目覚めよ!

文明批判と心の探求と

春と破壊


社会はまた常に同じものを求める。

何故なら社会とは意識なのだから。
対する藝術やら宗教やらは感覚方面へ振れたところでの意識なのだらう。

社会の意識即ち社会的自我は最終的にデジタルの領域へと進んでいくことだらう。
ところが人間の肉体は依然として其の肉体である。

だからいまだに人間はメスを追いかけ飯を食ひ排泄だってして居やう。
ゆえに所詮はどーぶつなんだが意識の方は其れとは逆にどこまでも合理化されていくのだ。

人間の根本の問題は其のアンバランスなところにこそあらう。
つまりは分離度がおかしひ訳だ。

とどのつまりは一元化などして居ない。

むしろ二極化の極としての今を生きる。

それでもっていつの間にかバランスの取れた範囲を逸脱し宙に浮ひて仕舞ふ訳だ。

勿論地に足など着ひて居なひ。

謂わば人間は宙ブラリンのお化けだ。

人間はお化けでもってしかも宙ブラリンだ。


左様に酷く二極化するので逆に非理性的な社会を歩まざるを得ぬ。

しかもドンドンさうなるのでもはやお先は真っ暗だ。

確かに高度な知性と下卑た獣欲が其処に混在しておる。


また社会は意識なので即罪だ。

無論のこと養老先生も意識の引き起こす害に就いて論及されて居る。

社会は二元的バランスをあへて捻じ曲げ崩壊へと至らしめることだらうまるで悪魔のやうな存在だ。

つまるところ人間が悪ひのではなく全ては社会が悪ひ。


ちなみに世間で社会が悪ひと言って居る奴はほとんど居ないが其れは何故かと云うと其れを言へば決まってキチガヒだと思われるからなのだ。

逆におおまさにご立派な社会でもってまことによろしゅう御座ひますね、左程に文明こそは偉ひです、まさにアナタ方のして居られることこそが全的に正しひ。

とでも言っておけば逆に立派にさへ見へるのです。



それにつけてもどうも社会は罪なものです。

其れは何でかと云うと意識が罪だからです。

此処からしてもキリスト教に於ける贖罪と云う概念はおそらく正しひ。

即ち宗教ではさうした意識の危険性をすでに象徴的に把握して居た訳です。


さて意識の本丸が数学でありあたりまへのことではありませうが動物にはコノ数学が分かりません。
わたくしなども一種動物的にピュア―な人間ですので数学がまるで不得意です。


逆に人文の領域に対して強ひと云うか強く関心があります。

元々藝術やら宗教の領域には実は似た部分があります。

1.情動に関わるものであること
2.絶対性を持つ


まあ此の部分は養老先生が述べられて居ることです。

で、わたくしはコチラの方面にスッと入っていける。

でも其れとは逆の合理化領域の部分には入っていけない訳だ。


要するに都会嫌ひでありかつ人間嫌ひー意識嫌悪ーなんだ。

其の絶対性やら感覚やらにむしろ寄りかかることで心の平衝を保ちたい訳だからおそらくは元来どーぶつ的なんでせう。

ただし共感覚的な部分とはむしろ動物的ではない部分のことを云ふ。

動物の場合はむしろ諸感覚がそれぞれ独立しクッキリとしている。

ところが其処に文字は無い訳です。

文字は「同じ」とする意識が生じさせる抽象的能力のことで「違ひ」を認識する感覚とは本質的に対をなすもののこと。

一言で言えば抽象的概念を我我は生きざるを得ず其の傾向が増すにつれ意識度が拡張し感覚が圧迫されることでやがては生命としてのバランスを欠いていくと云う事が人間存在の抱える本質的問題です。

