目覚めよ!

文明批判と心の探求と

社会と闘う-Ⅱ-



もんぺは良いぞよ、其のモンペこそは。

其は一面では大日本帝国による支配の象徴でもある。


ところで大日本帝国は今何処へ行ったのだ?

三島先生はあの世の大日本帝国でもって女共に是非モンペを穿くやう指導を為されて居ることであらう。


ちなみにわたくしはモンペを穿いた女が大好きだ。

モンペとヒジャブの着用の義務など課せば日本のふしだらな女共の精神を叩き直し或はまともに戻せるのやもしれぬ。

モンペとヒジャブを着けリヤカーを引く女こそがまさに良妻賢母としての21世紀の女性の鑑であらう。






帝国主義は言うまでもなく無政府主義共同体主義とは正反対の概念でありかつイデオロギーである。

帝国主義が良いとはまず言えないことだらうが今となってはかの大日本帝国が全部悪かったとは思へぬ。


其れよりわたくしは今倫理的に社会の罪を感じ、そして其の社会そのものに対しての疑問を抱いて居る。

哲學的に考えるとさうならざるを得ない。


其処では謂わば社会そのものが内包する矛盾が炙り出されて来る。

即ち社会は人間の生活基盤の単位としては不適切なものだ。

だが人間は社会生活を営むゆえに人間なのである。


其の根本の大矛盾につき今此処で考えて居るのだ。

其処でまず分かったのは、俗世間に於いて其の大矛盾は決して解消され得ないと云うことである。

即ち時代が進むにつれ其の矛盾はむしろ拡大していく。


社会=悪であると云う其の根本の矛盾が拡大していくのだ。

だから社会が進むとむしろ人間の心は次第に圧迫されより悪くなっていく。

心的過程に限れば其れは逆に悪くなっていく。


ただし物質的にはむしろ富むことが可能だ。

事実我我は今とても豊かだ。

でも何だか幸せには程遠い。



尤も皆様は今幸せなのだろうか?

