NHK大河「麒麟がくる」架空キャラ批判を一蹴した「本能寺の変」の新解釈
元より過去を取り扱ふ歴史物語とはフィクションの世界のものであることを免れ得ず、よって基本的に其れは想像上の物語なのですが此の「麒麟がくる」はまさに良く出来た大河ドラマだったやうに思はれる。
現代でもかうした作品を作り得ると云ふことが一種の驚きであり新鮮な感想を齎すものであった。
現代の文明はまた文化は何処へ行かうとして居るのかと云ふ点につき或は此のドラマが答へを指し示して居るのやもしれぬ。
畢竟其れは現代の価値観は概ね狂って居るのだけれど文化的に良ひものはかうして創り得ると云ふことなのではなからうか。
とは言へコロナ禍による具象的限定を受け文化の領域が著しく損傷を受けて居るだらうことは想像に難く無ひ。
文化領域もまたさうして限定されて行かざるを得ぬが其れでも猶文化は死せずしてまさにかうして人間が織り為す虚としてのドラマを紡ひで行くのである。
文化にはさうした意味での諦めの悪さ、其の文としての不屈のあがきのやうなものがあり個人的には其の非合理性こそが合理主義を超へる何ものかであるとさう信じたひ訳だ。
より正確には非合理領域での其のあがきこそが合理主義を諫め変質させて行くことだらう何らかの力又は作用ともならう。
かって我が國の文壇に属した大作家の面々が指し示して居たことだらう其の「あがきの力」をこそ我は重視したひ。
公共放送を司るNHKに対しては様々に批判的な意見もまたあらうかと思ふが此のやうな文化的発信を行ふことが可能である点に於ひて其れは矢張り要るのである。
要るのだが、まさに税金の如くに視聴料を徴収する限りは文化的にクオリティの高ひ番組を生み出し続けて行く責務がまた其処にある訳だ。
だから其の恵まれた立場に胡坐をかくこと無く今後も良質な番組を是非提供し続けて行って頂きたひものだ。
其れから個人的には人文理性としての立場を此れ迄以上に重視して頂きたひ。
より具体的には科学偏重主義に陥るのでは無しにより包括的に人間の置かれた立場と意義を見詰めて行って頂きたひものだ。
尚わたくしは最近Eテレなどもまた良く視て居るのですが非常に面白ひと云ふのが其の實感である。
1.鬱陶しひアノCMが無ひ
2.何かと勉強になる
3.何故か気が休まる
Eテレを流して視て居て3.を感じる人は元々さう云ふ人なのである。
逆にEテレを流して視て居るとストレスが溜まるやうな人などもまた居ることかと思はれる。
どだひわたくしは民放のCMがまさに拷問の如くに感ぜられるのだけれどーとは言へ気にならぬ場合もあるのだがー全く気にならぬ人などもまた居るのやもしれぬ。
で、實は其の2.と3.の要素が民放の番組から感じ取れぬ訳でも無ひ訳だ。
民放の番組にも良ひ番組がある訳なのでさうした番組を視て居る時はまさに気が休まるのだし何かと勉強にもまたなる訳だ。
NHK⇔民放
要するにかうした二元対立にては括れぬ部分が其処には存して居るのだ。
さうして二元対立は確かにして居ることだらうが全てをさうは断じ切れぬ訳である。
即ち、
お堅ひもの⇔軟らかひもの
と云ふ部分も確かにあることだらうが、
其れは相補的に成り立つものなのでどちらかに偏り価値を組み上げると即誤謬に陥ることとなる。
また其の男女の問題、即ち近代的な平等観の確立の問題に就ひても其のことが言へる。
👨⇔👩
此の関係自体がまさに其の相補的なものであるが故に本来ならばどちらが上であるとかどちらがコレをやれと云ふことでは無くまさに互ひに補完し合ふべきものなのだらう。
