元より宗教は人間の欲望のあり方と真正面から取り組んで来たものである。
無論のこと其の試みには倫理や道徳と云った理性による枠組みがあるのだが宗教はもっと大きく人間の精神そのものを規定していくものだ。
ところが、其処で勘違ひをして居るべきではない。
たとへば自然界には宗教など必要ないと云う事だ。
自然界には倫理的若しくは道徳的と云えるやうな行動が実は存在して居やう。
どうも高等な動物はさうして他の動物を助けたりもして居るのだそうだ。
だが宗教だけが自然界には無い。
尤も其れは当たり前のことで、自然界には宗教が必要とされるやうな大きな欲望が存して居ないからなのである。
つまりは其処までの欲が無い。
であるから疑似倫理的、道徳的な行為があれば其れでもって事足りる。
或いは棲み分けたり領分を守ったりして自然界は皆仲良く暮らして来て居やう。
何でかと云うと其処でデカい欲望を持とうにも持つ理由など何処にも無いからなのだ。
謂わば欲する前にしてすでに楽園。
楽園には宗教は要らないと云う訳である。
以上のことからも、宗教とは醜ひ人間の欲望に向き合うー対処するー為の唯一の方策としての精神のことを云う。
人間の欲は限りがなくゆえに醜ひ。
要するに悪魔、堕天使、地獄の住人達のことだ。
此の宇宙には何ひとつとして問題は無いが人間と云う欲望のみに宇宙の全ての罪が存しひとり人間のみが未来永劫に亘り救われぬ。
嗚呼、嫌な人間共。
人間は何処までも汚れて居て醜ひ。
ところが、である。
社会が悪ひ、とする宗教が実はなかなか無いのである。
大抵の宗教は自分の心が悪ひ、とするので正すべきは自分の邪な心または醜ひ心でありズバリ其処で社会が悪ひからオイラは不幸なんだ、だからもう全ては社会が悪ひ。社会つまりは文明が悪ひ。
文明つまりは人間の歴史、人間の行ひそのものが全部悪ひから大事な人生が全ておじゃんである。
文明の支配層が何より悪くつまりは価値ヒエラルキーの上部構造が腐り切っておる。
其の腐り切った人間の世の中で幸せになることは可能であるや否や?
勿論其のままでは不可能だ。
かように社会構造は悪として常に個を圧迫する。
なので真の意味での民主制など実現しない。
共産制もまた幻想である。
では恒久的に個を幸福な状態に存立せしめる社会制度の建設は無理なのだらうか。
そう、無理なのだ。
社会は個を幸福に導くことなど出来ない。
何故なら社会とは矛盾の巣窟なのであらうから。
じゃ、どうするのだ?
矢張り宗教の方へ行くしかないのか?
いやまさにそうじゃ、阿弥陀様にでもお縋りするほかはない。
或いは神の恩寵を受けるほかはない。
宗教とはまたは信心とはさういうものである。
苦しひ。
でも誰も助けては呉れぬ。
其の折にして初めて見える道筋がある。
心の道標または心の灯が。
嗚呼、何故だ何故だ、何故なのだ?
何故わたくしだけがこんなに苦労せねばならぬのだらう。
貧乏だし、病気だし、おまけに気も狂ひかけて居るぞ。
其れは世が悪ひからそうなる。
必然的に其のやうにされて御座る。
資本主義も共産主義も根本的に間違って居るので特に其の特殊の苦しみなどには向き合っては呉れぬ。
科学技術は余計に頼りにならずむしろ其の技術革新思想こそが人類を追い詰めるに至ることだらう元凶だ。
しかも家族など当てにはならない。
会社など余計に当てにはならない。
其のやうに追い詰められしかもナメられてから初めて分かる境地があり其こそがまさに信仰ぞ。
元より其の信仰の力自体には優劣などない。
何の教へを信じようが、或いは人間を信じやうが信じまいが其れは構わぬ。
だが信ずるから生きていける。
或いは死んでもいける。
其処で何故信ずるのか?
