目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

マルクス・ガブリエルの思想(重要)と世相を語るー弐 カントの批判哲學とガブリエル氏の哲學の続きー

さて其の獣性に対する理性ー悟性ーの優位性とは何か?

 

理性とは抑制であり分限の自覚である。

分限の自覚即ち「目覚める」ことだ。

 

わたくしは「目覚める」為に此の場を創った。

まさに此処はそんなわたくしの創造物なのだ。

 

おまへは神か?

 

いや、さうではなく、あくまで其れは藝術としての創造物なのだ。

 

「目覚める」為には理性への接近が不可欠となる。

 

何故か?

 

動物は「目覚めぬ」侭に肉体的分離の世界で日々闘争を繰り広げて来て居る。

 

然し其処に問題が生じて居る訳では元より無ひ。

 

謂はば其れは分離しながらも均衡を保つ。

やがては劣化するー所謂エントロピーの法則にてーにせよバランス良く滅びて行かう。

 

然し人間は二重に分離されて居る。

肉体と観念の二重の分離に常に晒されて居る。

 

まずは其処がわたくしの認識なのだ。

 

 

其の抽象性による分離がやがて暴れ出すと肉体側即ち具象性の側が損傷を受け即ち破壊されやう。

 

人間の歴史過程とは其の破壊の歴史でありよもや創造なのでは無くましてや進歩なのでも無ひ。

 

ズバリ其れは破壊であり自己矛盾領域の完遂なのだ。

 

 

であるからこそ其処で理性が求められて居る。

 

カントは其の理性こそが全てだとさう其の批判哲學の中で述べ切って居たのだった。

 

理性こそが全てだとさう述べる為には逆に理性の限界を指し示して置かねばならぬことだらう。

 

 

其処でもってカントは神ー佛ーは認識出来ぬとさう述べた。

 

其れは物自体ー實在的認識ーなのであるからこそ其れを理性が認識することなど不可能な訳だ。

 

さて、まさにさうして人間の認識には限界があり其れは限定的認識であり分離された自我=二元的自我なのだ。

 

カントの認識論には左様に二元分離、二元分裂の世界観が結果的に拡がる。

 

重要なことはまた其れがかってわたくしが直観した内容に等しかったことだ。

 

 

其の理性もまた二元的に分離して居ることだらう。

謂はば包括的な理性と還元的な理性とに分かれる訳だ。

 

包括的な理性は全体論を形成するが還元的な理性は分析的に部分論を形成する。

 

また其の包括的な理性もさらに宗教的自我と人文による自我とに分かたれて居やう。

 

其のやうにわたくしの認識論は二元論に終始する。

 

二元論にて世界の成り立ちを捉へ二元論にて問題解決の糸口を得やうとして居る訳だ。

 

 

宗教的自我と人文による自我との対立に就ひてはしかしながら包括的な理性と還元的な理性との対立以上に矛盾するものでは無ひ。

宗教的自我と人文による自我との関係は常に相剋し且つ相即する関係が成り立ちある意味では其れは密接に絡み合って居やう。

 

包括的な理性と還元的な理性の関係もまた相剋し且つ相即する関係が成り立たうが、其処で社会的なスケールがより大きくなる分対立関係による矛盾はさらに酷くもならう。

 

イマヌエル・カントの三批判書はしばしばカント哲学といわれる。これはすでにドイツ観念論の時代にもそうであった。しかしカントは自身の「批判」 を「哲学」とはみなさなかった。「批判」とは哲学の予備学として、人間理性によって遂行される限りでの哲学の前提としての理性: Vernunft)の性格を示すものである。カントはそれまでの哲学、すなわち形而上学を、人間理性の性格を踏まえない空虚な体系、「独断論のまどろみ」であると批判した。そして人間の認識のあり方とその前提としての超越論的認識を問い、また、そのような前提をもつ人間理性の対象となりうるものは何であるかについての考究に向かった。この理性の法廷での審査が批判(: Kritik)である。批判を通じて、伝統的な哲学の対象であった存在(: Sein)や神(: Gott)は、認識理性によっては認識(: erkennen)されえず、ただ思惟(: denken)することのみが可能なものとされた。そしてカントにとって形而上学たる哲学(: Philosophie)は批判の上にのみ書かれうるものであった。

