其の潔癖と潔癖でないかが生自体の認否の分かれ目でありかつ性の認否の分かれ目であり+思考か-思考かの分かれ目でありまた死んで生きるか生きて死ぬかの分かれ目なのです。
生きて死ぬ?
そりゃ当たり前のことだ。
いや、当たり前では御座らぬ。
あくまで其処では全的に生きると必然として早く死ななきゃならないと云う事を指して云うて居る。
逆に死んで生きることこそが眞の生を生きて居ると云うことだ。
死んで生きる、と云う事は大衆には理解出来ない。
が、さうした領域はつまり精神の領域が古来より人間界には確かに存して居る。
そも其は唯物論を超えた領域なのである。
宗教はまさに其の領域をこそ現実化せしめるものである。
たとへば子宮思考が唯物論としての究極の姿なのであれば、対する其の精神論こそが欲望を打ち消す究極の道ともならう。
そして事実としてキリストと釈迦は其のやうに死んで生きた。
其こそは動かし難い事実である。
また多くの藝術家は其のやうに死して生き続けた。
死ぬからこそ生きて居た、死んでからも尚生き続けて居る。
まさしく生きて死んで居るのである。
大衆もまた然りだ。
即ちタダ生きて死んで居るのである。
だから此の世にはほとんど何の問題も無い。
実は何処にも問題など無い。
大多数の人々、即ち功利主義的に規定されし人々にとり此の世は善なる悪魔としての破滅過程として万全である。
或いは子宮思考にとり其れは万全である。
ただし其の欲望の謳歌は必然として短期間とならう。
短期間の間科学技術が、さうして子宮が妙に元気に振る舞ひ最終的には滅亡へと追い込まれやう。
文明の寄って立つところでの思想こそが死に至るのが早いのである。
だがそれこそ死して生きて来た前近代的な世界観即ち宗教的な世界観に於いては事実としての悠久の時の流れが存して居る。
近代はたかだか此の三百年のことに限られるが宗教はすでに数千年も続いて来て御座る。
問題が無いのは悪魔が其の運命通りに短期間で滅ぶと云う点に於いてのことだ。
其の悪魔に宗教の違いによる区別など元より存せぬ。
何教でも悪魔は普遍的に存在するのだ。
悪魔が生きて死ぬことにつきもはや誰も同情などしては呉れぬ。
ただ慈悲と愛を除いてはどんな同情も無い。
其れに自然はタダ眺めて居るばかりだ。
まさに此のアホめがと云った感じで眺めて御座る。
生きて死ぬ、のは食って寝て子をなし死ぬと云うことで人間ならば誰しも普通さうなる。
然し死ぬ、と言っても其れではまことに死ねずただ生きるばかりである。
即ち其処では子宮の中身と科学の中身の其の非精神性がまことに死ねずただ生きるばかりである。
故に子宮と近代は死なない、死ぬことなど出来ぬ。
おお、怖い。
其はまさしく不死ぞ。
不死の欲望が其のとこしえの欲望こそが宇宙を蹂躙し続けていくのだ。
まさに何と云う穢れぞ。
これでもまだ女は穢れてなど居ないと仰いますのか。
其処からして子宮と近代は偉い。
嗚呼まさに神の如くに不死だ。
不死だから、其は物自体だ。
物自体はカントの云ったやうに不可知である。
だから悪魔はそのままに生を履行し欲望を解放する。
其の行ひが破滅を招かうがどっこい悪魔は死んでも生きて御座り永遠に生き破滅のみを推進させやうぞ。
其処でキリストが仰いましたとさ。
汝等は邪な眼でもってして女を見てはならぬ。
もし見たひ場合は自らの眼を抉り出して捨てよ。
其処で仏陀は仰いましたとさ。
兎に角生殖器を制御するのだ。
僧侶にとっては生殖器の制御こそが一番肝心である。
尚、かうした宗教による生に対する逆ベクトルの思考こそが死して生きる思考であり同時に放棄の思想である。
では何故宗教は逆を云うのだ、常識の逆を。
根性が悪いのか、其れともマゾヒストなのか。
左様宗教こそはマゾヒストじゃ。
アソコを見ない、いや否定する宗教こそが特等のマゾヒストじゃ。
そもマゾヒストなので、其処でそも生を苦しひものにして置きたひ。
たとへば酒池肉林へと至ることを慎重に避け、さうして自然と仲良く暮らさう。
