目覚めよ!

文明批判と心の探求と

さらに『遺言。』より


『遺言。』の中で養老先生が述べて居られることとは何か?

畢竟其れは人間とは何か?と云う問ひなのだと思われる。

ところで人間は何故人間なのか?と云う命題につき皆様は考へてみられたことがおありだらうか。

わたくしに限れば元々人間とは良いものではないと云う直観に突き動かされずっと生きて来たので人間とは明らかに寄り添うべきものではなかった。


まさに常に批判的に捉へていなければならないものであった。

さうでなくては図に乗り増長して仕舞ふまさにバイ菌か下等動物の如くに思われて居たのだった。


最初からむしろさうであった。

多分幼稚園児位の頃からおそらくはさうだ。

人間は今後どうなるのか?


と云った大問題に対しての解剖学者からの回答がおそらくは其処に含まれて居ることだらう。


ちなみに真理はさうした命題に対し極めてドライにかう答へて呉れることだらう。

たとへば、

神への信仰でもって神と共に生きる未来を切り拓け。

佛を信じ修行することにより此の世を速やかに去れ。


なのでキリスト教徒にとっての未来とは信仰により善なる道として選び取るもの。
仏教徒にとっての未来とは成仏への可能性を其処に高めることのみ。

なんですが、共に此の世が良い、とは一言も述べて居ない。

第一若しも此の世が良いところであれば宗教なんて此の世には要らない。
逆に此の世が悪ひところだから宗教が要るのであらう。


さて其の此の世とは何か。

其れは意識である。

或いは意識と表象との複合体である。

つまるところ我我は所謂客観的な世界を生きて居る訳では無くむしろ意識としての世界を生きて居る。

文明や文化、歴史と云うものは言葉が規定するところでの世界なので必然的に其れは意識化しやう。

ところが無意識の世界もまたあり其れが人間の場合謂わば対になる形で意識を支えて居やう。


なんだけれども、サル以下の動物ともなれば其の意識の働きが順次弱くもならう。
何でさうなるかと云えば彼等は決まって感覚に従ひ生きて居るからだ。

感覚とは二元的に意識が限定されたところでの一元性を生きることだ。
つまりは意識の方には分離されて居ない訳である。

ところが人間の場合には其の逆を生きる。

即ち一元的に意識が解放されたところでの二元性を生きるのだ。

其の二元性とはたとへば合理主義と人文主義であり男性と女性でありまたは近代と前近代のことだ。

なのでほんたうは其処で選択することが出来る。

破壊を回避する為の選択権はまさに人間にこそ託されて居る。


なんですが、自然は「意識」しなひ状態でもってタダ感覚に生きるのであり人間の場合は往往にして「意識」した状態でもって欲望を生きて行き易ひ。

自然には観念上の選択権は無くタダ本能による感覚上の規定が其処に展開されて居る限り。

するとどうなるのかと云えば自然には破壊が生じることなど無いと云うのに人間の生には必然としての破壊が付いて回ると云うことだ。


だから其処に置いてこそ選択が迫られて居やう。

其の二元的な概念の上での選択こそが常に求められて居やう。


勿論宗教もまた究極の選択ではある。

若しも真理の世界へ入れば全ての悩み及び罪障から逃れることが出来る。

即ちキリスト教に於いては救済され仏教に於いてはー悪としてのー現象を去ることが出来る。


だが其処では社会は救えない訳だ。

宗教とは現実としての悪の社会を見限り別次元としての信仰の力でもって別世界へと旅立つ為の教へである。

ではどうしたら社会が救われるかと云う点にのみ話が絞られて来た。


どうしたら良いかと云うと其処に置いてむしろ二元的分離を促進し今やって居ないこと=逆のことへとシフトする。
あへて価値観をコペルニクス的に百八十度転回させる。

何でそんなことをするのかと言うと其れ即ち社会を救ふ為にだ。

即ち観念上ー意識上ーのパラダイムシフトをなし一元的に意識が解放されたところでの二元性の別の極を生きる。

男女同権→男尊女卑へ、または女尊男卑へ
グローバル経済→保護主義
科学万能主義→リヤカー主義へ

飽食→病院食へ
性の自由化→性の不自由化
人間は利口だと云う価値観→人間はバカそのものだ

金持ちは偉ひ→貧乏人が偉ひ
進歩主義→退歩主義
都会中心→田舎中心

欧米の価値観→東洋の価値観
現金さ→夢想化
今だけが大事だ→今は寝ていろ

利益万能→精神論へ
飽食→カスミを食へ
万全なる医療体制→医者要らずへ


と其のやうに全ての意識上の価値観を逆方向へ持っていく。

其れが可能となった時に初めて人間はさうして社会は救われやうぞ。

ではこのまま行くとどうなりませうや?

