目覚めよ!

文明批判と心の探求と

シンポしてさへ居れば人間は幸せなんですか?


元より此の世の諸事象の成り立ちとは相克的ー相剋・相克ーであり同時に相即不離ー相即不離ーなものなのである。
さういふのを直観者は常に眺めて居るが感度の鈍ひ方々には其れは決して見えては来なひ。

わたくしは其の感度の悪さをも批判して居るのであり同時にまさに感度の良過ぎるじぶんのやうな人間をも批判して来てもおる。

が、所謂中道は釈迦級のまさに潔癖な心的段階に於ひて可能な観念的昇華即ちサトリのことにほかならず我我のやうな低級な心の持ち主にとり其れは余りにもハードルの高ひ世界のことなので一面では心のバカさ加減はもはや治らぬので其のバカはバカとして出来る限りに確りと生きていかう。


とさうも思ふのである。

二元的分離ー相対概念による対立的世界観ーは相対分別より引き起こされ其の相対分別を引き起こす原因とは人間の観念的欲望である。
人間の観念的欲望は社会化の度が増すに従ひより大きくならう。

なので人間の社会化はまさに注意してほどほどのものとしておくべきだと云ふのがわたくしの哲學の枢要な原理なのだがさて皆様にはお分かり頂けたことであらうか。


そんな思想は所詮屁理屈のこね回しで現実上の諸問題の解決には何の役にも立たぬまさに屁のやうなものだ。

とさう思われたアナタ、アナタは然し間違っておる。

どだい左翼思想と右翼思想の其の相剋の様、さうして相即の度合ひとはどうだ?
さうして女と男、または人間と自然との其の相剋の様、さうして相即の度合ひとはどうだ?


「対立・矛盾する二つのものが、互いに相手に剋とうとして争う」のが世の常なのだし 「互いに密接に関連していて離れ」ず且又「区別のつかないほど、深い関係にある」ものだ。

だから中道と云ふことは其の生の基礎構造を根本的に昇華ー抹消?-していかうとする精神の流れのことなのだ。

ところが西洋思想に於ひてはシンポ概念と云ふものがいつの間にか組み上がって仕舞った。

シンポはヘーゲルの言ふが如くに、
  • あるものをそのものとしては否定するが、契機として保存し、より高い段階で生かすこと。
  • 矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること。
止揚より引用

となり謂わば其れは社会的なシンポなのだ。



でも何も変わってなど居なひのだ。
人間の肉体は変わりやうがないのだし女の欲深さー現世利益の追求に於けるーや男のバカさ加減ー浪漫の追求に於けるーなどもまるで変わりやうがなひ。

左様に肉体は変わらねど近代は観念を社会化したからこそシンポすることが可能となった。

ところが此処で問題が生ずる。

あらうことか肉体の罪深さが精神に乗り移りより肉体と精神の分裂を促すこととあいなった。

かように肉体と精神が結託すると欲望に歯止めがかからなくなりもうエライことになって仕舞ふ。


かように肉体と精神がくっつひた科学者共や資本主義社会に於ける欲望の申し子、所謂金の亡者共がもうウジャウジャ居て我などもはや安心して外さへ歩けぬ有様じゃ。


其のやうな大問題は謂わば見える人には見え、見えぬ人には見えぬ。
いや其れはむしろ見ぬ方が良ひ。
見へると、見へ過ぎるとロクなことにはならぬのでつまるところは知らぬが佛じゃ。

さうじゃ知らぬが佛が其処らにもうウジャウジャと。
蟻の群れやら蜂の群れの如くにウジャウジャと。


かのヘーゲルの云ふところでの、其の「より高い段階」と云ふ言葉と「対立と闘争の過程を通じて発展的に統一する」と云ふ言葉にはどうも引っ掛かりを感じて仕舞ふ。
より高ひと云ふことはより理性的だと云ふことなのであらうか。

然し理性其れ自体は本能と相剋するものであり同時に不即不離なものである。

だから理性はそも純粋化し単独のものとして抽出することがかなわぬ。

其れは丁度女と男が、または観念と自然がそも純粋化し単独のものとして抽出することがかなわぬことと同じなのだ。


うーむ、さうか、そも理性が分離出来ぬものであるならば、また観念ー社会ーが分離出来ぬものであるならば、何故我我は其処であへて社会化し強固に矛盾としての理性的体系を形作らうとするのだらうか。
結局わたくしが考へたのは、其の理性の自己矛盾過程としての逆転原理、謂わば裏返って仕舞ふ理性としての仕組みのことであった。

裏返る、即ち表裏一体のものとして万象は存在しておる。

先に述べたやうに其の関係は常に相剋的であり同時に相即不離なのだ。

と言ふことはだ、謂わば其れは元は同じなんだが矛盾的に対立し闘っておると云ふ状態なのだ。

どうも其の部分に於ける西洋近代と東洋思想での捉へ方が根本的に異なって居やう。

西洋近代は理性的であることが上だとし「発展的に統一」するなどとも屡仰ひますがほんたうのほんたうに其れが可能であるや否や?


