目覚めよ!

文明批判と心の探求と

地獄と極楽

 

「人生は地獄よりも地獄的である」 芥川  龍之介
 
 
 
 
     
 
「人間的な、余りに人間的なものは大抵は確かに動物的である。」
 
 
 
 
其の動物的である本質がぶつかり合えば必然として其処に地獄の様が生じやう。
 
 
 
従って地獄とはあくまで地獄のやうな様を云うのであり地獄そのものがたとへば死んでから拡がると云う訳では無ひことだらう。
 
 
 
さう云ふのが藝術若しくは仏教としての捉へ方なのだらう。
 
 
 
対してキリスト教には或は現象としての地獄だの煉獄だのの様が拡がって居るのやもしれぬ。
 
 
 
此の世での闘争による滅茶苦茶な様は其の理智以外のものが関与するところでの低レヴェルな営みだとする考へ方にも一理あり。
 
 
 
まず利口な人はさう捉へ易ひとも言へるのだらう。
 
 
 
 
 
事実ホモ・サピエンスがもう少し利口ならばこんな地獄の様をあへて繰り広げて居なくても済んだのにもうまるでおバカさんですねえ、などとも詩人は時折思ふのだ。
 
 
 
其の地獄と云うのはまさに其の争ふ様のことだらう。
 
 
 
生活や観念の上での色んなものがさうして争って居り、そればかりか実はたとへ自然界であれ日々争って御座る。
 
 
 
が、自然界での争ひは虚の領域にまでは及ばないものである為其処には謂はば罪がない。
 
 
 
 
 
虚の領域での人間の争ひのみが罪を生じ煩悩にまみれ汚れて居りしかも救ひやうが無ひ。
 
 
 
救ひやうの無ひ堕地獄の様を何とか救おうとして五千年位に亘り頑張って来たのが宗教の領域だった。
 
 
 
 
 
ただしそれでも尚救へぬ。
 
何でか知らないけれども救ひやうが無ひまでに人間は常に低レヴェルだ。
 
 
 
まさに心の段階が低ひとさう申す他は無ひ訳だ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
藝術が提起する地獄とはかくの如くに必然としての狂気を孕んだものとならう。
 
 
 
然し其れはまた庶民の地獄とは違ふものなのではなひか。
 
 
 
さうした藝術至上主義ではなくして庶民の地獄とはもっと切実かつ具体的なものなのだ。
 
 
 
たとへば結婚出来なひ、とか金が無い、とかさうしたものであらう。
 
 
 
或いは不細工だとか頭が悪ひとかさうしたことなのだ。
 
 
 
 
 
藝術だの宇宙だの物理学だのさうしたことではなく所謂「困って居る」と云ふ状態のことだ。
 
 
 
つまりは全てが不足から生ずる苦しみのことだ。
 
 
 
 
 
逆に過剰から生ずる苦しみと云うこともある。
 
 
 
たとへば利口過ぎて庶民の苦しみが分からなひ、と云う形での苦しみもまたあらう。
 
 
 
 
 
いずれにせよ兎に角苦しひぞ。
 
 
 
なんとなれば「人生は地獄よりも地獄的である」であるからなのだ。
 
 
 
 
 
 
では法然親鸞の師匠としての僧である源信は一体何を述べられて居たのだったか?
 
 
 
 
 
 
 
 
さて問題は何故浄土思想にはさうして必然としての地獄が出て来るのかと云う部分である。
 
 
 
何故なら天国ー極楽ーへ行く為の教へなので現象のならひとして其処に二元に分解ー分割ーされて居る訳だ。
 
 
 
つまりあへて其の分離を受け容れる思想であるとわたくしは理解する。
 
 
 
即ち二元化を徹底させることにより結果的に一元化を図ると云う思想であらう。
 
 
 
 
 
さうして社会的な思想でもまたある。
 
 
 
其れは常に社会の悪と連動して居るのだとも言へる。
 
 
 
内なる悪と云うよりもむしろ個に不足を強ひるお粗末な社会としての悪を見据へた上での思想なのだ。
 
 
 
 
 
だからコレは仏教の基本の構造からは外れて居り明らかにキリスト教的な救済構造でのものだ。
 
 
 
なので謗法の可能性もまた高ひのだが実際さうでもしなければ此の悪ひ世の中から衆生を救ふことなど出来なんだ筈だ。
 
 
 
 
 
 
では何故社会は常に悪ひのか?
 
 
 
矛盾だらけでおまけに悪人が蔓延るものにしかならないのか。
 
 
 
 
 
まさに其れは人間の心が動物的だからである。
 
 
 
ケモノだからである。
 
 
 
ケモノだからこそ女は触るは、酒は飲むは、ギャンブルに走るはで。
 
 
 
人の持ち物も幸せも根こそぎ奪い去ろうとするは、勉強はしないはつまり考へたりしないはで。
 
 
 
 
 
でも近代は理性による構築物なのでせう?
 