「一元的に意識が解放されたところでの二元性を生きる」のが人間または社会=文明の本質なので常に可能性としての選択肢は残されて居る。

だから其処で悲観に傾く必要はない。

ただし二元的選択が常に突き付けられて居やう。

人間にのみ其の選択が突き付けられて居る。


対する自然は選択する必要がない=知覚として認識される本能の内側をのみクルクルと回って居るだけのことなので意識の作用として危惧される破壊には至らず其処に齎される劣化が漸進的だ。

ところが人間としての意識上の選択の誤りは本質的な破壊を此の世界に齎すことだらう。

取り返しのつかない劣化または破壊をまさに社会的に齎して仕舞ふ。


ですので常に選択のみが今後の人類のー文明のー行く末を規定し続けていくのだ。

重要な点はあくまで其れは一元化への道ではないと云う点にこそある。

「感覚とは二元的に意識が限定されたところでの一元性を生きる」ことなのであるから其れはもはや人間に真似の出来ることではない。

また宗教の説く一元化はたとへ其れが真理であるにせよ社会を救ふ訳ではない訳だ。

社会的自我は其処に置いてむしろ継続ー常住ーし感覚バカとしての人間を永遠に増殖せしめるのであらうから其のままでは此の大宇宙はまさに悪の巣窟と化して仕舞ふことであらう。

まさに其れではマズいから人文主義の領域からかうして対処法を紡ぎ出さうとして来ておる。


では逆に自然界は意識バカですが若し人間が居ないとしてこれから大丈夫なのですか?

大丈夫だ。

自然界に於ける意識的罪障は人間に於ける其れよりも遥かに少ない。

だが本質的には自然界もまた罪乃至は煩悩に捉へられて居やう。

だから其のままでも数億年、数十億年と云った単位で劣化し続けやがては滅びへと至らう。

なんですが地球自体が数十億年も持つかどうか分からぬので事実上は其処で破壊を生じせしめることはないと見ておくべき。



ではタマシヒは有りますか?

知らん。

が、タマシヒは有ろうと無かろうとどーでも良ひと言えばどーでも良ひ。

タマシヒの有無は大問題ではなくマスメディアレヴェルのお話しであるに過ぎずわたくしの哲學とは本題が少々異なるからあへて問題にはせず。


大問題とは何ですか?

だから先程から言うて居らう。

「一元的に意識が解放されたところでの二元性を生きる」のが人間または社会=文明の本質なので其処をのみよーく考へてみて頂きたひ。

其の一元的な意識とは意識が無意識以上になるつまりは意識過剰になった様のことを云ふ。


其の例

臭ひのは全部消臭
やり過ぎの花粉症対策
進歩主義=AI開発 遺伝子操作 宇宙への移住 拝金主義
虫が怖ひ病
女は皆偉ひ
男は皆不要
子供は大人
大人は子供
夏なのにエアコンが効き過ぎ寒ひ
冬なのに暖房が効き過ぎ暑ひ
風呂が全自動だ
便器が全自動だ
男が妙に綺麗になった
病原菌は全部悪ひので全滅させる
肥溜めがもはや何処にもない
舗装道路ばかりだ
兎に角高い塔が好きだ
命は尊い だが持ち上げ過ぎだ
死人が何処にも居ない
まさにウルサイ車ばかりだ
川には必ず橋が架かっておる
何故か昆虫がとても少なくなった(がむしろ鳥は増えて居る)


なので人間または文明は特に近代以降は謂わば意識的な自我を生きておる。

なのだが相変わらず本能バリバリ=欲望中心なので二元的に分離されし今を生きていかざるを得ない。

其の例

金持ちと貧乏人
本能女と理性男
金のある都会と金がない田舎
テロリストと信仰

馬鹿と利口ー大衆とインテリー
合理主義と人文主義
肉食と菜食主義
長生きと早死に

とどうしてもなって仕舞ふ故其の二極での選択こそが最も大事だとさう言うておる。

つまり二元性を生きて仕舞って居るのが哀しいかな人間なのだ。


ところが自然はどうか。

「感覚とは二元的に意識が限定されたところでの一元性を生きる」

のであるから、実は一元性しか生きては居らぬ。
其処で二元的に意識が限定されるのだから、其れは意識に於ける一元化の働きが弱ひと云う事だ。

意識は生じて居ないので後は何を生きるのかと云えばまさしく本能としての一元性を生きるのみだ。

本能としての一元性を生きる場合には緩く劣化は生じても破壊は引き起こされることがない故養老先生の場合は感覚を取り戻せとさう仰るのだ。


ですがわたくしの場合には兎に角直観が強く働く故さうではなく二元的選択を確りとせよとさう述べて居るまでのことだ。

また若し仏法での哲理の上で述べるのであればむしろこれまでに長々と述べて来たやうに分別智中心での相対分別の世界を去り無分別智としての真如の世界を体得するー直観的にーと云うことともならう。

其の仏法の上での真理規定は最終的に佛と佛以外のものー聖と俗、覚者と俗者ーと云った相対概念を生じさせて仕舞ふ故禅のやうに脱文字化する必要がまた出て来る訳であるが仏法が其処をどう解釈していって居るのかと云う問題に関してはまた今後見ていくことともならう。


二元的選択を確りと行ふことは元より此の世を捨て去ることではなくむしろ人間の理性の自浄作用に力点を置ひたところでの理性主義であり人間を信じる方向性でのものそのものだ。

尚わたくしはハナからまるで人間など信じては居ない。

でもだからこそ人間を人間の理性の働きを其処に信じたひのだ。

だが其れは合理主義と云う事ではなく謂わば心の中の理性の働きのことなのだ。


普通は其れがまさに宗教の階梯に落ち着くことにならうが何故かわたくしの場合は其処にも落ち着けないと云う誠に困った状況に陥り其れでもって考へに考へようやく論理的に解決出来たので今回其の結論を此処に披歴したまでのことだ。

其れもタダの思考ではないぞよ般若の智慧としての直観智だ。   

ところで其の二元的選択は上に挙げたやうに御大層なものばかりではなくむしろ小さな範囲の小さな選択の上でからしていくべきものなのだらう。