修行により生殖器を反応しないやうにして生の過程全てを苦行化したひ。
仰せの通りにして居りましたところ枯れ木のやうな人間となりましたが一体どうして呉れやうぞ。
それどころかルサンチマンに満ちた生を其れは形成して仕舞ふと彼は述べる。
だが其れは違ふ。
むしろショーペンハウアーの認識、即ち女嫌ひの思想こそが正しひ。
即ち女を否定して生きることこそが死して生きることの秘訣だ。
そして同時にお買い物を否定する。
さらに食欲も否定する。
最期に息をするのも否定する。
すると死ぬぞ。
死ぬしかないぞよ。
死んだらもう終わりだ。
アソコも何もかも消えて無くなるぞ。
其れで宜しい。
でも其れではタダ死んだと云う事にしかならぬ。
なので其れでは当たり前過ぎて楽しみが無い。
即ちマゾヒストとしての楽しみが何処にも無い。
ではどうしたら良いのか。
死ねと云われたり生きろと言われたりでもうまるで埒が明かぬ。
もっとハッキリと述べよ。分かり易く近代的に理性的に何をどうすべきなのかを言って頂きたひ。
だから云うて居る、死んで生きるのだ。
もはや其れしか生き延びる手立ては無い。
元より生きて死ぬのは潔癖に非ず。
死して生きることこそが潔癖。
全てを神または佛に捧げつつ生きて行く。
地位も名誉も財産も妻も子も全て擲ち神仏に仕へよ。
従って何が此の目の前に迫らうとも神仏のこと以外まるで反応せず。
無論のことキリスト教徒ならば殉教することをも厭わぬ心でなくてはならなひ。
仏教徒ならば正教広宣の為身命を捧げ之に邁進していかねばならぬ。
さうして今すぐに会社を辞め社会を捨て家族を捨て仏壇を捨て墓を捨てあり金全てをかなぐり捨て僧院へ籠るべき。
食べることを止め飲むことを止め大災害と闘ふのだ。
其のやうにして死んでもたとへ死んだとしても名誉は残らうぞ。
いや名誉など要らぬ。
飯を呉れ、炭酸水を呉れ、ペンをお呉れ、そしてタバコをお呉れよ。
さうか、さうか、おまへはまだ生きて御座ったか。
あれ程釈迦のやうにそしてキリストのやうに死んで生きよと言うたがおまへに限りまだまだ修行が足らんとみえる。
ハイ、ではコレが飯でコレが炭酸水でコレがペンでコレが煙草だ。
ちなみに仏教では煙草など禁止だ。
仏教徒は煙草など金輪際服んではならぬ。
ああー、生き返りました。
もう宗教のことは全部忘れた。
其れで良い。
宗教の意義だけ忘れずにしておけば其れで宜しい。
そして死んで生きておけばもはやおまへの眼が女を向くことなど無い。
また大食い、或いは酒池肉林の悪趣に堕ちることなども無い。
然し死んで死んではならぬ。
何故なら死んで死んでは余りに当たり前じゃ。
生きて死ぬのもまた当たり前過ぎてそんなものは楽しくも何ともない。
あくまで死んで生きること、コレこそが生の秘訣であり宗教の奥義だ。
死んで生きることこそが精神を生きることだ。
修道院でもお寺でも皆其のやうにして生きて御座る。
然し大衆は余りにも野放図だ。
兎に角下品過ぎるので其処で次第に精神が腐って来やう。
どだい近代の精神が腐って居ると云うのにそんな下品ではもう滅びて仕舞ふぞよ。
其れでもって兎に角死んで生きるのだ。
死んで生きるのこそが潔癖だ。
死んで生き女を否定する。
すると必然として寿命が短くならうがタダ生きて死ぬよりはずっと望ましい。
其の女の代わりに何かを下さい。
もうすでにあげているじゃないですか、其の知性と物欲とを。
さうして自然との交感力を。
其れ以上を望むのは異常ですよ、異常、欲張りの下品と云うものですよ。
元よりキリスト教でもまた仏教でも生はそのままでは悪いものだとの仰せである。
即ち淫蕩でかつ欲が深くしてしかも嘘つきでおまけに悪の権化そのものだ。
其のやうに世の中も人間も悪い。
其の様やまさに悪魔そのものである。
其の悪魔である悪い世の中を正していくのが宗教の意義である。