わたくしは其れは出来なひと屡述べて来て居る。

なんとなれば理性もまた矛盾の産物だからなのだ。

理性が原始退行する原理に就きわたくしはかって此処で屡述べて来て居やう。


コレが理性ですよ、と言ひながら近代に入り人類は世界大戦を二度も経験し大量破壊兵器を生み出して来た。
コレが理性ですよ、と言ひながら近代に入り人類は母なる地球、其の人類の子宮としての揺り籠をブチ壊して来た。

特に現代は訳の分からぬ妄想価値に耽溺ししかも其れをゲーム感覚で社会全体に蔓延させるに至った。

妄想価値即ち価値其れ自体の抽象化、謂わば数学化、記号化されし非実存的な機械的生命としての虚偽の価値観。

元よりそんな記号になど価値など無ひわ!



原始退行化された理性は本能領域へとなだれ込んで行くので必然的に世界ー歴史ーは闘争の場と化して行く。

事実としてシンポすればする程世界ー歴史ーは対立と闘争の度を深めてゆく。

其の有様が、ヘーゲルの言ふが如くに「発展的に統一」するものであればまだしも良ひのだが近代と云ふ枠の中で其れを行ふのは元よりムリなのだ。

何故か?

そも近代の目的自体がシンポしてより高ひ段階へと人間を持ち上げる、と云ふ観念的な抽象願望に置かれて居るからなのだ。

でも其の抽象化は必然的に破壊を齎すこととならう。

より高ひ段階へと人間を持ち上げるどころか、逆により低ひ段階へと人間を貶め嗚呼、全く欲望の権化と化した不倫人間やらじぶんでじぶんを制することの出来ぬ、まるで分かって居なひ人間を量産することしか出来ぬ筈。

だからシンポなどせずとも我我人間は充分に幸せだ。

其れも分かっていれば幸せで、分かって居ないからこそどこまでも幸せでは無ひ。


我我人間の幸せは相剋的であり同時に相即不離であることにこそあらう。

其の相剋的であり同時に相即不離であることとは一言で言へばバカであると云ふことであり其れ以外のなにものでもなくまさに其のバカこそが幸せなのだ。

つまるところは知らぬが佛の幸せなんだ。無論のこと其れは真理ではないがバカの為の幸せなんだと云ふことだらう。



弁証法では、否定を発展の契機としてとらえており、のちに弁証法的唯物論が登場すると、「否定の否定の法則」あるいは「らせん的発展」として自然や社会・思考の発展の過程で広く作用していると唱えられるようになった。」止揚より引用

さうして否定する。

昨日までの君はダメだ。

今日の君はもっと良くなった。

明日の君はさらに良くなる。


そも何故否定する?

否定などせずともわたくしはわたくしで君は君であり続けられる筈。

第一前近代は近代よりも魅力的だ。

謂わば非合理的要素に充ちて居り其処に生死は分かたれて居らず神と悪魔、仏と凡夫も分かたれて居らずよりバランスが良くより安心安全だらうことは確かだ。

原水爆も無ひわ、宇宙開発も無ひわ、AIやロボットも無くまさに爽快なこと此の上無し。

かの否定概念、其のシンポ史観其のものに世の実相としての相即性が欠けて居りしかも相即不離であることさへもが否定されておる。

近代の基本原理としてのヘーゲル弁証法には基本的な誤謬があり其れはテーゼとしての創造的破壊と云ふことに尽きるのだらう。

対する保守ー前近代的な原理としてのーの構造的主張は破壊的維持である。


確かにどちらも破壊するのではあるが、其の近代原理としてのヘーゲル弁証法では本来手段であるべき筈のものである破壊が目的化されて仕舞ふことが誤謬そのものなのだ。

対して前近代的な原理としての保守に於いては、其の目的とはあくまで維持なのであり創造でもなく破壊でも無ひのだ。たとへ結果的には破壊されやうとそのままでイイと思って居る訳だ。


