目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

日本国が常に抱える大問題



かように怒る良識ある大人の方が是非居て下さらねば困る。
然し問題は教育のみにあるのでは無ひ。

おそらくは大問題のせめぎ合ひとなって居るのであらう。
日本国の現状とは其の大問題だらけなのだ。

1.近代の抱へる問題ー合理化問題ー
2.保守国家としての日本の問題

大きく分けるとかうなり、と云ふことは我我日本人は二重に大問題を抱えて居るのだがもはや誰も其のことに気付きはしなひ。
近代の抱へる問題の本質とは相剋し同時に相即する世の実相とは無関係に一元化が図られていくことだと先に述べた。
其の一元化こそが合理化なのだとも考へられやう。

また其の一元化にこそ近代的な社会のエネルギーが集約されておる。
近代科学の発達も資本主義社会の成熟も皆其の一元化の流れでのものだ。

近代とは実質的な幸福の流れ=肉体性をかなぐり捨て突き進むであらう観念の暴走なのだとも考へられやう。
抽象化された領域から人間ー文明ーにとっての幸福を追求すればむしろかうならざるを得ぬ。

問題は其の抽象領域が次第に拡張されていくことだ。
また肉体性を無視した合理的欲望の追求なども屡其処で行われ得る。

合理化と云ふことは其の抽象化されし欲望を直に掴み取る為の方法論のことだ。
其れは我慢しなひと云ふことなのであり、また回り道をしなひと云ふことなのであり、何よりもまず欲望に対して忠実だと云ふことなのだ。

だが此処で是非留意して頂きたひ。
わたくしは肉体の欲望を全否定するものでは無く其の観念的且つ社会的な欲望こそが危険だと述べて居るに過ぎぬ。
ただし例外はありズバリ其れは女の肉欲だ。

コレを放置すればもうほんたうにエライことにならう。
むしろ其れはガチガチに締めておかねばならぬ。

即ちパンドーラ―のハコを決して開いてはならぬ。


男性の浪漫の追求に関しては、飲む、打つ、買ふの犯罪構成要件三要素に限りコレを認めず後は全部認めておる。


さて、教育の問題であるが、基本的に教育には問題は無ひとわたくしの場合はさう捉へておる。
どういふことかと言へば、人間を教育するなどもってのほかのことで人間など元々教育することは出来ずもし教育するのであれば其れは躾の面だけだと云ふのが最近のわたくしの考へ方なのだ。

つまるところ人間を人間たらしめて居るのは社会による諸の規定によるところが大きくそんなところを一教師が変えられる筈もなくもし変えられると思って居るのであれば其れは大きなカン違ひだと云ふことともならう。
其れともうひとつカン違ひして居てはいけないのは、学校の先生は人間形成に於ける先生でも何でもなくタダ知識を植え込んで呉れるだけで感謝して居なければならなひ存在なのだ。

人間形成だの何だのはむしろ幅広く読書し其れと共に様々な経験をなし是非ソチラの方で学んで頂きたひものだ。

元より教師はタダのお勉強が好きな元優等生であるに過ぎぬ。
 

ただし思想レヴェルともなれば左翼思想の持つ矛盾的破壊性ー創造的破壊性ーが実は大問題であり、対して右の思想の受け持つ破壊的維持ー何もしなひうちにグズグズに崩れていく諸制度ーと並びヤバいことこの上無く、だからどちらにせよ近代思想は元より破綻しておりいずれにせよ信ずるに足るやうな価値ではなくむしろ其れは単なる本能としての欲望であるに過ぎぬ。

ところが先に述べたやうに本能を社会化してはならなひのであり、また理性を個の領域に持ち込み過ぎてもならぬ。

かように此の世の成り立ちはなかなか難しく全てが複雑怪奇に絡み合ふ。

左様に教育とは謂わば形式なので其の範囲内で出来ることしか教師には出来ず其処を教師が悪ひと幾ら言われてもまさにどーにもならぬ事。


なので問題はまず世の中の示すより大きな傾向性、流れの方にこそ存して居り学校やら日教組だけが悪ひ、或ひは教育委員会だけが悪ひなどとして居るのはまさに本末転倒としての考へ方だ。

だから社会が悪ひのであれば其の下部構造は必然として皆悪くもならう。

そんな訳なので学校は読み書きを學ぶところでまた塾はテストで良ひお点を取る為のお勉強の場であるに過ぎぬ。

どだい昔は家庭や近所の人、親類などにより其の人間形成に関する教育が為されて居たのだった。

つまるところ人間は社会的に教育されるー躾けられるーことが常であった。

其処が機能しなくなったことがむしろ一番の問題だ。

社会に於ける合理化の度が進み過ぎたお蔭で其のやうな社会的な教育の場が廃れたのであらう。


なのでむしろ其の合理化が問題なのである。

科学者の方々も其処を良ーく考へて頂かねばならぬ。

合理化し過ぎると人間のアタマは良くならうが心の方は決まって壊れていかうから其処はもうほんたうに真摯に受け止め是非限度を設けて頂かねばならぬことだらう。

科学のシンポは必ずしも人間の幸福に結びつく訳ではなく其のシンポ以外の面から案外直接的な生の価値の把握がなったりもして居ることだらう。

たとへば文學はまさに回りくどく現金では無ひー現世利益的では無ひー訳なのだがむしろさうした逆方向の面から世間に対してもの申すだけの力には充ちておる。

漱石が芥川がまた太宰や安吾が実に回りくどくも書き遺した作品の数々から学び取ることの出来る価値とは近代科学のやうに直接的には欲しがらない価値のことなのであり生の悩みでありかつ死を抱へる実存としての人間の苦しみなのだ。

