人間の生、社會のあり方とはつまるところ理性のあり方の問題であり其れ即ち理性の自己矛盾を如何に克服して行くかと云う課題である。
理性つまりは其の抽象的認識作用が其の侭では自己矛盾に陥るからまさに其処をどう解決に導くかと云うことに就きて居る。
何でかと申しますと人間とは所謂ニュータイプであり獣では無いからなのだ。
あくまで理性としての段階ではまさにさうである。
さて🐵と人間は違うが實は良く似て居る。
實はほとんど同じである。
違うのは人間が抽象的価値ばかりに生きて居ることに対したとえば🐵共は便所を造らず便を垂れ流して居ることである。
其の行為を逆に偉いと見るべきなのだらうか。
個人的には偉いと見るべき視点も是非担保しておくべきなのだと思う。
然し其の折角のニュータイプが余りにも獣臭い。
むしろ🐵の方が常に慎み深くして謙虚なのではなからうか。
さう彼等はさうして自然に対し謙虚である。
其の自然に対して謙虚ではあり得なくなるのが進歩の過程である。ー進歩⇔自然ー
進歩の過程には具象的進歩と抽象的進歩とがあらうが今我我が居るのは無論のこと抽象的進歩の段階であらう。
其の抽象的進歩をやり続けるのは我我の脳がいつの間にかさうなって居るからなのだ。
我我の欲望はいつしかさうして酷く抽象化されて来て仕舞った。
其の抽象化こそがまさに理性としての欲望である訳だ。
何故なら🐵共はそんな抽象度の高い欲望に苛まれて居る訳では無い。
さうして木の實を喰らいメスを追っかけ喧嘩しさうかうするうちに日が暮れて其の繰り返しにて一生を終える。
要するに彼等は理性的に生きて居る訳では無いのだが其処にて充分に其の欲望は満足され得るつまりは幸せなのであらう。
なのだが今我我はかうしてとんでも無いことに巻き込まれいやまた今後は余計にトンデモナイことに巻き込まれて行かざるを得ない。
さても一体何でこんなに不幸なのだ?
おそらく其れは其の理性其れ自体に何か問題があるからなのであらう。
ー人間の理性や知性は間違いを犯しやすいとカントはいい、一見理性は信用できるけど、本当は・・・と、理性批判を行う。
理性批判とは、仮象批判であり、仮象とは、主観であり、客観的でないものである。
さて絶対的に考えられている理性をどのように批判するかだが、理性の自己矛盾を証明すればいいとカントは言う。ー「カント哲学」より
なる程、至極良く分かりました。
要するに一見理性は信用出来るやうで居て實は信頼に足るやうなものでは無いと云うことですね。
其れはまた理性に基づき造られた文明世界が同様に信頼に足るやうなものでは無いと云うことでもある。
なんですが、まさに其れを言うてはお仕舞いな訳です。
だから其のことはかのカントみたく利口な人間には最初から分かって居ることだが何せ其れを言うてはお仕舞いなので信じてるフリをしつつ文明をやって行きませうと云うことではなかったかと想われる。
かうして眞に利口な奴は兎に角悲観的と申しますかむしろ何をも信じては居ない訳だ。
でもあえて其処を信じなければ人間などとてもやってられませんので其処で信じたか又は信じたフリをしつつやって行かねばならぬ訳だ。
ーこのように、世界は極限を考えると、量の概念が破綻し、「世界は大きさをもたない」ということがわかる。もっというなら、ぼくたちが考えている世界は「存在しない」ということになる。
カントのこのような考え方は、「法廷モデル」といわれる。これは、A と Bという対立軸がある際に、そうした対立を超えた第三者の立場を築く考え方である。
「法廷モデル」は、「弁証法」と似ているところがあるが、「弁証法」とは、対立や矛盾を 通して、その統一により一層高いレベルへと展開していく考え方である。
また、「カント哲学」は、「コペルニクス的転回」とも似ている。「コペルニクス的転回」 とは、物事の見方が 180 度かわることを示し、「パラダイムシフト」ともいわれる。
カントは、「ぼくたちの認識が世界に従うのではなく、世界のほうがぼくたちの認識に従う」という。つまり 180 度違う考え方である。
要は、「わたしが見てはじめて世界がある」 ということである。ー「カント哲学」より
なる程、世界にはそも大きさが無い?
