目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

文學と科学の闘ひ


悪魔は仏教でもキリスト教でも兎に角悪魔である。

生命とは悪魔であり悪魔だからこそ生命である。

だがさう考えて仕舞ってはまさに身も蓋もない。



正しくは生命とは悪魔なのであるからこそむしろ其の故に神仏がおわすのである。

悪魔ではない生命は何処にも居ない。

だが悪魔であるがゆえに見えるものがありまさに其れが神仏の姿である。


陽光の下での動植物の煌めく生の姿、漆黒の空に浮かぶ星々の瞬き、さういうのは詩ではあっても法則には非ず。

科学的に規定される散逸過程としての法則に縛られるままに人間を縛り付けておく必要など何処にもない。


物理的に突き付けられる試練、自らが悪魔であるがゆえに齎される破壊の様、さうした逃れられはしない事実の様を法則化して仕舞う所以などない。


たとへば人間の肉体が所詮は腐った革衣であるにせよ文學としての価値観は決まって其処に諸の彩を与える。

其は愛を生殖の営みから切り離し大自然の営みの中に神仏の存在を見い出す。


だが愛を単なる生殖の営みとなし、また大自然を単なる合理的事象の積み重ねと見做し生命の過程は須らく散逸過程としての法則の内にあると感ずれば其の生は凍えたものになって仕舞ふ。


血の通わぬもの、どんな心の彩でもっても現実を規定し得ない殺伐としたものになって仕舞ふ。



わたくしは今世界が其の殺伐さの中に捉えられたとさう感ぜられてならない。

其の合理的に規定されし法則性が経済を科学を即ち人間の推進させる文明の力の源となり其の冷徹さの中へと、ありとある人間としての心のあり方を変化させ生きることをむしろ酷く生き辛くさせて居るのではないか。



元より人間にとり最も大切なことはそんな法則性ではなくましてや効率性でもない。

其れはあくまで手段であるべきものであり決して目的となすものではない。


確かにかって文學では悩みに悩み其の悩みに負けて多くの作家が自殺するに至ったがあくまで其れは血の通った心の中のものである。

詩人だって多くの詩人が病気になったり気が狂ったりして早逝したものであったが其の詩は今も遺り語り継がれて居る。


然し合理化は、其の人生自体の合理化或は人間自身の合理化は其の文學の成立を其処に許さぬ程に心が貧しくなりがちだ。



左様合理主義の貧しさとは此の心の不毛のことなのである。

人間には心があり其の心は其の法則性にも大きく関わって居る。


肉体と精神、物資と心が其処で相互に影響し合いそれぞれにそれぞれを規定し合って居る。

だからこそ合理化に傾くべきではない。


合理化は血の通わぬ世界を未来としての人間の社会を冷徹な合理性のみにて現出させることだらう。



其のやうな社会にはそも敗北がない。

生は全き善きものとして優等な人間のみが其処に選ばれて生きていくこととなる。


だが生とは本来其のやうなものではない。

生は未完の小説や詩のやうに不完全かつ情けないものである。

さうまるで太宰の死や芥川の死のやうに不条理なものである。



其の一方で彼等が生きることで描いた血の通った世界、或いは悩みの世界の重さと辛さを忘れてはならない。

また美しい自然の営みは確かに合理的な産物だが其れを人間の心が見詰めれば詩にもなり歌にもなる。


そして理論は其の心の領域を明らかにする訳ではないのだ。

死を論理的に構築することが不可能であることと同じくして詩をそして文學を論理的に規定することは出来ない。

其の意味では文學はむしろ言葉と云う論理にて論理以外の地平を切り拓こうとする試みそのものだ。



また論理は美をも説明出来ぬ。

ではなぜ単なる法則性に培われたところでの自然界に於ける営為があんなにも美しいのだらう。


美しくてしかも感動的で其れ等を見詰めるだけで何故か涙が溢れる。

其の涙の意味とは何か。

其の涙とは心の動きのことだ。



其の心の動きをこそ文學は常に見詰め続けて来た。

心の動きこそが人間の本質を形作る何かであるゆえさうして来たのだ。


さうした心の動きを切り捨て全てを法則性の元に還元することほど人間の心にとり危険なことはない。

人間の心にとり危険なことは死と云う形としての事実なのではない。

何故ならたとへ死んでも文學者のたましひは今を生きて御座る。



人間の心にとり危険なことは人間の生から死を合理的に放逐して仕舞ふことだ。


人間にはそんな風に合理的に生きなければならないと云う義務はなくましてやそんな風に常にスーパーに生きなければならないと云う権利さへ何処にもない。

人間は自然の内側に生まれむしろそのままに自然の内側で生き死んで行くのが幸せだ。

其れも花鳥風月を愛でつつシンポなどとは無関係にあれやこれやと悩み抜いた挙句にポックリと死んで行くのが幸せだ。



謂わば人間を悩み抜いた挙句にポックリと死んで行くのが幸せだ。

だが今や合理化されし生はさうした血の通った生と死の認識の領域を認めて居ない。


だからこそ世は滅ぶのだ。

散逸過程としての法則であるに過ぎぬ人間の生は其のやうに合理化されやがて滅ぶ。


ですが文學は其の理不尽に対して永遠の問いを投げかけていくことであらう。

太宰を、そして芥川の作品を再読するとまさに其のことが良く分かる。