今社会が様々な言葉を用いて自らを正当化していやうとして来て居る。
おそらくは自らの立場の保身を図る為にさうして居るのだ。
曰く多様な働き方だの、また多様な性のあり方によるジェンダー社会の推進だの。
多様と云っても給料をちゃんと出さない会社ではそも多様もクソも無く結婚もクソもない。
賃金と云うか会社自体が合理化されちゃんと給料を出して居ないので皆副業をしたりパートを掛け持ちしたりで働き方が滅茶苦茶である。
明らかにバカ近代思想、自由主義経済による社会の破壊の様が色濃く浮き出て来て御座る。
ジェンダーとはそりゃ何だ、其はズバリ男が男と結婚し女が女と結婚すると云う異常な世界観のことだ。
性を否定する男女は居ても良いのだと思うがさう云うのは矢張り神仏は御認めにならないひであらう。
そんなもの所詮は全部破壊だ、破壊、即ち性と労働に於ける破壊の様だ。
其の破壊の様をなるべくまともに見せやうとして恰好良く言って居るだけのことで実は破壊の様。
其の破壊は社会の無能振りにこそ全ての責があらう。
いや、ほんとに此の今の日本の社会、壊れてますな。
まさかこんな風に壊れるとは皆思って居なかったことでせう。
価値観の崩壊とでも言うのか、結局は価値の合理化と云う事なんでせうが其こそは一種苛烈な変化です。
其処でそも社会自体の合理化はダメだと云う事が誰も分かっては居ない訳だ。
特に日本の企業人、政治家、無論官僚もさうですが皆尻尾振ってますからね、其の西洋流の合理主義社会に対して。
まあお先真っ暗でおそらくはアカンことでせうがわたくしが述べたひのは実はそんな未来の日本の社会のことではない。
即ち社会の本質的意義に関して本日は述べさせて頂く。
社会=個としての心理に対する罪の過程である。
さて社会とは何か。
社会とは悪である。
其れも所謂社会悪とかではなくして社会其れ自体が悪なのだ。
では何故さうなのかと云う事を考えてみやう。
其処で現象ー我我の関知し得る事象ーは物自体ー神または佛=本源からの分解=分離=離反であることをまずは考えてみなければなるまい。
尤もさうわたくしは考えると云うことだが。
かってショーペンハウアーは其の離反するが為の生への盲目的な意志=生きたひと願うことが物自体であると述べた。
其の物自体を粉砕するのが生への盲目的な意志への理性的放棄にこそあると述べた。
対して仏教ではあくまで個としての煩悩ー生への盲目的な意志ーを修行により制していくのだ。
即ち其処には社会性の問題は二義的なものとなる。
然しキリスト教は其処で其の分離=離反そのものを罪として捉へ物自体に対する罪を設定する。
其の罪には社会罪と個人罪の両方がある。
だから社会罪に対しては神の怒りによる終末が齎される。
仏教も此処日本では国家と結びついたこともかってはありしがただし基本的には仏教は個の内面の制御を対象とする非社会的な宗教である。
其の非社会性が現代の日本人の規範意識の喪失に対して一役買って居る可能性が高い。
即ち社会を規定するに及ぶだけの社会性には元々欠けて居やう。
だから其れは近代に対して持たざるを得ぬ仏教としての矛盾だ。
すると必然的に仏教の影響力は近代に対して低下し近代国家日本の精神を規定し得ずむしろ野放しにして置かざるを得ないこととなる。
それでもって大衆の精神はグズグズとなり日本国は精神的に滅ぶ。
極右の人やアノ世の三島 由紀夫先生はさぞや心配なことでせうが原理的にはほぼどうにもならぬ。
が、本質的には宗教は社会化されないものの方がより純粋かまたは純度の高いものであることを忘れてはならぬ。
何故なら社会とは悪だからだ。
社会とは悪が推進させる心の劣化過程そのもののことである。
なので半分は社会としての罪を裁くキリスト教は現在其の本質面での矛盾に苛まれつつある。
即ち聖職者の堕落や腐敗の問題が其れに当たる。
さらに合理主義との闘いによる矛盾=キリスト教自体への破壊の様が今後加速して行われていかう。
左様に合理主義とはキリスト教の生んだ鬼子である。