でもボクもボクの子もまた妻も其ればかりかボク自身にもちゃんと大きさがありますが其れが無いとでも申されるのか?
いや、其れはな、君が只の認識の形式として取って居ることの其の結果であるに過ぎぬ可能性が高くあらう。
可能性も何もかうしてボクもボクの子もまた妻も其ればかりかボク自身にもちゃんと大きさがありまさに其れが現實としての事實です。
でも其の現實はな、そも苦しいぞよ。
何故苦しいのか?
其の君の認識の形式に由来するところでの苦、つまりは煩悩か又は罪の意識に苛まれなくてはならぬからだな。
いやさうでは無かった。
さうでは無く其の認識上の癖を理性的に解決しやうとすると自己矛盾するからこそこそ其れが正しいとは言えなくなる、つまりはさうした認識の形式を取る限り理性には従えずつまりはこんな腐った世界を成り立たせて居るのはそも我我に理性が無い=獣其のものであるからのことだ。
相当に飛躍した論理をまさに今述べましたね。
相当に飛躍した論理をまさに今述べました。
何故かと申せば私が述べることは全部が文學であり哲學などでは金輪際無いからなのです。
さうか其れでは此処はまるで信用がならぬ訳だな。
チョット待て。
其の君の価値観は然しまるで間違って居るぞ。
其の君の価値観では外にだけ正しさの根拠=正しい価値となるものを置いているがそも其れが誤りなのだ。
其の外界を生じさせて居るのはあくまで其の現象としての認識をして居る人間としての君の認識の形式によるものだ。
つまり「世界のあり方」は外側にあるのでは無くむしろ内側との相互作用、其の見る見られると云う相対認識関係より齎されて居ることだらう可能性が高い訳だ。
もう何のことやらまるで分かりませんのですが。
分からずとも良い。
どだい誰も何も分からぬのが此の現象世界での出来事のことだ。
ー客観的で世界の大前提とされている空間・時間もひょっとしたら「ただの主観」なのかもしれないわけである。こう考えると、空間・時間が主観的に過ぎず、感性の形式ということになる。
どう見ても客観的な「空間と時間」が、主観的なものにすぎなかったのである。
さて、絶対的に考えられていた空間・時間が存在しないということは、客観的に存在して いるわけではないということをあらわし、世界の絶対量はゼロであることを示している。
このように、空間・時間が存在しないということを考えると、そこには因果律さえ存在しないことになる。ー「カント哲学」より
かくして時空は相対認識により分離してさう捉えられて居るだけのものである可能性が高くなる。
其の相対認識には意識の流れが生じるので其の意識の流れーウソの認識の流れーが時空を繋ぎ其のウソコキとしての何かー認識の形式ーに依って居る訳だ。
もしや其れは佛法で語られる唯識だの阿頼耶識だのそんなものとも関連するものなのでせうか?
いずれにせよ其の客観性には疑いが残るつまりは主観的にウソの認識をあえてして居る可能性の方がむしろ高い訳だ。
さても其のウソと云うのは誰が決めたことなのだ?
おまえか、其れとも神か又は佛なのか?
個人的には自分はウソコキである、とさう思って居る方が自分は正解であると思って居るよりはずっとまともであるとさう考えて居ますのですが。
でもたとえば宗教の人達は皆自分が正しいことを信じ正しい道を歩んで居るとさう思って居る筈だ。
まあ宗教と哲學はそも違う訳だ。
また文學と哲學もまた大いに違う訳だ。
じゃあおまえは一体ドッチを今やって居るのだ?
だから其れはグチャグチャに混ざったものをまさに今かうして實験的にやって居るのだ。
もう訳が分かりません。
正直私ももう訳が分かりません。
なる程、観念苦と云うのはまさにかうした世界のことを言うのだらうな。
さうだとすれば全くおまえも可哀想な奴よのう。
いや私が可哀想なのでは無く理性全体がまさに其の可哀想な奴なのです。
強いて言えば人間の其の認識の形式こそが最も可哀想な訳です。
ウソコキだとか可哀想だとかまた人間のことをそんなに悪くばかり言う。
だから皆が逃げて行くのだぞ。
それこそウソでも良いのだからもっともっと肯定的なことが言えぬものか。
じゃあ個としてのみんなが何か「役に立つ」やうに生きれば世界は良くなるのか?
