目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

ショーペンハウアーと共に考える夏休み


女の不滅の欲望=不滅としての意志の発現である。

すると其の不滅であることこそが生を構成する絶対の要件なのやもしれません。

と云う事は、そんな不滅の欲の持ち主に限り現世に於いてメスとしての役割が与えられ欲望の未来を形作る為の生殖行動が行われていくのです。

逆に言うと男性は其処までの強欲ではなかったゆえに女には生まれやうがなかったと云う事ともなる。



だとすればコレはもう大変なことです。

あくまで真理に対してはメス共は皆悪魔だと云う他御座いません。

また其処では近代の平等主義だの何だのがバカらしく聞こえるだけのことともなりましょう。

尚、古来より女に対するこうしたものの見方は明らかにタブー化されて来て居たことだったろう。



勿論表面的に社会では女性を卑下するやうな考え方がむしろ長く続いて来て居ました。

近代以前はむしろ其の事が当たり前に行われて居たのでした。


然し其れは真理から導かれたところでのごく自然な考え方だったのでしょう。

要するに女こそは悪魔なのだから抑え付けて社会なり男性なりに対して服従させておけば良かった。



其れがむしろ物凄く上手くいって居たものと思われる。

第一魔女、当時は女など魔女として火あぶりにされることも屡でしたので何処にも欲望を解放して居る間など御座いません。

勿論わが国でも農作業に子育てに飯炊きにとしてこき使われて居る女共は常にいい子=聖なる母で居られたのでありました。



だから兎に角大事だ。

欲を抑え家庭に奉仕する女の姿こそが自然の摂理が求めるところでの女としての最重要の要件だ。


逆に其れが女の邪な本質への贖罪の機能を果たして居たのだ。

だから近代主義の蔓延により其のタガが外されれば必然的に女の魔性が即暴れ出す。



其れでもって低級な欲望の高級化が至るところで見られるやうになり生の価値の低レヴェル化が社会に蔓延しても参りましょう。

最近現代人がアホ化=幼稚化して居るのは其の子宮思考を野放しにして来たことのツケなのでせう。




ですがね、女は優しいものでもまたある。

あくまで利己的ですが所謂無償の愛の部分をさえ持ち合わせて居る。

其れが聖母としての女の愛の側面です。



女は誰しも、場合により悪魔または鬼でありまた場合により聖母または菩薩でもあり得る。


勿論本質としては悪魔ー鬼ーそのものでまさに邪悪な欲望の持ち主ですがそれでも生の推進者=不滅の欲望の所持者であらうことは疑うべくもない。



さて愛の意味=限定の解除=利己主義

と云った事ですね。



其の利己的な範囲に限り女は聖なるものと化しましょう。

だから生きる為には女が必要だと云うことに結局ならざるを得ない。


なんとなれば其の不滅としての意志は男性では絶対に得られないものだからです。



本質的に女が強いのは、其の生への意志の不滅性に於いてです。

本質的に男性が弱いのは、其の生への意志の不滅性に欠ける点に於いてです。



謂わば男性は脆いが、女性は堅固だと云う事になる。

脆いから男性は何かのマニアになったりもすぐ致しますが、堅固な女性は其の不滅の欲望だけに興味がありつまるところは子孫繁栄位のことしか興味が無い。


尤も近代化が性の破壊を進めて来て居りますゆえ、まさに困ったことに近頃ではマニアックな女性が増えて来て居るやうです。




尚男性は総じてロマンチストなので夏休みは大好きですね。

山へ籠ったり海へ潜ったり虫取りをしたり滝登りなどしたいです。

或いは滝行なんて云うのもなかなか乙なもののやうですな。



此のロマンチストと云うのは或は美への接近のことではないだらうか。

其れは愛ではなくあくがれのやうなものだ。

美へのあくがれ、其の美との抱擁であり愛撫である時間のことだ。



其の美と云うものは人間の拵える美とはまた違う、まさに源を別に持つ現象としての美のことです。


ちなみにわたくしも延べでもってして三十年程は自然と付き合って来たことかと思いますが、結局自然は言葉を持ちませんので美そのもので居られるのだらうと其処でさう思う他御座いません。