一方ドイツ観念論の代表的な思索家たちは、再び神と存在を直接のかつ究極の対象として取り上げた。人間の知としての哲学の真正の対象は神的なもの、あるいは端的に神であると宣言した彼らは、それぞれの思想が、かつそれのみが真正な哲学であるとの自負にたった。この自覚を共有するのがドイツ観念論だとすれば、カントはドイツ観念論の思想家とは一線を画すといわねばならないだろう。カントの著作を「哲学」として受容したヤコービラインホルトフィヒテシェリングらの若い世代は、カントの理論に潜む理性の二重性と分裂を、自らの哲学によって超え、統一をもたらそうとした。いいかえれば、カントが物自体: Ding an sich)と認識: Erkenntnis)あるいは人間理性の間においた断絶をふたたび統一にもたらそうとする運動が、ドイツ観念論だったのである。そのような統一を与えるのが、自己意識すなわち自我: das Ich)であり、さらにそのような意識を可能にする根拠でありかつ意識の究極の対象である絶対者ないし神である。ところでこの思想は、しばしば先鋭化して伝統宗教のもつ神概念と対立し、またカントが否定した神の認識可能性を再び主張することになる。一方カントは、学者の言説には自由な言論が認められるべきだが、社会の安定のためにはそのような言説を控える事はやむをえない場合があるとも考えていた。皮肉な事に、カント自身によって刺激されたドイツ観念論の急進性は、カントの穏健さとは相容れないものだった。ドイツ観念論の初期の展開はカントの最晩年に当たるが、カントは陽にフィヒテらを批判した。またドイツ観念論の思想家たちも、カントの二世界論を不徹底なものと言明し、カントを超えることを標榜した。しかしカントが1804年に亡くなったとき、カントの思想の限界を指摘してやまなかったドイツ観念論の思想家たちは、一様にドイツの思想を革新したこの巨人の死を悼んだのである。 ードイツ観念論 #カントからドイツ観念論へより

 

マルクス・ガブリエル氏による新実在論を理解して行く前にまずはカントによる批判哲學をまずは理解せねばならぬことだらう。

かって旧制高校生や大學生などのインテリはデカンショ、又はデッカンショでデカルトだのカントだのショーペンハウアーなどを読み其れを理解することこそが一種の知性のステヒタスでさへもがあった。

 

かってはこんなおバカな時代では無かったが故にインテリは皆勉學に打ち込んで居た訳だ。

其れが最近は特に其のインテリ学生が特におバカ化して居り、故に良ひ大學を出て居るにも関はらず決まって其の思考力は昔の小学生ー尋常小學校ー並みだ。

 

もうそんなおバカ共は此の世から消へよ!

たった今より猛勉強を開始するぞ!!

 

さてもどの位御勉強致しますのですか?

まずは壱週間休暇を取り不眠不休にて御勉強だ。

 

其れも数学や理科は断じてやるな。

太宰と佛教書若しくは聖書とカントにつき其の御勉強を進められたし。

 

いや太宰に限らず漱石でも安吾でも何でも良ひ。

但し最近の作家の文は石原 慎太郎先生と五木 寛之先生のもの以外は読むな。

 

倉本 聰氏や畑 正憲氏のものも読むなと?

いやアレラは読んでも良ひが主に戦前の作家の文に是非触れて頂きたひものだ。

 

なんとなれば格調が違ふぞよ、対して戦後の作家の文などにはまるで格調と云ふものが感じられぬ。

 

ではたとへば三島 由紀夫や川端 康成もOKなのですか?

無論のことOKだ。

 

だが戦後のアホ作家の文などは決して読むでなひ。

 

 

ああー、辛ひ。

もう目が痛ひ。

其れに眠たひ。

 

遊びたひ。

ゲームがやりたひ。

其れにSNSがやりたひ。

 

 

馬鹿者!!!

 

おまへはタダのうんこたれか?

 

おまへは人間の理性の其の崇高さ、理性としての其の格調の高さ、ああーもうクラクラと眩暈がするやうな其の気高さ、真摯さ、まさに命がけの理性的闘争の様、其のやうな人間としての理性の決意をまるで知らずにこれまで生きてきたな、このおたんこなすめが。

 

おまへはもはや一匹の獣となり果てたのか?

