目覚めよ!

文明批判と心の探求と

食わなきゃ死ぬだけー食を哲學するー


元より食ふと云う事は何か余計なことであるのやもしれぬ。

だからむしろ食わないことの方が精神的な営為には結び付き易い。

即ち精神論の方で云えば食わない方がむしろ戦闘や神仏の世界やらに通じて居らう。



食ふと云うのは左様に非精神的な営為のことで煎じ詰めれば其れは唯物論のことだ。

物質的保持、継続=肉体の保持、継続が其の食ふと云うことの目的だ。

そして其の本質は子宮思考と深く結びついて居らう。


即ち子宮は生の継続のみを欲する。

だから基本的に其処で死を受け容れられぬ。


そして其の死を受け容れられぬのが現代社会の価値ヒエラルキーとしての根本義でもある。

つまり進歩の帰結として近代は子宮思考と深く結託した。

いや、近代はむしろ子宮思考そのものとなったのだった。



即ち子宮思考=近代価値ヒエラルキーなのだ。


元よりマニアックなモノの領域は全てが此の近代価値ヒエラルキー=子宮思考に基づいて御座る。

だから其は一面で一種低級な価値であり世界観のことであるに過ぎぬ。

しかもより精神的に生きれば生きる程さう了解されて来やう。



だから詩人にとってはマニアックなモノの領域は須らく低級である。

わたくしの中の其の精神の権化としての詩人から見詰めれば所詮はさうなる。



精神の世界で曰く、人はパンのみにて生くるものに非ず。

人間は腹がくちくなればなる程心の方での飢えがむしろ酷くなる。

だから人間にとっての食欲は人間にとっての最終的な命題ではない。



事実釈迦もキリストも食ふことには実に冷淡であった。

だがキリスト教では最後の晩餐だの聖餐だのと屡云われ即ち飲み食ひすることと真理の世界がしかと結び付くに至る。聖餐


そして実は仏教でも食ふ事と悟りとは無関係ではない。

事実苦行の後に肉体的にボロボロとなった釈迦がようやく体力を回復し得たのは村の娘が呉れた乳粥を食したことによってのこと。


だが宗教では屡断食が行われる。

特にイスラム教では所謂ラマダンと云う断食の機会が設けられ屡其れに従いものを食べない日が設けられる。



   

では何故其の断食が必要なのだらうか。

其れは聖なるー精神性の高いー認識の領域に於いて必然として求められるものだ。


逆に言えば其れは俗なる認識の領域に於いては理解し難いものとなる。

たとへば大衆的認識=無明の世界に於いて断食に於ける精神性の追求を理解することは極めて難しい。

さらに合理主義にとり断食に於ける精神性の追求を理解することは極めて難しい。



其の意味では大衆的認識と合理主義の精神のあり方の根の部分はほぼ相似形である。

合理主義は大衆的認識によらず近代的発明を為し文明を進歩させたので偉いと思われがちなのであるが実は大衆のバカ=合理主義のバカなのでありつまりは共にバカであることにまるで違ひは無い。

