元来ほんたうの意味での悲観主義こそが楽観に通じ、逆に表面的な楽観主義は真の意味での悲観を招き易い。
ゆえに悲観的な見方もまた必要不可欠であらう筈ですが近代以降はあへて其の非観を遮断することでまさに魔法のやうな文明を築き上げて来た。
では悲観は即悪いことなのだらうか?
いや、悲観こそが生に真の意味での深みまたは彩りを与えるものでせう。
謂わば其の両義性こそが生を豊かに彩るのです。
ただし真理は其の両義性を超えて一元化することを勧める。
でも一元化などした人は人類に二、三人ばかりのことで我我凡俗の徒が目指して成るやうなものではない。
わたくしにとっての限定の思考はむしろ其の両義性をこそ大事にすべきだと云う考え方のことです。
また、与えられる今を欲望に基づき生きるのではなく過去と未来を踏まえた上で理性的に生きやうと云うものだ。
何度も申して来て居りますが現代社会は理性の自己矛盾性に深く蝕まれさうした時の流れを見失いつつある。
其の様は即物的でしかも享楽ー欲望中心主義ーに傾き過ぎて居る。
謂わば理性的判断力を見失って仕舞って居る。
だから今一度理性の力を其の真の力を取り戻すべきだ。
言うまでもなく楽観と同時に悲観の力をも理性は兼ね備えていなければならない。
即ち合理化により理性を一方通行になどして居てはいけない。
ただし其の修復はなかなか難しいことでせう。
謂わば近代自体が理性の自己矛盾領域なのでなかなか其の愚に気付くことは出来ない。
そしてショーペンハウアーの哲學には其の両義的な意味が込められて居る。
人間社会の本質や生の意味に関しては常にネガティヴながら世界の把握と其処からの避難に関してはまさにポジティヴな面さえをも宿す。
其れこそは大いなる悲観が大いなる楽観に繋がるといった面なのでせう。
言うまでもなく人間社会はすでに数千年にも亘り人間の恒久的幸福を目指し突き進んで参りました。
然し其の人間の思ひ描くところでの幸福な状態はいまだ実現されて居ません。
尤も近代以降部分的には達成されたのかもしれない。
ですが其の達成と同時に諸の破壊を抱え込むこととなった。
だから其れは決して長続きはしない欲望の成就です。
其れは無理を重ねて生み出したところでの高級なーとされるー価値の創出であり夢の実現です。
と云う事は、其の人間にとっての幸福はさうした限定的なものでしかない。
さう其れはまさに乞食の夢の如くに儚いもので、しかも其れが達成されればされたなりに欠乏が生じより強い欲望に捉えられて仕舞う。
丁度近代が様々に欲望を実現したにも関わらずより高級な何かを、より強い欲望に捉えられ其の飽くなき欲望の今を、其の欠乏の今を生きざるを得ないことそのものだ。
だから其のやうな様をショーペンハウアーは苦の連続であり全的な幸福のー真の幸福のー実現ではないと断じて居る。
其のやうな渇望の今を生きざるを得ないのが人としての性なのであり、であるからこそただ生きて居る状態にあるだけでは本質的な幸福には至り難い。
また生の意味とは元々其のやうなものであるに過ぎない。
其れは苦悩の現象化であり目的なき努力の客体化である。
少なくとも理性にとっての生が無目的かつ不可解なものであるやうに、或いは不条理かつ割り切れない思ひの連続であるやうに、其の困難の連続の中には元々救ひなどなくあるのはただ不断の努力を強い尚且つ其れに対して見返りさえなき苦の連続のみである。
また其の苦痛の様は自然界と人間界の区別はなく、自然は自然で渇望に対して悩み苦しみまた人間は人間で渇望に対して悩み苦しむ。
ただし人間の場合はたとへ衣食住が充たされて居ても尚且つもっと欲しいものがあり其の過分な欲に捉えられより強く苦しむ羽目に陥る。
人間の意志は自然の其れに比して必然的に抽象性を帯びる。
其の分より苦しめられて居ると云うことでもあらう。
「意志はあらゆる生命および、無生物の本質であり、人間の意志であるから、世界の本質もまた、意志でなければならない。すべての個体は、それらの根底にある生存への盲目的意志のあらわれであり、本来同一のものである。」
「知恵とは、盲目性を脱却する知性の働きである。こうして知恵の力によって、たとえ一時的であるにしても、我々は意志を制御することができる。根本的な意志の征服はいかにして可能だろうか。第一に、意志は生殖本能によって、もっとも強烈に現れるから、生殖意志を完全に遮断する。第二に、利己心の絶滅である。童貞、素食、清貧が完全なる意志制御の三大要件である。 」
其れが理性=非合理を解する理性による反省の領域である。
まさに倫理であり道徳であり宗教である其の精神の領域が其の意志の盲目性を閉じ精神の働き、魂のあり方を其処に浄化する。
其の反省に基づき精神のあり方と行動を統御する。
そしてつひには意志そのものを疑う。
欲望の表出につき反省と云う形での理性による否定を行う。
ちなみに釈迦が目指したのもまずは此の禁欲であった。
何故其処で禁欲が必要だったのかと云うと人間が自然とは異なる領域を生きる意志そのものであったからだ。
対する自然は禁欲など必要とされて居ない。
何故か?
彼等の欲は自分を壊すものではないからだ。
だが人間の欲は全てを破壊し尽くすに足る強欲のことだ。
尚其の欲の本質は女の方にあるとこれまでわたくしは述べて来て居る。
だからこそむしろ生涯童貞の方が良い。
正直な話女には縁しない方がより真理には通じ易くもならう。
そして粗食、謂わば御飯に味噌汁に漬物、是非コレでもって生きていかう。
しかしながら、御坊様が其れを続けて居たところ体の各部がボロボロになって夜にコッソリと精のつくものを食ひに出掛けて居たとの話を聞いたことがある。
だからちゃんとタンパク質は摂るべきだ。
特に夏場はうな丼、コレで決まりだ。
嗚呼、本年もまたうな丼を食ふべき季節にさしかかり何やら我はソワソワとし始めて居る。
今年は是非にもかのうな川のうな丼を食わねばならず、其れでもってまたもや自転車で買いにいくのであるが兎に角距離が遠くおそらくは七、八キロはあらう。
しかもこのやうな炎天下のもと自転車で還暦前の年寄りが買いにいくとなるともはや其れはショーペンハウアーの哲學以上の一大事である。
さすれば粗食ならぬ美食の禁を犯すこととならうがハッキリ言って其れは女犯の罪よりは幾分かましといふものじゃ。
さらに清貧!
清く正しくお勉強を重ね常に貧しくあれ。
でも貧しいととうていうな丼などは食えぬ。
だから人間の欲は全てを破壊し尽くすに足る強欲のことだ。
そして其の利己心の絶滅及び童貞、素食、清貧はまさに女が嫌ふものばかりだ。
尚わたくしの欲に対する考え方は抑えることが出来るものだけをやろうと云う考え方である。
元より性欲と食欲は共に抑えがたいものである。
だから性欲の代わりに食欲で其の飢えを満たす。
両方やると多分地獄に堕ちやう。
出来るだけ其の満たす項目を少なくする。
だが知識欲並びに物欲さらに食欲が全開の我はもはやとっくの昔に地獄行きじゃ。
だって其の三分野とは何故か切っても切れないご縁がありましたゆえ其処はどうにも致し方御座いません。