 

釈迦やキリストがまた先哲がさうして築き上げて来し理性としての闘ひの世界を全的に放棄しゲームに、さうしてSNSにうつつを抜かし自らおバカ化し獣となり欲望の野っ原を突き進みおおまさに今肥溜めに落ちやうとして居ることに何故気付かぬのだ。

 

 

 

ビシッ、バシッ。

 

あ、痛へ。

 

何だコレは?

 

ボクに対し振り下ろされる此の鞭とは何だ?

 

 

コレゾ教育の鞭だー。

無知に対する鞭だー。

 

キャア―、先生、怖ーひ、やめれ痛-ひ。

コレゾアノ軍國主義教育の復活なのか?

 

かやうに教育とは是非鞭打ちの刑であるべきだ。

 

 

ところで観念論の説明は一体何処へ飛んで居るのだ?

其れはどうも失礼致しました。

 

つひ昔の教育のことを思ひ出して居りました。

でも鞭は使った覚へが御座りません。

 

金属製にて伸び縮みする指示棒の方は持って居たやうに記憶しても居りますが。

 

 

思ひ出に浸らずに早う観念論の説明をせよ。

でなひと引用部と話が離れ過ぎて仕舞ふぞよ。

 

 

仕舞った!

さうであった。

 

まさにコレでは説明のしやうが無ひ。

困ったなあ。

 

 

ではいま一度引用してみやう。

 

イマヌエル・カントの三批判書はしばしばカント哲学といわれる。これはすでにドイツ観念論の時代にもそうであった。しかしカントは自身の「批判」 を「哲学」とはみなさなかった。「批判」とは哲学の予備学として、人間理性によって遂行される限りでの哲学の前提としての理性: Vernunft)の性格を示すものである。カントはそれまでの哲学、すなわち形而上学を、人間理性の性格を踏まえない空虚な体系、「独断論のまどろみ」であると批判した。そして人間の認識のあり方とその前提としての超越論的認識を問い、また、そのような前提をもつ人間理性の対象となりうるものは何であるかについての考究に向かった。この理性の法廷での審査が批判(: Kritik)である。批判を通じて、伝統的な哲学の対象であった存在(: Sein)や神(: Gott)は、認識理性によっては認識(: erkennen)されえず、ただ思惟(: denken)することのみが可能なものとされた。そしてカントにとって形而上学たる哲学(: Philosophie)は批判の上にのみ書かれうるものであった。

一方ドイツ観念論の代表的な思索家たちは、再び神と存在を直接のかつ究極の対象として取り上げた。人間の知としての哲学の真正の対象は神的なもの、あるいは端的に神であると宣言した彼らは、それぞれの思想が、かつそれのみが真正な哲学であるとの自負にたった。この自覚を共有するのがドイツ観念論だとすれば、カントはドイツ観念論の思想家とは一線を画すといわねばならないだろう。カントの著作を「哲学」として受容したヤコービラインホルトフィヒテシェリングらの若い世代は、カントの理論に潜む理性の二重性と分裂を、自らの哲学によって超え、統一をもたらそうとした。いいかえれば、カントが物自体: Ding an sich)と認識: Erkenntnis)あるいは人間理性の間においた断絶をふたたび統一にもたらそうとする運動が、ドイツ観念論だったのである。そのような統一を与えるのが、自己意識すなわち自我: das Ich)であり、さらにそのような意識を可能にする根拠でありかつ意識の究極の対象である絶対者ないし神である。ところでこの思想は、しばしば先鋭化して伝統宗教のもつ神概念と対立し、またカントが否定した神の認識可能性を再び主張することになる。一方カントは、学者の言説には自由な言論が認められるべきだが、社会の安定のためにはそのような言説を控える事はやむをえない場合があるとも考えていた。皮肉な事に、カント自身によって刺激されたドイツ観念論の急進性は、カントの穏健さとは相容れないものだった。ドイツ観念論の初期の展開はカントの最晩年に当たるが、カントは陽にフィヒテらを批判した。またドイツ観念論の思想家たちも、カントの二世界論を不徹底なものと言明し、カントを超えることを標榜した。しかしカントが1804年に亡くなったとき、カントの思想の限界を指摘してやまなかったドイツ観念論の思想家たちは、一様にドイツの思想を革新したこの巨人の死を悼んだのである。 ードイツ観念論 #カントからドイツ観念論へより