但し先にも述べたやうに持って生まれし生命エネルギーの点で👩は優れて居るから逆に👩が威張り過ぎるとむしろ根本での性のバランスが悪くなるのだ。
所謂かっての良妻賢母思想は其の点まで鑑みたところでのバランスの良ひ考へ方なのだらうとわたくしは思ふ。
よって現在の如くに女性が平等意識に凝り固まって行くとすると其処でもっておそらくは男性の意識がへこたれ易くなり端的に申せば次第に女性化しても行くことであらう。
結局其れは常に強ひ👨を望む👩の願ひとはまるで裏腹のこととなるのである。
優しひ、しかも感性的に洗練された🚹は次第に女性化して行かざるを得なくなりすると最終的には🚺が要らなくなるのである。
尚平等だの自由だのと云った近代的な価値観にも盲点があり即其れが至上の価値となり得るものでは無ひことをむしろ我我は是非學んで置くべきなのだ。
一言で言へば「平等」や「自由」と云った一括りでもって言ひ表された抽象的概念は極端化し易ひのだ。
謂はば無制限での「平等」や「自由」に陥って仕舞ひ易ひ訳だ。
だが無制限での「平等」はむしろ「不平等」に繋がり易く、また且つ無制限での「自由」はむしろ「不自由」に繋がり易ひ。
また其のことは實体験を踏まへ學びを重ねることでさう感得されて来ることだ。
此の世のことはかうして複雑で且つ天邪鬼なのでまさに一筋縄ではいかぬものであることがほとんどだ。
何で一筋縄ではいかぬのかと云ふと、おそらくは問題にスパッと答へを出したひと云ふ合理化の部分が事實としては複雑でもって不可分なものを一発でもって解かうとするが故にさうなるのだ。
つまるところは其の合理化こそが悪ひのだらう。
故にわたくしの文明批判、また人間批判の核心とは其の合理化批判にこそ存して居る訳だ。
但し合理化することを全否定して居る訳では無く其の合理化を適用する範囲に誤謬があるとさう述べて居るのである。
實際にわたくしは今自分の家の合理化に着手して居るところなのだ。
其れも平たく言へば断捨離と云ふことである。
其のやうな合理的視点こそが長年の間に溜まりに溜まったゴミー不要物、無秩序な状態ーを掻き出し其れを一掃することに役立つ訳だ。
かうして合理化せぬとどうも人間は獣の領域に安住しやうとして仕舞ふやうだ。
だから禅宗などは無論のこと其のお掃除をこそ大変重視する訳だ。
さても合理化と申せば最終的には佛陀による合理化とならうが、其れは人間を此の世から消しちゃふことなので元より人間に出来ることでは無ひ=不可能なこととなるので其の合理化はまるで出来ませんので何とか救って下されとさう祈りつつ神や大乗佛教に身を捧げる他は無ひ。
でもボクはかうして利口な人なので神や大乗佛教に身を捧げることなどまるで出来ません。
さうか、では其の利口とやらと是非心中してみるが宜しからう。
さうなればでも辛ひぞよ。
其れもあんな華厳の滝から飛び降りたりかの太宰や芥川のやうにもう三十代でもってして命が無くなったりもするのだぞよ。
もしやまた其れもひとつの合理化だったのでせうか?
確かに合理化だったのやもしれぬ。
だがみんなでもって赤信号を渡り全滅する方がまだしも樂では無ひのか?
アレ、何だかいつもとは違ふことを言ひ始めましたね。
いや、そんなことは金輪際言ってなど居りませんが。
でも今言ったじゃなひか。
さうでしたね、言ひました、上にしかと証拠が残って居ました。
では何を思って其れを言ったのだ?
何も思はずつひさう申して仕舞ひましたのです。
赤信号を渡り全滅する方がまだしも時間が稼げると是非さう言っても置きたかった。
時間?
其の時間とは一体何だ、所謂意識の流れのことか?
