目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

理系をまずは正論にて批判してみる


ところで其の二元的展開のうちでの理系と文系の差と云うものは一体何処にあると云うのでせうか?


わたくしは最近其れが気になって仕方がないのであります。
其の合理主義と人文主義の差とは一体何なのでせうか。


尤もわたくしは滅茶苦茶言って来て居る訳です。
理系思考はダメだから文系思考へと戻れとさう申して居るのです。


では何故理系思考はダメなんでせうか。


其処はまあ理窟ではない訳です。
謂わばダメなものはダメだと。



ちなみにわたくしが高校一年の頃学年主任の先生が反抗的な生徒の親に対して色々と諭して下さったりしたものでした。
わたくしは特に思想的に反抗的だった訳ではなくタダの文學フェチだったのですが矢張りと云うべきか変わって居るので大人しひ癖に其処で妙に目立って仕舞ふのです。


其れで母親が学年主任の先生のところへ相談しに行ったりもして呉れましたがまさに其の先生こそが理科の先生でした。


其れで文學を読むのは余り良くないとさう諭されて来たのです。


然し其の先生も香道なんて云う実に雅な趣味のある教師でそんな先生なら文學位分かっても良さそうなものだが何だかまるで分かって居ないやうだ。


どうも理系の教師は頭が悪ひのではないか。


と兎に角文系人間のわたくしは思ひ切り其のご意見に反発を感じて居たのでした。



では何で文學が良くないのでせうか?


其れはカンタンなことで、文學や哲學の方へ走るとまともな人間にはとてもなり得ないからです。


どだいアノ芥川や太宰がまともだと言えませうや?


其れにアノ三島 由紀夫はどう考へても頭がおかしひでせう。


アノ漱石なんてまともさうにも見えて実はほとんど狂人で妻は殴るわ始終機嫌が悪いわでとてもまともであるとは言ひ難かった。


うーむ、確かに文學はヤバい。


まさに危なひことこの上なし。


ただ、わたくしはかねてよりかう考へて来ました。
さういふ文の力の異常とはほんたうの異常ではないのではないか。


文學が見詰めて居るものは確かに現実ではない。


でもだからこそ現実をしかと見詰めて居るのだ。


さて我我にとっての現実とは何でせうか。


まさに其れが現代文明のことです。


其れこそが分別智に基づき構築された巨大な構築物のことです。


正直言って其れは理系思考ではもはや捉へ切れぬものでもある。



何故なら理系思考こそが其の巨大な構築物を拵へて来て居るからです。


では此処で文學や哲學の良いところをひとつだけ述べて置きます。


其れは現実として色んなものを拵へたり壊したりはしなひと云うことです。



ですからもうまるでデクノボーなんです。


かの宮澤 賢治が言ったところでの野の師父のことでもある。


宮澤 賢治は他にも色々と述べて居りましたがドングリの背比べに於いては一番役に立たないドングリが一番偉ひなどとも実は申して居りました。


さう此の役立たず、である部分こそが藝術の基本でありまた人文主義の基本でもある。


役立たずは常に進歩なんて興味ないんです。


進歩より美の方がキレイだし、また宗教にしてもまるで善人面を下げては居りませうが其処では明らかに心の方が清ひのです。


だから宗教だってまるで役立たずです。


逆に役立たずの一体何処が悪ひのだ?



理學者共は兎に角一分一秒を気にして合理的社会の構築に勤しむ訳ですがそんなものはどう考へてもおかしひのだし別に一年位遊んで暮らして居たとしても一体何で其れが悪ひのでせう。


そんな進歩だ進歩だと、其れもまるで血眼になり何とか細胞やらカンピユーターの化け物みたいなものばかり造り其れでもって一体何の為の社会なのだ血の通ふ人間の暮らしなのだ?


そんなことやってる位なら文學または宗教へ走った方が遥かにまともと云うべきだ。



ズバリ理系の方こそが其のキチガヒ思想そのものではないか。


もう余裕は無いわ金はないわ嫁は来なひわ。


工場は閉鎖されるわ女は不倫ばかりするわ何処でもスマフォだらけだわ。


要するに合理化、コレによる現実こそが異常なまさに異常な理系思考としての帰結でせう。



ではかっての多くの文學者のやうに破滅主義でも良いんですか?


