さて坂口
安吾なんですが特に玄人筋ー作家連中ーの方々には好まれて居りかつ評価の高い作家なのだとも言へやう。
かの五木先生なども確か
安吾は良い、などとされて居たことかと思われる。
でも坂口
安吾の作品は結構とっつきにくいのではないでせうか。
可成に狂的な部分に食ひ込んでも居るので安心して読めるやうな文學ではないこともまた確かなことです。
坂口
安吾は博識でもってしかも思考力に優れて居たのでせう。
尤も当時の作家は皆博識でしかも思考力に優れて居たのではありましたが。
坂口
安吾はエリートコースには乗らずにまさに自力でもって一級としての知性を磨き込んでいった人です。
仏蘭西文學や仏教に詳らかなところなどは流石と云ふべき。
ただし薬物に溺れるところや戦後世界をさう悲観的に捉へて居ないところなどがわたくしとは違ふ。
尚坂口
安吾の本は選集を十五年程前に古本屋で得ましたがまだほとんど読めて居なひ。
これまでは兎に角時間がなく読めなかったので今後是非読み込んでいきたいところだ。
ですが文學全集としての一冊ならば二十代の頃に屡愛読して居たものです。
安吾の作品で何が好きかと云うと矢張り「風博士」のやうにまさに小説とも
散文詩ともつかぬ体のものが一番好きです。
何が言いたいのかまるで分かりません。
かように坂口
安吾はむしろ初めから狂的なんですが存外に落ち着いて居て存在感がある。
と云ったところのある不思議な作家です。
ただし
安吾は若い頃からすでに宗教に目覚めて居り大學では主に仏教を学んだ訳です。
掃除が苦手なのは多分観念的人間であるからでせう。
きっと掃除する時間があるなら其れさへも考へる時間の方に割り振りたいのだ。
勿論其の部分はわたくしにも分かる。
あくまでエリートコースを歩んだ訳ではないのですが常に頭の良さを感じさせられる作家の一人です。
なんですがわたくしのやうに体制批判をなす訳ではないやうだ。
対する太宰の場合は矢張り其の根本に体制批判があったのではなかったか。
いや
横溝正史が流行った頃にはそれなりに二、三冊読んだこともありましたが其れは映画の方もあった訳ですし性格的にも兎に角純文學の方ですのでそんなものは大したものにはまるで思へなかった。
なので其れよりも
安吾の評論や
社会時評の方により関心が深かったのであります。
精神病者というものは、こんなに無礼であったり、動物的であったりはしないものなのである。そして、先程も云う通り、自らの動物性と最も闘い、あるいは闘い破れた者が精神病者であるかも知れないが、自らに課する戒律と他人に対する尊敬を持つものが、精神病者の一特質であることは忘るべきではない。
昨年、帝銀容疑者の平沢氏が東京へ連行された時、新聞は、容疑者にすぎないものを、発表したのは不徳義である、と云って、当局を責めた。然し、もし、警視庁がこれを極秘裡に行い、ひそかに平沢氏を小樽から東京へ連行した場合、これを新聞記者が探知したならば、特ダネとして、全紙面をうめるぐらいに書き立てた筈である。現に、平沢氏の前に、水戸の某氏がひそかに取り調べをうけているとき、これを書き立てたのは新聞であり、当局は秘密にしていたのである。
発表すれば、不徳義也と云い、しかも自らは、ひそかにスクープして発表し、それを得々としている。自ら背徳を行いつゝ、それを他人にのみ責めて、内省することを知らない。精神病者には、こういう内省のなさ、他人への無礼に対して自ら責めることを忘れている者は居ない。だから、もし、精神病患者が異常なものであるとすれば、精神病院の外の世界というものは奇怪なものであり、精神病的ではないが、犯罪的なものなのである。
精神病者は自らの動物と闘い破れた敗残者であるかも知れないが、一般人は、自らの動物と闘い争うことを忘れ、 恬(てん) として内省なく、動物の上に安住している人々である。
小林秀雄も言っていたが、ゴッホの方がよほど健全であり、精神病院の外の世界が、よほど奇怪なのではないか、と。これはゴッホ自身の説であるそうだ。僕も亦、そう思う。精神病院の外側の世界は、背徳的、犯罪的であり、奇怪千万である。