其れでもってして感じられるものであることが自然から癒される最も大きな癒しです。

謂わば思考以前の世界であることが其の癒しとしての内容です。


ただし最近は人間界と関係を持ち過ぎでもって自然のさ中に埋没する暇が無く実は其れが筆頭としての悩み事です。

ズバリわたくしは人間嫌ひですので夏になると余計に自然が恋しく感じられ山奥の何処かへ早う逃げ出したくなる。



自然の意志と云うのは人間界の哲學のやうにややこしいものではなく実直かつ疑いを差し挟む余地のないものである。

無論のこと其処には利己主義が蔓延して居ります。

また其れが不滅の欲望としての意志そのものでもある訳だ。



ですが、元来さうした自然の営為を理性的に規定し批判の対象となす根拠などどこにもない。

自然もまた盲目的な意志の発現の場であり不滅の欲望の現場なのですがあくまで其れはひとつの完結した世界であり小宇宙である。

自然が自然自体を壊すことはなくしかも其の意志としての発現に疑いの眼を向ける訳でもない。

謂わば何も加えず何も奪い去ることなく其れ自体で完結する美としての究極の営為である。



其のやうな完璧に近いものに対してどんな言葉でもって対峙するにせよ元より其れは無意味なことです。

いや無謀なことであるに過ぎぬ。



言葉つまり文化は人間と云う一種の奇形生物、或いは劣った現象がさうした美そのものに対し投げかける羨望=あくがれかまたは呪詛のやうなものであるに過ぎぬ。

ただしあくまで文化は其の美を捉えましょう。

其の美を捉えることが出来ないのは科学=合理主義の方です。



体験から言えばまず自然は身ひとつでもって感ずるべきものです。

其れは数式或は化学反応式で示される合理的な関係性などではなくむしろ神仏にもほど近い現象のことだ。



其の感ずる、ことは無論のこと女性にも可能です。

いやむしろ女性であるからこそ其処から感ぜられることであらう。


其の美を感じ取った女性は其処で女であることを超越し聖母様観音様の領域へと限りなく近づくのだ。



ところが、何故か女は何も無い、木だらけ岩だらけ波だらけクラゲだらけの山や海のことが本質的に好きではありません。

また虫や蛇などの気持ち悪いものも好きではない。

さらにスポーツなども本来は好きではない。

其れ以上に武器の類が兎に角嫌ひである。



第一モデルガンなど女は誰も持っていやしない。

サバイバルナイフにしても然り。


だがリカちゃん人形は流石のわたくしでもまるで興味は無い。

第一わたくしは人形が好きではない。

何せ人間が好きではないゆえ。



どだい何故女はあんな山奥の良いところからからわざわざ都会の方へ出て来さうして腐ったものに縁したがるのだ?

だから其の女の欲望の持ち方の誤りを治すには自然が最適であるとさうわたくしが今述べて居るのだ。



不滅の欲望=不滅としての意志の発現はまさにとんでもない罪障を抱えて居りそのままで即魔性として何処でも通用する。

宇宙の何処に於いても其れは普遍的に通用する罪障つまりは罪深さのことじゃ。



であるから其を断ずる為にはまず女であることを捨て去る。

即ちSEXを断ずる。

するとやがてはマニアのやうな女にならう。



そのやうになったところで、是非自然の好きな男性に摺り寄っていく。

すると其の彼が貴女を山の中へ海の中へと連れていかう。


其の時に汝は思うであらう。


此の男に連れ回されてこんなに遠くまで来て仕舞った。

あんなに町の灯が遠く揺らいで居る山奥まで連れ込まれた。

アア、早く都会へ戻りたい。

コンビニやスーパーが沢山ある都会へ、アノ人が目一杯居る欲望の園へと戻りたい。



だが兄ちゃんはあくまで其の山の中で野宿をする算段である。

そして飯盒炊爨をしてカレーライスを作るつもりである。

さらに強力な電灯を点けて白い幕を張る。



すると其処には何とデカいクワガタムシやカミキリムシや巨大な蛾などが集まって来たのだった!

其のやうに男性と云う野性から女が学ぶべきことは山程もあらう。



即ち生殖行動=子孫繁栄=不滅の意志の発現といふ現実味ばかりに捉われて居る汝が頭の中身を自然の僕となりし彼が其の根底から覆すのだ。

しかもそうでもしなければ女の現実性=現在と未来への強い執着を覆すことなどとても出来やしない。



即ち普通にして居るだけでは女の利己主義を粉砕することなど出来ない。

しかも聖母であり菩薩であると言っても其れはあくまで自己としての範囲内でそうだと云うことなのであり畢竟其れは真の愛などではあり得ない。

よって男性の持つ強い美へのあくがれや、本質として抱え込んだ欲望への不滅性の無さ、現在と未来への弱さ=脆さを外部から取り入れることで初めて女の心はまともに成り得やう。



真の愛の意味=限定=普遍的な愛の成就

愛は利己的なものを離れない限り矛盾化して其の愛をも破壊しかねない。

宗教の説く普遍的な愛は例外なく女の持つ利己的な精神の遺伝子=不滅の欲望をば遮断=限定する。




ただし其の限定は夏休みにも成就し得る。

ただしくれぐれも山や海で決してふしだらな行ひなどしないやうに。


山や海ではむしろ厚着をして化粧も無しでそして虚栄心や承認欲とはオサラバしましてや女であることなど全てかなぐり捨て生きよ!


すると其の不滅の欲望にごく僅かな変化が生じ便利過ぎる都会が嫌ひになったりたとへばかの加藤 登紀子のやうに原始共産主義者になろうかと考え直してみたり或は虫マニアまたは魚マニアまたは石マニアになろうかと思ったりするものだ。



そしてキャンプファイアーを囲んで山の歌を歌う。

キャンプファイアーは逆に汝が其の根源としての生への盲目の意志を鎮める力にこそ満ちていやう。


いや、そればかりではない。

夜の帳が其の真の闇がそして渓流のせせらぎが波の音があらゆる欲望のいかにもメス的な欲望の如何に虚しいものであるかを、其の欲としての欲が如何につまらないものであるかをむしろハッキリと汝が頭に刻み付けても下さらう。



自然の美、コレこそが女の持つ本質的罪障を変質させるに足る唯一の方策である。

ゆえに女は家事ばかりこなして居てはならない。

また有害な映画や本などを読むことなく、そしてたとへ利口でも大學などは勿論行くべきではない。



そうではなく自然から学ぶ。

そのやうにして其の不滅の欲望をば放逐せよ。


そのやうな女が我は好き♡じゃ。

そして自然が好きな人間は皆好き♡じゃ。



だがうな丼だけは買いにいかねばならぬ。

しかも購買予定日には雨が降りそうである。

最近はどうも体が重くて何せ83キロもある。


だが実はそんなにデブには見えない。



限定された自然は美しい。

限定だからこそ美しい。

限定が解除されし文明の有様は醜い。


女よ、そんな文明の醜さに染まること勿れ。

自然の中に遊び、自らの醜さを見詰めそして生の意味を其処に再発見するのだ。

男性の価値観=藝術=言葉の世界の中に埋没し其の盲目としての不滅の欲望を放逐するのだ。