其のやうな理性としてのマイナスの価値をこそ現代社会は是非見詰めていくべきだ。

現代社会は其の理性としてのマイナスの価値に欠けておる。

さうだいつの間にか其れは消へて仕舞ったのだ。


次に保守国家としての日本の抱へる問題とはズバリ保守ー前近代型の世界観ーと革新ー近代型の世界観ーとの相剋でありかつまた相即の問題である。
日本と云ふ国家は変わりたくはなく変へやうの無ひ國であるにも関わらず近代国家の枢要なメンバーとなった手前兎に角外圧に従ひ常に変へていく羽目に陥って居らう。

でも其れは明治時代からさうだったのではないか?
明治時代から変へたのはあくまで國の枠組みでは無く近代的な諸の枠組みを其処に付け足す形でさうして来て居るに過ぎぬ。

だから現在はより大きな領域で近代化の問題が噴出して来て居るのだとも考えられやう。

或ひは教育の問題もさうした保守と革新の対立構造の問題へと還元し得るのやもしれぬ。

即ち変わりたくはないのに変へる価値観を共有しなければならず、且つ変わりたくはないのに変へる勢力と常に闘っていかねばならなひ。

ただし此の構造は多かれ少なかれ近代国家いずれもが抱へる根本の問題なのだ。

左程に近代と云ふ観念的圧力は世界を覆ひ尽くしてもなお強力であり何故其のやうなことになるのかと言へば現実に付与した合理性が何より即物的に強ひから其れに従わざるを得なくならう。
平たく言へば文明国の現実的な力=観念力に前近代的な国家は皆太刀打ち出来ぬからこそ其れに押し切られて仕舞ふ。

其の現在化はまさに近代科学が推し進めたことだ。

要するにまさに直接的に一元化を推し進めておるのだ。

然し言ふまでもなく多様な文化の尊重と維持こそが其の一元化へのアンチテーゼともなる重要な回り道なのだ。
ひいては多様な種の尊重と維持、多様な宗教の尊重と維持こそが其の一元化へのアンチテーゼともなる重要な回り道である。

かように回り道=すぐには役に立たぬことを認めることは脱合理化への第一歩だ。


役に立つことばかり、其れも観念的に役に立つことばかりを追ひ求める合理化社会は察するに寿命が短くおそらくはすぐにへたり切って仕舞ふことであらう。

だがむしろ役に立たぬことの方が生の直接的な把握に繋がり役に立たぬことの方が本質的には有用であり結果的に役には立って居る。

さうした思考は学校教育に於いてもまた科学的思考によっても決して教へては貰へず、ではどうするかと云うに兎に角寝る間を惜しんで歴史書やら文學、哲學の本を読み漁り決して女には寄っていかぬこと。

さうした禁欲的即ち不倫の反対の世界観のみが君等の批判的精神を形作るのだ。

批判、即ち其の純粋なる理性の御導きにより其の役立たずこそが実は一番役に立っておったと云ふ一種の宗教観に至ることさへもが出来やうぞ。


以上のことよりまず社会の仕組みを見直してみなければならなひことを我我はしかと知るべきだ。

とは云へ社会は変わりやうがない。

岡林 信康がまた全共闘があれだけ叫んでもまた三島先生があれだけ檄を飛ばしても変わらぬ日本の社会がさうカンタンに変わるべくも無ひ。


だから我我個が変わるほか無ひのである。
ただし其れでも変わりたくは無ひ。

もう永遠にココに固着しておりたひだけ。

だから其れでも良ひ。

変わりたくなければ変わらずとも良ひ。

其の代わりにまずは自分を反省すべきだ。

科学者は科学浪漫の追求が過ぎたことを是非反省すべし。

文學者はつひ浪漫チックに傾き過ぎて居たことを是非反省すべし。

女共は其の肉体が基本的に邪であることを是非反省すべし。

男共は趣味の追求のし過ぎを是非反省すべし。


社会はこんな社会にしたことの責任をしかと受け止めよ。

さうしてさらなる合理化をもう止めよ。

合理化を止めなるべく役には立たぬやうな詩を読む。

合理化を止めなるべく役には立たぬやうな時を過ごす。

合理化を止めなるべく役には立たぬやうな自分で居やう。


何よりも其れこそが現代人にとっての真の心の癒しとなることだらう。