文學者はもう破滅しない、つまりは三島先生でもう破滅主義は終わったんだ。


皆其処に命を捧げて下さったのだ。


悩みに悩んで自決して下さったのだ。



ところが理学者でもって其処まで悩んで死んで下さる奴など何処にも居やあしなひ。


だから理学者こそはダメなんだ。


即ちもうスッカリ現実主義=現世利益主義だ。


其ればかりか往々にして彼等は悪魔主義者だ。


即ち何でも変なものを造り決まって其れを世にバラ撒く。


だからもうアンドロイドなんぞは要らないって。


AIなんぞもう危なくて仕方がないって。


また火星へ移住するだの本気で考へて居なさるのか君等理学者達は!



そんな妄想はもう止めてただちに文學を読みなされ、其の一冊の文學書を。


文學書なら其の辺の古書店へ行けば百円から二百円で幾らでも手に入らうぞ。



確かにわたくしは数学が出来ませんでした。


確かに数学では赤点ばかりでした。


でも塾の先生の頃に中学生に数学を補習したことさへある。


さらに中学生に化学式の基本を教へたことさへあった。


無論のことまず自分が猛勉強しなければなりませんでしたが。



ところでアノ漱石なんて元は理系だったのです。


勿論養老先生も理系です。


かように実は理系の作家は結構多い。


阿部 公房などもさうでしたがまだ一冊も読んで居ない。


尚阿部 公房こそは真の意味での天才だったことでせう。

とりあえずは古ひ文明批評の本をアマゾンにて注文しておきました。死に急ぐ鯨たち



理系思考即ち合理主義には実存としての悩みが無いかまたは欠けて居ると前回申しました。


勿論其のことが最大の問題なのです。


合理化には必然として切り捨てる部分=ゴミ即ち役に立たないものとして排除する部分が生じます。


悩む思考=文學または哲學乃至は宗教の場合役に立たないものにも様々なアプローチをし逆に其れを持ち上げたりもする訳です。


いや確かに其れを持ち上げ過ぎても例の近代主義や左翼思想としての矛盾に陥って仕舞ふことでせう。



なんですがとりあえずは血肉の通ふ思想にしておかないとほんたうのほんたうに人類は滅びて仕舞ふ。


理学者の一番悪ひところは合理性の完遂の果てに人類の真の幸福を夢見て居ることだらう部分です。


そんな気持ちの悪ひ夢など果たして見続けて居て良ひのでせうか。



どう考へても其れではイカンでせう、そんな間違った夢など持っては。


いや其れは夢などと云う生ぬるいものではない。


ズバリ妄想だ、即ちマッドサイエンティスト共が思ひ描く自滅への悪夢だ。



ですから、とりあへず文系の方での思考力をナメてはいけません。
さうだ文系こそが真の意味で思考することが出来やう。


アンドロイドだのAIだのそんなものは文學者のやうに悩んだりはしなひ。


其れ以前にそんなものを好んで造る理学者共に此の世の中の神秘が、或いは実存としての苦しみが、または精神としての純粋と云う事が分かってたまるものか!


でもわたくしの理系思考への批判の根幹にはそんな感情論ではない論理性が潜んで居る。


わたくしは数学がまるで分からぬと云うのに何故か非常に論理的ーあくまで人文的に論理的ーな人間なので実は論理でもって合理化を止めやうと躍起になっても居るのだ。


前回述べた論理こそがまさに其れに当たる。



元来意識的なものは意味なきものを排除していかうとする。
ところが藝術や宗教はむしろ意味なきものを見詰め続けて来ても居やう。


意味なき時間こそがむしろ創造の母であり反省をなし過去から学び未来を整へることの源泉でもある。


此の世界は元来意味あるものに充たされて居るのではなく謂わばマイナスのもの、苦痛、矛盾に満ちたものであり其の部分を直視することこそが人文としての大いなる意義なのだ。


合理主義は極限まで成果を求めあらゆる時間ー余裕ーを切り詰めていく。


すると最終的には現在だけが、其の成果に充ちた現在だけが合目的化され此の世界を形作ることとならう。


だが本来の生とは勿論そんなものである筈がない。


其は母ちゃんの腹の中のやうにゆったりとして居心地の良ひものである場合もある。


苦ばかりではなく愛や慈悲または救ひのあるものでもあらう。



合理主義よ、汝は今何を考へさうして此の世界をどう改変していかうとなされて居るのか?


