目覚めよ!

文明批判と心の探求と

女人禁制ー弐ー


ところで近代的な価値観が其の子宮思考により概ね規定され切って居る可能性が高く存する。

近代的な価値観に於いては其処でただひたすらに生への肯定乃至は崇拝が行われて居やう。

しかれども其の様自体が実は子宮の欲望そのものなのである。

つまり近代以降の生の推進者とはまさしく其の子宮の欲望そのものなのだ。


其の子宮の欲望により生は唯物主義化され表面化されるに至る。

生の意味の深部が其処に剥ぎ取られまさに食う、寝る、遊ぶと其れに対置される形での働くと云う社会的な義務が課され其の枠内だけを生きるやうになっていく。


然し同時に其の枠内では欲望を成就する為の諸の変革が為され生の履行に特化する為のあらゆる努力が其処へ投入されるに至る。

言うまでもなく科学とは其の子宮思考による欲望の実現の為の道具であるところでの豊かさと便利さの追求の為の最大の武器だ。



其の科学こそが実は子宮に規定され切って御座った。

ゆえに此の世界は子宮即ちアソコが駆動して居り究極的には其の子宮の考へこそが何もかもを統御して御座る。

つまりアソコにしてやられて仕舞って御座る。

左様にアソコにしてやられて御座るのが此の世界の根本での推進原理だ。


元よりアソコなどもう腐って居らうが其のやうになって居ること自体はもはや如何ともし難く其のことは神仏と雖ももはや変えられぬことだ。

だからアソコを認めやう、或いはアソコを触ろう、ではなく考えやう。



危惧される点はアソコが求める生の要件が須らく即物的かつ表面的であることだ。

ゆえにアソコ的な世界観が蔓延すればする程資本主義は欲望にかまける形で自然を破壊し近代主義は矛盾を拡大するにも関わらず世界を席巻していくのだ。



と云う事は兎に角近代的な価値観とは其れ即ち女の価値観のことなのである。

然し果たして其れで良かったのだろうか。

良し悪しで云えばあくまで其れは悪いのであり同時に明らかに邪な展開なのである。


わたくしの場合其れが宗教的な世界観の衰弱と共に齎されたとさう考えるに及んだ。

従って論理的には矢張り世界は破滅に向かって進んで行くと考えざるを得ない。


論理的にはあくまでさうでしかも現実的に諸の限界を突き付けられ物理的にももはや地球はおかしくなりつつある。

わたくしは其れを子宮思考の推進による破壊としての必然の過程であると結論付けた。

ゆえに子宮こそが地球の破壊を齎す破滅の揺り籠なのだ。



こんな矛盾は他にはなくまさしく其こそが言語を絶する悪夢としての矛盾的実相だらう。

わたくしは此の破壊の構造そのものを社会構造や宗教と云った人文、社会科学的な手法で分析していった。

然しどこまで行っても最終的には問題の底に子宮即ち女が居座るのだった。



其処でもしや地球は、其の地球の本質は女なのかもしれないと考えるに至る。

女の敵は女だと屡云われて居るが如くに女は心の底で他の女を敵視して居るものだ。


おそらくは利己性が強い為さうなることであらうがであるならば人間の女にとって地球はむしろ敵として認識されて居るのかもしれない。


まあ確かにこき下ろしも此処まで来るとまるで凶器にて抉って居るやうなものだが女に対するさうした認識はむしろ前近代に於いての普遍的な了解であった。


前回確かにわたくしは心理としての女の本質的罪障の消滅は愛の普遍化ーたとへ其れが子に対するものに限られて居るにせよーにより成ると述べた。

其は自己愛のみに捉われた女などよりも救われて要るなどとも述べた。


ところが結局其れは自然に対しては投げかけられるものではないのだ。


どだい女は虫やら獣やらが徘徊する自然よりも三越高島屋でのお買い物の方をこよなく好む。

そんな自然なんてそも興味ない、山奥なんて大嫌ひでいつもキレイにしていられる近代的な生活だけを好む。


だとすれば矢張りと云うべきか女は近代教の信徒でありそればかりか近代的な欲望の諸価値を形作って来たのがまさしくさうした心性なのだ。

ゆえに近代は女の欲望が組み上げたのである。


近代こそが其の女の欲望即ち子宮思考=アソコの価値そのものなのだ。



ああーもう怖い。
兎に角怖い。

怖くてもはや外を歩けない。

何が怖いと言って兎に角女が怖い。

或いは女性恐怖症の域に入りつつあるのやもしれぬ。


兎に角アソコが怖い。

一体どうすれば良いのだ?



そんな時には矢張り宗教の方を向くほかない。

神に祈りを捧げ或は佛に向き直り此の心の中の葛藤をそして悩みを訴えていくほかない。

さてでは場合により何故女人を禁忌しなければならないのか?





