左様にコロナ感染は終息には程遠く我が國では逆に印度並にむしろこれから酷くなって行くかのやうな様相を呈して来て居る。
其れが何でかと云う事を述べる人はまず居ない訳であるが私の場合ズバリ其れは理性の自己矛盾過程が引き起こして居るとさう至極理性的に述べて居る訳だ。
ー感染症や外来生物と移民を含む人間の移動を同列に論じることは絶対にできないが、1国の経済・社会も結局は「1つの生態系」なのである。
まず、多様な生態系が重要であり、その多様な生態系を守るためには砦が必要なのだ。
その点において、EUが推進しようとしている、「人間の自由な往来」は誤ったものだといえる。
必要があるから国境が存在するのである。日本の国境管理の甘さが今回の武漢肺炎でも明らかになったが、「1つの生態系と他の生態系」との間には、明確な区別を設けるべきなのだ。ー新型コロナが突きつけた「グローバル化は人類のリスクか」という問いより
其の人間其れ自体が自由かと言えば近代以降は自由と云うことにしたのだったがまさに其れは社會的にさうしたものであり個人としての人間存在が自由でなどあり得やう筈も無い。
むしろ人間程様々な足枷に繋がれて居り不自由なこと此の上も無い者であらう。
第一其の理性の使い方がなっておらぬ。
其の理性の意味がまるで分かって居らぬ故グローバルな金融資本主義をやりさうして一部の銀行やら投資家やら要するに金に目が眩んだ馬鹿共が自己利益の為だけにあれこれやって居たところドーンとコロナにやられたがでも何故か彼等は大儲けである。
だから其処がまさに矛盾なのだ。
むしろ貧乏人がより苦しい状態へと追い込まれ片やそんなグローバル野郎共は百億、弐百億も儲けたのだぞよ。
最終的に其の資本主義は環境だの宇宙だの此れ迄余りやられて来なかった領域へと其の強欲振りを蔓延させ其処にて全部を破壊し尽くすまで儲け尽くし再生不能の惑星へと地球を変貌させて行くことであらう。
要するに自己利益を求める余りにまるで歯止めが効かぬのが此の文明が奉じる経済システムなのだ。
ー[究極のウイルス]人類を破滅に導くパンデミックは、エボラやSARSのような凶悪な病原体ではなく「発症しづらく致死率の低い軽い風邪のような病原体」だと2年前にジョンス・ホプキンスの科学者が警告していた
転載元 In Deep 20/3/9
さて昨年私も其のIn Deep にてまさに其のことを知り愕然としたものでした。
ですがそんな科学的なものの見方に限らず文系思考や宗教の側からしてもどう見ても現代文明はやり過ぎだったことは明らかで其処からも近く何かが起こることを充分に予測出来た筈です。
事實私は此の文明は危ないと特に五、六年前からさう感じて居りました。
でも其れは結局のところ文明が馬鹿だったと云うことに起因するものでありまさに其の部分こそが他の方々の考えと私の考えが少しく違う部分でせう。
つまるところ私は馬鹿が文明を壊すとさう申して居る訳でだからむしろさうでは無く馬鹿は馬鹿なりに其の馬鹿であることを自覚しちゃんと理性的に生きませうと其れだけをむしろ世に訴えて参ったのだ。
さうして其の馬鹿には何よりかのカントの理性に対する思考力こそが欠けて居るとさう申して来たので御座ります。
つまりは其の自らの馬鹿さ加減に気付くことが出来る者こそが眞の意味での利口者なのだ。
なのですがどうも文明は所謂利口馬鹿の態で、其れに少し似て居るのが所謂學者馬鹿のやうなものなのであらう、其れも難しい数式などを駆使して金融経済の方を推進して居る割には心の方がまさに下劣なのです。
だから其れは私にはとても利口な様ー理性的な様ーには見えぬ訳です。
其の自らの馬鹿さ加減を思い知ること、まさに其の自らの至らなさを悲劇として實感し反省することこそが理性として立つ者の此の世での眞の姿であるのだと申せませう。
なので其の理性無き世界には必ずや天罰が下りませう。
さうだそんな馬鹿共にはいつか天罰が下されるのだ!
