目覚めよ!

文明批判と心の探求と

さうして正の価値ヒエラルキーに対する盲信をしないことこそが宗教的な価値観にも繋がることである

 

菅首相、「最低会見」で遠のく五輪開催への道 緊急事態の解除条件示せず、広がる五輪中止論

菅首相が招く「五輪地獄」の悪循環。ことごとく外れる希望的観測

 

今年の初めに述べた如くに其の五輪開催は徹底して文明を一旦ストップさせ其処にてベーシックインカムを行った上で判断すべきものだったのである。

コロナ禍はまさに今コロナ地獄の様相を呈して来て居り實際皆様もそれぞれにお困りのことかと思う。

 

但し現在命がありしかも健康で何とか生活出来て居るのであればむしろ其のことをこそ喜ばねばならぬことだらう。

別に御先祖様に大恩を感じるだとか教祖様のお陰様にて生きて居るだとかさうしたことでは無しに単に我我がラッキーだったからこそ今を生きて居られるのである。

 

尤も本質的には其れはむしろ不運だと云うことである。

其れは眞理と常識とが正反対の価値となって居るが故にどんな感情論をも抜きにしてさうなって仕舞う訳だ。

 

私が問題として捉えることとはまさに其の部分でのことなので其れは宗教の問題などでは無いのである。

 

但し釈迦とキリストは正の価値ヒエラルキーにはまるで縛られて居なかったと云うことをむしろ常識的思考の持ち主こそが學んで置く必要がある。

 

 

さう、私が此の世で価値として設定することとはまさに其の學ぶことである。

 

だが學ぶものの対象を間違えると其れこそ大変なこととなるのでとりあえずは宗教的な洗脳のやうなものには特に気を付けて置かねばならぬ。

 

但し學ぶことには常に危険がある。

 

尤も其れが眞の意味で分かるのは學者級の知性か或は長く真摯に學びを重ねて来た者だけだ。

又は作家の方々のやうに考えることを重ねて来られたことだらう知性のあり方にとって其れはまさにさうなのだらう。

 

私もまた其の観念地獄に捉えられて仕舞うことがある。

 

だが其の観念地獄とコロナ地獄、さらに言えば五輪地獄とはまるで違うものなのである。

 

何故なら私は其の観念地獄にて四苦八苦する様を必ずしも否定はしないからだ。

 

端的に言えばかって文豪が煩悶しつつ自決に及んだのも至極人間的な行為でありむしろ自然なことであり且つ大いに社會の役に立って居ることだとさう捉えて居る。

 

 

逆に申せば戦後の経済成長などはむしろ現代人として望まれるであらう心のあり方に対する障壁となって仕舞って居るやうに思う。

 

左様に観念地獄とは良心がまさに四苦八苦する様なのであり其れは悪がつまり👿が牙を剥き罪を重ねることとはむしろ正反対のことだ。

 

だから善なる魂程むしろ生きて居るうちにかうして苦しまねばならぬのである。

 

だから其の苦から決して逃げてはならぬ。

 

むしろ其の苦にこそ挑め。

 

 

でも詩人さん、アナタはもう逃げてますが要するに其れは生から逃げ出して居ることではありませんか?

 

いや誰しも生其のものからは逃げおおせぬものです。

 

私が放棄したのは単なる社會的価値のことだけです。

 

 

其れもむしろ實存としての価値の方で此れ迄よりもより純粋に其の生の齎す苦と向き合って居るのだと言える。

 

其れはつまりは五輪地獄からだけは逃げたともしやさうしたことなのでせか?

 

つまりはさうしたことです。

文明が五輪をやりたいと云う其のデカい欲や壊れ始めた地球を捨て宇宙へ逃げ出したいなどと云う其の困った欲からはもはやフリーだと云うことだけだ。

 

フリー、つまりは自由つまりは無関心だと云うことである。

 

 

現役CA「夜の危ない副業」体を張る折れた翼、中年男の欲望はけ口に

 

まあコレなどは如何にも男性の方々がお好きな三流週刊誌のやうな記事とはなりますがまさにコレなども半分位は本当の話なのでせう。

 

尚此の点に関して私が述べたいことは以下の三点です。

 

