目覚めよ!

文明批判と心の探求と

再度『遺言。』より


そのとき、眼が覚める。私は涙を流している。眠りの中の夢と、現実がつながっている。気持がそのまま、つながっている。だから、私にとってこの世の中の現実は、眠りの中の夢の連続でもあり、また、眠りの中の夢は、そのまま私の現実でもあると考えている。
 この世の中に於ける私の現実の生活ばかりを見て、私の全部を了解することは、他の人たちには不可能であろう。と同時に、私もまた、ほかの人たちに 就 いて、何の理解するところも無いのである。
 夢は、れいのフロイド先生のお説にしたがえば、この現実世界からすべて暗示を受けているものなのだそうであるが、しかしそれは、母と娘は同じものだという暴論のようにも私には思われる。そこには、つながりがありながら、また本質的な差異のある、別箇の世界が展開せられている 筈はず である。
 私の夢は現実とつながり、現実は夢とつながっているとはいうものの、その空気が、やはり全く違っている。夢の国で流した涙がこの現実につながり、やはり私は 口惜くや しくて泣いているが、しかし、考えてみると、あの国で流した涙のほうが、私にはずっと本当の涙のような気がするのである。フォスフォレッスセンス 太宰治より


其処でどうあがいたにせよ外部としての実存的なものを客観的な認識にて全て把握することは出来ず。
常に夢は現実と繋がっているが其処には本質的な差異のある、別箇の世界が展開せられている。

なのではあるがあくまで夢の中で流した涙のほうが、私にはずっと本当の涙のような気がする、のだそうだ。
尚夢と云うことは現在科学的に説明し得る事象であるらしい。

さらに言えば所謂白昼夢や臨死体験にせよ現在科学的に説明し得る事象であるらしい。

では全てが科学で分かって仕舞うのかと云えばさに非ずで科学的な認識は今むしろ可成に神秘的な或は意識や心との相関的な領域にさしかかって居るのだとも言えやう。


然しこと知識人の間では其の科学的なる認識の是非に就き様々に議論がなされて居る最中だ。

あくまで人文主義の側から見れば其の科学的認識の追求の果てには人類の未来はなくどちらかと云えば悲観的に未来を捉へざるを得なくなる。

でも其れで良いのだとわたくしはむしろ其処で考へる。

と言うのも近代的な認識はどうも根本的におかしひのではないかとさう考へるに至ったからなのだ。

つまりは近代が構築せし価値観其のものがどうも間違って居やう。

何故間違って居るのかと云えば其れは「我」を生きて仕舞って居るからだ。

さて「我」を生きると結局どうなるか?

結局価値観が一義的に統一されて仕舞ふ。

社会科的に云えば全体主義化される訳だ。


以前にも述べて居りますが近代以降の社会は常に全体主義への道を歩んで来て居やう。
帝国主義が資本主義が其の反動としての革命思想並びに近代主義がまた科学万能主義が全て其の全体主義なのだ。

勿論戦争は戦争でまさに其の全体主義であった。

ところが現在は其れに輪をかける形で文明自体が全体主義化しておる。

特に戦後文明の価値観は統一されるに至った。

其れは経済成長と結び付く形での合理化社会を是とするだらう価値観だ。


其の合理化社会の価値観こそが現在の社会に於ける技術革新や成長の成果と深く結び付いて居る。

だが其の価値観の根本に人間としての心の面は置き去りにされて仕舞って居る。

では何故其のやうなことになって仕舞ふのだらう。

何故なら其れは近代科学の根本に巣食ふ合理精神に心の二面性即ち二極対立より生ずるところでの矛盾領域への寛容性が元々欠けて居るからなのだ。


其のやうに二極対立としての矛盾そのものが人間にとり常に問題を生じさせて居る訳ではない。

逆に言えば二極対立としての矛盾を生きざるを得ないのが人間なのでありもしもそうでないのであれば他のなにものかを生きれば良い訳で事実自然界はまさにさうした形で組み上がって来て居るのだ。