うわあまさに此れぞ神の怒りだ、佛の諫めだ、其れにボクの鬱憤でも實はちょっとだけあった訳なのだった。
ーこのようにギリシャ文明もローマ文明も、疫病によって土台が揺らぎ、崩壊に向かったことを本書は伝える。ーローマ帝国を崩壊させた「感染症」とは?より
其の疫病による社会崩壊乃至は文明崩壊への危機へのリスクはむしろ現代文明に於いて極限のレヴェルにまで達して居たのかもしれません。
其れも現代文明はもはや「勝った」と思い込んで居たので「負ける」ことなどにはまるで思いも及びませんでした。
さう現代文明は明らかに思い上がって居り「何でも出来る」とさうして自分等の力を過信して居たことだったらう。
ところがそんな文明が突如としてやられて仕舞う。
其れでもって✈は飛べず🚈は運行の本数が減りだからむしろ鳥は安心して空を飛べまた森の動物達もまさに安心して線路を横切れるやうにさえなったものだ。
さうか、其れは良かったね。
むしろ今自然は喜んで居るのやもしれないね、さうして人類が間引かれることで其の生息域が拡がるのかもしれない。
嗚呼何て素晴らしいことなのだ!
新型コロナ危機と人類の文明と――パンデミックから見る世界の文化
さてこちらもまた素晴らしい記事です。
まず其の訪れやうとして居る危機を見て見ぬフリをして来たこと、其れもエライとされて居るオトナの人々が其れを主導して来たことに就き全く同感です。
要するに其れは自己利益の成就の為にあえて心を悪魔化して来て居たと云うことに他ならないことだらう。
ー現代の「文明」のあり方そのものに問題があるのではないかー
ー現代の文明、ひいてはこれまでの文明には、ひたすら前進のみをめざす、「行け行けドンドン」文明の面が強かったとは言えよう。自然的・生態的環境がどうなろうが、たいして顧慮せず、当然想定すべきことを想定しないできた。それはたしかに、現今の文明の特徴である。ー新型コロナ危機と人類の文明と――パンデミックから見る世界の文化より
流石は東大の先生らしく物事が實に良く分かっていらっしゃる。
文明其のもののあり方の問題即ち文明論の方でもって対処して行かねばパンデミックを齎した眞の原因は突き止められぬ訳です。
たとえば例の震災による原発事故以降「想定外」と云う言葉が流行語になりましたのですが、本来ならば理性には「想定外」などあってはならぬものなのです。
何故なら理性とはまさに其の顧慮であり現状を反省しつつ備える為の働きなのだからこそ。
其れが働かなかったのであれば其の理性に重大な欠陥が生じて居たかまたは病気に罹って居たのだとも申せませう。
私の場合は其れを理性の自己矛盾としての原始退行現象だとさう述べて居た訳なのであります。
即ち現代の知性がかうして利口なのに何故か皆お馬鹿化して行くと云う其のメカニズムに就き兎に角述べてみました。
で、そんな理性のあり方は結局危機に際し役立たずなので其れ即ち馬鹿であると只其ればかりを述べて来たので御座りました。
ーこのような現代文明の問題点を克服するには、想定をこらして、できるだけ「想定外」を局限するのに努力し、それでも「想定外」の事態が生じたときには迅速に対応しうるシステムを整えていくこと、そして、「行け行けドンドン」が行き過ぎるとき、これを制御する能力を培っていくことが必要であろう。
そのような試みの総体を「フィード・バック」と呼ぶとすれば、「行け行けドンドン」型の文明に、十全のフィード・バック能力が備わったとき、人類の文明は、その第一段階というべき現今の未熟な状態から、より成熟した第二段階に移行しうるのではないかと思うのである。
とすれば、現今の第一段階の文明に限れば、悲観論も成り立ちうるが、第二段階への移行の可能性も念頭に置けば、そう悲観するにもあたらないのではあるまいか。ー新型コロナ危機と人類の文明と――パンデミックから見る世界の文化より
さうですね、確かに現代文明は未熟な状態、まさに自己利益にばかり耽溺する利己的社會を組み上げて来て居たのでせう。
其の部分にこそむしろ天罰が下ったと申すべきで個としての人間に対し「皆死ね」と言われて居るのでは無いと私は思う。
要するに社會のあり方がマズい、まさに其の社會が悪いのでまさに社會がやられ崩れかかって居る訳だ。
確かに其の文明の第弐段階と云う概念はしかしながら何とも魅力的なものです。
然し個人的には其処への移行は難しいものと見て居る。
何故なら文明が幼年期を脱して成熟したものとなる為にはもはや時間が残されて居らずさらに価値の抽象性を具象化して行くことー価値観の転換ーには何より手間取りさうですので。
また其のイケイケドンドンと云う文明の型は全く理性的に解釈する限りは馬鹿其のものの型ではありませぬか。