個としてのみんなが「前向き」に頑張ればもっともっと世界は良くなると云うのか?
でもおそらくはさうでは無いぞ。
僕はむしろ其の「お役立ち」だの「前向きに頑張る」価値観が世界を壊して居るのだとさうも思いますね。
ではどうすれば良いのだ?
一体どうすれば人類が持続可能性を獲得しより良い明日を築くことに繋がるのだ?
個人的にはだから逆を見ると云うことに尽きるのだと思います。
より良い明日を築くことをしたいのであればむしろより良い明日を築くことなどには拘らぬことだ。
持続可能性がそんなに欲しいのであればむしろ何もしないことでこそ其れが築けるのやもしれません。
そもそんなにやる気が無くて良いのか?
其のやる気は現代文明でのやうにプラス思考が過ぎてもまたオウム教の如くに人類抹殺の為のマイナス思考が過ぎてもイケません。
また必ずや広宣流布をしたるだの自分の宗教が絶対だのそんな風にもまさに思うべきでは無いことだらう。
何故なら其の認識の形式其れ自体がウソコキである可能性が高くよって其の認識の形式に寄り掛かったアナタ方の価値観其れ自体が全部ウソコキである可能性もまた高くあらうからだ。
そんなこと言ったら其れこそ不可知論だの懐疑主義だのそんなところに嵌り其れこそ観念の🐜地獄へと陥って行くのではないか。
そんなこと言ったら其れこそ「其れを言うてはお仕舞いよ」とならざるを得ぬではないか。
いや私は正と負の価値観が共に✖である旨を述べて居るだけのことです。
要するに其の認識の形式其れ自体が理性的には成り立って居ない訳だ。
故に理性には限界があり従って理性的に此の現象世界を形作ることにも同様に限度がある。
其れが即ち人間存在に与えられし限定のことだ。
人間の認識の形式其れ自体がそもさうした限定なので其れを幾ら拡張したにせよ幸福になどはなれない。
むしろ諸の破壊を生じることになるのだと思う。
其れは其の認識の形式に於いて正の価値ヒエラルキーを實行することから生じて来るのだと思う。
破壊を止めるには其の正の価値ヒエラルキーへの信仰を是非断じて行くべきだらう。
正の価値ヒエラルキーへの信仰はむしろ煩悩を強化し持って生まれた罪をより罪深くもすることだらう。
此処などもとても面白く読めました。
其のカントによる認識論、所謂観念論が面白いのは、まさに我我は其の侭に現象するものをまさに模写するやうに認識して居るのでは無くさう思い込んで見て居るに過ぎぬと云う部分である。
其処をより厳密に言うと現象には元来實體が無く仮象即ち幻の如きもので且つ其の幻は如何様にも認識され得ると云うことなのだらう。
つまるところ認識と対象ー現象ーには相互作用があり互いに関係を及ぼし合うと云うことなのでもまたある。
さらに🐵と🐈が見て居る世界ー現象ーは異なり当然のことながら我我人間の認識はまた其れ等とはまるで違うものなのだ。
ところがカント以前には其れー現象ーが外部に於いて固定的に捉えられ其れを見る見方は程度の差があれ同質のものだと考えられて居た筈である。
さう云う現ナマ思考と云うか現實主義と云うかまた素朴実在論と云うか其処には理性的な力は宿らないのだと思う、何故なら理性とは疑う力のことでもまたあるからなのだ。
ちなみに私が中学生位の頃に、世界ー現象ーは人それぞれによりあり方が違いつまりは別別の世界を同時に生きて居るなどとも考えたことがあった。
現實に所謂クオリアと云う問題があり、たとえば赤い色の其の赤や靑い色の其の靑其れ自体を普遍的な色として規定することなどは元来不可能なのだ。
要するに私が赤だと見る其の赤の色がアナタにとっての靑である可能性もまた存して居るが故に。
つまるところアナタは私にとっての靑を赤だとさう思い込み、逆に私はアナタにとっての赤を靑だとさう思い込んで居る可能性などもまたある訳だ。
目に見えるものはかうしてむしろ一番信じられぬものであらう。
変な譬えですが逆に目に見えぬ神だの佛だのの方が確かであり且つ信じられるものだ。
目に見えるもののみに拘る奴等は思考力が無く要するに理性には欠けて居るので其れではまるで🐵のやうなものでまさにメスを追いかけ孕ませて居るうちに日が暮れて仕舞う。
たった今🐵を馬鹿にしたな!
