目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

たとへ悪魔に心を売り渡したにせよ何も得られずそのまま地獄行きだ。



彼は神ではなく堕天使ルシファーに語りかけ、自身の魂と引き換えに本を完成させてほしいと願った。悪魔は写本を完成させ、その修道僧は感謝の意を表すために悪魔の絵を追加した。以上より引用


此の悪魔の姿は所謂鬼に近いものにも見える。
鬼にせよ悪魔にせよ其れは多分に人間の内面の邪悪な部分の象徴なのではないかとわたくしは捉へて来て居る。
ただし物質的に何かが劣って居たり嫌らしさを感じさせられたりすることは経験上ある。
自己の上でも又は外面的にもさういう負債の部分が良いものには見えないのは当然のことだ。


が、実は其れは本質的な問題ではない。
本質的には人間はあくまで心のあり方が問題なのだ。
其の醜い心のあり方が象徴的に描かれたものが悪魔だの鬼だのと云う事となる。


ところが悪魔とは堕天使つまるところは元々天使だったものなのだ。
鬼でも地獄の獄卒はそれなりに確り仕事をこなしているのだしまた善い鬼と云うものもあり其れ等が絶対に悪いものだとは言えないところが難しいところだ。


逆に言えば善人面を下げつつあくどい商売や淫乱な行為に耽って居る一般大衆の方が余程に善なる悪魔であり退治されねばならない存在である。


わたくしは根が優しひ人間なのでむしろ悪魔や鬼として蔑まされて来て居る存在の方に同情心を抱いて仕舞ふ。
マイナスのものを持ちつつ生きていかざるを得ない生命に対しては常に親和の情を感ずる。


だが理不尽な社会悪に対しては容赦ないつもりである。
其れから神、とか云いつつ自分だけ全能で楽をして人間に苦しみばかりを与えて居る神などむしろ居ない方がマシだ。


其のやうに別に神を信じて居る訳では無いが精神的な営為の統合としての神仏=叡智としての理性の存在を無論のこと認めるのだし信じても居るのだ。


尚、詩的に表現すれば一面では悪とは美の一面でさへもがまたある。
そんな風に少しワルな方が魅力的だと云うのは確かにないでもない。

また小悪魔のやうな女とはむしろ惹きつけてやまぬ魅力がある女と云う事だ。


けれど善は善で悪は悪であることもまた確かなことだ。


ただし其の差異は絶対的なものではないことだらう。
誰でも追い込まれれば盗みもするし人を刺し殺すことだってあり得ない訳ではない。


其れに戦前の国家の思想は今では悪だが無論のこと当時は善そのものであった。


何せむしろわたくしの場合には大衆が鬼にも見えまた悪魔にも感じられるのだがどうしてこんなに偏向して仕舞って居るのだろうか、ものの見方其れ自体が。

だから変な人か又は変な生命はむしろ神と対をなしハッキリと別れて居るのでまだしも認められるが現代の大衆的価値観の方にこそ何やら違和感を感じて仕舞う。


つまりはスマフォ人間や自動運転に頼る人間、社会に疑問を抱かずのうのうと社会生活を営んで居ることだらう普通の人々の方にこそ悪魔性及び生命としての鈍感責任を感じざるを得ない。


だからわたくしなんてこんな社会と繋がりませうと言われたって繋がりやうがなく事実かうしていつも癇癪を起こしつつあれこれと言っておるでせう。


其の様やむしろ悪魔の方に近いのではないか。
或いは悪鬼。
いや、夜叉。
または阿修羅のことだ。


いずれにせよ二元論としてのキリスト教は其の原罪性ゆえに其のままでは人間を善だと捉へて居ない。
むしろ悪としての血を脈々として受け継ぐ悪い生命の子孫が我我なので是非悔い改め悪魔の誘惑から身を護らねばならぬ。

つまるところは善なる悪魔が我我の真の姿であり其の心性は堕天使との契約により容易に悪魔化しやう。





東洋の思想としての陰陽道や仏教に於ける魔の働きと云うものも其の善なる悪魔としての罪障を明確に示すものなのかもしれない。
特に仏教では魔とは修行の妨げになるもののことなので普通は良いと思われて居る生殖も魔、肉食して元気になることなども魔、学校へ行き余分に観念的知識を磨くことなども厳密には障りであらう。