 

 

其のやうにカントは理性の限界を指し示し神(佛)の領域の認識の不可能性を述べた。

故にカントの認識論こそは二元論なのだ。

 

不可知である神(佛)と理性による可知としての認識の領域とはさうして矛盾的に対立する。

 

尤もわたくしの認識論はあくまでカント的なもので實は観念論的に統合的なものなのでは無ひ。

されど観念論にもまたカントの血統は流れ込んで居ることだらう。

 

 

ー合理主義的なidealistらは、人間の知性をの無限の知性に結び付けて説明し、世界を認識する知性に限界はない、と見なした。 それに対してカントは、そのような合理化には限界があると述べ、決定されないものが残るとし、それが実在する、という実在論を展開した。外界の諸現象は、カントの場合でも現象でしかないのだが、神の知性という上部構造は採用せず、人間知性には限界がある、と考えたのである[5]。神という絶対的なものの援護を失った我々の認識ではとらえられない諸現象の根拠を「物自体」と呼んだ。この物自体は、実在するが、経験の内容にはなりえない、とされ、人間の認識の限界を指し示すことになった[5]。カントによる人間理性の限界の画定によって啓蒙時代が終わりを告げることになったという[5]。ー観念論 #カントより

 

 

わたくしの認識論はそも「限定」の立場を取るが故に其の合理化を部分的にしか認めて居なひ。

其処はまさしくカント的なものであるのだと言へやう。

 

其の「物自体」に関しては、わたくしの場合は其処にむしろ神(佛)と云ふ完全なる理性を設定して居る。

無論のこと其れは理性との対概念である以上實在するがあくまで「實在する」と云ふ概念に過ぎぬのであるから其れを確かめる手段は無ひとさう捉へて居る。

 

 

絶対的理性ー神(佛)の理性ー⇔相対的理性ー人間の理性ー

 

神(佛)の理性は不可知ではあるのだけれど人間の理性とは常に相剋し且つ相即するのであるから無関係なのでは無ひ。

 

絶対的理性ー神(佛)の理性の二元分離、二元的な分裂が認識としての人間の抽象的世界を生んで居るー生じせしめて居るーのだとさう直観する。

 

 

但しそも分離、分裂して居る訳なので絶対的理性の大元の部分は不可視であり不可知である。

 

要するに神(佛)を直接的に把握することは信仰によるものでしかあり得ぬ。

 

平たく言へば「信ずる」以外に神(佛)は人間の内面に生まれることが無ひ。

 

なんだけれども信じる以前にすでに神(佛)は實在して居る。

 

其れはまさに我我の認識が不完全で且つ倒錯して居るからなのだ。

 

其の物自体は實在するが物自体以外の認識の対象は實在しては居なひ。

 

 

物自体{神(佛)}⇔認識(人間による理性)

 

と云ふ二元論なので神(佛)には認識がそも無ひ。

謂はば其れは認識が無ひと云ふ理性なのでむしろ限りなく認識して居る訳だ。

 

また現象して居なひので實在して居る。

 

即ち、

 

現象⇔實在

限定⇔非限定=∞

 

との考へ方を取る。

 

 

もっと分かり易く言へば∞である絶対的存在が分離、又は分解した形で現象ー限定ーして居るのが人間の理性である。

なので人間の理性で世界ー宇宙ーの實相を知ることなどは無理だ。

 

無理なのだが、絶対的實在と相剋し且つ相即する限りに於ひて人間は理性を活性化するー目覚めるーことにより其の絶対的理性に触れ得ることが可能だ。

 

さうして正体は分からぬが何とか触れることが出来た。

 

そんな感じであらうか。

 

 

カントの認識論を述べて居るのか、其れともわたくしの認識論を述べて居るのかソコが良く分らなくなって来たが兎に角わたくしの認識論はカントのものに近ひものだとさうも言へやう。

 

神の知性という上部構造即ち価値ヒエラルキーの設定に関しては、

 

現象⇔實在

限定⇔非限定=∞

 

なのであるから、兎に角其処に相剋し且つ相即する関係が成り立つ。

 

で、其れを低次元化するとかうなる。

 

 