わたくしの場合はたった今幸せである。

何故ならかうして何かを述べて居ること自体が私にとっての幸せなのだ。


他の何が此の幸せと引き換えに出来るのだらう。

其れはむしろ何も無いと言っていい。


だが現実的には決して幸せだとは云えない。

其れでもかうして何かにつき考え述べることのみがわたくしにとっての幸せである。



さて社会とは悪の過程である。

むしろ社会こそが無数の地獄を用意して来るのである。

社会は左様に性悪な何かだ。


社会こそが地獄を用意する。

社会が無く原始共産制みたく食いたひものは勝手に食ひ女は勝手に自分で手籠めにすると云う其の自由度の範囲に於いて男性は其処に真に解放されて居ることが出来やう。

即ち浪漫社会、非管理での非合理社会こそが其処に男性の破壊力を上手く閉じ込めることが出来やう。



確かに男性の破壊力をナメてはならぬ。

男性の槍の一撃、其の突進力に於いて其れのみならず観念の破壊力に於いてまさしく其れは武力に通ずるものである。

左様に武力とペンの力は違うやうで居て実は同質の力である。


即ち戦闘と批判は実は同じ穴の狢である。

故に三島先生は文の力を武の力へとただ少しだけ方向性を変えられただけのことだ。

だから文の力とは武の力と対立するものではない。



わたくしはこれだけ理性的でしかも女々しいのに意外と破壊的で口も手もすぐに爆発して仕舞ふことが多かった。

ところが静かな時は一週間位ずっと黙りこくって万年筆を磨いたり石と対話したり本を読んで居たり出来るから元々そんな風にいつもキチ外だと云う訳ではない。

むしろ大人しく礼儀正しく所謂良い人である。



其処からしてもわたくしの怒りはむしろ社会に対してのものである。

即ち義憤のやうなもので、まさに其れのみに尽きて居やう。


勿論仏教ではまず自分を反省する。

が、わたくしは元々真面目で大人しい人で常に自分を反省ばかりして来たつもりだ。

幾ら自分を反省しても矢張りどうしても社会は悪いので一体コレは何故だと考えるやうになった。



まず社会は本質的に悪いと何故皆様は気付かないのだらう。

社会はほんたうに悪の巣窟だ。

社会はむしろ無い方が皆幸せに暮らせやうぞ。


然しあくまで其れは世界人口が一億人位に抑えられた上での話で、こんな七十億も人間が居て其れでは無論のこと収拾がつかぬ。

此の数が増えると云うのは生物としての基本的性質なのだそうだが自然の場合には其処に様々な形での淘汰の原則が働こうからのべつまくなしには増えない。

ところが人間の場合には天敵が居らずしかもこれまで長きに亘り抑へられて居た神仏の力を逆に抑へ込む方向へと進化したのでもはや怖いものが何処にも居ない。



いざさうなればもうやりたひ放題で兎に角増えていく。

もう兎に角産めよ、増やせよですぐに百億、また百五十億にも達する。

が、事実上百億に達した頃にはあらゆる限定が壁として人類の行く末に立ち塞がり其の増殖自体が困難ともならう。



其の頃になりようやくかの詩人の述べた社会性悪論が世の注目を集めることとならう。

左様に社会の本質とは邪悪である。

ズバリ悪魔である。




だから社会化の範囲は小さい単位でこそ営むべきものだ。

こんな近代みたく社会の拡張主義では全然ダメでむしろ逆方向を向いていかねばならぬ。

社会または組織は劣化するし其処で何故か頭ー意思決定力ーも悪くなり易い。

左様に社会の単位ともなれば人類は何故か物凄くバカになる。



其れは元々社会化が得意であったホモ・サピエンスネアンデルタール人よりもずっとバカだったからである。

ホモ・サピエンスはそも特等のバカなので実はゴリラやチンパンジーの方がまだしもマシであった。


ホモ・サピエンスの築きし生活は人類をして社会性のある種として規定せざるを得ずところがむしろ其のことによりホモ・サピエンスのバカ度は過剰に蓄積され特に近代以降はバカの加速が最大限に齎され結果必然としてバカ丸出し現代人=バカ大衆の群れが此の世界を覆うに至る。


だから社会化が得意だと云う事はバカになり易いと云うことである。

近代人は自分が利口だとむしろ思って居やうがほんたうは真正のバカそのものであり其れがもはや誰も救えぬ域に入りつつある。

其のおバカなホモ・サピエンスを毎日見詰めて居るだけで何やらかうイライラして来る。



社会とは其のホモ・サピエンスの為の自己実現の場であらう。

欲望を充たす為の場こそが其の社会である。


だが社会は悪だからそんなものでは人間の未来は閉ざされ心は悪魔化せざるを得ぬ。



尚わたくしの社会性悪論は完全にオリジナルのものだ。

わたくしは幼い頃より変わって居て社会と云うか集団が嫌いで良く幼稚園から逃げ出してお寺の境内で寝たり庭で独りで遊んだりして居たのである。-其れも寺経営の幼稚園でだ、曹洞宗であったが-


当時其処に教諭として親戚の伯母さんが勤めて居てそんなわたくしの無頼振りを優しく眺めて下さっておった。

其の伯母さんは美人でしかもクリスチャンの方であった。

だから怒られたことなどはない。

兎に角優しい優しいオバサンとして記憶に残る。

そんなマリヤ様の如き伯母さんであったが五年程前に他界された。



以来クリスチャンでもって優しい美人の女が個人的にはとても好みだ。

無論のことクリスチャンと結婚しても良い。


切支丹は然し、まず根本的に信ずるものが違ふこととは思ふが兎に角美人で優しひのであれば其処でわたくし自身の改宗もあり得る。

いや、ヒジャブ美人、そして優しひ東南アジア系の水商売の美人、コレ等もいたくわたくしの心を揺さぶり特に小乗仏教圏の敬虔な仏教徒でもってして若くしかも美形でもって優しひ女などが良い。

是などが実は一番狙ひ目でとりあへず年齢は三十歳まで可である。

大体三十歳から六十歳までが可だと考へて頂きたい。


無神論者、さらに近代主義信奉者などの要するに近代に頭の中身を毒されておる女は無論のこと不可じゃ。




尚社会性悪論はかって中国の古代思想に認めることが出来る。

即ち荀子性悪説である。







孟子荀子[編集]

孟子の対立思想として、荀子性悪説が挙げられる。しかし、孟子は人間の本性として「#四端」があると述べただけであって、それを努力して伸ばさない限り人間は禽獸(きんじゅう。けだものの意)同然の存在だと言う。決して人間は放っておいても仁・義・礼・智の徳を身に付けるとは言っておらず、そのため学問をして努力する君子は禽獸同然の人民を指導する資格があるという主張となる。一方、荀子は人間の本性とは欲望的存在であるが、学問や礼儀という「偽」(こしらえもの、人為の意)を後天的に身に付けることによって公共善に向うことができると主張する。すなわち、両者とも努力して学問することを通じて人間がよき徳を身に付けると説く点では、実は同じなのである。すなわち「人間の持つ可能性への信頼」が根底にある。両者の違いは、孟子が人間の主体的な努力によって社会全体まで統治できるという楽観的な人間中心主義に終始したのに対して、荀子は君主がまず社会に制度を制定して型を作らなければ人間はよくならないという社会システム重視の考えに立ったところにある。前者は後世に朱子学のような主観中心主義への道を開き、後者は荀子の弟子たちによってそのまま法家思想となっていった。以上より引用