仏教は、性欲を含む人間の欲望を煩悩とみなし、智慧をもって煩悩を制御する理想を掲げている。そのため出家者の戒律には、性行為の禁止(不淫戒)、自慰行為の禁止(故出精戒)、異性と接触することの禁止(男性の侶にとっては触女人戒)、猥褻な言葉を使うことの禁止(麁語戒)、供養として性交を迫ることの禁止(嘆身索供養戒)、異性と二人きりになることを禁止(屏所不定戒)、異性と二人でいる時に関係を疑われる行動することを禁止(露処不定戒)など、性欲を刺激する可能性のある行為に関しては厳しい制限がある。
また修験者は、半僧半俗の修行者であるが、その場合でも、修行中は少なくとも不淫戒を守る必要がある(八斎戒の一つ)。
ちなみに在家信徒も、淫らな性行為は不邪淫戒として禁じられている(五戒の一つ)。また在家者も坐禅念仏などの修行に打ち込む期間だけは不淫戒を守ることが薦められる。以上より引用



そも仏教では何故女から離れることが説かれて居るのだらう。

其れは此の世が一切皆苦の世界であり其処では何ひとつ思うやうに満足出来ない世界だからなのだ。

其れも人間の性格=性質や地位や財産の有無の違いなどに応じてそれぞれに思うやうにならない世界なのだ。


だから億万長者は億万長者で其の金を使い切る前に死を迎へざるを得ない。

即ち地位や財産を得ることで人間は本質として幸福となれる訳ではない。

また便利な生活が人間をして本質として幸福に導いて呉れる訳でもない。


よって此の世の本質は苦の集積である。

まさに生まれるのも苦で、生まれた後も苦で、さらに死ぬ時だって苦である。


其のやうな全的な苦の過程こそが生の実相だ。


其の苦の集積に対し疑問を投げかけ生自体と格闘し其の価値観を粉砕するに及んだのが本来の仏教としてのあり方だ。


だから釈迦の思想はまさに透徹して潔癖であり非大衆的である。

釈尊は元々全てを捨て去り出家されたのであるから、無論其処では妻や子や財産や社会的責任、などと云った価値に拠りかかることがない。



最近私は其の潔癖さと女の心性と云うものに着目し女性問題に関する考察を進めて来て居る。

と云うのも女性は基本的に潔癖ではあり得ないからである。

何故なら女性は潔く切腹したりはしないのであるし武器なども持って居ない。

男性には生殖器と云うひとつの槍の如き武器が元々備わって居るが女性には其れが無くただ穴と其れに続く子宮があるばかりなのだ。


其の槍を受け容れる穴若しくは子宮に潔癖さと云うか神経質な部分は元来不要なのではなかったか。

わたくしは男性の方が女性よりも遥かに潔癖と云うかより神経質だと思って居る。

其の生体としての性格上の違いが価値観の違いともなり現れ出でて居るのであらう。



そしてわたくしは其の女の生の苦に対して融通が利く処と云うか妙に現実に対して拘り逆に潔癖なところこそが好きではない。

男性は現実に対しては元々さう潔癖ではなく闘争や切腹、或いは釈迦のやうな思想の開祖である、と云った部分にこそ潔癖なのだ。

環境破壊に対してもおそらくは男性の方がより神経質な筈である。



要するにそんな女の精神領域に対するふしだらな様が近代に於ける諸の自然に対する無遠慮や破壊に対して鈍感な様を生じさせて来ても居やう。

即ち生と性自体にデリカシーを持ち得ないことだらう女の精神構造其れ自体に問題があり其の意味からも古来より連綿と続いて来し女性蔑視と云うか女そのものを抑えつけておく為の伝統こそが重要だった。


だから近代バカには決して分からぬことだらうが女の其の邪な精神性の部分が暴れ出すともはや取り返しのつかぬこととならう。

だからわたくしはかってパンドーラ―の箱はすでに開かれたのだと述べた。

パンドーラ―の箱の中に入って居るものはズバリ子宮の奥の欲望である。




わたくしの女性論、女の本質論はこうした大學の先生方が色々と述べられて居ることとは質的に違う。

わたくしは女性の心のあり方自体に問題があり其れが噴出することのないやう伝統的な価値観はむしろ女性の価値観自体を認めてこなかったのだと解釈する。

即ち肉体的にどうのこうのと云う問題ではなくむしろ精神の領域での問題が女の心には深く兆して居り其れを反古にして近代的に平等である価値観を社会、特に日本をはじめとする東洋の国々の社会に押し付けるべきではない。





さて此のやうに京大の女の先生が近代主義的平等観を楯に女性蔑視を失くす方向への舵取りを希望されて居る訳だが其処には独自の論理と云うかオリジナルとしての考え方をみることは出来ない。

そして其の穢れと云うのはむしろたましひの穢れである。

それに逆に伝統はお産や女性を排除して来たのではなくむしろ真剣に向き合い保護して来たのである。


女性への穢れの観念が出産を排除かまたは貶めて居る訳ではなくむしろ昔の方が一人の女性で六人も七人も子を産み現象としての出産に対してはむしろ保護されて居たのではなかったか。


そして女性への穢れの概念は合理的ではない前近代的な悪習そのものだと云うのではまるで埒が明かぬ。

確かに社会はより効率を求め動いていくものだが近代主義としての平等観により其の本質的な女の抱える罪障と云うか問題点=穢れとしての何かを合理的に反古にして仕舞うことほど危険なこともない。

出来得ればいま一度歴史を勉強し直すなどして或は此のブログをお読みになり学んでおいて下され。