今私が禅を評価するのはまずは其れが規定であり作法であると云った部分からです。
作法とは何かと云うと其れは形つまり形式です。
わたくしは其の形式こそが禅の奥義だと考えて居ります。
あくまで禅の奥義だとさう考えると云う事であり実際に其れが禅の奥義であるのかどうかそんなことはむしろどうでもよろしいやうなことです。
問題は近代化と云う悪魔過程の末期に於いて女の欲望が暴発して居るので其れを何とか直さないと人類はダメになりますよ、と云う一点に絞られて来ました。
なあんだ、そんなことかと君等はさうお思いでせうが真面目な話其れこそが実は悪魔の囁きであり精神にとっての最大限の破壊作用なのです。
実は宇宙の破壊は其の女のふしだらさから始まると云うことをアナタ方は知らなひ。
確かに禅は身心を脱落させることで謂わば価値ヒエラルキーの解体を図る。
観念的価値ヒエラルキーの解体による二元的対立=二項対立の解消を意図するのです。
ただし其れもあくまで観念的にはそうだと云う事であるに過ぎぬ。
尚此の価値ヒエラルキーこそが悪魔なのだと考えておけばまず間違いないです。
特に近代的価値観は神やイエス様にも背くであらう悪魔としての価値観そのものです。
神やイエス様に背くのですが実は仏法には少しも背いては居ない。
其れも良し悪しと云う事ではなく、仏や菩薩にとっては実は外面的価値観のことなど我関せず、なのです。
要するに外面的であるに過ぎぬ其の近代価値ヒエラルキーのことなどどうでもよろしく目覚める必要があるのは自らの価値観の誤りに就いてのみです。
自らの価値観=自我が其の近代価値ヒエラルキーと同調し此の時代と人間とに結び付けられて仕舞って居るからこそ我我は今此処に居る。
では何故其れがいけないんだと云えば結局は時代が進めば進む程に人間は悪魔過程へと堕ち込んでいきます。
で最終的には悪魔崇拝の人間ばかりになり世界は神により滅ぼされませう。
文明が死んだ後にキリストが現れ善人のたましひだけが神の園へと運ばれ其処で永遠に祝福されたましひとして生きるのだ。
どだい浄土系の宗派とは実はキリスト教のことなんです。
南無阿弥陀仏でもってしてしかもアーメン、なのです。
だから其れはちょっと仏教とは違うのでまた禅宗の方へ戻ります。
左様に近代に於いて何も良くはならずにむしろ精神的な破壊乃至は破滅の方へとひた走る動きのことだ。
まさに其れが近代の正体だ。
元社会の先生があへてさう言うのであるから其れは間違ひないことだ。
ですが、キリスト教はむしろ其れで良いのです。
世が滅んだ後に信仰者は皆救われるのですからむしろちゃんと滅んで貰わねばならぬ訳だ。
なのでむしろわざと世を滅ぼす方向へと進ませて居るのだなどとわたくしの知り合いの行者さんなどはいつもさう仰って居ます。
が、仏教徒としては其れでは如何にもマズく第一世が移り変わるにつれ余計に苦しみだけが増していくのですからもう其処にはほんたうは居たくはない。
だがどうしても欲望に捉へられて仕舞ふ。
どだい女だの車だのゴルフだの、第一そんなものが断てる筈ないじゃ御座いませんか。
焼肉だのカレーだの味噌汁だの白米だの、そんなものが断てる筈も無く第一断てば即座に死んじまいます。
だから其れは断てないです。
断てないからズルズルと引き摺られて近代末期までもう人間は来ちまいました。
ですが其れが謂わば罠のやうなものなんです。
あらうことか我我は罠に嵌り込んだ!
おお、哀れな人間共よ。
おまへたちは哀れだ、哀れなバカだ、マヌケだ盆暗だ、まるで甲斐性無しだ。
と其のやうに慈悲の心でもって神乃至はキリスト様と仏様菩薩様が我我に気付きの機縁を投げかけて下さいますが曇り切った我我の心にはもはや届かぬ。
何故ならもはや六割程も悪魔化されて来て居ります。
悪魔とは貪りです。
ハイ、スマフォ、ハイ、自動運転車、ハイ、リニヤカー、ハイ、ジェンダーフリーセックス、ハイ、長生きの為の免疫療法。
まさにコレが近代価値ヒエラルキーとしての悪魔の価値観です。
其の価値観の解体をこそ仏法は担ふ。
尤も浄土宗のことを少しバカにして仕舞ひましたが勿論本音はさうではない。
浄土宗も確りお勉強してみれば仏法としての立派な教へであらうことはまず間違ひない。
兎に角仏法は事前に其の問題自体から離れると云う選択を行ひました。
では何故女が問題なのか?
其のポルシェの何処が問題なのか。
何故スマフォをさうまで嫌われるのか?
何故未来はバラ色だと逆にさう考へられないのだ?
おまへはひょっとして病気でないのか?
ズバリ頭がおかしひ病気ではないのか。
いや、さうだと良いのですがね。
ですが事実として近代的価値はより錯綜しより深みに嵌る形で破壊を齎して来て居やう。
近代的価値に寄り掛かって生きて居ると人間はおそらく長くは持たない。
ですが近代的価値を断つことなどもはや不可能だ。
だから其の矛盾をこそ我我は今生きていかざるを得ない。
其の矛盾又は苦の解決法につき宗教はこれまで長々と考えて参りました。
即ちキリスト教では神への帰依、個としての信仰により世がどうなろうが救われると説かれた。
即ち仏教では個としての欲の制御により世がどうなろうが現象することから離れることが出来ると説かれた。
此処では共に本質的には社会の問題ではないことに留意しておくべきです。
宗教とは本質的には社会活動ではなくあくまで内面の問題なのです。
実は社会が悪ひのは、其れは救われやうのないことなのです。
謂わば其のやうなものなんですね、社会といふものは。
社会と云うのは悪そのもの、悪魔そのものの働きのことなので絶対に良くはなりません。
第一釈迦やキリストが生きて居た頃からもうどうしやうもなく社会が悪かったのです。
のみならず女も邪で実に根性が悪かった。
つまり社会と云うのは女が産み落として来て居るんです。
女は子ばかりか何故か社会をもポコッと生んで仕舞ふんですね。
なので社会の価値観は最終的には其の女の価値観へと収斂していきます。
特に戦後世界の価値観はほぼ女の価値観そのものですね。
だから女の価値観そのものから近代の全価値がポコッと生まれて仕舞ふんですね。
そんなもの生んで貰っては困ると云うのにポコッと生んで仕舞ふのですね。
で、わたくしが今女を再教育するに最適なものは禅による修行だとさう捉へて居るのであります。
さすれば生活のすべからくが修行化され少しは逸脱行為に走る女が減るのではないか。
つまるところは女といふ女を須らく修行浸け=家事労働に縛ることでもってして此の世界の滅亡は先延ばしにされていく。
さうだ女人は一度位其の禅でもってガチガチに縛られてみるべきだ。
さすれば其の内面の悪魔でさへ逃げ出すのかもしれないよ。