儒家の思想は基本的に性善説である。

即ち人間の理性を、其の理性的な自己制御力を信ずるか否かと云うところに性善説性悪説の分かれ目があらう。

逆に言えば「人間の持つ可能性への信頼」を持ち易いのが性善説であり人間の持つ可能性など余り信じて居ないのが性悪説である。


ではカントはどうか、またショーペンハウアーはどうかと云う話になれば個人的に見てカントは一見性悪説のやうに見えて矢張り性善説である。

ショーペンハウアーは表面も本質も全部性悪説である。


では釈迦とキリストはどうなのか?

うーむ、コレも難しいのではあるが、釈迦は矢張り性悪説だらう。

キリストの場合性悪説から性善説へと捻じ曲げていく訳であるが其の力の源こそが神である。


仏教は性悪説だが実は性悪説自体を超越せしめて居るのだとも言えやう。

即ち究極の救いとは現象しないー此の世に二度と迷ひ出て来ないーことなので実は其処では性悪説であるか其れとも性善説であるかと云う其の基準そのものが成り立たなくなる。


さういう意味での生命を信じて居ないのは矢張りと云うべきか釈迦である。

でもキリストの場合も生命または生きることをある意味放棄して霊的に救われやうとするのであるから其処で少々生に対して未練はあらうが所詮は同じやうに生命など信じて居ない。-悪に染まった生命をー


だから宗教と云うのは謂わば究極の思想なので其処で謂わば考へ自体が脱俗して居り平たく言えば常にブッ飛んで居やう。



ショーペンハウアーと釈迦の思想は良く似た部分もあるがショーペンハウアーには中道としての解脱の概念が基本的に存せぬ。

ショーペンハウアーは理性による生への意志への否定か若しくは生への意志への肯定を自ら選択せよー無論のこと否定の方をより強く勧めて居るやうだがーと述べるばかりだ。



実力主義成果主義[編集]

王制篇や富国篇等では、治政にあたって実力主義成果主義の有効性を説いている。王制篇では、王公・士大夫の子孫といえども礼儀にはげむことができなければ庶民に落し、庶民の子孫といえども文芸学問を積んで身の行いを正して礼儀にはげむならば卿・士大夫にまで昇進させるべきことを説く。

王覇論[編集]

王制篇で、天下を統一する王者がいない条件下では、覇者が勝利することを示す。覇者は領地を併合することなく、諸侯を友邦として丁重に扱い、弱国を助けて強暴の国を禁圧し、滅んだ国は復興させて絶えた家は継がせる。このような正義の外交によって覇者は諸侯を友として、単に力あるだけの強者に勝利すると説く。それでも荀子はそのような現実的な覇者よりも、絶対正義を示して天下全てを味方につけて戦わず勝利するユートピア的な王者を優位に置き、覇者ではなく王者を理想とする。王者の王道政治を理想とするのは、孟子と同じく儒家の基本思想である。

性悪説・社会起源論[編集]

荀子は人間のを「悪」すなわち利己的存在と認め、君子は本性を「偽」すなわち後天的努力(すなわち学問を修めること)によって修正して善へと向かい、統治者となるべきことを勧めた。この性悪説の立場から、孟子性善説荀子は批判した。
富国篇で、荀子は人間の「性」(本性)は限度のない欲望だという前提から、各人が社会の秩序なしに無限の欲望を満たそうとすれば、奪い合い・殺し合いが生じて社会は混乱して窮乏する、と考えた。それゆえに人間はあえて君主の権力に服従してその規範(=「礼」)に従うことによって生命を安全として窮乏から脱出した、と説いた。このような思想は、社会契約説の一種であるとも評価される[2]
荀子は規範(=「礼」)の起源を社会の安全と経済的繁栄のために制定されたところに見出し、高貴な者と一般人民との身分的・経済的差別は、人間の欲望実現の力に差別を設け欲望が衝突することを防止して、欲しい物資と嫌がる労役が身分に応じて各人に相応に配分されるために必要な制度である、と正当化する。そのために非楽(音楽の排斥)・節葬(葬儀の簡略化)・節用(生活の倹約)を主張して君主は自ら働くことを主張する墨家を、倹約を強制することは人間の本性に反し、なおかつ上下の身分差別をなくすことは欲望の衝突を招き、結果社会に混乱をもたらすだけであると批判した。
荀子実力主義による昇進降格と身分による経済格差の正当化は、メリトクラシーとして表裏一体である。

