るかのやうです。

 

そんなショーペンハウアーもまた大學ではまた失敗した訳ですが壱方では其れにめげずに「生の哲學」に連なる業績を哲學的に遺し意外と長生きした上でまさに「👩の敵」として其の生涯を閉じました。

わたくしは其のショーペンハウアーの哲學をこよなく愛し且つ彼の思想を心より尊敬して居ります。

 

また其のHegelの顔こそが實は大嫌いなのだ。

もう其の肖像画を見詰めるだけでイヤでイヤでたまらず、対してSchopenhauerのお顔などは稀なる優しい御爺ちゃんだなと素直にさう思う。

 

さても僕がもし死んだら是非其の『存在と苦悩と共に遺体を焼いて頂きたいものだ。

さうだ、今のうちにさう遺言して置くとしやう。

 

流石に哲學詩人だけあり好きな本が實にカルトなものですね。

でせう。

こんな本はもう誰も読んでなど居ませんよ。

 

眞面目な話、本当に苦しい時に私の心を救って呉れたのは宗教に類する本では無くまさに其のショーペンハウアーによる書なのであった。