いや🐵では無く所謂素朴実在論者を馬鹿にしたばかりでのことです。
第一鏡、此の鏡と云う現象も一般に理解不可能なことです。
たとえば右手を上げた姿が鏡に映るとします。
其れを見ると確かにこちらから見て右の手を上げて居るのだが鏡に映った自分からすれば其の上げた手は左側にあるつまりは左手なのだ。
まさに此れなどが其の現象と云うことの怪異さを指し示すことなのではないか。
同様に現象全般とはまさに不可解なものなのであります。
全く数式などで其れが記述など出来る筈が無いのではなからうか。
どだい文豪の死などに就いてもまさに其れがまことに不可解なことと言わねばなるまい。
さう此の世は神秘的な不可解さに満ちて居り其はまるで百鬼夜行であり妖怪変化のやうなものなのです。
妖怪変化と言えば動物の♀などは大抵が其の妖怪変化でせう。
其れにしても何故だ?
何故自分は右手を上げて居るのに鏡に映った自分の左手が上がって居るのだ。
分かったやうな分からぬやうな。
もう此れはどう考えてもオカシイ。
或は文明が自己矛盾しつつ追い詰められて行くことと此の現象には何か関連があるのではないだらうか?
果たして此の不可思議な様を説明出来る人が此の世に居るのでせうか?
尚私は其の所謂鏡映反転のことなどまるで気付いて居ませんでした。
意外かもしれぬがどーでも宜しいことなどです、基本的にそんなことは。
但しイザ気にし始めると何処までも其れが気になるので御座ります。
其の鏡のじぶんが何故ウソのじぶんなのか?
まさに其れが現象界のウソコキの様を映じて居るからなのではなからうか。
ところで考えぬ奴は馬鹿なのか?
何せ考える奴は何かと危険ですが人間としては正しいのだと思う。
理性として正しいとはむしろさうしたことであり教祖様の意見に盲目的に従うことには非ずだ。
するとカントの考えは目に見えるものを其の侭に信じることとは違う訳ですか?
さう違う訳だ。ー素朴実在論⇔観念論ー
では今此処に妻と子と僕が居る訳ですが其れを其の侭ストレートに「實在して居る」とさう認識して居るのは馬鹿がやることなのですか?
まあ哲學的には馬鹿もエエトコでせう。
實在⇔現象ー仮象ー
我我が認識して居るのはソコでの二元対立に於ける相互作用に過ぎないのではないだらうか。
で、其の現象ー仮象ーを認識として成立させて居るのはむしろ主観としてのー分離されたー自分自身です。
ー「世界」は人間の認識能力というメガネを通して, 把握する以外にすべはない. カラスはカラスの認識能力というメガネを通して, 「世界」を理解しているに違いない. したがって,カラスには「カラスの世界」, ダンゴ虫には「ダンゴ虫の世界」
があるに違いない. 人間よりシャープな認識力を持つ宇宙人がいたとして, そうならば,
「その宇宙人の世界」があるに違いない. 認識能力の違いにより, 全く「別の物」が見えるとしても, そこには「何か」があるはずで, それを「物自体」と呼ぼう
である.ー10.2 カントの認識論; コペルニクス的転回より
ーすなわち, 「世界があって, それを模写するように認識している」のではなく, 「認識者はその
認識能力に応じて, 世界を構成している」のである.ー10.2 カントの認識論; コペルニクス的転回より
此のやうに認識には能力差があるので、虫には虫の世界がありまた🐍には🐍の世界がありまた🐵は🐵の世界でまた馬鹿には馬鹿の世界が見えており対してカントの如くに利口な人には利口なだけの世界が見えて居るのであらう。
また自然科学者には自然科学者としての世界が見えて居り哲學者には哲學者としての世界が見えて居るのである。
さらに宗教家には宗教家としての世界が見えて居りゲージツ家には其のゲージツ家としての世界が見えて居るのである。