さういうのを煩悩なり罪なりと云う言葉に置き換えたのが宗教だと云うこととなる。

抽象的能力には情動や絶対性を置き去りにして進む傾向があり其れが端的に現れ出て居るのが近代以降の科学的な世界観でせう。

数的認識に還元された価値観でもって進歩する文明を是とする訳ですので其処には無意味なものや死や神、佛などは置き去りにされて仕舞ふのです。


でもって我我は常に現代の抽象的な社会概念に縛り付けられて居りませう。
曰く経済成長が大事だ。
曰く人間は神の如くに全能とならねばならぬ。

曰く壊れた地球を捨て去り早う他の惑星へ移住しやう。


此れ等の抽象的な社会概念がそも誤りなので人間は何十年、何百年と努力したとしても逆に自らを追い詰めていくだけのことです。

いや抽象化が誤りなのではなくどうせ抽象化したいのならば抽象画でも描いておけば良かったのによりによってヤバい抽象ばかりを積み重ねて来て居るので其処ではもはや如何ともし難ひと云うことです。


如何ともし難ひのが現実であり一縷の望みさへ其処には無いのだとも申せませう。

其の抽象的な社会過程自体にはもはやどんな救ひや望みも無い。

されど選択だけは常に可能だと云うことを繰り返し述べておくばかりでのことです。


其れは価値観の選択である。

言うまでもなく価値観とは意識としての方向性のことです。

意識としての方向性には二元的価値が拡がって居ります。


其の二元的価値の選択を現在とは逆方向に振りませう。

不倫がしたい→不倫してはいけない
大食ひをしたい→少食でもって満足する
宗教が嫌ひだ→毎日お寺を巡り教会で祈りを捧げてみる

金が欲しひ→生きて居る分だけ金があれば充分だ
何とか細胞が欲しひ→おまへ自身が其の何とか細胞の実験台となり死ね
宇宙へ移住したひ→地球で生きられぬ者がなんで宇宙で生きられるものか

都会が好きだ→都会は毒だ
田舎が好きだ→田舎は毒だ
藝術が分からぬ→藝術が分からぬと天国へは行けないぞ

地獄へ堕ちたくない→地獄へ堕ちよ
文學が嫌ひだ→文學攻めにしてやる
女が好きだ→女こそが魔物だ

学校でオール五だったから偉ひ→学校でオール一の奴の方がもしや天才かもしれんぞ
金メタルを取れば国民栄誉賞だ→金メタルになど三文の価値もない、無価値だ、無価値、いやむしろマイナスだ
権威は大事だ→権威など無価値だ、無価値、いやむしろマイナスだ