天人の分[編集]

天論篇では、「」を自然現象であるとして、従来の天人相関思想(「天」が人間の行為に感応して禍福を降すという思想)を否定した。
流星日食も、珍しいだけの自然現象であり、為政者の行動とは無関係だし、吉兆や凶兆などではない。これらを訝るのはよろしいが、畏れるのはよくない」。
「天とは自然現象である。これを崇めて供物を捧げるよりは、研究してこれを利用するほうが良い」。
また祈祷等の超常的効果も否定している。
「雨乞いの儀式をしたら雨が降った。これは別に何ということもない。雨乞いをせずに雨が降るのと同じである」。
「為政者は、占いの儀式をして重要な決定をする。これは別に占いを信じているからではない。無知な民を信じさせるために占いを利用しているだけのことである」。以上より引用




荀子の思想は日本人には余り知られて居ない。

日本の知識人が中国の古代思想に範を求めた江戸時代に於いても一部を除いてはほとんど読まれては居なかった。

事実わたくしもまるで知らなかった。

実は今年に入り中国の古代思想を色々と調べるうちに初めて知った。



ところが其処にはわたくしの考えと全く同じことが述べられて居たのだ!

なる程、矢張り知性はいつの時代にもそしてどこの國に於いても同じことを考えるものだ。

或いはカントのやうな人間に対する限定性、理性に対する懐疑の部分もわたくしの考えには近いのだけれど、まさに其れ以上にほとんど同じだったのがかの荀子の考え方そのものであった。



ただし全部が同じなのではない。

一言で言えば荀子の思想は可成に合理的である。

と云っても合理主義ではないことであらうが明らかに合理的なのだ。



上記の引用の部分では実力主義成果主義の部分と天人の分の部分がわたくしの考えとは大きく隔たりがある。


尤も王覇論及び性悪説・社会起源論の部分に関しては良く理解出来ると云うかほとんど同じ考え方なのだ。


即ち覇者と云うのは生まれつき煩悩に強く捉えられし下賤の者の現実的な行ひのことであり、其処で理想としての王者による王道政治であるとした方がより格が高くより上品であらう。

利己的存在としての人間を悪として規定し、其処を学問するー理性を磨き込むーことによりまともにしていくべきだと云う部分もほとんど同じ。

欲望の限定論の部分も全く同じ。

ただし此処を見る限りでは荀子は社会が悪そのものだとは述べて居ない。

だが荀子の云うところでの個としての人間には悪は生じず集団になった時に初めて其の悪が生ずるのだ。

即ち人間関係の中でのみ悪は本質的に規定され得る。



だからわたくしが生まれつき上品な変人で幼稚園児の頃に、其の幼稚園の御遊戯などバカらしいと思ひ逃げて回って居たのは社会的には罪ではあっても社会を考えなければ全然罪でも何でもない。

むしろわたくしは皆に迷惑をかけぬやう自分だけで考える時間が必要だった為お寺の境内で遊んだりして居たのであり其処は今でも悪ひことをしたなどとはまるで思って居ない。

逆に其の御遊戯の中で何かややこしいことを言い出し幼稚園の先生を困らせたりしたくはなかったのでちと逃げてみただけのことだ。



それに優しひクリスチャンである、おお、まさにかのマリヤ様のやうな伯母様を何より困らせたくはなかったのだ。

其のやうに社会などクソッタレだと云う感覚が何処か生まれつきにわたくしにはあり、其れでもって真面目で神経質な典型的日本人である癖に何故か人とは正反対のことを言う詩人なのである。



荀子の限定思想はカントにも通ずるものだと思われるし、また一面では老荘思想などにも通じて居る部分があらう。

尚、わたくしは三十代の頃良く荘子を読んで居た。

老子ではなく荘子を読み込んで居たのだった。

荘子は社会への関心が薄く文學的で謂わば自由な世界観を持つ。

わたくしはそも社会には関心が薄くつまりは会社とか組織が元々好きではない。


むしろ会社とか組織を徹底的に批判してやりたい訳で、にも関わらずわたくし自身の思想に限れば限定的でしかも道徳的で保守的で至極まっとうなものなのだ。

だから其処が分かりにくくまさに自分でも悩むところではある。

尚次回はもう少し詳しく荀子を読み込んでみやう。