問題は其の「認識者はその認識能力に応じて, 世界を構成している」と云う部分である。
たとえば其の認識能力こそは変化する。
つまりは前近代に於ける人間の認識能力と現代の人間の認識能力とはまた違うものだ。
まさに其れが認識能力の進歩なのだと文明は主張することだらうが私は進歩=退歩位に思って居るので現代人が其の偉そうに思う部分をまるで認めてなど居ない。
具象的進化⇔抽象的進歩
此の両者はそも違うものなのでドチラが偉いとかさうした問題では無く要するに其れは相剋し尚且つ相即する関係性にこそある筈だ。
重要なことは其の二元対立に於ける相互関係を理解した上で理性としてのバランスを取って行くことだらう。
何故ならカントが述べた如くに理性とは所詮限定されたもので全知全能のものでは無い=神でも佛でも無いからなのだ。
ー「世界が先で, 認識が後」でなくて「認識が先で, 世界が後」
を主張して, これをカントは認識論のコペルニクス的転回と呼んだ.ー10.2 カントの認識論; コペルニクス的転回より
「世界が先で, 認識が後」では無いのだとすれば、
まずは素朴実在論としての世界が否定される訳です。
即ち今見えて居る妻と子とボクの世界は認識上のクセに起因する仮の現象のやうなものであるに過ぎない。
ー「200 年早すぎた妄想」では哲学にはならない
妄想と哲学は違う
哲学の行き先は, 科学(形而下学) であってはならない. 二元論的観念論を目指さ
なくてはならないー10.2 カントの認識論; コペルニクス的転回より
「認識が先で, 世界が後」なのだとすれば、ボクの認識は其の妻と子とボクの世界と云う認識は結局ボクがさう思い込んで居る幻のやうなものに過ぎずであるからこそ其の妻と子とボクは他の人からまた🐵から或は🐈から見た場合にはまた違ったものに見えるのであらう。
ではほんたうのものは果たして實在するのであらうか?
其れは此の世には無い形で「物自体」として在るのである。
有るのでは無く在るのである。
対して我我人間は在るのでは無く単に有るだけーさう認識されて居るだけのことーのことなのだ。
有るだけのこと即ち現象は限定的に相対規定され要するに二元分離されるが故に實體ではあり得ない。
實體ではあり得ぬので有限であり要するに儚くも移ろい易くして其処で永続的な価値を何処にも設定出来ぬ存在である。
で、例えば金持ちが最低十億は欲しいと思い投資にて何とか一億を得たが其の一億で買ったデカい家も美人のお手伝いさんもまたデカい墓もフェラーリも全てが自分が死ねば消えてなくなる、うわあ惜しい哉まさに諸行が非常であったが故に。
だから金持ちになることは逆にむしろ其の価値喪失の苦、失うものの辛さをデカくすることだけなのだ。
また妻も子も友人もまた尊敬する師もやがては皆死ぬぞ。
所詮はみんな死んで消えてなくなるのだ。
だから其処には別離の苦が生じやう。
ー現象としてー愛するものが多い程にむしろ其の苦が増すのである。
また文明が奉ずる其の進歩にはそも意味など無い。
進歩など間違いー抽象的進歩は✖ーであり進化することー具象的進化は○ーこそが正しい。
左様に価値観がそもさもしい。
文明としての価値観がそもオカシイ。
其れは眞の天才カントの考えを軽んじ抽象的価値に終始することによりいつの間にかさうなっちまったものだ。
さうだ、矢張りと云うべきかソコは哲學の行先は科学であってはならず二元的観念論をこそ目指すべきなのだらう、うふふふふふふふ。
科学はそもオカシイ。
科学はどうも一元論だな。
私は其の一元化論など嫌いだ。
自然⇔自然科学
矢張りかうした二元論にこそしておくべきだ。
なので自然と自然科学がまさに相剋し尚且つ相即する関係を築くことこそが重要なのだらう。
ところで何故大衆は鏡に映った自分の姿に何処までをも疑問を抱かぬのだらうか?