先生が仰るが如くに其れを制御することこそが其れこそ東大を始めとする理性の働きなのでは御座らぬか。
其の「フィード・バック」能力が働かぬのは明らかに理性の自己矛盾の態であり其れ即ち理性が還元知の方にだけなだれ込み要するに価値が全的に合理化され其処にてマイナスの価値に気付けなくなると云う愚をおかしたからなので御座りませう。
ー文明の多くの分野で圧倒的な比較優位を得てきたために、「西欧」の文化もまた、全世界に拡がり、文化の「西洋化」も進行してきた。
しかし、文化というものを、人間が生まれた後にグループの一員として学び共有する、ものの考え方、感じ方、行動の仕方の「くせ」と考えれば、地球上にはまだまだ多くの人びとが異なる文化を保っている。
今日、文字をもつ文化が世界のほとんどを覆っている。これらを有文字文化と呼ぶとすれば、その各々の拡がりとしての文化圏の拡がりは、どのような文字が主に使われているかで、目で見えるかたちでとらえうる。
そして、文字圏としてとらえうる各々の文化圏には、特有の年中行事・宗教行事がある。そのことは、今般の新型コロナ・ウイルスのパンデミック化に際しても関わってくる。以下、漢字文化圏、ラテン文字文化圏、アラビア文字文化圏について見てみたい。ー新型コロナ危機と人類の文明と――パンデミックから見る世界の文化より
歴史學者としての鈴木先生が仰る其の文化の視点こそが大事なものなのだと私も思う。
文化とは元々多様なものであり其れぞまさに数的還元され得ぬ多元性に彩られしものなのだ。
其の文化的多様としての価値をそれぞれに大事にして行くことこそがまさに反グローバリズムとして機能する価値の抽象化及び一元化に対する処方箋ー価値の具象化及び多元化ーなのだ。
従って政治体制による相違により毛嫌いなどすること無くまさに漢字文化圏である日本國は中國にこそ文化的親近感を抱かねばならぬのではなからうか。
ー全地球上の人類諸社会を唯一のグローバル・システムへと統合していく過程としてのグローバリゼーションの急速な進展にかかわらず、地球上には、いくつもの特色ある文化を保つ文化圏が並存していると述べた。
そして、グローバリゼーションの進展とともに、文化と文化のふれあいも進展し、一方では、異文化への感受性が高まっていくとともに、他方では、異文化間の文化摩擦も拡大しつつある。
このたび、講談社現代新書の一冊として拙著『文字世界で読む文明論』が刊行されることとなり、人類の文明と文化のこしかたと現況について、そして個性的な文化をまとった個別の文明の興亡と、文明の生き延びていくための条件について少しく考えてみた。ー新型コロナ危機と人類の文明と――パンデミックから見る世界の文化より
本来あるべき姿として文化圏は多様であり人種又は文化圏が異なればものの考え方や風習も全く違うものとなる。
近代以降の西洋文明化即ち近代化により其の文化圏を純粋にはなかなか守れなくなって居ることもひとつの悲劇ではあらうが本来ならば民主制の確立や自由経済体制の進展などと云うことよりもむしろ其の文化的なアイデンティティの堅持の方がより大事なことであらう。
他の文化を尊重し其れを理解して行くことなども勿論大事なのだがまずは自國の文化的なアイデンティティを骨抜きにしないことこそが最も大切なことであらう。
さて鈴木先生、其の『文字世界で読む文明論』は絶対に読みたく思って居ます。
さても一体其処で何が語られて居るのだらうか?
さうしてグローバリズムに於いて其の文化摩擦、所謂文明の衝突的な価値観のぶつかり合いと云う大問題もまた生じて居るのですが其れでも猶個人的には文化の力をこそ信じて居たい。
其れは何故かと申しますと文化こそが最大の「今役に立たずして役に立つ」価値だからなのだ。
逆に宇宙進出やグローバル金融経済などは「今役に立ちさうで居てまるで役に立たぬ」価値のことだ。
要するに本質的な意味ではさうだと云うことである。
其れは自分が死ぬ時のことを想定してみればたちどころに分かることなのだ。
どだい我我が死ぬる時に果たして宇宙旅行だの金融資本主義による投資の儲けだのそんなことを想う筈が無いではないか。
我我が死ぬる時には嗚呼、ああしていつも何かを書く時には漢字や仮名のお世話になったものだったなあ、だとか、昔母ちゃんが作って呉れた味噌汁の味は最高だったなあ、だとか、さらに兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川、また靑い空に白い雲、緑に染まる山々、さうして最後に畑の横には必ずやあった肥溜めなどのことしか思い出さぬ筈だらう。
何故其処まで貴殿は肥溜めに拘るのか?