本が好きだ→むしろ本を読むな
女が嫌ひだ→むしろ女を見ろ
心が清ひ→むしろ悪人になれ


尚、学校及び塾はむしろ危険思想を叩き込まれる場ですので今後は特に気を付けておきませう。

学校はかって軍国主義をやりましたのですし戦後は左翼平等思想を叩き込む場であり現在は合理主義の手先として人間を合理化する場として機能しつつある。

まあ塾は所詮成績至上主義なのでそんな思想ではなく合格実績のみですが結果として人間を合理化する場として機能しつつあることもまた確かなことです。

ただし塾の教師には変な奴も居るのでさういう人であればまさにわたくしのやうに話が面白くもなる訳です。


さて文明が是とすることだらう価値観がむしろ人間を破壊へと導くものである可能性は今後むしろ増していきませう。

近代とは左様に制御出来ない何かを常に人間に突き付けるものでもあった。

意識の堆積物である近代以降の社会的価値の名のもとに世界大戦や科学技術による破壊が齎されたのだ。

しかも其の破壊の様はより本質的なものとなりつつある。



1.人間の破壊
2.地球の破壊

たとへば此の二面での破壊が同時進行中である。

1.物理的破壊と精神的破壊がある。遺伝子操作やゲノム編集などにより物理的に人間が壊されていく可能性も高く存する。また精神的には宗教的なものの衰退により道徳的文化的破壊が齎され人間の心が根本から変わっていくことだらう。尤も其れを破壊と呼ぶか其れとも進化と呼ぶかは見方次第。だが誰しも自分の子孫が遺伝子的に改変を受けたり人間とは言えないものになったりすると云う事には我慢がならないことでせう。またアンドロイド化されたりすることにも我慢がならなひことでせう。まさかそんなことにはならぬ筈と誰しも思ふのですがおそらく其れは甘い見方である。
何故なら近代とは破壊の世紀です。まさに破壊の為の破壊の時代であると見て置いた方が良ひ。
何故さうなるのかと云えば勿論社会化されし欲望が巨大化されて居るからです。意識的に構築されし今が無限に増殖し二元的展開としての現在を圧迫し続けて来て居るからです。
平たく言えばまさにやり過ぎの今、歯止めの効かぬ今を意識的に構築して来て仕舞って居やう。
ところが其の意識としての構築物ー観念的妄想ーと自然の一部である肉体との間には本質的なアンバランスが存して居る。

肉体以上のものでなければ其の不均衡の状態を是正することが出来なひ。
なので社会はまさに躍起となり物理的かつ精神的に人間を改変することを目指していきます。
するとどうなるかと云えば人間が人間ではなくなっていく可能性が高くなっていく。

其の物理的破壊と精神的破壊に耐えられるやうなものだけが生き残り人間と呼ばれるやうになっていくと云ふ事だ。
近代は人間を最大限に持ち上げましたが其の反動と云うか反意としての人間の根本的な破壊を経験していかざるを得ぬ

2.言うまでもなく物理的に齎されたところでの地球の破壊は其の須らくが近代的な社会によるものです。常に近代社会は意識的な作業として地球に対する破壊に勤しんで来て居る。其の意識的作業こそが近代的合理化そのものです。近代的合理化により達成されし都市文明は秩序づけられたところでのまさに合理化社会です。
合理化社会なのですが反面非合理性は根強く残って居ます。前近代性が地域的に残って居たとも言へませうがより本質的には矢張りと言うべきか感覚に属する肉体が近代社会に於いて置き去りにされていって仕舞ふことこそが問題だ。

さうして実は地球と云う大きな現象もまた肉体に属するものだ。

ゆえに地球は意識を生きるものではなくしてあくまで其処で肉体としての歴史を生きて居りませう。

ところが其の肉体としての地球の歴史を意識が解することはないのであります。

もしも解するのであればまさに其れはニューギニア土人の如くに大自然に抱かれし素朴な生を営んで居ることでせう。

意識こそは根性が元元悪ひから肉体としての地球の歴史を無視しつつ何処までも我を歩んでいくのです。

其の我は非我であり相対分別智を構築する他はない、謂わばもうまるでウソの我です。

其の我への固執を断滅せしめることはすでに不可能ですので人間社会は決して救われることはなくつまり成仏など永遠に出来はしなひ。

つまりは社会は元々救われやうがない。


むしろ個には成仏の可能性も御座りませうが人間の社会を救ふことなど其れは不可能です。
意識とは元々悪なので此の世には悪ひ奴が大勢居り其れがグダグダと積み重なりかの悪ひ世界を形作るのだ。


尚花見をするならするでもっと上品に其れを行ふべきだ。

かく言ふわたくしは花見をもうして来ましたよ。

さて何の花を見て来たのでせうか。


即ち野辺の花をです。

わたくしの場合は趣味が如何にも高尚でもってして俗なことなど一切行わぬ。

桜を眺めにいくなどとそんなはしたないことをしかも集団でもってして嗚呼汚らわしひ。

桜の下には死体が埋まって居るものとかの坂口 安吾の昔からさう相場は決まって居るじゃ御座ひませぬか。


野辺の花にも色々とあり実際どんなものでも良いのだがまさに其れ等を眺めて居るだけで心が洗われる思ひがする。

まあ自然と云うものは心の疲労には確かに効きます。

確かに癒し、と云う時間を与へて呉れるのは決まって人間ではなく自然だけです。

春を告げるどんな花々も人間の欲望の外側でのみただひっそりと咲く。