悪魔としての合理主義はキリスト教から生み出されしかも其れが神殺しを行おうとさへして御座る。
だからどちらにせよ大変だ、仏教にもまたキリスト教にも同情申し上げたひ。
君等はまさに潰れる寸前の上場企業のやうに情けなく可哀想な存在だ。
だから詩人が此の愛でもってして包んであげなひともう壊れちゃうぞ。
で、何を言って居るのか分からなくなって来たが要するに其の社会性のことだ。
社会とは多分に客観的事象である。
対して個とは主観的事象である。
意志=主観の客体化が肉体であり社会であるとかってショーペンハウアーは述べた。
すると其処でひとつの矛盾がそも生ずる。
言うまでもなく其は肉体による社会化と云う件だ。
イエス・キリストが肉の交わりにより生ずる失楽の世を御厭ひになられたのは其の肉としての象徴である精神そのものを御厭ひになられたのだ。
そして何よりもまず其の誤った社会=悪魔に支配されし世界を御厭ひになられたのだ。
対して仏陀は実は社会のことなど何も考えて居られなんだ。
だから本来は王に成り民を導く立場であったと云うのに其の立場も妻子も捨て去り修行の方へと向かわれて仕舞われたのだった。
なるほど、すると釈迦は良く云われるが如くに王子の立場を捨てて出家されたのではない。
だが釈尊の父は其の部族の長を束ねる程の役割を担って居たのかもしれない。
だから釈迦自身がまず社会的な人物ではない。
即ち欲に目が眩んで社会で活躍したひと願う俗人が此の世の中には多ひ。
往往にして金や権力は名声、其れに上等な女を我がものとしたひ人ばかりだ。
だがわたくしの場合はむしろ其れとは正反対の心でもって生まれて来て居り即ち其処で心が静かで生まれつき上品だ。
そして釈迦は生まれついてのそんな心の上品さをお持ちであった。
上品な人にとっては妻も子もシャキャ族も本質問題ではなくただ人類の本質的無知=無明だけが問題なので或る日夜中に馬に跨りパカパカと森の中へと逃げていって仕舞われた。
ところがそんな浪漫野郎は女にとってはたまったもんじゃなひ。
そんな子まで捨てて一体何をよりによって其の暗ひだけの森の中へ探しにいこうとされて居るのか。
いや、浪漫では無い。
あくまで真理じゃ。
真理だけが世界を理解するカギじゃ。
どだいそんな女子供では世界の理解など適わぬ。
世界の理解は暗ひ男性が生殖器を眠らせておく間でのみ可能である。
或いはショーペンハウアーの如くに完全に性欲をば遮断し女の敵となった後にこそ成就しやう。
かように仏陀は社会を人間の解脱の為の要件とは考えて居られなんだ。
それでもって釈迦族は滅亡した可能性が高い。
シャカ族で生き残った4人の男子は、それぞれ他の国へ行って、みなその国の王になったと伝える説も[要出典]。
と云う事は釈迦は自らの属する社会または組織を見捨ててそればかりか妻子を見捨ててしかも女を否定し修行に走られたかまたは逃げられたのだとも云えやう。
ただ其れを行わねば人類の精神を救うことは出来なんだ。
此の偉大なる逃げこそがまさに真理へと至る端緒であった。
即ち精神を希求するならば社会を捨て去らねばならぬ。
社会的な要素を遮断することでしか見えて来ぬ領域があらう。
逆に肉体は社会化される運命を担う。
或いは社会は肉体化されることを免れ得ぬ。
実は其処にこそ嫌らしさがある。
普通人は社会は個よりも偉ひとさう思ひがちだ。
特に犬っぽい日本人はまるで番犬のやうに社会に隷属して居やう。
いや、さうして居ることでこそ安心感を、其の心の中の安定感を得て御座る。
日本は繊細でもってしかも破滅的災害が起こり易い風土に培われて居り特殊な環境に置かれて居る。
だから安心したい。
繊細な風土が繊細な心性を育み日本人は細かひつまり神経質である。
神経質なのにまさに犬のやうな日本人は社会に縛られるのがとってもお好きだ。
然し社会の本質こそは悪である。
だから日本人は悪の心性に染め上げられ易い。
何せ犬だから其の行動には節操がなく事実偉ひもの、新しひものを見ると決まって尻尾ばかりを振って御座る。