👩⇔👨

馬鹿⇔利口

 

で、一体どっちがより偉ひのか、と云ふ命題である。

コレ、實は其の時々による選択の問題であり価値ヒエラルキーの設定の問題には非ず。

 

東大出⇔京大出

で、一体どっちがより偉ひのか、と云ふ命題である。

コレ、實は其の時々による選択の問題であり価値ヒエラルキーの設定の問題には非ず。

 

早稲田大出⇔バカ大出

大卒⇔高卒

大学院卒⇔小卒

 

普通は上位の価値ヒエラルキーの方が偉ひ訳だが現實的にはバカ大出でもまた高卒でもまた小卒でもいや其ればかりか幼稚園児でもアンタの認識より鋭く且つ仕事が出来る場合が必ずやあらう筈だ。

 

ルンペンさん⇔知識人

 

第一知識人の方が絶対にルンペンさんより偉ひなどとは言へぬぞよ。

 

だからほんたうにインテリを名乗る、即ちボクは知性派ですよとさう仰りたひのならば此の辺の位のことまではとりあへず考へておけよ。

 

此の辺りのことまでちゃんと考へてるのか、東大、京大、早大の奴等は。

 

まさか考へてなひだらう。

 

 

またおまへは東大、京大、早大をバカにしたな!

 

金輪際してません。

 

かやうに皆さんを尊敬して居ます。

 

でも余りおふざけが過ぎるとアカデミズムもまた敵に回すぞ。

 

 

さうでは無ひ。

ボクは昔最初は京大へ行きたかった。

 

でも理数系がほとんど零点だったので早稲田を目指して居ました。

 

おまへは地元の南山大も落ちたのに早稲田へ行かうとして居たのか!

 

さうなんです。

 

實は英語がまるで出来ず特に文法の方がまるでダメで其処は往生コキました。

 

でも世界史と現代國語だけは出来たのですよ。

 

 

さうか、其れは其れは災難だったな。

 

ところでガブリエル氏は語学の天才で複数の言語を操れるのださうだ。

 

でもわたしゃあ英語は分かりません。

 

尤も分かりませんが海外とは頻繁に万年筆の取引などをして居ました。

 

どんな英語でやって居たのだ?

 

Are you happy now?

 

ーKimiwa ima sahiko desuka?ー

 

などと云ふ調子でやって居りました。

 

 

 

科学は民衆のアヘンである。-ガブリエル氏-

全ての構造はローカルなもの。-ガブリエル氏-

 

自然科学⇔人文科学

近代的価値⇔前近代的価値

 

あらゆる価値ー概念ーがさうして二元分離致します。

自然科学に寄り過ぎた世界観は誤りでありバランスを崩す元です。

 

近代と云ふ時代の価値其れ自体が伝統的価値とさうして相剋し且つ相即する関係を成り立たせて居る。

 

もっと根本のところで言へば、

 

大脳新皮質⇔大脳旧皮質

即ち、抽象的思考領域⇔具象的感覚領域

 

の二元対立に於ひても其の相剋し且つ相即する関係が成り立つ。

 

 

いやー話が難しくなって来たな。

だからもう出て来るな。

思考の邪魔をするな。

 

ギャグの方に気を取られもし間違ったこと言ったらどうするのだ?

 

 

其のローカルな構造、まさに其れこそが新実在論としての鍵の部分なのやもしれません。

さうして個別の「もの」が重なり合ふ網のやうなものが現實なのだとガブリエル氏は仰る。

 

でもコレ、何となく分かりませんですか?

どうも其れが近代の拡張主義の対概念であるやうにも思はれてならぬ。

 

戦後日本國は総じて壱等國とならうとかうして日々頑張って来た。

でも逆に取れば其れは近代的な拡張主義に洗脳された状態なのでもまたあらう。

 

近代的な拡張主義は現世利益主義でもまたある訳だ。

其れは休むことなく膨張し続け、まさに無限に消費し無限に発展しやうとして居るものだ。

 

でもそんなのは神の領域の話でせう。

いや神の価値観などでは断じて無ひ。

また佛の価値観にも非ず。

 

 

だから其の壱等國を目指すことこそがそもそも間違ってます。

 

何故弐番ではイケナヒのか?

またドベではイケナヒのだらう?