1.諸行が非常である此の世での価値ヒエラルキー構築は永続しないこと

2.諸行が非常である此の世での価値ヒエラルキーの構築度を高く設定すると其の喪失の為にむしろ大きく苦を味わうこととなること

3.諸行が非常である此の世での価値ヒエラルキーの構築度を高く設定することは自我執着ー虚の自我への妄執ー其のものに繋がること

 

 

で、特に其のCAの話に限らず其れこそ世間に於ける全ての問題が此の三点にこそ集約されて参りませう。

 

問題は社會的価値とは正の価値ヒエラルキーに対する盲信振りだと云うことに就きて居やう。

 

逆に申せば其の正の価値ヒエラルキーに対する盲信をしないことこそが宗教的な価値ともなり得やう。

 

要するに逆に負の価値ヒエラルキーを見据えたところに精神の基盤を築く訳ですのでむしろ何があっても動じない訳なのですしさらにマイナスとしての現實をむしろ前向きに生きて行けるのやもしれません。

 

 

但しなるべく純粋に釈迦か又はキリストの教えにのみ帰依して置くことをなるべく御勧め致します。

 

其れが難しければ出来るだけ金をせびらぬ宗教か又は教祖様の教えには盲目的に従わぬ団体であることこそが肝要である。

 

 

で、私がもしも現役CAであればどうするかと云った部分に就き述べます。

 

まず其れはやる気の無い私が間違ってやって居る仕事なのでそんなものはすぐに辞められる訳です。

 

辞めて生活レヴェルを落とすつまりはミニマリストとして生活をこそ再構築して行くことでせう。

 

 

ところが、現代人にはもはや其の種の放棄のことが理解されない。

現役CAに限らず勤め人の皆様や今まさに苦境に追い込まれて居ることだらう総理や其れを批判してばかり居る枝野や日本共産党にせよ所詮は皆其の正の価値ヒエラルキーの住人ですので最終的には其の社會的価値ヒエラルキーから脱しては行けやしない。

 

だからたとえじぶんが悪魔化してでも其の価値の維持に拘ることでせう。

さらにたとえ宗教の方々であれじぶんが悪魔化してでも其の価値の構築には拘ることでせう。

 

なので其の正の価値に拘ることこそがそも誤りなのです。

さうして肩書きだの名誉だのまたプライドだの、そんな下らぬものに拘り正の価値ヒエラルキーに対する盲信振りを徹底させ価値観を構築して居ること其れ自体がズバリ誤りなのだらう。

 

 

1.釈迦とキリストは正の価値ヒエラルキー構築=現世利益としての価値構築による社會的序列のことなどまるで認められては居なかった

2.釈迦とキリストが目指したのはむしろ正の価値ヒエラルキー構築への脱構築であり要するに現世的な価値の消去であり且つあの世での復活のことでせう。

 

但し厳密には釈迦はあの世を設定することなどは無くむしろ此の世にて自己救済する道を選ばれまさに其こそが自力救済としての道なのでした。

逆にあの世を設定することで全価値を神の領域へと帰属させたのがキリストによる他力救済としての価値観だったのでした。

 

尤も単に私は正の価値ヒエラルキー構築を最小限化して行くことを目指して居るだけのことでよって其れだけでは眞理を我が手に攫むこととはなりませんのです。

 

なりませんが、其の社會的な価値の崩壊に関してはむしろ精神的に強化されて居る訳です。

其れでも物質的にはまた諸の悩みに晒されるのやもしれませんがとりあえずは社會の動きには左右されぬところを自己としてようやく生きられるやうになった感じさえもが致します。

 

 

其の自己とは利己的に構築される正の価値ヒエラルキーを貪るもののことには非ず。

 

強いて言えば其の自己とは理性による選択によるものです。

其の理性による選択をなるべく釈迦とキリストによる現世利益放棄としての価値の流れに合致させることこそが大事だ。

 

尚理性には人文、また社會科學、さらに理系のものと種々ありますが何でも根は同じで一つの分野が理解されれば常に理性的な判断を其処に行えるやうになる筈だ。

 

其の理性的な判断と宗教的な次元での信仰の問題で、或は藝術的な直観ー感性ーと宗教的な次元での信仰の問題の両立が非常に難しく此の弐月以降は我もとても悩んで居た訳でしたが結局は其れ等も全てが最終的に釈迦とキリストによる放棄としての理性の働きへと導くことが可能です。

即ち理性と宗教は矛盾することなく最終的には融合させることがおそらくは可能です。

 

 

で、あえて難しく述べますとさうしたこととなりますが要するに私がもしも現役CAであれ会社の部課長或は係長であれ或はウーバーの配達員であれ其の社會的価値観には捉われて居ない私にとっては正の価値ヒエラルキー構築に対する執着がそも存して居ないこととなる。

 

さう云うのは一見馬鹿な様にも見えませうが實は聖なる方向への価値観の上でのシフトを自覚的に行って居ると云うことなのでもある。

要するに世俗としての価値にはもはや踊らされては居ないと云うことです。

 

 

で、社會はまたコロナ禍はどうなるの、日本はまた世界はどうなるのだ?

