尤も仏教の方がより根源的な罪に向き合って居るのだとも云えやう。
本来の仏教とはまさに究極的な人間の救いを目指し消滅=無になることを其の修行の目的となしていくのである。
だが実は其れは究極的に潔癖な人間の心の領域でのお話しなので普通俗人には理解し難ひ部類での教えの内容だ。
其処はまだしもキリスト教の方が理解し易く其処に社会性の方も感ぜられやう。
しかしながら釈尊の考えは余りにも世間離れして御座る。
要するに目で見たものと心で考えたことの実在性を否定して御座る。
目で見たものの実在性を逆に肯定して仕舞うのが凡夫の認識であり其れではダメだとの仰せである。
そんなこと言う奴が君の人生でこれまでに一人でも居たことだらうか?
無論そんなこと言う奴は何処にも御座らぬ。
そんなことを言う奴はほとんどキチ外で皆精神病院の方へ入院して仕舞うから何処にも居ないのだ。
とは云えキリスト教でもさうカンタンに理解出来る訳ではない。
此のやうに歴史に培われた宗教は人間の根本の意義にまで踏み込んで考えられて居るので近代的なアタマではなかなか理解がかなわぬ。
また目で見たものと心で考えたことの実在性をキリスト教でも否定して居るのだと言えやう。
悪魔過程としての原罪に満ちし世に於いて其れは否定されて居るのである。
またプラトーンによる洞窟の比喩の部分に於いても其れは然りである。
つまるところ、古代の考えではむしろ精神論と云うか非唯物的領域がむしろ幅を利かせて居たのである。
無論中国の古代思想にせよまた然りで、唯物的な領域に対する不信と云うか距離感がむしろ大きく取られて居り其処では明らかに精神の領域をこそまさぐりつつ進んで居たのであらう。
其れがどうだ。
近代以降は其の精神的領域が極限まで狭められ進歩主義をはじめとする唯物領域の際限なき拡張=肥大が蔓延するに至った。
わたくしは一哲學詩人としてそんなおかしなことはまるで認められず其れでもってかうして皆様の理性に訴えかけて来て居るのだ。
矢張りホモ・サピエンスがバカだったからなのだらうか。
どうも近代とはさうしたものだと云う感じだけは最近して来て居る。
謂わば近代とは肉体化の過程である。
従って其れが進めばむしろドンドン精神的な要素を欠いていかざるを得ぬ。
だから其のうちにまさに酒池肉林の世の中が必然的に生ずる。
しかも其れが家庭内で行われるやうにもなる。
つまりは悪魔化しやう。
一億総悪魔化して其の家庭こそが乱交や殺人、さらに不信心、キチ外共の温床ともならう。
まさに社会が其のやうにやりたひ放題になっていくのである。
事実今交番が危ない。
何故危ないかと言うと、お巡りさんが居るのか居ないのか分からない位に其処へ入り易いからだ。
そんな風ではなく、つまり官憲がナメられて居てはならず、逆に常に拳銃を抜いて訪れる人に向かい其れを突き付けて居なければならぬ。
また何処でどう爆弾が爆発するものか分からぬ世じゃ。
だからもはや出歩いてはいけなひ。
家からは一歩も出るな。
さうしてお勉強をしやう。
どんなお勉強でも良い。
エロ本でのお勉強でもこの際赦す。
兎に角社会化してはならぬ。
社会を捨てやう。
社会は悪だと観じて君の内面の中に籠るのだ。
即ち完全なる引き籠もりのことだ。
引き籠もって哲學して居ることと酒池肉林に興じて居ることの一体どちらがより上品なのだらう。
無論引き籠もって哲學して居ることの方がずっとマシだ。
嗚呼、わたくしはかの竹林の七賢の一人にでもいますぐなりたひ。
ちなみに竹林の七賢のことを習った時に世界史の教師が性談ではなく清談だとふざけて言っていたものだったが何故かいまだに覚えて居る。
此のやうに教師の価値と云うものは其処でエロかキチ外なことを言い記憶に残る者こそが強いものと相場が決まって御座る。
わたくしは真面目なんでそんなエロなど授業中に言ったことなど金輪際御座らぬ。
わたくしは其れが時代の劣化=時間の宿命だと感じて来て居る。
若しくは人間の運命乃至は宿命であらう。
唯物領域に閉じられし人間の精神領域は時の流れと共により強固にモノへと縛り付けられていかう。
即ちモノ、女、社会、さうしたものがより強固に価値化され我我の心の中を支配していくのだ。
尚、モノ、女、社会の本質は同じで其れは現在のみを形作るものである。
だからこそモノ、女、社会の罪障は等しいと言うて居るのだ。
ところで其の社会の根本の矛盾、即ち社会のワルが人間をして性悪説へと貶めて居やう。
どだい儒家の場合には根本的に人間に対して尻尾を振って居る訳です、其の理性なり意思なりが。
でもショーペンハウアーは決して尻尾は振って居りません。
釈迦に至っては尻尾どころかまた愛どころか、食欲さへ無くて水さへ飲んで居るのやどうか分からず、其れでもって死にさうになり事実もう少しで死ぬところでしたが其処へ村の娘が印度の乳粥を呉れたので危うく死を免れた。
つまり釈迦は小娘と乳粥に救われた。
あれほど女を遠ざけて居なさったと言うのによりによってそんな唯物論でこそ救われなさった。
尚老荘思想も決して尻尾は振ってなど居りません。
そしてわたくしの場合は何度も申し上げて来て居りますやうに全ては社会が悪い、全部が社会のせいだと腹を据えた上でさう述べて来て居ります。
さうして近代以降の社会を批判して来て居ります。
近代以降の社会はそれこそモンペだらうがヒジャブを着けていやうが皆性悪な女ばかりでまさに触るとバカが移るので怖くて仕方が無ひとさう正直に申して居るばかりだ。
が、其の中ではまだしも赦せるのがモンペでありヒジャブだったと云う事だ。
其の人間の内なる可能性を何故わたくしに限り認めないのか?