意識⇔無意識
おそらくは此処もかう分裂して居る筈だ。
なので意識のみに捉はれて居るのは其れでは如何にも片手落ちとなる。
非合理領域や無意識の領域をもさうしてあへて見詰めて行かねばならんのだ。
なんとなればもう壱方を見なひと實は意識としての範囲が確定しなひからなのだ。
ー創発(そうはつ、英語:emergence)とは、部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れることである。局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。
この世界の大半のモノ・生物等は多層の階層構造を含んでいるものであり、その階層構造体においては、仮に決定論的かつ機械論的な世界観を許したとしても、下層の要素とその振る舞いの記述をしただけでは、上層の挙動は実際上予測困難だということ。下層にはもともとなかった性質が、上層に現れることがあるということ。あるいは下層にない性質が、上層の"実装"状態や、マクロ的な相互作用でも現れうる、ということ。ー創発より
此の「創発」と云ふ概念こそが全体論的なものの見方、かまたは複雑な系としてのものの見方を可能とするものである。
例へば科学技術は常に合理的に世界の諸要素を改変して行くシステムを形作って居る。
ところが、事實上科学技術は、
2.地球に対する物理的破壊
3.人間に対する物理的、精神的破壊
を齎すに及んで居る。
其ればかりか、
4.宇宙に対する人的蹂躙
5.神殺し
と云ふ部分すらもが考へられぬ訳では無ひ。
其の罪と云ふか破壊の度は常に凄まじひものがある訳だ。
其れ即ち合理化が其の抽象的に規定される進歩と云ふ概念こそが其れを初めて可能たらしめて居るのだ。
で、畢竟其れはデカひものの合理化により成り立たされて居る訳だ。
さうした合理化の領域にて価値形成される豊かさと幸福の尺度の一元化が其れをさう成らしめて要る訳だ。
よってわたくしは今其の一元化をこそ批判したひ。
あらゆる一元化の波がむしろ人類の営為をつまりは文明を崩落させる方向へと導ひて居るのだ。
またわたくしは今宗教に於ける一元化をも認めなひ。
但し其れは神佛との一元化を認めぬと云ふことでは無く地球上の宗教としての一元化を認めぬと云ふ立場である。
要するに壱宗教による広宣流布と云ふ概念其れ自体を否定的に見詰めて居るのだ。
一元化、結局はまさにコレこそが世界を破滅へと追ひ詰める為の原動力なのではなからうか。
で、其の一元化の流れは古来よりあり印度の解脱思想ー釈迦による佛法をも含むーにせよキリスト教にせよ最終的には其の一元化を目指すものなのだ。
但しキリスト教はあくまで神と悪魔、善と悪による対立としての二元論からの一元化論である。
其の現世を規定する上での二元論には誤りは無ひものとわたくしは見る訳だ。
他方で印度哲學での梵我一如の思想は結局現世に於ける一元化の思想なので抽象性に傾き過ぎて居ると現在わたくしは否定的に捉へて居る。
生命は創発現象の塊である。動物の体表に現れる縞模様や、植物が描くタイガーブッシュ、フェアリー・サークルなどの現象を、一見相関がないような組織や個体の生命活動の結果が巨視的に現れたものとしたアラン・チューリングの仮説(チューリング・パターン)が知られている。また、脳は、ひとつひとつの神経細胞は比較的単純な振る舞いをしていることが分かってきているが、そのことからいまだに脳全体が持つ知能を理解するには至っていない。さらに進化論では、突然変異や交叉による遺伝子の組み合わせによって思いもよらぬ能力を獲得することがある。進化論においては個々の個体による相互作用のほかに、環境との相互作用という側面も加わっている。創発の定義において、このような非対称な要素を認める場合もある。ー創発より
ー進化論においては個々の個体による相互作用のほかに、環境との相互作用という側面も加わっている。ー
個は種であると同時に特に人間の場合には社会と密接に関はって居る。
個⇔社會
個にとり社會は否定し得ず、社會にとりまた個は否定し得ぬものだ。
たとへ社會が大嫌ひな詩人なのだとしても社會とは自分の一部でもまたあるが故に其れを全否定することなどは出来ぬ訳だ。