いやほぼ五拾年前のことだったがS君が其の肥溜めに落ち以降は肥溜めのTちゃんとなり其れは其れはもう大変だったのだ。
Tちゃんは駆け足にて野っ原を突っ切ろうとして其処へと落ちたのだった。
ところで文明もな、其れとまるで同じことだわいな。
つまりは野っ原を突っ切ろうとすると必ずや肥溜めに落ちることをしかと想定して置かねばならなんだ。
Tちゃんは私より三歳位上なのだが其の母親はまだ当時の家に住んで居られる。
でも頭がもう真っ白になられても居る。
即ち其の肥溜めがもはや何処にも無いと云う事が何故か非常に寂しいのである。
何故なら其の肥溜めがあった頃は我が家の近辺にも自然の様が色濃く残って居たからなのだ。
かうして私は如何にも日本人らしく自然と寄り添い生きる文化のあり方を何よりも愛してやまぬ者である。
「2040年頃に人類の文明は終焉する」 : 米マサチューセッツ工科大学のコンピュータが弾き出した人類文明の崩壊と終焉……そしてその状況を最も現実化しているのはおそらく「日本」
さて其のOka In Deep氏による発言と事實の纏め方ですが流石に此処は一種究極的な文明としての問題提起の場でもまたある訳です。
ーマサチューセッツ工科大学のコンピュータモデルは、2020年前後から社会生活の質は劇的に低下し、2040年頃には「文明の終焉」を迎えると予測したー以上より
かうしてコロナ禍が起こる以前よりところどころで文明崩壊への危惧が叫ばれて居たこともまた事實でした。
文明の崩壊に関して概ね大衆は無関心ですがかうして一部の理性がむしろ其れを頻繁に取り上げ其れに就き論じたり警鐘を鳴らしたりもして居た訳です。
此の種の問題に関心がある方にはおそらく理性があるものと思われる。
但し其の理性は多分に客観的なあり方としてあるものです。
逆に言えばより強く理性を持つであらう學識経験者であるか又は社會での枢要な立場を担う方々やまたライターの方々などはむしろ此の種の問題に対し主観的にも関わらねばならぬ訳だ。
要するに文明に対する危機意識とは其れこそ千差万別のものなのです。
尤も宗教的次元に於ける求道者のやうな方々、まさに眞の意味での仏道修行者のやうな方々はまた違った意味での此の種の問題への向き合い方をされて居るやうだ。
私のものは正直さうしたものを混ぜこぜにしたもので其れが必ずしも眞理追求へと特化したものでは無いこともまた確かです。
いや眞理追求に特化などしてはならないとさえ今は考えて居る訳なのだが。
ー「ローマクラブ」とは、人類の危機の接近に対し,可能な解決策を追求するため,イタリアのA・ペッチェイを中心に世界各国の科学者、経済学者などにより設立された民間組織のこと。ー以上より
其の「ローマクラブ」の報告書こそが私が中学時代に京大出の恩師より読むやうに勧めて頂いたところでのマル秘文書ーある意味でのーでした。
私が社会科に興味を持つやうになったのはまさに其のことからでした。
社会科と云うものは究極的には年号を覚えたり首都を覚えたりすることでは無くさうして文明の意義と其の崩壊を探る為のものです。
其れは藝術などでは無くさらに宗教的見地なのでも無い。
ですが社会科とはまさに其の文明が抱えるであらう問題を扱う領域のことです。
文明の現在は文學では表現出来ず宗教的にもまた理解されない。
歴史はまた地理は公民は要するに世界はまさに社会科として今に具現化されたものだ。
社会問題とはまさにリアルな今此の時を扱うものでありまさに文明こそが其のリアルな今此の時での人間存在の本質其のもののことです。
さうして社会問題はまさに待った無しでの人間が生きる上での厳しさを抱え込んで居る。
第一此のコロナ禍こそが社會に取り至極厳しいものです。
社會にとり此の危機を乗り越えることが果たして可能なのかどうか?