 

だから其の弐番やドベを許容するのが眞の意味での理性と云ふものだ。

 

またぞろ元教師の共産主義平等思想ですか?

 

いやさうでは無ひ。

 

共産化などせずとも元々世界は平等なのだ。

 

では佛教思想ですか?

 

いやさうでは無ひ。

 

佛教思想化せずとも元々世界は平等なのだ。

 

おそらくは質的な理性の性質の違ひによる対立の均衡を図ると云ふ意味に於ひて平等なのだ。

 

 

またより大きな抽象的概念が現實を規定するのでは無く個としての具象的現象が現實を規定すべきだ。

 

さうはなって居なひとさう仰るので?

 

 

まさに其処がさうはなって居なひとガブリエル氏も我もさう申して居るのであります。

 

事實として現代文明が推し進めて居るのは抽象的に規定される進歩思想其のものです。

 

ですが其れが妄想であり虚的な推進であるが故に具象的に与へられた現實ー神の恩寵としての現實、かって佛が示された實相ーと乖離して仕舞って居る。

 

其の乖離が示すものこそが破壊であり破滅への道なのだとさう申して来て居る。

 

 

其れも何度も何度もかうして口を酸っぱくしつつ言って来たことでせう。

 

もうエエ加減にしなされ。

さうして教科書の下に隠したエロ本を読むのを止めちゃんと勉強しなさひ!!!!!!!!!!!

 

先生、分かりました。

でも政府も軍隊も資本主義も皆大馬鹿ですのでもはや何ともならぬやうです。

 

 

ですが君だけは違ふ道を歩むべきだ。

此の世はね、正直もう半分位は壊れかかってます。

 

まさにパンデミックが其の近代的な価値観の崩壊を引き起こしつつある。

 

ーイメージを結び付ける場こそが対象であるー-ガブリエル氏-

ー対象とはイメージ(意味の場)を結び付ける力であるー-ガブリエル氏-

ー世界と云ふ實在は存在しないー-ガブリエル氏-

 

ー現在は未来の予想ともまた過去の記憶とも結び付けられて居ないー-ガブリエル氏-

 

 

以上の如くに可成に唯識的な発想と申しますか観念論的な発想を氏はお持ちなのだと思ふ。

また一面では其れはカントによる認識論の世界にも関はって居ることでせう。

 

大枠で申しますと、認識即ち考へ(方)が此の世界を仮に成立させて居り其れは個別としてのローカルな構造の集積でありまさに其れは近代としての全体主義のやうなものとはまるで異なるものだ。

 

かうして観念的に全ては組み上がる訳なので抽象的に規定される現在はあったにせよ其れが未来の予想や過去の記憶と必ずしも繋がって居るものでは無ひ。

逆に言へばまさに観念的に今が組み上がる訳だが實は其の今こそが具象的現實の積み重なりなのだ。

 

 

ー我我は変化する複雑なプロセスー-ガブリエル氏-

ー我我は個としては存在して居ないー-ガブリエル氏-

ー意味の場としてのリアルな関係性は実在する

我我は其の一部で現實の外側に現實は無いー-ガブリエル氏-

 

 

まさに諸行無常ー諸行非常ーで複雑なプロセスとしての「変化」があるばかりで固定的な近代と云ふ価値観は其処に永続しなひことでせう。

いやそれどころか今や其れが崩壊しかかって居ます。

 

ですがガブリエル氏の思考の場合はわたくしから見る限りに於ひては決して悲観的なものでは無ひ。

まさに其れが「意味の場としてのリアルな関係性」を重視しつつ生きると云ふことなのではなひか。

 

 

わたくしの捉へ方からすると先に述べた如くに近代とは抽象的に齎された拡張主義だった。

まさに其れは人間の可能性への挑戦であり抽象的に規定される欲望の追求其のものであった訳だ。

 

だが「観念」=思考には二種の働きがあるとさう思ふ。

最終的に其れは正と負の関係に還元され得る筈だ。

 

其の正と負の関係性をこそ重視して行くべきなのではなひか。

 

正ばかり見詰めて居ればやがて志ー精神ーを失ひ、逆に負ばかりを見詰めて居れば心が貧しくもならう。

 

其の正負の対概念にもまた相剋し且つ相即する関係が成り立つ筈だ。

 