社會もまたプーチン氏や自民党の如くに國家権力の上に胡坐をかきつつやりたひ放題をやってると其処に何時革命が起き自分の首がちょん切られて仕舞ふかまるで分からぬ訳だ。
まさに其れと同じやうに、
個⇔環境
細胞ー肉体ー⇔知能ー精神ー
「一見相関がないような組織や個体の生命活動の結果が巨視的に現れたもの」
かうして関係が無ひと云ふことこそがむしろ関係深ひことなのであり、逆に関係が深ひやうで居て本質的には其れが無関係だと云ふこともまたあり得るのが世の常なのだ。
なので相手としての諸要素の立場を認め其の話ー主張、存在ーを聞く立場こそが創発と云ふ全体論的な価値観の構築の核心部を担ふものなのだらう。
其れを別の言葉で言へば、
まさに「汝の敵を愛せ」と云ふことではなからうか。
「局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。」
部分的還元は可能だが其の還元を成したと同時に生命の煌めきのやうなものは失はれて仕舞ふ。
自然科学主導による科学技術文明に欠けて居るものとはまさに此の生命の煌めきのやうなものなのではなからうか。
立派な知性ー還元的知性ーが多く集ひ膨大な思考と努力の末にたとへばスマートフォンを生んで居る。
スマートフォンはこんな進んだ文明が生んだ神の機械のやうなものだから尊ひ機械であり自称詩人、まさにおまへのやうな原始人には決して扱へぬ神の道具である。
ヘッ、さうでしたかねえ。
わたくちはあんなもん要らなひとハナから相手にして無ひのでまるで近視にもなりませんのですよ。
わたくちは逆に老眼が進みもう遠くのものが良く見へて仕方がありません。
其のわたくちと云ふ言ひ方をもう止めよ!
みんなが眞面目に読んで居ると云ふのに不謹慎だぞ!
わたくちはかうしてスマフォ病でもまた花粉症でも無く至って健康なので今でもかうしてバリバリと読書することが出来る。
さても一体何を読んで居るのだ?
「生物と無生物のあいだ」福岡 伸一著です。
所謂「動的平衝」と云ふ概念につき懸命に勉強して居ります。
科学技術文明に欠けて居るものが此の創発による命の煌めきであり動的に平衝されるところでの生命現象のダイナミズムであるのならばまさに其れは生命にとって命取りとなることです。
でもスマフォは目に悪ひから止めなさひとはもう教師も母親も誰も言はぬ訳だ。
だから彼等に代はりわたくしがかうして述べて居るのだ。
また🚅も✈も🚗も皆要りませんのでもはや捨て置くが宜しからう。
所謂「繋がり」と云ふことが暫く前から盛んに求められて来て居るやうですが、其れは逆に「繋がって居なひ」社會であるからこそさう求められて行く訳だ。
表面的なことでは其の連帯は得られず其のやうに連帯を軽視する合理的社會ー功利的社會ーを築き上げて来て居るが故に現代人の心が飢へ其のやうな叫びを発して居る訳だ。
詩人さんは孤高の立場を貫きさうして変人で居られるので良ひのでせうが何せ我我は所詮眞我には目覚められぬ凡人ですのでかうしていつもみんなで繋がって居たひのです。
だから其れをスマフォなんかとまたゲームなんかと繋がって一体どうするの?
詩人はみんなとは決して繋がらず、でもね、文士の園とはすでに繋がって居ますので全然怖くもまた寂しくもありません。
其の孤独であることさへもがね。
おそらく生命は数的還元などはとても出来ぬまさに「創発現象の塊」のやうなものだ。
或は全体論として把握されざるを得ぬ一種超越的な価値の場なのだらう。
生命現象の不可解さは文學に於ける不可解さなどとも或は符合して居るのやもしれぬ。
つまるところ其れは理性にて割り切れぬ部分を常に抱へ込んで居る訳だ。
さうしたところは野良猫や野鳥など自然現象に接して居ると次第に理解されても来る。
だがコンクリ製の都会のビル群に閉じ込められて居れば居る程に其れが分からなくなるのやもしれぬ。
ー複雑な現象を複雑なまま理解しようとする学問、手法は「複雑系の科学」などと呼ばれることが多いが、その源流に眼を向けると、アリストテレスの「全体とは、部分の総和以上のなにかである」といった言い回しにまで遡ることができる。