ですから、其れはあくまで社會的に提起される問題であり他方で個としての人生もまた御座りますが故にあえて私は其れとは距離を取ることに致しました。
要するに還暦を過ぎてから社會と共に沈没するのは金輪際イヤだと云うことなんだ。
ま、其れも結構重要な意思決定なのですよ。
實際にそんな一種の逃げさえもが認められるが如くに現代社會は静かに沈没して行きつつある。
其の70年代のコンピューターの予測で「 2040年には人口減少により文明の終焉を迎える」と云うのは要するに古い電子頭脳の出来が悪くて正しく予測出来なかっただけのことで實際には以下のやうなこととなる。
1800年以降の世界人口の推移。世界人口はこの2世紀で10億人から60億人超へと急増している。
但しコロナ禍の影響により2050年に百億人を突破するかどうかと云うことはまるで分からなくもなって来ました。
其れこそ逆に世界人口が減少に転ずるのであれば其れぞまさに目出度いことで其れは何故かと申しますと世界での最適な人口の数が大体三十億人台位までだからなのです。
第一此の半世紀で世界人口はまさに倍増したのですから元より其れでは獣並に増えて居る訳だ。
此の際人間は所詮獣だと宣言でもして其の進歩としての神人間では無く獣人間を目指すと云う手なども確かに御座りませうが生態系の維持をして行く手前幾ら何でも其れではあんまりです。
もうオレラこそがケモノだー。
かうしてガツガツと喰らい何でもかんでもやっちゃうぞー。
おお、イヤだ。
あんなところでまた獣共が吠えて居ますことよ。
畢竟コロナ禍とは人類文明に対する具象的限定ですので或は種として間引かれる可能性などもまた出て来て居りませう。
であるとすれば我我に今出来ることとは何とかして個として生き延びることだけなのでせう。
此の理性的である筈の文明がそも何でこんなにサヴァイヴァルなことになって居るのだらうとみんなはさう思われるのかもしれませんが個人的には其れはなるべくしてさうなって居るものとさう考えます。
其処では今此処でもって何を信じるかつまりはどんな価値を選択しつつ生きるかと云う事がまさに重要なのだと思う。
まさに其れが宗教的な価値観であれまたライターだの學者だののやうに観念的思考であれ或は絵描きや音樂家のやうに描き且つ奏でることであれまた其の逆にグローバルに展開する儲け至上主義などを信奉するにせよ其れはあくまで個としての自由の範疇に属するものです。
ですが今後一つの問題として懸念されることはむしろさうした文化的な営為が次第に圧迫されほんたうに獣染みたまさに食うか食われるかの即ち死ぬか生きるかの所謂地獄の世界即ち芥川 龍之介の蜘蛛の糸による地獄からの脱出の世界がもしや此の社会科としての現實の世界に展開されるのだとすればもはや其れではたまったものでは無い。
うわおー、ぎゃあおー、ドカンドカン、ボットーン。ーさうしてぶら下がる蜘蛛の糸から他人を血の池地獄へと蹴落とした音ー
コレぞまさに獣の様だ。
さうか、まさに其のやうにならぬ為にこそ釈迦とキリストが居られた訳だったのだな。
で、學生の方々などは兎に角今御勉強の方を真摯に進められてみることこそが大事だ。
何故なら理性は無いのでは無く今此処にかうして有る。
理性の成就は価値観に於ける選択を正しくする。
何故なら獣は學問なんぞにはまるで興味は無いからだ。
理性的な選択は眞理への選択では無いがおそらく其れが社會にとっての最適解を導き出すことであらう。
だから眞理への道と社會的な課題はまた別のものなのだ。
今は眞理の方は宗教の方々に託し兎に角死んでも良い程に勉強し且つ本を読むのだ。
さうして此の病んだ社會を是非治すことだ。
此の病みしかも腐り切った社會を平成生まれの世代こそが変えて行かねばならぬ。
我我昭和生まれの世代は事實上もう終わってるので後は肥溜めにでも落ちて行くばかりである。
かうして野っ原をヘラヘラと笑いながら駆けて行き挙句の果てには其の古い価値観と心中せねばならぬのだ。
さうしてまさに其の故に我我昭和生まれの世代は肥溜めのT君と呼ばれるに至ったのだ。