じゃどうすれば良いのだと言ったところでもはや現代日本に於いてはどうにもならぬ。
とりあえずは修行だと云う事で邪淫を止め飲酒を止め余計にお勉強することを止める。


特に思想を學ぶ時には気を付けて置いた方が宜しい。
観念的展開をむしろ仏教は重視しないところもあるゆえに。-特に大乗仏教は重視しない-



其の修行と云うのは自分の魔乃至は悪に対して行ふのであり外に居る鬼乃至は悪魔に対して働きかけるものではない。


でもキリスト教に於いても其の内面の悪魔性に働きかけた悪魔が勝利を収め地獄へと我我を引き摺り込むのであらうから結局は同じことだ。


此の二大宗教は其のやうに人間の内面の問題をまず第一義的に捉えるのであるから宗教としては共に優れて居る。


人間は心の動物であり其の心は自らが選び取るものだ。


其処で善をもさうして悪をも選び取ることが出来る。



感覚的にはキリスト教の方がよりハッキリと悪を規定して居る感じである。


だから二元対立がより大袈裟でつまりは仰々しく其処は個人的に嫌ひではないのだ。


尚仏教も所詮は二元論的なところがあり所謂勧善懲悪の世界観に陥り易いやうにも見えるがどうも本質は其れとは別の部分にあるやうだ。


一元化と云う事ではむしろキリスト教に於いて其れが顕著に見受けられる。


霊的な次元で救われ神と共に神の王国で永遠に生きると云うのは原罪以前の人間の本質に遡ると云う事なのでまさしく一元化なのである。



仏教の場合は二元を超越してつまりは概念的分別を超越してまた物質的差異ー二元としてのーをも離れて人間ではないものになることこそが其の目標なので物自体に回帰するー統合するーと云うよりは消滅、兎に角全的の消滅過程なのであらうから一元化と云うよりはむしろ無化である。


無になると云う事だ。


有無で云えば無しになると云う事。


無しと云う事は生命でもない、また存在でもないものになって仕舞ふと云う事。


兎に角無いのだから無い。


だから其処では神も悪魔もない。


佛も魔もない。


でも其れが出来たのは釈迦だけだった。


なので成仏などは元より出来ない。



出来ないので小乗仏教ではせいぜい聖者になることを目指して居たのだったが勿論ソチラの方こそが正解だらう。



然し其れでは此の現世での苦からはなかなか救われないので浄土宗が出来た。


浄土宗即ちキリスト教仏教が誕生したのだった。



でも浄土宗には悪魔は出て来ないと思うのですが其処はどうなのだらう。


キリスト教や浄土宗、浄土真宗は死後に皆で天国ー極楽ーへ行くと云う教へである。


逆に言えば死後に救われやうから此の辛い人生を何とか我慢しつつ乗り切っていかうと云う教へである。


コレはもう金の無い人、虐げられし人、何故か苦労が多く生きて居るのが兎に角辛ひ人にとっては大きな希望の光を投げかけて呉れやうものだ。


此の世が辛ひのは社会が悪くてまた人間の心も邪で其れこそ悪魔のやうな御仁が其処此処にウジャウジャ居るからにほかならない。



だからそんな穢れた現世では幸せなど得られやう筈もない。
善なる悪魔にせよ悪なる善者にせよ兎に角悪ひ奴が多ひのでまともにお勉強などして居る余裕すら感じられぬ。


だからこそ救ひを求めるのだ。


救われなければならぬ。


うーむ、いつの間にかスッカリ他力本願の方へと振れてしもうた。



尚悪にはどうも二種類ある。


矢張り其れは善なる悪魔と悪なる善者である。


どちらがより悪ひかと云えば善なる悪魔の方がより悪ひ。


キリスト教で云えば其れは偽善者のことである。


そしてニセキリスト、偽預言者のことだ。


反キリスト、つまりアンチキリストは現代の文明そのもののことなのやもしれぬぞよ。



兎に角此の社会性がそしてたましひとして死後救われることこそが救済宗教の特徴だ。


さういうのはより社会が悪ひ時代には良いのではないかと個人的には思ふ。


でも浄土宗、浄土真宗には悪魔は出て来ないのでせう?


いやでも地獄は出て来る。



地獄の獄卒こそが其の鬼共こそが其の悪魔なのだ。


いや、違った。


あくまで仏教では内面に巣食ふ邪な欲望=煩悩こそが魔であり悪魔なのだ。



悪魔にたましひを売り渡す。
つまりは欲望の為に心を悪魔の状態にする。
すると色んなものが得られたやうで居て実は何も得られずに地獄行きだ。



ファウスト博士は最終的には神に救済されるのであるからコレはもう実に分かり易い二元論です。


即ち救済構造には本来ならば善悪の著しひ分離と対立が必須でありであるからこそ悪魔としての人間の心理のあり方もクッキリして来やう。


ですが浄土思想には本来其の強い対比の部分が欠けて居るから其の成立自体が不思議だ。


そも浄土思想とは果たして仏教と呼べるものなのだろうか?


阿弥陀様は全知全能の神とは別物の神様的仏様ですが果たして其れで良いのだらうか。