其のおバカの堆積物、其れも近代三百年ものおバカの集積物として現在の食文化が形成されて居やうことはほぼ間違ひない。



ではあるが、其処で全的に食欲を否定すれば即人間は死に至るだらうことが必定。

つまるところ食欲は性欲と似た者同士で其れを否定すれば即死の領域に捉へられて仕舞ふ。



ただし一般に食欲の方がより制御しにくいのだとも言えやう。

何故かと云へば食欲を断てば即個は死んで仕舞ふからだ。

が、性欲の方は断てない訳でもない。

即ち其処で生殖器を制御することにより性欲の克服が可能だ。



だからどちらの方がより根源的な欲望なのかと云う考察に於いてどちらなのかが分からなくなる。

結局其れはまるでニワトリが先かタマゴが先かと云う類での問題となるのやもしれぬ。



だが欲の性質として良く似たものであると云うことだけは確かだ。



其れでは物欲と食欲との関係性、さらには物欲と性欲との関係性に於いてどうなのかと云う思考もまた成立する。


然し物欲は元来余分なものなのだらう。

即ち食欲や性欲に比せばあくまで其れは二義的な欲でありだからマニアックなモノなど無くても生きてはいけるが食べないと死ぬのはまず間違ひないこと。

性欲が無くても死にはしないが食欲が完全に遮断されれば一カ月も持たずに多分人間は死に至る。



他方で性欲を否定すれば即其処で未来は閉ざされやう。

逆に言えば食欲でもって保存され得るのは現在としての個のみだ。

さういふ意味では性欲とは時間を支配するー個としての意志が未来を支配するーことでもある。


然し死んで生きると云う事はあくまで其の未来への意志の継続を望まぬことだ。

其は逆に理性としての意志の否定のことなのだ。

だから真のお利口さんは此の世に子孫をのこしたりはしないんだ。



幸か不幸かわたくしもまたさういう考へなのでむしろ絶対に子など要らないんだ。

だが若くて美人でしかも敬虔な仏教徒キリスト教徒の姉ちゃんから結婚を迫られた場合には其れに応じない訳でもない。

でも何せハードルが常に高いですからね、特にわたくしの場合には。

なのでまず其れは無い。



ではあるが、ひとつびっくらこいたのは、二年前に辞めたウチの病院の駐車場係のジジイのことである。

このジジイは当時65歳だったが、まさに其の齢の通りにいや其のトシ以上に老けて御座り兎に角皺くちゃでもうどう見てもタダのジジイにしか見えぬ。

ところが此の爺、何と11歳の息子が居ると云う事が発覚した。


其れも辞めてから発覚したのである。


さう言えば記憶として引っ掛かるところが無いでもなかった。

其の爺がだ、時折妙にめかし込んでイソイソと帰り支度を始めることがあった。

しかも其の折には決まって妙に洒落た服を着込んでおる。



わたくしは一面では女臭くまさに目ざとくさういう変化を見逃さぬのでコレはもう怪しい、完全にクロだ。此のジジイはこれから女の処へシケ込むんだ。

実は其の種の女の勘のやうなものにも我は恵まれて居り特に女のことに関してはすぐにピーンと来る。


だが正直子まで居るとは思わなんだ。

其れも小学生の子だぞよ。


まあ男性にとり女は理性的に制御出来ないものそのものだ。


どだい好きな女の前に居るだけで男性の心中は常にバラ色であり即ち女の為に金を稼いで来いと言われれば勿論稼いでも来やうし子供を育てよと言われればそれこそ八十にならうが九十にならうが其の通りに育て切る。

謂わば其処に男の沽券、メンツのやうなものがあり即ち責任だけはどうしても取らねばならなひとさう思ひ込んで御座る。


だがヤクザな父ちゃんはそんな養育の義務、扶養の義務のことなどほとんど何も考えず自分勝手に遊び回ることばかりを考えて御座るゆえ特に昔はひでえ親父が多く居て其処ではまさに女泣かせ、嗚呼もうまるで頼りにならぬまるでごくつぶしの父ちゃんばかりでそんな父ちゃんはこんな詩人みたく菓子のことやら理性のことなんぞ元より言ったり書いたりはしなひ。


ただ詩人のヤクザは謂わばもっと怖い思想犯なのでそんな現実的なヤクザな父ちゃんの放蕩より次元の異なる危険さを常に秘めても居らう。


なのでいずれにせよ男性も全く困ったものだ。


尤も男性は皆基本的に子供なので其処に罪は無いのですけれど。

即ち男性に限り本質的罪障からは隔てられて居やう。



さて其の子宮思考が今日も飯を飽きもせずちゃぶ台の上に用意して御座る。

其処で子等はさうして父ちゃんはガツガツと食ひ無論全部平らげる。


何故なら元より食ふことだけが人生なのだから。

食ふことだけが人生なのは実は自然界でも全く変わりがない。

今日も今日とてガツガツと。


さうして獲物を喰らひつつ此の地獄の世界を生き抜いていかう。


嗚呼、一体何と云う哀しさだ。

虚しひ、何て虚しひのだ。


だが其の虚しさや哀しみを其処に感ずるタマシイなど実はほとんど居ない。



誰もが食ふ事、さうして女に縁することに対しほとんど疑問を抱かぬ。

即ち据え膳は、其の目の前の飯とアソコは全部平らげる。

左様にガツガツと食ひ尽くす。



うわー、もはや我慢がならぬ。

何故か今日は幼稚園児の頃に戻って仕舞った。


もうガツガツと菓子を食ふのは止めやう。

また美人妻妄想願望を持つのは今日限りで止めじゃ。



さうして断食をしやう。

釈迦がさうしてキリストがまたムスリムの方々が断食されて居るやうに我もまた断食を決行したひ。


おお、あんなところに欠食児童が!


欠食児童、即ち戦前の日本に於いて特に太平洋戦争の頃に於いては飯を食えぬ児童がそこかしこに幾らでもおった。

欠食した子供は顔色が悪く勉強どころではなくまたさらに女どころでもない。


ところで子宮思考=近代的方法論は此の欠食をこそ根絶せしめたのだとも言えやう。



だがどうもやり過ぎた。

此処まで自由に食ひまくることが果たして人間にとってまともなことだと言えるのだらうか。



尤も其のやり過ぎをこそ宗教は戒めて来た。

釈迦もイエスも共に其の日に何を食うか、どんな美味い物を食うかと云う事につき関わり煩うなとの仰せである。

即ち食欲と性欲こそが制御し難くそうして本質としての悪魔の仕業であらう何かなのだ。



だがさう言って仕舞ってばまさに身も蓋もない。

だからとりあへずは過分な食欲と性欲を断ずることを宗教から是非学んでおくべきだ。


さうして断食の意義こそは実は大きひ。

左様にマイナスの作用からしか學べぬことがある。


子宮思考=近代的思想とは其れ即ち欠食人間に飯を食わせることだけを追い求めて来たのではあったが其れが行き過ぎて仕舞ったことへの反省はもはや其処にしか見出すことが出来ぬ。


現代の飽食の坩堝のさ中では其のことがもはや見えない、決して気付けない。


だが少なくとも其処にこそ気付くのだ。

しかる後に何かを食ふのだ。

さすれば酒池肉林の宴に耽溺することももはやない。



其処で気に入ったものを少しずつ食ふのだ。

生命を維持出来るだけ食ひエネルギーが性欲の方へ回らぬやうにしやう。

だって65歳から小学生を育てるのは其れはもう誰が見ても此の世の地獄だらう。


だから若い姉ちゃんの色香にそんなジジイが惑わされてはならぬ。

尚わたくしの場合は惑わされても構わぬ。

もう若い姉ちゃんの色香と精を吸ひ尽くして逆にわたくしの肉体及び精神を極限まで強化してみたひ。

即ち其処でスーパー詩人となり近代を完全に組み伏せる力をば手に入れやうぞ。


然し精神の方がすでに此処まで来て居るのでどうして居ても俗世間とは自然と離れていかう。


結局食わなきゃ死ぬが食ひ過ぎても即死ぬだけのことだ。