人間はいかにより良く、より正しく生きなければならないものであるか、そういう最も激しい祈念は、精神病院の中にあるようである。もしくは、より良く、より正しく生きようとする人々は精神病的であり、そうでない人々は、精神病的ではないが、犯罪者的なのである。
(退院の翌日)ー以上より引用ー
今回
青空文庫で検索してみましたところこんなものを見つけ読んでみましたが其の内容に驚かされました。
安吾自身が精神病質であったと云うよりもこれ程までに的確に
精神病者の抱える問題の本質を捉へて居ること自体にむしろ驚かされたのです。
精神病者そのものと云うよりも
精神病者に近くなるつまり其れとの境界層にある人々ー往々にして頭が良過ぎる人々ーはわたくしの経験上からもまさに此処に書かれて居る通りでむしろ潔癖なのです。
勿論わたくし自身もさうなのですがわたくしは精神病質ではなく
神経症の方です。
神経症ですが若い頃から催眠薬は服んで居ましたのでまあほとんど病気なのでせう。
ただし三十歳から五十歳までは酒と催眠薬を断って居りました。
そんな訳で薬に走る
安吾の気持ちも分からぬではないがアドルムだの
ヒロポンだの兎に角ありとあらゆる薬へ走った
安吾を理解することなど出来ぬ。
ただ似て居るかどうかと云う事で云えば妙に女好きの太宰やルソーよりも
安吾の方が自分に似て居るのだしゆえに理解し易くもある。
さて
精神病者はむしろ礼儀正しく動物的ではない、つまりは常に理性的なんですね。
「自らの動物性と最も闘い、あるいは闘い破れた者が
精神病者であるかも知れないが、自らに課する戒律と他人に対する尊敬を持つものが、
精神病者の一特質であることは忘るべきではない。」ー以上より引用ー
とのことですのでむしろ自制心があり人間的には正しひ人が其の
精神病者なんです。
尤も其れにも程度があり度を越して潔癖だとほんたうの
精神病者となる筈です。
藝術や論評、即ち批判はいざ
精神病者ともなればもはや出来なひ訳ですから其の一歩手前のところで其れを行ふことしか出来ない訳です。
其の遥か手前の常識に安住して居てはそんなややこしいことはそも出来やしないししようともまるで思わない訳です。
だから藝術とは基本的に精神としての逸脱行為であるが其れを意識的に行ふ限りはむしろ高ひレヴェルでの思考なり感性の発露なりを其処に齎すことが出来る。
なので藝術家の頭がおかしく見え易ひことはむしろ当たり前のことなんです。
事実おかしいんです。
おかしひのだが実は至極真面目なんです。
安吾は精神病患者が異常だとは見て居らずむしろー精神に於いてー健全だとさへ捉へて居るかのやうだ。
逆に内なる動物と闘ふことなく即ち内省なくして動物の上に安住する世間の欺瞞、偽装としての世間の様を攻撃して居るかのやうだ。
「
ゴッホの方がよほど健全であり、精神病院の外の世界が、よほど奇怪なのではないか、」ー以上より引用ー
「精神病院の外側の世界は、背徳的、犯罪的であり、奇怪千万である。
人間はいかにより良く、より正しく生きなければならないものであるか、そういう最も激しい祈念は、精神病院の中にあるようである。もしくは、より良く、より正しく生きようとする人々は精神病的であり、そうでない人々は、精神病的ではないが、犯罪者的なのである。」ー以上より引用ー
いや、何だかわたくしがいつも述べて居るやうなことばかりではないですか。
まあわたくしも結局は危なひ人間の一人ではありませうがまだほんたうのキチガヒにはなってませんからどうか其の点だけはご安心下され。
確かに其の犯罪者と云うのは世間一般の人々のことを云うのです。
第一近代人とはまず間違ひなく犯罪者でせうが普通の人は其れに気付けぬことが多ひゆえ自分ではそんな風には決して思へない訳です。
心または知力に於ける振幅の幅が狭いのでまさか其処まで分からないと云うこととなりませう。
ところが
ゴッホや太宰や中原のやうな人間ともなれば心または知力に於ける振幅の幅が広いと云うか激しひので分かる時にはピッと何かを捉へるのですが一歩間違へばまさに狂人ともなりませう。