さらなる合理化はおそらく人間をして根本から破壊せしめることであらう。


昔、其の合理主義こそがまさに人間の希望であった。


人類は進歩に次ぐ進歩を果たし其処でもって神仏の要らぬ文明を築こうとして居たのである。


なんですが、かのSF文學こそが其の合理主義による夢をすでにほとんど打ち砕いて居るのだとも言えやう。



合理化による過度の欲望の履行は次第次第に人間の心を圧迫しやがては其の心そのものを壊していくのだ。


其の様をむしろ喜んで行って居る社会または科学者の群れとは一体何なのであらうや?


まさに其は鯨の集団自決かイルカの集団自決とほとんど同じやうなものだ。



だから要するに理系思考には心が宿って居らぬ。


だからまるで詩が分からなひ。


母ちゃんの腹の中の意味がまるで分かって居なひ。



太宰の心中が芥川の自死がさうして三島先生の自決がまるで分かって居らぬ。


文學はさうしてあへて人間ではない領域を生きむしろ其処に人間の生の意味を直視していったのだった。


其のやうな文學の力がおぬしら合理主義者には分からぬのか?



其のやうな詩の力が、或いは散文の力がおぬしらには何故分からぬのか?


だからもう何度も言うておるのだが一たす一は二ではなく太宰と芥川だ。


或いは三島先生と宮澤 賢治のことだ。



農民芸術概論綱要  宮沢賢治


農民芸術の興隆

……何故われらの芸術がいま起らねばならないか……

曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ


農民芸術概論綱要  宮沢賢治より引用



「宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い」


さう言えばかの宮澤 賢治こそが其の理系の教師であった。
そんな賢治がかってこんなことを述べて居たのである。


其れもそんな大昔に、即ちTVもパソコンも無かった大昔に科学は冷く暗ひとさう述べて居たのだった。


さらに宗教も疲れておるとさう述べられて居る。



ならば現代の文明世界は賢治から見てどうなるのだろうか?


まるで人間界には見えないのではないだらうか。


兎に角科学は冷く暗ひので、其の根本のところがダメである。


遥か大昔に詩人はさう喝破して居たのだった。


此処からしても理系はどうもダメだなあ。


一体何処がダメなのかなあ。



嗚呼ようやく分かったぞ。


きっと数学の試験で赤点を取り追試とかで実にイヤな思ひをしたことがないからだ。


嗚呼もはや世も末じゃ、文學のまた宗教の何たるかも分からずタダタダ進歩の先には薔薇色の未来があるとさう信じつつマッドサイエンティスト共はどこまでもどこまでも其の還元主義とやらを続けていくことだらう。


ですが絶望だけはしないで宜しひ。



何故ならかの坂口 安吾はかってこのやうに教室の机に彫刻刀にて彫りつけた。




「余は偉大なる落伍者となつていつの日か歴史の中によみがへるであらう」


此処からしても文學の本質とはマイナスの部分ー負債や無意味さの部分ーをこそ見詰める部分にこそ存する。


其のやうに屈折して生を捉へることでこそ開けて来ることだらう文學の領域としての人間の認識がある。


其処をこそ大事にしていかねばならぬ。



意味なきもの、役に立たぬものの中にも生の上での意味はありむしろ其のことこそが生の生としてのバランスを成り立たせて居ることだらう負荷なのだ。


合理主義よ、さうして理系の教師よさらに理学者達よ、まさに此のことだけをかの文學からしかと学んでおくがいい。


さう其れこそがたった今行ふべき心のお勉強なのさ。


科学技術に欠けて居るものとはまさに其の心である。


即ち情動である。


さらに涙である。


また悩みであり苦しみでありさうして反省でもあらう。