いや、わたくしには限らずショーペンハウアーにせよ釈迦にせよそんなものは認めて居りません。
其処ではむしろ-の可能性だけを希望として保ち続けて居るのだ。
消滅する、と云うことへの可能性のみを其処に保ち続けて居る。
謂わば迷ひ出て来て仕舞って居る訳です。
迷ひ出るのは何やらお化けのやうですが、実はさうなんです、我我自身がまさしく其のお化けである。
お化けだから欲望=煩悩に深く捉われ特に社会化などしやうものなら余計に其の欲望が強く働く。
であるからこそ逆方向を向いていく訳です。
左様に荀子の思想はむしろカントの哲學に近いものであるやうだ。
けれどわたくしの場合はもっともっと根本的に社会を疑い続けて居るのです。
即ち其処で社会などそも信じて居ない訳であります。
そればかりか女も信じて居ないわ、あまっさへ人間の可能性もさうして人類の未来も信じて居ない。
では何を信じるのですか、何を価値となし生きて御座る?
これ等を学びつつ生きていくのです。
いつの間にやらイスラム教が加わって居るが其れは何故か?
ズバリ女に厳しひからです。
そしてヒジャブに欲情して仕舞ったからだ。
では社会が悪だとしてこれから人類はどうなっていくとお考えでせう?
其はズバリ滅亡である。
問題は其の滅亡までの期間即ち時間の多寡にこそあらう。
即ち其の現代の巨大な肉体=巨人がいつどう倒れるかと云うことだけが関心事だ。
元より其の巨大な肉体の総身には智慧など回って居ない。
ちなみに最近高校生の集団にたまたま遭遇したことがあったのだけれど、其の一瞬だけで彼等が如何にバカで何を仕出かすか分からぬ心性の持ち主であるかと云う事がハッキリと分かった。
特に其の中に女生徒など混じって居る場合などはこやつらに輪姦されて居る虞と云うか実感が湧いたことさへあった。
其の女生徒などはキャーとかワーとかはしゃぎつつ男共と何やら食ひ物をしこたま買って御座るのだ。
コレはゆゆしきことだ、まさにまさにあってはならぬことだ。
しかも全員が制服着用でだ!
即ち教育の核心部がすでに腐って居りどう言ったら良いのか兎に角酷い有様での彼等の精神性だ。
かやうな腐った社会に於ける腐った制度につき徹底的に糾弾していかずしてどうする?
ただしあと五十年程は社会は持つ。
君等の子が死ぬまでは何とか持つ。
けだし其の後はもはや誰も保証など出来ぬ。
では社会の悪をどう治していくのか?
社会など治らぬ。
社会は悪の権化だから遥か昔にお釈迦様は社会を見限り修行へと走られた。
社会の最小単位は家族だからまず家族を捨てられしかる後に森の中へと消えていかれた。
では社会も女も物も全部悪いんですか?
悪ひ。
悪過ぎる。
全てが悪ひ。
でもわたくしにとっては少しも悪くはない。
何故なら社会や女をイジメることがわたくしの生き甲斐なので逆に善くなって貰っては困る。
社会は悪ひが批判は楽しひ。
タダ其ればかりである。
むしろおまへ程悪ひ奴は何処にも居らぬではないか!
此の悪たれ詩人めが!
左様わたくしは悪の詩人、かのボオドレエルの如くに退廃と耽美と悪徳とに貫かれし悪の詩人じゃ。
ー生前発表した唯一の詩集『悪の華』が摘発され、そのうちの6編が公序良俗に反するとして罰金刑を受ける。後に第2版を増補版として出版し、詩人としての地位を確立した。その卑猥的、耽美的、背教的な内容は、後の世代に絶大な影響を与えることとなる。特に現実と理想の溝から生じる、作品に溢れる絶望感とアンニュイは、一種の退廃的な時代の病を表徴している。ー以上より引用
悪でもって悪を制するのか、また其れとも善をもって悪を制するのか、其れが問題だ。
だが現代社会に於ける悪の推進はもはや抜き差しならぬところまで来て居やう。
特に日本に於いての其れは必然的に徹底的な規範意識の喪失を齎すことだらう。