腐った世の中を死んで生きてこそ初めて分かる精神の領域がありたとへば其こそが御坊様や神父様、そして修道士の方々の内面世界である。
腐った大衆は宗教的な意義を家庭の中に持ち込むなどして是非其の腐った生の意義を見直していかねばなるまひ。
イエス・キリストはとんでもない変人であった可能性が高く此のやうな史実に基づいた伝記映画など視るにつけても愈々其の変人であると云ふ確信が高まる。
まず言葉と云うか言い回しが変で独特つまりは癖が強い。
常人の精神の位置には居られないのでおそらくは其のやうにしか話せないのであらう。
つまるところ常に物凄く高い位置に精神があり事実神に近い視座をお持ちなのだ、其れも人間の身でさうなのだ。
初期キリスト教は女を足蹴にする宗教かと思って居りしが此の映画を視る限りどうも女共も連れて回り布教活動に勤しんで居たやうだ。
即ち女人禁制ではなかった。
即ち女の価値とは其処にこそ尽きて居らう。
飯炊きと掃除洗濯と子育てのみに尽きて居らう。
しかしながらイエス・キリストが女好きであったと云う話は聞いたことがなく其の説法の内容から判断する限りはむしろ女嫌ひである。
と云うよりもアガペーの視点より常に女を見詰めむしろ本質的に女を大切にされて居たのだと言えやう。
然し女を大切にする余りに女に触るなと云うのでは女の方が実は困って仕舞ひ女はそんなことを云う潔癖な変人の男性が嫌ひなのでイエスはおそらく女にはモテなかったのであらう。
聖母マリヤ様はそんな息子を或は心配されて居たのではなかったか。
しかも磔の刑に処され殺されて仕舞うのであるからまさに女どころではない。
だからイエス・キリストの頭の中身は矢張りと云うべきか明らかに女人禁制である。
が、あくまで教義の上から云えば仏教の方がキリスト教よりもより潔癖でもってして確実に女人禁制なのだとも言えやう。
尚聖母マリヤ様が処女でもってイエス・キリストを御産みになられたのはまさに奇怪な現象である。
然し、其れはある、あり得る、いや、必ずやさうだ。
どだいシッダルタ王子は母マーヤーの脇腹から生まれたとのことであるからそんなこと位は大した嘘では無い。
宗教は左様に合理主義ではない。
事実かどうかと云う事だけが其処で重要とされる訳ではない。
根拠のある道筋にて宗教指導者の精神の内容の高さが其処に示されて居るのであれば其こそは正教だ。
神、乃至佛は合理的に推進される悪魔崇拝の世の中に対する唯一のアンチテーゼであり要するに逆向き思考であり反対意見なのだ。
事実イエス・キリストは当時の常識とは逆のことばかりを述べられて居たやうだ。
憎ひ敵を愛せと仰りさらに財産を皆に分け与えよと云う。
元より此の世には蓄財は不可能で宝とは神と共にある其の心そのもの、つまり天にしか貯め込めないもののことだ。
さうして悪魔の世に子孫はのこさぬ方が良い。
尤もそちらの方は釈迦の考えの方であるが。
此のやうに釈迦とキリストの思想を合体させて論じると此の世界の全てがまことに上手く説明出来る。
流石は人類が生んだ精神の巨頭である御二方だ。
然し合理主義では何も説明出来ぬ。
せいぜい電化製品の解説とか飛行機の飛ぶ原理とか其の程度のことしか分からない。
さう合理主義こそが精神の盲人なのだ。
かように釈迦とキリストはもうコレ以上なく此の世界を御見詰めになって居られた。
全てを見つめ無論すでに女も見切って御座る。
ートラピストバター飴が北海道から届きつひ先ほど食ひました。矢張りと云うべきかコレは美味い!
トラピストバター飴は修道女の方々が作って居られるのださうです。
矢張りと云うべきか修道士が作るのではなくあくまで修道女の方々が作って下さるのであります。
だから其処は神がお認めになられた男女の役割分担であると云うことです。
其処を反故にしやうとして居る近代主義的人権思想こそが神をも畏れぬ破壊思想そのものです。
其のやうな犯罪行為に対し決然たる態度で持ってして臨まぬ限り精神の世界が蹂躙され人類は合理主義の奴隷として永遠に飼育されていかう。ー