近代になって科学哲学において還元主義の蔓延に対して警鐘を鳴らすように、全体を見失わない見解を深化させ、個々の分野で具体的な研究として全体性の重要性を説く論文・著書などを発表する学者・研究者らが現れるようになった。現在ではこうした見解・立場の研究は「ホーリズム」または「全体論」などと呼ばれている。科学哲学の研究者達は、現在のいわゆる複雑系を、広義のホーリズムのひとつである、と位置づけることが多い。ー複雑系より
「全体とは、部分の総和以上のなにかである」=「全体論」
福岡 伸一氏は生物學者としての其の全体論者であり、対してわたくしは自称文人としての其の全体論者である。
ー複雑系(ふくざつけい、英: complex system)とは、相互に関連する複数の要因が合わさって全体としてなんらかの性質(あるいはそういった性質から導かれる振る舞い)を見せる系であって、しかしその全体としての挙動は個々の要因や部分からは明らかでないようなものをいう[1]。
これらは狭い範囲かつ短期の予測は経験的要素から不可能ではないが、その予測の裏付けをより基本的な法則に還元して理解する(還元主義)のは困難である。系の持つ複雑性には非組織的複雑性と組織的複雑性の二つの種類がある[2]。これらの区別は本質的に、要因の多さに起因するものを「組織化されていない」(disorganized) といい、対象とする系が(場合によってはきわめて限定的な要因しか持たないかもしれないが)創発性を示すことを「組織化された」(organized) と言っているものである。
複雑系は決して珍しいシステムというわけではなく、実際に人間にとって興味深く有用な多くの系が複雑系である。系の複雑性を研究するモデルとしての複雑系には、蟻の巣、人間経済・社会、気象現象、神経系、細胞、人間を含む生物などや現代的なエネルギーインフラや通信インフラなどが挙げられる。複雑系よりー
かのマルクス・ガブリエル氏は世界は複雑だとさう述べても居られる。
さう世界又は生命現象は複雑であり、要するにほとんど全てのものが還元処理などすることが出来ぬものに彩られてさへ居る。
価値を数的還元するやうな社會=都会の価値観は概ね危機管理に弱く要するにフレキシビリティには欠けたとへば大地震でも起これば大都市圏はほぼ壊滅して行かざるを得ぬことだらう。
重要なことは社會としてのリスク管理として其のフレキシビリティを大きく持たせておくーある面では合理化されぬ部分を大事にしておくーことなのだらう。
其のフレキシビリティは複雑系の思考を対象とする學問が或は担って行くのやもしれぬ。
特に今後起こるであらう大都市圏でのカタストロフに対し近代型の危機管理体制ではまるで対処し切れぬことだらう。
だから本来ならば公的な機関がまさに其れに携はり手を練って行かねばならぬのだ。
だからまるでバカみたひな大臣のポストをつくるよりも何よりもまずは壱番先に危機管理庁を新たに発足させ此処に河野氏みたひに利口さうな奴等を多く配属させ危機への対策の全部をやらせてみるが宜しからう。
其処に感染症対策も温暖化対策もまた脱炭素社會の推進ももう何から何までやらせ給料は拾倍程も出してやれば良ひ。
だからまるでバカみたひな自民党の老害議員はそも現代社會が極めてハヒリスクな文明であることなどまるで分かって居らず其れよりも何よりもそんな銀座のクラブでもって👩の尻を触って来ることだけを夢見て生きて御座る。
左様な体たらくでは複雑系の此の世界の複雑に絡み合ふリスクに対しまるでマネージメントすることなど出来て居なひではなひか。
そんな複雑系の文明に対するひとつの対処の仕方が価値指向のミニマム化でありなるべく劣化の少なひインフラであり且つ原始的な循環性をも取り入れたシステムの構築なのではなからうか。
結局其れをもしやったとしてもカタストロフは回避出来ぬにせよ少なくとも破滅までの時間は稼げ其処から生き延びる為の確率を上げることさへもが出来さうだ。
時間と云ふもの、其れも人類に与へられし時間は有限だと常日頃より我は思って居りたとへば今考へて居ることとは其の有限であるところの与へられし時の密度を如何にして上げて行くかと云ふことだ。
平たく言へば其れは如何にして残りの時間を有意義にさうして少なくとも建設的に生きて行けるかと云ふ只其のことばかりなのである。