目覚めよ!

文明批判と心の探求と

文學と科学の闘ひ




「人間は自然を破壊するために,もう少し科学的に言えば, エントロピーを増大するために生まれてきた」以上より引用



人間は何の為に生きて居るのかと云えば矢張り破壊の為の破壊を滞りなく成し遂げる為に生きて居るのでありませう。



無論そんなことは誰も言いませんが宗教だけはむしろ其れに近いことを述べて居りました。


まさに古代印度に於ける宗教思想が解脱を目指したものであったのは其の人間の本性を見抜いて居たからのことだ。


またキリスト教が禁欲を強いるのは矢張り其の人間の本性を見抜いて居たからのことだ。



其の修行だの禁欲だの、即ち仏だの神だのと云う事は当たり前のやうに普通に暮らして居ては理解出来ないことばかりだ。


普通に所帯を持ち、子孫を残し、或いは普通に会社へ行き其処でちょろりと金を稼ぎ、さらに知己に囲まれ様々な本を読み、其れで人生が分かったやうな気になり誰しも死んでいくことでせうがわたくしはそんなのは認められない。



其の修行、だの禁欲、だのは何か重要な意味と云うか意義があっての修行であり禁欲であった可能性が高い。


言うまでもなく修行または禁欲は人間の心の領域の問題である。



ところが近代主義による合理的な世界解釈が其の心の錬磨の機会を根こそぎ奪い去って仕舞う。


すると心ではなくあくまで物質的に富んで居ることが人間の幸福の要件にすり替えられて仕舞ふ。



だが人間とはさういふものではないだらう。


何故なら人間とは心の動物である。



むしろ心的領域に特化した生命こそが素の姿としての人間なのだ。


だが合理主義はあくまで科学的だ。



其の科学的に構成される人間の生の領域こそが自然界の法則と一致するのだ。


けだし其の一致の様に於いて人間は全的な破壊者とならざるを得ない。



即ち科学でもって単独で自然を全的に破壊する訳ではないのだ。


自然に内在する破壊のエネルギーに対し合理主義がむしろ全的に接続して仕舞ふのだ。




先にも述べたやうに生命とは本質的に破壊の過程である。


植物は草食動物に食べられ、さらに草食動物は肉食動物に食われる。



また弱い人間は強い人間に常にいたぶられ吸い尽される。


弱い男性は強い女性に吸い尽される。


子供は大人に殴られる。


金持ちは貧乏人を蔑み死んでも良いとさへ思って居る。



貧乏人は金持ちをいつか殺してやろうとさへ思って居る。



嗚呼、破壊だ、まさに見事なまでに破壊の様だ。




ただ其の破壊を仏教は認めて居ない。


キリスト教は其の破壊が悪魔の仕業だから神を信じ神の王国へ行かぬとダメだと仰る。



其処は共に正しひとわたくしは思う。


仏教では生命であることを最終的には離れることこそが聖なる価値ともならう。


キリスト教では神の価値に寄り沿ひ霊的な存在として永遠に生きることこそが唯一の価値となる。



畢竟其処では生きないと云うことと生きると云う二元的価値に分かたれやうが共に当たり前のやうには生きないのである。



我我が生きて居ると云う事は常に其のやうに究極の選択が突き付けられて居ると云う事だ。


人間が生きると云う事にこそ其の選択が突き付けられて居る。



だから人間が生きると云う事は動植物が生きると云う事とは訳が違う。


人間が生きると云う事はまさに其の心理的な内容を生きると云う事なのだ。



其れは自然界とは次元が異なる生を歩まざるを得ないと云う事だ。


自然が自然としてそのままに生きて居られるのはさうした心的領域を其処に突き付けられては居ないからだ。



だが其れでもって劣って居ると云う事ではない。


むしろ人間よりも悩まなくて良いのだからより高等な生命だとも言えやう。


心的領域に限ればさうだと云う事である。



其のやうな認識に至った時に初めて人間にとっての眞の生の意味が認識され得やう。



だがお買いものやら子育てやら何やら要するに生活至上主義ばかりではそんなことは何ひとつ気付けない。



わたくしなんぞは若い頃に植物高等生命論と云うのを実は考えて居た。


どう考えても植物は生命として一番高等なのでいつも植物になりたひとさう考えて居た。





                                   



人間が生きると云う事はかように罪深きことなのだ。


皆様はまず其のことに気付いていかねばなるまい。


此の世界がまさに負の過程で此処ではキレイごとなど通用せず生きると云うこと自体が即地獄への道行きなのだ。



人類の歴史の上では釈迦とキリストのみが此の真理と云うか真相に気付いて居たと申されるべき。


其れから藝術家のやうに感度の高い人々も其の事に気付かされるほかなかった。


かっての藝術家が短命なのはさういう生の本質的意味と闘って居るから決まってすぐにボロボロになって仕舞ふんだ。


まさに猫のやうに感度の鋭い藝術家は長生きなど出来ないのさ。



対して犬のやうな奴程長生きが出来る。


だから君はどちらかを選ぶ必要があるんだ。


犬でいくのかそれとも猫でいくのか、でも猫でいくと心理的な負担は常に大きい。


たとへばかの夏目 漱石にせよ宮澤 賢治にせよ其の生の闘ひは至極苦しひものであった。



だから犬のやうに生き、なるべく楽にと云ふ人生の過ごし方もまたある。


ただし其の場合には赤信号をみんなで渡りみんなで同じやうに轢かれると云う結末だけが待って御座る。



だからどちらが良いと云ふ問題でもない。


だが選ばざるを得ないと云う形でもってして結局どちらかを選ばざるを得ない。



人間には生まれもった心の性質の違いがあり実は其れが全てなのだ。


おそらく君は何か他の価値を心中に設定して居やう筈だが所詮其れは真の価値ではない。


たとへば仕事が出来る、出来ないだの、心根が優しだの優しくない、だの、そんなのは真の価値ではないのである。


真の価値とは気付きの価値のことだ。



之は頭の良し悪しとは関係のない真の意味での価値のことなのである。


むしろ勘の鋭さの方に近いのかもしれないがさうは言っても勘の良さばかりでもないことだらう。




生きると云うことはかように手放しで肯定して居て良いと云ふものではない。


其のことは猫のやうに観察するか、其れとも沢山本を読み勉強するかすると自然と分かって来やう。


生の本質は大衆的価値観の中には無くしかも社会が奉ずる価値観の只中にも無い。



生の本質とは其れ即ち虚しいものだ。


これまでに多くの藝術家が其の虚無と向き合って来た。


虚しいからこそ自らの手で変えられるものではなくしかも嬉しがって居てはいけないのである。


そんな近代のやうに生を喜々として受け取り全てを合理化するに至ってはイカん。



ちなみに成仏=死滅ではない。


成仏するともはや二度と生まれては来なくなるが其れは死んだのではなく消滅した、つまり無になったと云うことだ。



人間のたましひは此の無になることだけが究極としての目標だ。


ところがキリスト教ではたましひが無になってはイカンのである。



其処が昔から仏教とキリスト教とで相容れぬところだ。


じゃどっちが正しいのだ?



馬鹿者!


どっちが正しいか正しくないかの問題では此の際無い。



事実カブトムシがあのカブトムシが絶滅しかかっていやうと云うのにイチイチそんな細かいことに引っ掛かって居るやうではおまへこそが救われぬ合理主義者だ。



何度も申して居るやうに合理主義者こそが永遠に成仏出来ぬ悪魔としての別名のことだ。


左様合理主義こそが悪魔である。