「感覚とは二元的に意識が限定されたところでの一元性を生きることだ。
つまりは意識の方には分離されて居ない訳である。」

自然が意識的に生きることをしないのは其の生が元々一元化されて居るからだ。

養老先生が述べられて居るやうにまさに其れは脳の構造によるところでのものだ。

即ち脳が人間程進化して居なひ自然界では意識は限定された形で生ずるのみ。

左様に意識が限定されて居るのであれば結局欲望の方も限定されて居やう。

即ちアレはメスかオスかなどとイチイチ考へることなくただメスの発するフェロモンに惹きつけられメスだと認識し繁殖しやうとして居るだけのことだ。

自然界に於いて其の繁殖以外のことに価値はなく何をどう生きやうがどんな未来が待って居やうが其れは全て認識外の事象であり価値である。


「ところが人間の場合には其の逆を生きる。

即ち一元的に意識が解放されたところでの二元性を生きるのだ。」

人間の場合は逆に其の意識が一元化されて居るので意識そのものを生きて居ると云うこととなる。

大昔からまさにさうなのでありかの古代中国にせよかの古代羅馬にせよ全ては意識の解放による文明の秩序建設の過程であった。

ところがあくまで生きて居るのは二極対立そのものだ。

人間とは全意識化された生き物であるゆえ左様に相対分別の領域を生きて行かざるを得ない。

相対分別の領域を生きることとは罪でありかつ煩悩の世界そのものを生きていくと云うことだ。


無論のこと宗教は其の人間の本質をずっと以前から認識して居り神かまたは佛に帰依することなくば其の罪障は拭ひ去ることなど出来ぬと其処ではずっと説かれて来た。

即ち宗教は「一元的に意識が限定されたところでの一元性を生きること」を指向する。

意識規定の一元化こそが其の目的であり其処で謂わば人間の意識の限定を行ひ同時に一元性と云う救済を生きることを指向して居る訳だ。

平たく言えば神仏に心ー意識ーを委ねることで一元性としての生を其処に可能ならしめる訳だ。

元より人間にとっての理想的な生の状態とはまさに此の段階にこそある。

意識規定の一元化こそがまた生自体の一元化こそが人間の心と行ひを正し諸の破壊を生じせしめることなく生を成り立たせる為の最終的な認識なのだ。

されど皮肉なことに其の理想とて長くは続かぬ。


近代と云う時代の構造は其の理想さへをも奪ひ去り我我をして欲望の檻の中へと閉じ込めた。


「一元的に意識が解放されたところでの二元性を生きる」人間にとって選択の余地が残されて居るのは其の二極対立としての選択のみだ。

二極対立とは相対認識が生じさせる虚妄としての非我に於ける価値観の選択のこと。

あくまで虚妄の価値だから真理規定からすれば其れは無価値である。

無価値だけれども其の無価値なりに方向性は選択し得ると云うことをわたくしは此処で示して居る。


人間は其の生まれついての性質ゆえに二元的現在を生きて行かざるを得なひ。

其のやうに眞我ではなく非我を生きて行かざるを得ずしかも其処で過去から学べずしかも未来を破壊から救ふことさへ出来ぬ。

「一元的に意識が解放された」ところで前近代の場合其の意識の一元化の作用が弱く其処では事実上諸の破壊を引き起こすことはなかった。

然し近代以降一元的に意識は全解放されたのだ。


即ち近代以降一元的に我我は意識の中のみを生きて居る。

文明の価値観の全体主義化とは其の現実の意識化から生ずる必然としての社会過程だ。


尚此の一元化と二元化を組み合わせた論理は勿論わたくしのオリジナルの考へ=直観である。

わたくしに出来ることと云えば其の直観しかない訳なので其の能力を駆使しまさにやっとの思ひで此の論理を導き出してみたところだ。



さて養老先生は頻りと同一性と差異の問題につき論考されて居る。

同一性は意識が齎す認識上の癖であり、差異は感覚が齎す認識上の癖である。

平たく言えば自然による認識は「違ひ」を感覚的に峻別することで成り立って居る。

対する人間の認識は「同じ」を意識的に構築することで成り立っていく。

確かに現代文明とはまさにさうした意識的な構築物に当たることであらう。

其の全体主義化されし価値観を何処までも追求していくことが。

たとへば近代主義は無条件に善の価値観として据へられ近代主義の履行こそが全人類の夢であるかの如くに語られたりもする。


だが其の抽象的な普遍的価値に騙されて居てはならない。

何故なら近代主義の普遍的履行など最初から無理な話だ。

どだい豊かさとは搾取過程そのもののこと。

今や第三世界を搾取する余地がもはや無くなった分自然全体から搾取することで富ー現代文明ーを継続させて来て居る。


抽象的な普遍的価値とは言うまでもなくあくまで意識上の価値である。

意識は無限に同一化することを望むので最終的には合理性と云う檻の中に全ての価値を閉じ込めて仕舞ふ。

其の合理的意識が其のやうな自滅の為の檻を用意するのだ。


其の自滅を回避する為には選択しか残されて居ないとわたくしは述べて来て居るばかり。

其の選択とは一元化を止めることではなく現実としての二元的選択を逆方向へ行ふと云う意味でのこと。

何故なら一元化とは意識の癖そのものなので最初から誰しも止められやしないからなのだ。


我我はさうした変な者でありバイキンであり宇宙人だ。

少なくとも地球の大自然に連なる者ではなく嗚呼まさにバイキンなのだ。