 
 
今や皆が利口だしもはや神様にも近い存在なのではないか、特にノーベル賞級の知性が集まればもはや恐ひものなどなひではなひか。
 
 
 
 
 
 
馬鹿者!
 
 
 
そんな理性などほんたうの理性には非ずだ!
 
 
 
ほんたうの理性とは地獄を知る者のことぞ。
 
 
 
ほんたうの理性とは二元の対立の哀しみをこそ知る者のことぞ。
 
 
 
ほんたうの理性とは東大や京大へ行くことではなく悩み苦しみ生と闘ふ者のことを云う。
 
 
 
 
 
 
 
あへて其の分離を引き受ける。
 
 
 
其れが浄土教の本質だとわたくしは見て居る。
 
 
 
 
 
即ち其の二元としての差異、即ち互ひの理解のし難さを引き受ける不純さにこそより現実的な仏教としての意味がある筈だ。
 
 
 
また社会の矛盾、文明の矛盾ひいては人間の矛盾をあへて受け容れる容量を持つのが浄土教並びにキリスト教としての考へ方だらう。
 
 
 
然し其れは釈迦の思想とは別物だ。
 
 
 
 
 
釈迦の思想は社会的なものではなくおまけに釈迦は超インテリだからかの芥川 竜之介的な世の捉へ方すらして居られるものだ。
 
 
 
其処が所謂「一切皆苦」である。
 
 
 
一切皆苦」は元より真理である。
 
 
 
真理だが其れは此の腐り切った社会の住人の為のものではなひのかもしれなひ。
 
 
 
 
 
 
さらに其の分離とはまさに現実的なものだ。
 
 
 
たとへば男と女、コレなどはどうしても理解出来なひひとつの壁である。
 
たとへば利口と馬鹿、コレなどもどうしても理解出来なひひとつの壁である。
 
 
 
其の現実上のどうしようもない対立を最大限化すると極楽と地獄即ち天国と地獄と云う構造が其処に立ち現れても来やう。
 
 
 
其の最大限としての二項対立から「一切皆苦」じゃない世界を逆構築していくのが浄土即ち天国としての救済思想だ。
 
 
 
 
 
 
だから今我我は地獄のさ中に居る。
 
 
 
 
エッ?一体何処が地獄なんですか?
 
 
 
其れはアナタが地獄に居ると云ふだけの話で我はもう毎日が楽しくて楽しくて。
 
 
 
もうほんたうに女房は綺麗だし子供の出来が良くてまさに末は博士か大臣か、ですよ。
 
 
 
 
 
さうですか、其れは確かに羨ましひ。
 
 
 
ですが君は死ぬぞ、其のうちに。
 
 
 
死ぬと全部が無くなるぞ。
 
 
 
君の構築なんぞは全部が虚だ、虚。
 
 
 
 
 
まあさう言はれれば其の通りだ。
 
 
 
だがそんな潔癖では此の世の中ではまるで通らぬぞ。
 
 
 
第一死ぬと仰いますがおまへも結局は死ぬのだぞ。
 
 
 
 
 
おまへなんぞは女房も子供も居ないままにおっ死ぬのだ。
 
 
 
わーははは、ザマアミロ。
 
 
 
 
ガクーン。
 
 
 
 
 
とのことで、此の世では観念の潔癖や藝術至上主義は通用致しません。
 
 
 
所詮は非本質的な世界、動物的な欲望の闘争の世界なのです。
 
 
 
が、まさか其れは真理ではない。
 
 
 
真理に至ればさうした闘争や二項対立は解消致しませう。
 
 
 
されど真理は釈迦お一人のものなんですね、実は。
 
 
 
 
 
ですが藝術家が述べた「人生は地獄よりも地獄的である」と云う捉へ方、さらに釈尊が述べられた「一切皆苦」と云う認識もまた重要なのです。
 
 
 
我我凡夫は逆に生をして楽を中心に組み立てて居ります。
 
 
 
また近代と云う社会構造は其れをこそ最大限に加速させて参りました。
 
 
 
 
 
其のいずれもが然し救はれては居りません。
 
 
 
即ち其れをどう救ふかと云う事のみが問題なのです。
 
 
 
芥川はさうして自死を選び釈尊は真理を選び取られた。
 
 
 
勿論究極の救済とは其の真理にこそあらう。
 
 
 
 
 
でも其れは社会化などは決して出来ない性質のものでした。
 
 
 
だから出家して個々が真理を目指す他はなかった。
 
 
 
其の自力救済によらず他力救済を説ひたのが浄土信仰なのです。
 
 
 
 
 
即ち其処でもって信仰の社会化が図られたのだ。
 
 
 
社会化=不純化=二元化と云ふことでもある。
 
 
 
まさに其れが此の世での矛盾を乗り越へ二元的対立を受け容れる考へ方でもあった。
 
 
 
 
 
元より其れは真理ではなひ。
 
 
 
ですが真理へ至る為のギリギリの方便でもあったことでせう。
 
 
 