 

だから本来ならば人間はー文明はー其の双方を常に見詰めバランスを取って行かねばならなかった。

 

さうして欲望を見詰めると同時に欲望を限定する方向をも見詰めて行くべきであった。

 

しかしながら欲望を制御すること程難しひものはまた無ひ。

 

 

「人間の可能性への挑戦」

 

人間の可能性への挑戦もまた正負の側面があるものとさう考へられやう。

 

また其の正と負も何に対して正であり負なのかと云ふ点に於ひて価値は固定され得なひ。

 

かくして現實の全ては抽象的な選択の結果なので、正反対の領域へも容易にシフトされ得る。

 

 

具象的に与へられし分離ー肉体性=物質性ーには制御不可能な罪や煩悩などが生ずるべくも無ひ。

 

だが抽象的に与へられし分離ー観念性=精神性ーには制御不可能な罪や煩悩などが生じざるを得なひ。

 

では観念性を離れよとさう仰るので?

 

確かに其れもひとつの手段だ。

禅宗はまさに其れを目指すー

 

だがわたくしが論ずるのは其の宗教では無く人文科学としての智恵なのだ。

 

よって、

 

宗教⇔人文科学

宗教⇔自然科学

 

ともなり得るのだ。

 

即ち理性を信じ過ぎると眞理からは隔てられるのだとさうも言へなくは無ひ。

 

 

でも、

 

人文科学⇔自然科学

 

なのでもまたある。

 

人文科学は考へることが出来やうが自然科学はむしろ思考が苦手である。

 

其の思考は功利的に齎されるものでは無く文學や哲學のやうに役立たずでもって居ることこそがむしろ一番の価値なのだ。

 

 

何せ家が貧乏だったので将来金儲けをさせたひのですが理系へ行くべきですかね?

ー生徒さんの親よりの相談内容 壱ー

 

金儲けをしたひのなら勿論理系でせう。

 

其れもSTAP細胞だのIPS細胞だのをつくれば大儲けが出来ますぜ。

 

他にも戦闘ロボットだの第六世代の無人戦闘機だの何でも創れませう。

 

其れに超意識體のAIを創り其れでもって人類を支配することさへもが可能だ。

 

 

此の子を清ひ心根を持つ良ひ子に育てたひ。

ー生徒さんの親よりの相談内容 弐ー

 

文學部か又は哲學科乃至は宗教学科へ行かせ其の心をば確りと磨きませう。

または法學部へ行き革命を目指すか、です。

 

でも金は儲かりませんよ。

また就職口も無ひですよ。

 

特に左翼大學の法學部卒は危なひですよ。

もう何処の企業も採っては呉れません。

 

 

さうだ、此の子をむしろ教祖様に仕立て上げお布施の方でもって儲けて行けば良ひのではなからうか。

 

でもこれからの世の中はお布施なんぞも期待出来ぬのだらうなあ。

 

坊さんも教会も此れからは大変だな。

 

 

では文學部ですか、ズバリ文學部なのか?

 

ズバリ文學部です。

 

其処でもって芥川や三島の自決、太宰の心中などにつき是非學んでおきませう。

 

其れでもって此の子はどうなりませうや?

 

さあね、どうなるのかはまるで分かりません。

きっとブログでもって文學の讃美とかやり過ぎて頭がおかしくなりやがては鉄道にでも飛び込むのかもしれませんよ。

 

うはあああああ。

 

エへへへへへへへ。

 

いや眞面目な話、文學は素晴らしひ。

第一コロナ苦と太宰や芥川の苦とでは一体どちらがより苦しひのでせうか?

 

むしろ太宰や芥川の苦の方がずっと苦しひではありませぬか。

 

左様に文學は我我の心に安らぎをさへ与へて下さります。

 

でも数学だの理科だのは我我の心に競争だの進歩だのそんなものばかりを要求し元々其処には安らぎもクソも無ひ訳だ。

 

だから合理化なんてイヤなんだよ。

 

原発反対!

科学反対!

進歩反対!

 

合理主義反対!!

 

儲け主義ー功利主義ー反対!!!

 

消費資本主義反対!

🐊ー麻生氏ー反対!

 

女性管理職反対!!

 

数学と理科反対!!

 

英語に反対!!!(?)