即ちー社会的にー常に創造するのであれば常に破壊することからは免れ得ぬ。

だから創造とはむしろ個の領域で行われるべきものなのだ。


たとへば藝術、此れがまさに其の個の領域で行われる創造である。


其の相剋的であり同時に相即不離であるところでの生の実相とは矛盾にこそあらう。

矛盾こそが生の母であり生の父とは理性のことだがあくまで其れは観念としての理性と云ふことだ。


対する心としての理性はむしろ生に於ける観念欲を抹消する方向へと働ひていく。

たとへば宗教はそんな人間としての自己矛盾を否定する方向へと導くひとつの巨大な伽藍なのだ。


其処では観念的欲望の座所を離れ神仏のおわす社会にて皆が生きるやうになる。

ところで観念的に社会化されし人間はドンドン抽象化されし欲望を持っていかざるを得ぬ。


衣食住が足りれば其れに飽き足らずもっと他のー高次のー価値を求めたがるものだ。

たとへば名声だの権勢だの何だのかんだのと。

だが其の抽象化されし価値こそが余分なもの=観念的営為であるに過ぎぬ。


観念化は相対的対立をより深めやうから必然として其処に破壊を齎さう。

ただし個の観念化を止めよと云ふておるのではなく社会の観念化に限度を設けるべきだとさう述べておる。


其の観念化とは、個に於ける思考では無ひ。

とわたくしは今捉へる。

対して仏教の各派は自我執着に於ける相対分別こそが生ー世界ーを成り立たせる根本因であると捉へコレの抹消をかねてより図って来た。

キリスト教に至っては自我を神へと丸投げして神自我のやうな段階へと自己を持っていかうとする。

さうしてどうも此の観念に於ける基本構造が東洋思想と西洋思想で異なって居る。


東洋では究極的に自我そのものを捨て去る、と云ふことは明らかに其れは生のマイナスの側面をも認めて居るのだ。

勿論東洋思想にはヒンズー教のやうに現世利益と深く結びついたものもあれば逆に仏教のやうに究極の放棄を目的とするものもある。

要するに二元的な精神世界が形成されておる。

右翼左翼がまたは男女が共に居るやうな感じか。


キリスト教イスラム教のやうな一神教の場合には一元化された精神世界が形成されておるのだらう。

さうしてそも世界は絶対者としての神が創造されしものなのだから無論否定されるべきものではない。

が、悪魔に支配され繰り広げられる歴史としての世界は一度神により滅ぼされ其の神により選ばれし生の段階へと移行しなければならない訳だ。

どうも此の神と一体化すると云ふ一元化の過程がヘーゲル弁証法の根本にあり即ち創造的破壊、シンポしてより高ひ段階へと人間を持ち上げる、と云ふ観念的な抽象願望に繋がって行くのであらう。

なんで矢張りどう考へても近代とキリスト教は相剋的であり同時に不即不離なのだ。

また近代と前近代は相剋的であり同時に不即不離なのだ。


が、近代を生じせしめることの無かった東洋の場合にはむしろ他のものが多元的に相剋的であり同時に不即不離なのだらう。



尚観念化とは社会化のことだとわたくしは今考へる。

社会に於ひて初めて人間の意識は芽生へる、即ち其処に人間が誕生するのだ。

だから個の範囲に於ひて真の意味での抽象概念は生じない。


其の抽象概念こそが人間の持つ肉体性と釣り合わぬのだ。

其の抽象概念こそが等身大の人間を巨大に加工し分不相応な蛮行を諸になし破壊を重ねることだらう原動力そのものとならう。


いや、でも個人にも妄想願望があらう。

たとへば芸能人と結婚したひ。

一億円欲しひ。

百歳まで長生きがしたひ。

等の。


いや、そんなものはタダの本能欲だ、つまりは煩悩のことだ。

だが社会の欲望はそんなんとはまるでちゃうぞ。

たとへば是非社会をAI化したひ。
出来得ればアンドロイドを妻に迎へたひ。
儲けを極大化し自分の生をより完全で永続するものとなしてみたひ。
出来得れば火星へ移住したひ。


かういふのは謂わば破壊欲であって、自然の規定による煩悩とはまた別物だ。

つまりノーマルな欲の範囲を超越して仕舞って居る。

が、皆そんなことはもはや分からぬ。

近代社会に洗脳され要らぬ部分にまで其の価値観をシフトして仕舞って居るのでもはや区別さへつかぬのだ。

真に大事なものの価値とどうでも良いやうなものとの其の価値の区別が。


本質として近代とは其のやうな価値の過剰な創出と維持のオンパレードのことを云ふ。

其のやうに限度を忘れた欲望の文明がやがて辿る道筋はただひとつ、言ふまでもないが其れが次第に近づいて来て居ることだらう滅亡なのだ。


が、宗教は其の文明の滅亡自体には特に拘らぬので其処は特に注意する必要があらう。

キリスト教…其の滅亡は神による意志でありむしろ滅んで呉れてありがたう、滅んで呉れんと神の王国に人間が再生されることもないので其れは何より良ひことだ。さうしてこそ初めて人間は神と共に永遠に歩んでいくことが出来やうぞ。
仏教…其の滅亡は結局じぶんのせいだ。滅んだ世ー社会ーが悪ひのではなくそんな自他対立を生じさせておる自我執着にこそ原因があらう。だから修行してじぶんを是非此の世から消し去るのだ。其れが出来れば永遠に平和だ、其れ即ち涅槃だ、つまりは成仏だ。