ただし其の現実性、ある意味での現世利益性の為に浄土教並びに他の大乗宗派は今危機を迎へても居る。
 
 
 
 
 
其れは時代が移り変わり社会が変はったことによる危機です。
 
 
 
方便としての浄土門は今まさにそんな自己矛盾に苛まれつつもある。
 
 
 
 
 
ならば此の際ロボット僧侶をまたはAI住職を養成していくべきではないのか。
 
 
 
たとへば科学的仏教と云うジャンルを創成し説教を人工知能に代行して頂く。
 
 
 
其れでもって給金として其処にかかった電気代だけを払ふ。
 
 
 
 
 
物凄くフレキシブルな浄土教ならば或は其の位のことは出来るのじゃなひでせうか。
 
 
 
 
 
 
ちなみに何で浄土真宗の僧侶は嫁を貰っても構はなひのかと云う事を考へて居りましたところ意外と楽にスッキリ分かりました。
 
 
 
1.とりあえず浄土思想は二元的に分かれた宗教=地獄と極楽の思想である。だから男女の違ひなども容認して居る。また利口と馬鹿の違ひも容認して居る。さらに煩悩と菩提の違ひさへ容認して居る。此の違ひを容認するからこそ嫁=女は常に大事だ。だから女のことを不浄だ、近寄るな!などとも言はぬ。
 
だとするとだ、浄土思想は物凄く近代的な思想でむしろレデーファーストと言っても良い程のものだ。で、女が御坊様とくっつくからこそ世襲が出来寺が存続することだらう。
 
 
2.「聖書は,結婚関係内の性的な親密さを,心身を爽快にする井戸水を飲むことになぞらえています。」
 
と云う事はだ、キリスト教は元々人間の生殖を禁じてなどは居なひのである。其処で厳しく戒められて居るのは不倫など邪淫の類であり夫婦関係はかやうにむしろ良きことだとされておるではなひか。
 
まあ仏教にしても世俗の人間の生殖を禁じてなどは居ないのだがどちらかと云えば人間の繁殖など望んでは居なひのが仏教なのだらう。
 
 
 
で、キリスト教の思想に影響を受けて居たと目される親鸞は妻帯することを厭はずよって真宗の御坊さん達は当初より嫁を貰っても構はなかったのだった。
 
 
 
然しイエス様は性的には相当潔癖だと目され其処は妻子が居た釈迦とはまるで違ふ純粋さであったことかと思ふ。
 
 
 
故に其処でキリスト教が人間の生殖を認めるのに対し何故仏教は乗り気ではなひのかと云う部分につき考へてみた。
 
 
 
 
即ちキリスト教とは救済宗教なのである。
 
 
 
だから此の世で神を信じたまま死んだ奴が基本的には救はれるのだ。
 
 
 
然し仏教の場合は仏を信じて死んだにせよ其の精神が真理へと至らずば基本的に救はれることなど無ひ。
 
 
 
と云う事は仏教に於いては信仰者の数など問題ではなく其処に悟りを開いておるかどうかと云ふことのみが問題だった。
 
 
 
ところがキリスト教では其の信者の数がものを言ふ。
 
 
 
何故なら神が救ふ人々はなるべく多ひ方が良ひのである。
 
 
 
尤も浄土教に限ればまさにキリスト教の如くに其の数がものを言ふ。
 
 
 
何故なら阿弥陀仏が救ふ人々はなるべく多ひ方が良ひのである。
 
 
 
 
 
で、現在日本の仏教徒で一番多ひのが浄土宗+浄土真宗の家の方々である。
 
 
 
ところで他国に比して何故日本のキリスト教徒は少なひのか。
 
 
 
コレも容易に分かった。
 
 
 
其れは日本国がキリスト教に極めて近い浄土思想の蔓延する國だったからなのだ。
 
 
 
浄土思想即ち地獄と極楽の思想のことだらう。
 
 
 
 
 
蛇足ながらもうひとつ述べれば現在年寄りよりも若者の方が「あの世」を信じて居る人が多ひのだそうだ。
 
 
 
其れにはアニメなどの影響もあろうから一概には言へないがひとつには明らかに社会の閉塞感が此の傾向を生み出して居るのだとも言へる。
 
 
 
 
 
其れ即ちどういうことかと云えば事実社会が悪ひと「あの世」を信じたくもなるのだ。
 
 
 
逆に社会が楽園でもって「あの世」で救はれやうと云ふ人などは何処にも居なひことだらう。
 
 
 
かように社会が悪ひから「あの世」が生じしかも其処で天国と極楽また其れと対になる地獄=インフェルノと云う区別が生ずるのだ。
 
 
 
だからまず地獄に堕ちるのは此の社会を組み上げて来たインテリ層=頭の悪ひホモ・サピエンス達だらう。
 
 
 
が、頭が良く悩み抜いた芥川  龍之介などは地獄には堕ちず理智の園の方へ転生して居ることだらう。
 
 
 
即ち、
 
 
 
「人生は地獄よりも地獄的である」 芥川  龍之介
 
だったのだった。