 

其の件に関してはもはや余り興味が無いと云うのが正直なところですが其れに関しあえて何かを述べれば所詮人間は価値観の病を抱えた動物なので其の価値観としての病を去れば心の苦痛を減らして行くことが出来ると云うことでせう。

つまるところ社會的な価値観に振り回されて居るとむしろ心のあり方は濁らざるを得ぬと云うことだけを是非此処に述べさせて頂きたい。

 

ですが社會的な価値観は其の社會の側からの其の価値観への反省なり顧慮なりで変革して行く他は無いものでせう。

其れに対しての個としての心のあり方の変革はむしろ其の社會的な価値観の放棄であると云うことをこそ述べて置きました。

 

正の価値ヒエラルキー構築としての非我の形成ー心の悪魔化をし所謂大人になることー⇔負の価値ヒエラルキー構築をも見据えた上での放棄ー眞我の形成ー

 

と云うべきもののやうに思われます。

其処は非常に微妙で且つ難しい判断が迫られる部分でもまたある。

 

何故なら我の放棄は逆に我の構築に繋がることさえもがあるからだ。

 

たとえば所謂閉じ籠りやまた其の逆に國家や宗教団体への滅私奉公などが其れに当たることであらう。

 

其れにつけても知に働けばさうして角が立つのであるし、また情に棹差せば何処までをも流されやう。

まさに眞の我の形成こそはまさに至難の業である。

 

 

「タケヤリで戦えというのか」宝島社が意見広告で政府のコロナ対応を批判

 

個人的にはマスメディアにせよ藝術家にせよ宗教家にせよ、兎に角政府だの体制だの文明だのと刺し違えたる位の気概でもってして批判を為さねばならぬものだとさう考えて居る。

要するに人間は皆同じでは無いんである、むしろ同じではイケナイんである。

 

所謂常識とは違う視点を出せることこそが文化側としての本質的意義であらう。

同調などでは無くまた感情論などでは無く兎に角徹底した批判こそが大事である。

 

 

 

ー悪人は悪行を平気で行う。たとえば、空気や水、そして河川や土地を汚染し、このため人々はさまざまな病気で死ぬようになる。

善人で賢いものたちは、数字から導かれた努力にはなんの価値もなく、それはただ世界を破壊するだけであることを悟るようになり、数字に答えを見いだすのではなく、瞑想を通して真実を発見しようとする。

人は瞑想すると神の知恵に近付いていく。ー唯物論支配のこの地球で「人類の滅亡あるいは消滅」は数十年以内だと知り、むしろ安堵の中にいる私…。そして、その中で思い出すタラビッチの言葉より


 

ありゃさうなのか。

そんな数的還元の世界を否定し、其処から齎される破壊を論じ、瞑想をしやうとして居る。

 

確か何処かで見聞きしたやうな人なのですがさても一体誰のことだったのやら。

 

但し其のミタール・タラビッチなる予言者のことは知らず、また予言の類には基本的に興味が無い私です。

が、以下の記述には何かしら心を動かされる部分がある。

 

なぜなら、人々は神を忘れ、人間の知性のみを崇拝するようになるからだ。

しかし、神の意志からみると人間の知性などはとるにたらないものだ。

神が海なら、人間の知性など一滴の海水にもならない。

 

高い教育を受けた人々が現れる。彼らは本を通して多くのことを知り、考え、そして自分たちが何でもできると思い込んでしまう。これらの人間の存在は、人間が自分自身の真の姿に気づくことの大きな障壁になる。

だが、人間が一度この「人間の真の姿への気づき」を得ると、こうした教育ある人々の言葉に聞き入っていた自分自身がいかに大きな錯覚に陥っていたのか自覚するようになる。

この人間の本来の姿の真の知識はあまりにも単純なことで、なぜこんなことをもっと早く発見しなかったのかと後悔するだろう。

それまで、人間は、何も知りもしないのに自分を全能だと思い込み、あらゆる馬鹿げたことをおこなうだろう。ー唯物論支配のこの地球で「人類の滅亡あるいは消滅」は数十年以内だと知り、むしろ安堵の中にいる私…。そして、その中で思い出すタラビッチの言葉より


其の教育には確かに大きく問題が存して居る。

知識が錯覚を生み人間の迷いをより拡げて来たであらうことなどもまた事實である。


であると云うのに何故私は其の知識を否定しないのか?

