さてリョコウバトは廿世紀初頭に米国で人間の活動ー乱獲や環境破壊ーにより絶滅に追いやられた種だ。
ー今回まさに此の標本を観て来た。-
此のやうに人間の欲望には限りがなくまさに種を食ひ尽くすところまで行って仕舞ふと云うことだ。
またもしも欲しいモノや女が居れば其れを執拗に追いかけ其れをモノにせずば済まぬ。
欲しいモノがあれば何処までも其れを追ひ求め兎に角徹底的に所有する。
そも所有など此の世では出来ぬ相談なのだが人間はバカなんで其処で所有出来たとつひ勘違ひして仕舞ふ。
尤もまだしも物コレクターや城コレクターなどは大人しひ方で、むしろ一番多ひのが家庭を築き子や孫に囲まれ其れがじぶんの所有乃至は財産だと勘違ひして居るやうな俗的な価値観だ。
其の所有の不可能性と云ふ部分からこそ実は人間は精神を始めて居なければならず、にも関わらず逆に俗世間ではむしろ所有の為の所有、所有することにのみ満足を見出すと云ふまことに軽薄な価値観に基づき実際には動かされて居るものだから、其の点ひとつに於ひてもまさに絶望的な倒錯を其処に感じざるを得ず、のみならず自らに於ひても其の無所有の所有、などと云ふ高級な心理に到達しておる訳ではなくむしろ極めて欲望が強く全てを所有しつひでに全てを食ひ尽さんともしておる。
が、わたくしは長きに亘り食欲、物欲及び表現欲ー藝術的希求ーに突き動かされては来しが、其れを幾ら熱心に追ひ求めたにせよ根本的には無所有でつまりは無一物であるに過ぎぬ。
左様に元来無一物で、本来が無所有、なのだ。
どんなものに囲まれたにせよさうなので次第に強ひ欲望からは遠のきつつあるが其れでも尚美に対する強ひ思ひばかりは残って居る。
むしろ其れだけが残った。
釈迦は末期の眼より「世界は美しひ」と一言述べられたさうだが何だかまさにそんな感じで、確かに汚れたタマシイの行き交う此の濁世であるからこそ真に美しひものを何処かで見かつ信じて居たひ。
美しひ全てのものが嫌ひではないのだが美しひ心の持ち主に是非出遭ひたいものだ。
が、むしろ心無きものこそが美しく完全なる諧調に登り詰めて居るのだとも言へる。
其のやうな有情無情の区別を越へた美の発掘を、美しひものがタダ美しひと云ふ其の虚飾無き美の段階に於ひて、或は疑わぬことの美しさ、其の理性無き様より必然として紡ぎ出されし無垢なる色彩としての信仰のやうに。
色其のもの、色でないのに色である其の現象としての屈折ープリズムとしてーの過程。
即ち色の過程、おおまるで色キチガヒの有様だ。
嗚呼其の純然たる色の織物。
死の扉に触れつつも尚なまめかしく輝くイノチの色模様。
尚わたくしは共感覚者であり実は常に数字に色を感ずることが出来る。
たとへば一は白で二は赤で三は黄色だ。
其のやうな原初的感覚の持ち主なのでほんたうは人類の為に是非詩を書くべきなのだ。
其のやうに兎に角諸の色には強く反応するのがわたくしの生来の性質であり少し特殊なところだ。
勿論其の色でさへ人間は所有することがかなわぬ。
人間のみではなく他の動植物にしてもどんな些細なものであるにせよ所有してなど居る所以は何処にも無ひ。
ところが、其処で常に人間はカン違ひをして居る。
謂わば所有出来ぬ世界のあり方を自ら造り替え所有出来るものへと転換せしめて居る。
さうしてつひ人に自慢をする。
どうだ、コレがワシの出来の良ひ女房と息子だ。
どうだ、コレがワシの百億の財産だ。
どうだ、コレがワシの高級な家と服と時計の数々に立派な墓とじまん出来る肩書だ。
さうで御座りますか。
其れは其れはもうご立派なことで。
其の絶滅にはさうした意味での所有の概念が或は深く関わって居るのではないか。
さうして欧米起源の文明の根本にはさうした所有の観念、其処を突き詰めればじぶんによる所有、自己所有、自我による所有かまたは非所有かと云う線引きが顕著に見られる。
其れでアメリカ大陸を分捕った後に当時の米国人はリョコウバトをも分捕ったとさう思ひ込んで仕舞ふのだ。
つまりは其れはすでに所有しておるのだからどうしやうが俺の勝手だ。
リョコウバトは美味ひから兎に角バリバリと焼ひて食ふのだ。
サア今から全部を狩り全部を食ふのだ。
然し其れでは元々キリスト教の精神にそぐわぬものではないのか。
キリスト教に於ける非所有の概念は仏教に於ける「本来無一物」の概念とは少々異なるのかもしれぬ。
キリスト教は元々人間を神の階梯へと持ち上げる宗教である。
然し其れをするが為には己が欲望を制し心を清らかに保っていかねばなるまひ。