そんなバイキンに人権などありゃしないぞよ。


いや、確かに人権は何が何でも得たひ。

誰しも生きられるだけ生きて居たいのだし出来れば長生きがしたひ。

だけれども我我は何故かバイキンだった。

バイキン以上の何者でもなく本来ならば長生きなんぞを望むべき者ではない。


さう反省することが出来るのがまさに文系思考である。

元より文系思考は危険で尚且つ役には立たぬ。

でもなので価値がある。

たとへばキラキラのダイアモンドは金持ちしか買へないが草葉に宿る露の輝きの美しさはまさに其れ以上のもの。

むしろほんたうに美しひものは人為的に加工され値段を付けられたものではない。



養老先生は藝術の意義や宗教に就ひても様々に言及されて居る。

たとへば藝術はひとつの解毒剤だと仰る。

其れはたしかにさうだ。

藝術とはむしろ「違ひ」の選択でもって到達する普遍性のことだ。

結局普遍化はするのであるが、其処にまで至る道程が文明の価値観とは異なって居やう。

同様に宗教に於ける普遍化、一元化の過程の様も文明の価値観とは異なって居る。

宗教は確かに最も強力な一元化過程なのだけれど、まさに常に宗教は人間と其の心を見詰め続けて来た。


藝術はまさに美を対象とする心の働きでありしかも其れが心地良きもの、望ましひもの、勝利したものではなくまさに役立たずであれ敗者であれありふれたものであれ何であれ美しひものはそのままに美しひと断ずる其の価値観のことを云ふ。

美しひと思ふものは詩人により或は画家によりまた音楽家により全て異なりかつ其の事は藝術家ではない人にとっても実は皆さうなのだ。

苦や敗北さへもが藝術に於いて美に化けることが可能だ。

苦や敗北さへもが宗教に於いて信仰の糧となり得ることと同じくして。


然し合理的な世界観に於いて苦や敗北はまず避けるべきこと、まさに望まぬことであり謂わば其処を振り返って見てはならぬ価値観なのだ。

さらに死、なども忌避されるに及ぶ。

だが死とは詩だ。

死こそが詩だ。

苦や敗北や死を直視せずして一体何の為の生ぞ、一体何の為の人間の実存としてのあり方なのか。



同じもの、としての意識の価値観は結局一方向にしか進まない、進めない。

即ち近代以降一元的に我我は意識の中のみを生きて居るのだ。

一元的に我を生きると相対分別が生じ実は二元化されし現在を生きることとならう。

なので「一元的に意識が解放されたところでの二元性を生きる」のが我我現代人の其のままの姿だ。


尚わたくしは宗教特に一部の仏法の説く「今を生きる」と云う概念的規定を否定的に捉へる。

さうではなく人間の意識は常に歴史過程を生きて居るからなのだ。


なんだけれども、文明の価値観が其の「同じ」に拘れば拘る程にむしろ諸価値が現在へと収束していく。

なので其の文明的現在と云う時間も同時に否定するのである。

さて現在に収束した価値の異常性を端的に示すものが金融経済に於ける狂的な利益追求の様だ。

まさに虚の利益の配当に群がる欲望の群れが其の文明的現在を象徴して居り尚且つ其のやうな虚としての精神の流れの盲目性が其処にはしかと示されて居ることであらう。


現代の現在とは逆に責任ある今でなければならぬ。
歴史無き責任無き快楽の群れが儲けの今、不倫の今、👪崩壊の今を形作り兎に角全部が今だけなのだ。

今が気持ち良ければ其れで良しとする魔道としての行ひ、即ち欲望に負け地獄に堕ちし現代人の、嗚呼其の現代大衆の哀しさと業の深さと。


今だけ気持ち良ければ其れでイイ。

此のアホンダラめが。

さうこうするうちに世界は滅びるぞよ。

儲けの今、不倫の今、👪崩壊の今は選択にて回避せよ。

其の選択は宗教が行ふのではない。

般若の智慧が行ふのだ。

いや人文の智慧が其れを行ふ。


人文の智慧などと言へば御大層なものにも聞こえませうがさには非ず、人文の力とはまさに敗北からまた挫折から汲み取るもののことです。

負けて初めて分かること、或いは病に苦しみ初めて分かることがある。

思考や思想に於いてもまた然り。
思想面で悩み苦しんで来た其の道程こそがまさに悩む力であり方向性を正す力としての源泉です。

プラスではないものを見詰めてこそ人間は全体論としての世界の実相にようやく気付くことが出来やう。

さうです、宮澤 賢治が述べて居た其の「ぜんたい」とは世界の実相としての全体論のことです。


であるからして合理主義よ即刻進歩主義を止めよ。
合理主義よ女体の神秘とUFOの存在を即刻認めよ。
合理主義よ汝は今すぐにリヤカーを引き価値観としての主流の座を即刻文學に明け渡せ。

左様に文學は今や敗者で古本は常に安いですから千円でもってもう何冊でも読んでいくことが出来やう。
だが文學は決して負けぬ。

心としての闘ひには負けないのだ。
だからこそ文學こそは永遠だ、まさに永遠の価値たり得るものだ、


左様に敵は数学ー合理主義の本丸ーですので数学なんてもうやらない方が良いですよ。

数学とは「同じこと」の無限の増殖です。
つまりは意識的な認識としての究極の過程が数学と云うことにならう。
でもわたくしはそも「同じこと」が嫌ひなので数学が認められません。

ちなみに数学が出来ない奴はむしろ天才であると云う説があるやうです。
其の逆に数学が出来る人こそが天才だと一般的には考へられては居りませうが。