何故なら其れは其の思い上がりの様を反省するのはあくまで人間の知恵でしかあり得ぬからなのだ。


知恵には知識を増やしつつ先人より學ぶことと自分の頭で考えられるやうになることとの弐種がある。

一方だけだと其れが偏った知恵となり其処で誤った選択を為して仕舞うことにも繋がり易い。


さうして文明が馬鹿げた行いをして居ながら其の事に気付けぬのは、まさに其の知恵のあり方のバランスが悪く結果的におバカ化して行くー知恵が自己矛盾するーことに繋がって居るからのことだ。




ー人間の魂は悪魔にのっとられるのではない。

もっと悪いものにのっとられるのだ。

その頃の人間の信じているものには真実などいっさいないのに、自分たちの信じる幻想こそが真実だと思い込むのである。

ここ(セルビア)でも世界の他の地域と同様だ。人々はきれいな空気を嫌い、神々しいさわやかさと美しさは、人間が作った上下関係の階層関係の中で見えなくなってしまう。

しかも、これは誰かから強制されてこのようになるわけではないのだ。

人間は自分の自由意思からこうしたことを行うのだ。

 

世界中で奇妙な伝染病が蔓延する。だれもその治療法は分からない。

知識のあると言う者たちが「私には高い知識があるのでこの治療法は分かっている」と言い張るが、実は誰も何も知らない。人々はいくら考えても正しい治療法を見つけることはできない。

だが、治療のカギとなるものは人間自身の中や周辺にあるのである。ー唯物論支配のこの地球で「人類の滅亡あるいは消滅」は数十年以内だと知り、むしろ安堵の中にいる私…。そして、その中で思い出すタラビッチの言葉よりより

 

 

「自分たちの信じる幻想こそが真実だと思い込む」


其れにしても此の方タラビッチ氏はまた我と似たやうなことをかって述べられて居た訳だ。



「上下関係の階層関係」

即ち価値観の縦の序列化こそが正の価値ヒエラルキー構築の基本的原理であらう。


要するに其れは幕藩体制でもまたあるのだけれど、そんな中其れでも屡将軍家に反抗を試みた尾張藩の悪者振りはむしろ善人振りをこそ指し示して居たのではなかったか。


さうして確かに人間はむしろ全てを自分の意志にて行いむしろ自らの可能性を次第に先細りにして行くかのやうだ。



「治療のカギとなるものは人間自身の中や周辺にある」


とりあえず私は其の不治の病こそがさうして人間存在が抱える心の問題だと感じて居る訳でありコロナウイルス其れ自体はむしろ間接的な要因だとさう考えて来たのであった。


なので其れはコロナウイルスを消せば全快すると云ったタイプの問題なのでは無いことだらう。



其の人間存在が抱える心の問題への「治療」が可能かどうかと云うことこそが理性に与えられた最大の試練であり且つ試金石となるものであることはまた確かなことだらう。


人間の知恵、知性のあり方は今後に於いてもさうして試されて行くのである。


まさに其れは近代以降の物質的進歩に相応しいだけの知恵を備えられて居るかどうかの試しの場となるのだ。



「人間の真の姿への気づき」

まさに私は其の気付きの為の思考法を世に示した積もりだったのだがどうも其れがごく限られた方々にだけ伝わるに終わったかのやうだ。


尚私が其の正の価値ヒエラルキーの構築の様を批判するのは其れが憎いからなのでは無くむしろ其れを大事に扱って居るからなのだ。


「人間の眞の姿」とは利己欲の成就にあるのでは無く負のヒエラルキーをも含めた広い価値観を持ちまさに其処から必要では無いものを放棄して行く為の眞の意味での我ーの価値観ーの形成にこそあらう。