宗教は大抵の場合世俗化する方向へと進む。
「プロテスタントにとっては、自分がいま生きている社会のうちで勤勉に働くことが神の意志に最もかなうことになる。」マックス・ヴェーバー
即ち大乗仏教は謂わば庶民の為の仏教として形作られていった。
プロテスタンティズムもまた庶民の為のキリスト教として形作られていく。
長らくわたくしは大乗仏教には興味が無くより純粋だと目される古い仏教の方を探って居たのだった。
- 回心主義 - 個人的にイエス・キリストを受け入れる信仰によって変えられなければならない(ヨハネ3:7)。
- 行動主義 - キリスト教信仰、特に福音伝道の実践。
- 聖書主義 - 霊的生活の中心としての聖書。
- 十字架中心主義 - キリストの十字架とそれがもたらした幸いの強調。
福音主義 (Evangelicalism)キリスト教では、聖書の権威、キリストの処女降誕、復活、再臨、個人的救い(回心、新生)を信じている。聖書無謬を信じる根本主義者の多くは歴史的に認められてきた創造論を追認し、近代に登場したチャールズ・ダーウィン以降の進化論を聖書と矛盾するものとして退ける。
いずれにせよ米国のキリスト教に於ける変遷史も込み入って居りなかなかにややこしひ。
丁度仏教に於ける変遷史が込み入って居りなかなかにややこしひのとまるで同じな訳です。
が、キリスト教は意外と人間中心主義ですからな。
人間を愛す、即ち持ち上げる。
其の為にハトは絶滅に追いやられたにせよ米国の人間様のお役には立ちながら昇天していったのやもしれぬ。
が、其れでは宗教としては矢張りダメだ。
絶滅または破壊しないやうに欲望を抑へることのみが宗教の意義であり目的なのだから。
米国では幅広くキリスト教が信仰されておりつまりは宗教大国なのである。
其の宗教的な大国でかってリョコウバトが何故絶滅しなければならなかったのだらう。
おそらくはピユーリタニズム其れ自体に問題があったのだらうか。
其れとも単に強欲であったのか。
問題はあくまで世界が即物的に規定されて居るものだと云ふことにこそあらう。
即ち絶滅は絶滅でしかなく、其の絶滅は事実としてさう規定されていくものであるに過ぎぬ。
また温度上昇は温度上昇でしかなく、其の温度上昇は事実としてさう規定されていくものであるに過ぎぬ。
さうして我我人間にとりまずもって一番大事なこととは此の即物的規定=物理的規定だと云ふことなのだ。
言ふまでもなく其の物理的規定こそが我我の肉体性を維持していくのだ。
現代文明に於ひて、其の観念化の度が過ぎた文明の有様に於ひて、観念の妄想、観念の暴走こそが破壊=悲劇を齎し生物種を絶滅させ我我の肉体性を破壊することに繋がっていく。
ひとつには其れはキリスト教の自己矛盾過程としての文明の所有の観念であり、其の百年後に至り展開されて居ることだらう情報化社会の抽象化の所有の問題であり矛盾である。
言ふまでもなくスマフォや金融経済は或いはAIは其の肉体性の維持にとりむしろ不要なものばかりだ。
キリスト教の世俗化が精神性の維持にとり必要なものであったかどうかと云ふ点と其れは似て居やう。
左様に社会的に推進される観念化こそが結局破壊を齎さう。
リョコウバトの絶滅には大規模な森林破壊が大きく関わって居たともまたされて居る。
森林破壊もまた煎じ詰めれば其れは社会的な観念化の試みでのこと。
かくして観念は逆に肉体を何処までも追い詰めていく。
其れも絶滅に至るまで追い詰めていくのだ。
けだし其の観念とは個に於けるものには非ず、社会の妄想、社会的な通念としての妄想、即ち社会常識としての幻想が生命としての肉体を無限に破棄していく。
元より観念は必ずしも肉体には規定されず。
だが実際には観念と肉体は常に相克ししかも相即して居るのだ。
其の観念が社会化すると同時に物理的な破壊が齎されやう。
其れは事象は相克ししかも相即すると云ふ二元的実相に目覚めぬからさうなる。
左様に物理的破壊は肉体を破壊しかつ様々な生物種の絶滅を加速させやう。
然し其の物理的破壊を齎すものとは畢竟其れは社会的な観念なのだ。
社会的観念は社会的妄想に転じ易ひ。
個の妄想はなかなか社会化出来ぬものだが、逆に社会の妄想は容易に個に伝わるものだ。
かように皆で行ふところでの観念的誤謬ほど怖ひものも無し。
文明よもはや観念化するな、観念はいつか滅ぼすであらう、人類としての其の物理的な肉体性を。
わたくしにはリョコウバトの絶滅が今後の人類の肉体の破壊、文明の途絶の様を暗示して居るかの如くに感ぜられてならぬ。