かの
安吾がドノ辺りに居たのかと云う事はしかしながらなかなか分かりませぬが少なくとも可成に狂的、年老ひたウチの母ー女学校の文藝部出身者ーによればもうまるで満開の桜の花の下のキチガヒなのだそうな。
言うまでもなく世の中と云うものは往往にして正論が通りにくいところでまさに背徳的であり犯罪者の群れであり真理にはほど遠き心性の群れ即ちバイキンの群れと云う事にならざるを得ない。
ただしバイキンにはバイキンとしての生きる上での論理がありかつ存在意義があるのです。
藝術や宗教はバイキンとしては生きないことを決意した人の為のものであり逆に言へばそんな決意をせずとも生きていかれる皆様こそがむしろ幸せなんです。
仕合せと云うことは実はさういふことであり金持ちであるとか美男美女であるだとかそんな御大層なことでは御座ひません。
仕合せであるとはズバリ鈍感であることです。
鈍感でもって何処までも長生きがしていけることです。
尤ももし長生きすることが出来たにせよ其れ自体が幸福に繋がると云う事ではない。
あくまで鈍感であること。
其れだけが実は大事なのだ。
確かにかうコケにされると皆頭に来ることでせうが其れが真実なのです其こそがほんたうのことなのです。
此の世ではむしろあくどい奴、悪の僕である奴の方が生きて行くことはよりし易ひのだとも言へやう。
そんな世の実相を捉へ切る
安吾の観察力乃至洞察力こそはまさに大したものです。
安吾の小説には訳の分からないものもまたありますがひょっとすれば其れは丁度小説と詩の中間のものであるのやもしれぬ。
「私はこゝ数年、かういふ心の影にふれない生活を送り、関心事は肉体の問題に限られてゐた。」ー以上より引用ー
はあ?肉体?
「 一つには、私は今まで綜合的な、組織的な手法ばかりを学んでゐたが、考へてみると、私の心の動きは必然的に分裂へ分裂へと向き、要するに私にとつては、分裂が結局綜合を意味するのだといふやうなことが分りかけてきた。」ー以上より引用ー
はあ?「分裂が結局綜合を意味する」?
何やらごく最近のわたくしの言説と何処かしら通じて居るやうな気がしてならぬ。
さうだ肉体は分裂されつつも常に一元化されて居りませう。
尤も精神に於いても分裂は限定されることで統合され得る。
其処では結果的に統合と同じ効果を生み出すことが出来やう。
安吾は宗教者でもまたあるものと思われるが意外と宗教臭くはない点が不思議と云えば不思議だ。
はあ?「逃げたい心」?
まあ確かに逃げたひ。
海の底とか山の奥の洞窟の方へと。
「どんな仕事をしたか、芸道の人間は、それだけである。吹きすさぶ胸の嵐に、花は狂い、死に方は偽られ、死に方に仮面をかぶり、珍妙、体をなさなくとも、その生前の作品だけは偽ることはできなかった筈である。
むしろ、体をなさないだけ、彼の苦悩も狂おしく、胸の嵐もひどかったと見てやる方が正しいだろう。」
「太宰の自殺は、自殺というより、芸道人の身もだえの一様相であり、ジコーサマ入門と同じような体をなさゞるアガキであったと思えばマチガイなかろう。こういう悪アガキはそッとしておいて、いたわって、静かに休ませてやるがいゝ。
芸道は常時に於て戦争だから、平チャラな顔をしていても、ヘソの奥では常にキャッと悲鳴をあげ、穴ボコへにげこまずにいられなくなり、意味もない女と情死し、世の終りに至るまで、生き方死に方をなさなくなる。こんなことは、問題とするに足りない。作品がすべてゞある。」ー以上より引用ー
仰るやうに藝術こそは闘ひだ!
さうして「作品がすべてゞある。」
が、わたくしの作品は今のところ何処にも無い。
是非作品を纏めたかったのだけれど昔書いた詩は散逸しもはや纏め難い。
むしろわたくし自身が作品なのであり其の意味ではわたくしは人生を悔ひてなど居ない。
皆様には反省を強ひる癖にわたくし自身は反省などまるでしないのでむしろ全てがわたくし以外のなにものでもなかったと云う自負にさへ充ちて居るのだ。
尤も社会に対しては常に反省を求めて来ては居やうが。