偉ひと思へるものに対しては死ぬまで尻尾を振り続けるのが日本人だ。
で、其れがAIだの遺伝子操作だのさうした悪魔の所業であるものに対しても疑問など持たずただただ尻尾を振り続ける。
つまり国民性がまさに其の犬だ。
逆に猫をやると即村八分にされやうぞ。
尤も作家や詩人だけは猫をやっても良ひことにはなって御座る。
其のやうにただただ尻尾を振り続ける犬のやうな日本人が今後滅んでいく可能性は高い。
其れは国民性の上で批判精神にそも欠けて居るからだ。
では何故社会を悪として規定せざるを得ないのか。
まず其処には人間の無限の欲望と云うものが存する。
自然の欲望は常に限定されしものだが人間の欲望には限りがない。
つまりは限定性には欠けて御座る。
ところが、個の領域に於いて、或いは赤子の領域に於いて逆に其の限定性は成り立って居やう。
が、社会化されると同時に欲望に火が点き其処に限定性が解除されて仕舞ふ。
即ち友が嫁を貰ったので我も嫁が欲しい。
友がピンサロへ行き誘って呉れて居るのでワシも今度は是非行きたひ。
母ちゃんが隣の家の父ちゃんの稼ぎは良いといつもこぼして居たのでオイラは大企業の工場にでも潜り込み兎に角良い賃金を得たひ。
向かいの家では犬と猫の両方を飼って居るので我が家も両方を飼ひたい。
アノ医者は年収が五千万はありそうだ、ようし其れでは医学部へ潜り込み将来年収一億円は稼いでみせやうぞ。
A君は通知表がオール五だと云うのに我が子はオール一であるが元より其れでは我慢がならぬ。
アノ嫁は気立てが良くてしかも旦那の稼ぎが良く今日は物凄く良いなりをして居たがワタシの場合はあくまで旦那の稼ぎが悪く其れでもってしてもうまるでブルマーとモンペしか買えて居ない。
ちなみにブルマーとモンペの淫蕩さこそは一種物凄ひものだ。
と云う訳でつひ比べて仕舞ふ。
ほんたうは人と自分は比べられぬものだが其処に働くであらう自己を客観視せざるを得ないと云う原理にてつひ比べて仕舞ふ。
すると其処に自らの劣った部分が見いだされ其れを何としてでも対等にしやうー比較した対象とーとする心理が働き人間の心は其処に完全に社会化されるに至る。
此のやうにして人間の持つ無限に隠された欲望に火を点けるのが社会の役割だ。
よって社会こそが欲望の申し子だ。
実は社会=欲望なのだ。
有限の世界に無限の欲望を振り撒くこと、まさにコレこそが根本の社会の矛盾であり人間の矛盾である。
欲望の対立は時代の流れと共により大きくなりある時点からは其れが破壊を齎すやうになる。
其の最大の破壊は世界大戦の勃発であったが実はもっと大きな破壊が今後の人類の行く末に待ち受けて居やう。
だから社会=破壊なのだ。
ズバリさうだ、ズバリ。
わたくしは元塾の社会科の先生としてコレだけは言ってはいけなかったのかもしれない。
でもわたくしの中の国語の先生の方がもう言っちまえ、さすれば楽になるぞよ、と唆し要するにわたくしは高校の頃も現国だけは勉強せずともスラスラ出来た。
けれど国語の方が何と云うか云わば悪魔崇拝でもってしてより怖いことだけは確かである。
さらに言えば社会=悪魔である。
だからいざこうなっちまったものはもはや如何ともし難く変え難いのであるからしてもはや社会そのものとは闘えぬ。
ただしキリスト教の如くに科学の犯せし罪、または時代が齎すところでの心なき様での罪を規定していくことだけは出来やう。
いま一度言う。
個としての欲望はそれぞれの気質に於いてのみ解放され全体としては決して解放され得ぬ。
何故なら人間には小欲の人がおそらくは半分位は居る筈だ。
だがいざ社会化されると其の小欲でさへ暴れ出すのだ。
さうしてフリーセックス化すれば皆がそちらの方へとなだれ込んでいかう。
だから日本人は其れが一番危ないと言うて居るのだ。
とどのつまりは日本人は社会化大好き民族なので根としては全体主義民族であり社会そのものが悪魔であることをまるで知らぬおバカさんそのものだった。