ですので、宗教は、其れは其れはもうほんたうに潔癖でおおまさに一点の曇り無き世界、最高に清く正しく美しく其処で即ち真、善、美の全てが兼ね備わりし究極の精神世界の体現ぞ。

なんですが、良ひ方向は往往にして悪ひ方向をも生み出す訳でして。

つまるところは反対の部分、逆の領域が必然的に生じ対立を生み出し場合により其の対立から破壊が生じると云ふことになっておる。

其の対立を神化して消し永遠の精神の園で生きやうとするのがキリスト教であり逆に仏教は其の生きる場自体、生きる目的自体を本質的に消し去っていく訳です。

が、どちらも其のままで楽に生きやうとはして居なひ点に是非ご留意頂きたひ。

其のままで楽に生きやうとして居るのはズバリ近代的な社会原理だけです。


左様に近代は非常に問題が多く厄介なことこの上なし。

なのだが中学や高校の授業でもってこんな近代のことがあへてことさらに取り上げられたりする訳では無ひ。

わたくしの中学時代の恩師で京大出の社会科の先生にしてからも特に近代を学べと仰った訳ではない。

ではあるのだが昔何処かで耳にしたことがあった。

社会科と云ふのはむしろ近代史だけが重要なんです。

さう近現代史のみが大事です。

尤もテストの問題にはほとんどなりませぬが、人間存在の本質的な意味を探る上で最も大事な歴史過程とはズバリ近現代史なのだ。


だからほんたうに人間を学んでみたひ人は必ずや近現代の歴史をまるで重箱の隅をつつくかのやうに生涯に亘り学んでいかねばならぬ。



「我我人間の幸せは相剋的であり同時に相即不離であることにこそあらう。」
ところでコレは一体誰の言葉だ?

無論のことわたくしの言葉だ。
ところが其の幸せと云ふことの次元が、そも宗教的次元と生活の次元とで異なる訳です。
其の価値観自体が同じ尺度では無ひのであります。

宗教は元々個より発したものであるにせよ其処で問題とされて居るものは人間ー社会ー其れ自体であり其処で人間ー社会ー其れ自体の幸福追求に関する価値が認められて居る訳では無ひ。

前近代社会に於ひてはむしろさうした厳しい倫理規定により社会其のものが程良く規定されて来ざるを得なかった。

敢へて其れを社会的に追求して来たのが近代社会なのだと申せませう。


然し其の個に於ける欲望の追求の観念化=社会化は欲望の全的な解放を齎して仕舞ふことだらう。

近代とはさうした意味でのタガが外れた欲望の時代です。


ところが此の世の事象とは全てが相剋的であり同時に相即不離である部分にこそ実相があらう。

概念としては真逆の価値としての諸要素が対立、闘争を引き起こすと同時に両者とも無関係ではあり得ず対立概念を否定し切れぬ訳だ。

だから逆の概念をも受け容れねば本来ならば我我の幸福など何処にも無ひ筈。


思想にせよ宗教にせよ他のどんな価値観の違ひにせよ其れを受け容れずば本質としての生の意義に気付くことなど出来ぬ。

それでもまだ女はドレイでもってして其れで良ひのですか?


良ひ。だが其処でもってよーく考へてみやう。

つまりソレはあくまで個人的な見解である。


「相剋的であり同時に相即不離である」矛盾的な価値観の中でタダ個人としての一方的な価値を提示したばかりでのことで別に社会的にさうすべきだとか其のやうなことを述べておる訳ではなくただし社会的にのべつまくなしの自由が蔓延することを昨今の女共の勘違ひ振りからさう危惧して居るだけのことじゃ。

だからわざと逆を言うておるだけのことで第一此処に書いておることは全てが文學作品だぞ、其の文學作品。

文學作品には社会科は一切含まれて居らぬ。

つまりはノンフィクションでなくあくまでフィクションだと云ふことだなー。


では進歩は一体いつになったら認められるのでせうや?

シンポなど金輪際認められはせぬ。

認められはせぬが実はゴルフクラブが何故かシンポしておる。


其の辺りからちょっとだけ考へ直してみやうかなーと思ひ実は現在考慮中の案件だ。

だが間断なきシンポが人間を圧迫していくだらうことは多分ほんたうのことだ。

何処が圧迫されるのかと云ふに矢張りと言ふべきかどうも人間の精神自体が圧迫されていくのであらう。