此の世の本質が虚無であるからにほかならぬ。
文學で云えば、太宰 治など読んでみればそんなこと位はすぐに分かる。
或いはかのニーチェを読んで見給へ。
此の世の本質が虚無であることを學ぶ為にはそれなりに多くの読書とそれなりの人生経験が是非必要だ。
其処で本で得た知識または人生の経験が無意味だと云う訳ではない。
左様に観念的なものは無意味なのではない。
だが最終的に人生そのものが無意味なのである。
逆にあへて人生そのものを構築すれば全てが破壊に繋がっていく。
人生を享楽したり、子孫を残したりすることで逆に意味化した破壊を撒き散らしていくこととなる。
だから聖者は其の意味化を慎重に取り除き生きていく。
意味化=欲望なので結果的に其れは欲望の制御へと繋がる。
人生を無意味だと規定するのは理性である。
だから無意味だとして自己破壊に至るのも其の理性の働きなのだ。
だが其の理性の動きさへもが無意味なのではない。
欲望に対するマイナスの動き、生の衝動に対する否定の向きさへもが意味のあるものだ。
此の世で現象して居ることだけを視野に入れれば観念はむしろ滅して置いた方がより具合が良い。
此の生は二元的現象に突き付けられし欲望ー未来ーへの一方通行の解放の過程そのものなのだ。
だから精神にとっての其れはむしろ生きにくいところだ。
精神は過去へ戻ろうとして居るにも関わらず肉体はもっともっとと欲し続けていく。
と云うようなことなのでいずれにせよ苦しひ。
かようにいつも矛盾を突き付けられて居るので精神ー心ーは苦しひ。
でも其の悩みを離れ物質ー欲望そのものーとして生きればおそらくは余計に苦しくなる。
其の悩んで居ない精神ー心ーこそが実は苦しひ。
確かに人間はそう簡単に仏陀や菩薩にはなれない。
だから逆に悩んで居るべきなのだ。
悩んで居ても優しひ人は優しく其の優しひ心こそが価値である。
悩まずにどんなに明るくて前向きで楽天的でも悩まない心はカタワであり誤りである。
現代社会の精神のあり方はまさにさうした意味に於いて誤りである。
或いは人類はもはや千年も前に滅んで居たのではなかったか?
だから其のマイナスがむしろ人類を継続させて来て居る。
苦しみがさうして悪魔性がさうしてむしろ人類を継続させて来た。
或いは怒りだ。
決して治らぬバカな社会に対する怒りが実は五千年以上も続いて来ておる。
文明の発生と同時に其のバカは生じ文明が滅びる其の瞬間まで其のバカは消えて呉れぬ。
だから怒る、とはまさに義憤でありむしろ正当な理性による解釈のことだ。
また恨み、とはまさに義憤でありむしろ正当な理性による解釈のことだ。
義憤と悪とは違ふのだし理性と悪とはまた違ふのだ。
なので人間は悩んで居ても良いのだしまた全てを社会のせいにして引き籠もって居ても良いのである。
むしろ悩んで居てそれこそ文學です、とかこれこれこうで哲學でした、とか云うておる方が女に子を孕ませたり酒を飲んで暴れ警官を殴ったりすることよりも何より真面目で宜しひ。
が、実は其れでは救われぬので其処には是非信仰の力が必要となる。
即ち理性がちで悩む人は善人ではあらうがそのままではちと危なひので是非宗教の方へ行くべきだ。
だがオウム教や他の邪宗へ走るべきではない。
あくまで釈迦やキリストが見える範囲で信仰して居ればまず間違ひなどない。
と此のやうに大乗仏教をバカにするのも決して良いことではない。
では何が大事かと云へば即ち其処で信ずる者だけが救われる、と云う点のみが大事である。
つまり教義は何を信じていやうが余り関係がない。
元より現代に於ける信仰の危機とはまるでさうした話ではない。
むしろ其れは信仰其れ自体への危機なのであり謂わば人間の精神の合理化への危機感なのである。
また其れは社会的に齎される合理化なのであらう。
ゆえに宗教は悩んで居ても良い、或いは貧乏で食えなくなるにせよ其れでも良い、兎に角生きて居るべきだ、たとへ残飯をあさってでも生き抜くのだ。
事実釈迦やキリストは肉体的にも精神的にもかって悩んだのだった。
然し其の悩みの只中から精神の輝きを得たのである。
より便利なものや楽しいばかりのものからは其の輝きを得ることなど出来はしない。
精神とはまさにさうしたもので、信仰とはまさにさうした苦境から這い上がるもののことだ。
まさに地獄の苦しみの中から藁をも攫む気持ちでしがみ付くもの、まさに其れが信仰なのだ。
其のそれぞれの信仰のありかを一体誰が貶すことが出来やう。
ただし繰り返すが余り変な宗教では困る。
とりあへずは社会に公認された宗教であることこそが大事だ。
まあ此の際異端でも構わぬが反社会的な宗教は暴力革命と一緒で死人が多く出やうから止めておいた方が無難だ。
さて信仰と云うのは其のやうな実存としての必須の形態である。
何故かと云えば其れは此の世が苦に充ちて居るからだ。
あくまで社会的に見ればさうである。
だから逆に宗教と云う救済の構造が必須となる。
尤も其れは真理ではない。
でも真理ではないからこそ其れは我我の為の信仰のありかなのだ。
浄土宗系のもの、またキリスト教には此の弱者への視点がある。
だがたとへ死ねと思われて居ても人間は生きなければならぬではないか。
現実がどんなに苦しくとも今日をさうして明日を生きていかざるを得ない。
そんな時に神または阿弥陀仏にお縋りするのは其れは人として当たり前のことだ。
社会のインテリ層がダメ社会を築いて居るのに責任を取ろうとしないのでしかも革命ももはや出来ぬのであればもう信心するしかないでせう。
そんなバカ社会など当てにせず神かまたは阿弥陀様に祈りを捧げるほかないじゃ御座いませんか。
さう死後の幸せを信じて。
逆に言えば社会が余りにお粗末で此の世に幸せを用意出来ない、あーあ、情けなや現代文明、と言ったところでせう。