山口二郎教授 安倍晋三前首相に「嘘つきがキングメーカーを気取るな」
こんなところにかうして怒る教授が居たぞ!
さてもしも何かを独り占めし其のことで世界を破壊するに至らせしめるのであれば其の欲こそがまさに獣欲であり魔の仕業でもあることだらう。
ところが、現實的には其の欲こそがむしろ野放しになって居ります。
いやむしろ何かを独り占めし其のことで世界を破壊するに至らしめることをすると世間では称賛されたりも致します。
なので其処が何よりイヤですのでもはや脱世間だと私は述べて来て居るのです。
其れは其の常識としての世間の価値観をいっぺん何処までも攻撃したらうかと云うことでもある。
だから其れではもうまるで価値観が狂って居るよ、或は腐り切って居るよとさう申して居るので御座ります。
其の近代としての弁証法過程に挑むとでも申しますか何とかして其れをやりこめてやると云う何やら妄想と云うか大言壮語と云うかそんなものに捉えられましてからもう廿年程は實は経過しております。
ですが其れはかのオウム教がやりましたこととは無論のこと違います。
オウム教は結局やり過ぎちゃったのだとさう思う。
私の場合は言う事だけは言いますが何せ手が動きませんので實は誰にも迷惑などかけては居りません。
なのだが其処は何せ何かと厄介な部分を精神的に周りに対して振り撒きますのでみんなが引くと申しますかまさにみんなが逃げて行く訳ですね。
ーつまり、カント等に見られるように、その時々で、あらかじめ、ある形式や真理を先決して、体系を構築したとしても、その真理はその形式・体系の中における限りでの真理であるに過ぎず、現実の将来的見通しをもたらす普遍的真理になるわけでもないし、条件が変わり、その形式・体系が変わるに伴い、雲散霧消して、また別に新たに生み出されるような、仮初の真理に他ならない。したがって、本物の普遍的真理に到達するためには、そうした先決や、時々の形式・体系への固執は、むしろ不要・邪魔であり、避けられなくてはならない。
そのため、彼にとっては、哲学がなすべきことは、あくまでも「時間的に過ぎ去りゆくものの中に、内在的・現在的かつ永遠なものを (外的な形態化されたものの内にも脈打つ、内的な脈動を)概念的に認識する」ことであり、「実体的なものの中にいながら、主体的な自由を保持しようとし、それでいながら、特殊的・偶然的なものの内にではなく、即自かつ対自的に存在するもの(自覚・認識と充足の一体性、形式と内容の一体性)の内にいようとする内的な欲求に従った、現実との熱い和解・平和」である、ということになる。
つまり、哲学は、人間の主観・認識が、己の性質・欲求に従いつつ、主体的かつ漸進的に、試行錯誤を経ながら、現実と調和していく形で、真理・絶対知に到達していく過程・道程として、また、その最終的な結実として、捉えられなくてはならない。
そこで、人間の現実認識が対立・媒介を通して展開し、絶対知に到達していく過程のダイナミズムの内実に着目する、「ヘーゲルの弁証法」と呼ばれるような考え方が、持ち出されることになる。ー弁証法#ドイツ観念論による弁証法的回答より
以前にも述べましたが近代と云う世紀はまさに綱渡りのものであり其れぞまさにイチかバチかの歴史過程だったのだと思われます。
何故かと申しますと其れは世界人口の推移を見ればまた一目瞭然のことでせう。
- 2019年 77億人[5]
- 2011年 70億人
- 1998年 60億人[注 1]
- 1987年 50億人
- 1974年 40億人
- 1961年 30億人
- 1927年 20億人
- 1802年 10億人[注 2]
世界人口より
我我は普段気付きませんのですが、かうして近代以降人間の数は爆発的に増えて居ます。
即ち其の増え方は異常でありまさにウイルス並ともなって居る訳だ。
でも我我は自分等のことをウイルスだとはまさか考えぬ訳だ。
なのだが實質的にはもうほとんどウイルスのやうなものでせう。
なのであればコロナにやられて少し位人が死んでも可なのか?
いえ別に人間は死ね、死んで此の際減れ、などとは此の私でさえ一言も申して居りません。
ですが其の増え方の異常さを見る限り其処でもって何が起こってもおかしくは無いのではないだらうか。
何故なら小学生の頃私が初めて世界人口の数を覚えましたが其れが36億人でした。
此の半世紀の間に其れが何と倍増した訳です。
元より其の倍増の様こそが恐ろしい話です。
ですが私が最も恐れて居るのは其の数自体では無く我我の意識にそんな實感がスッカリ欠けて居ると云うことなのです。
と申しますのも中学生の頃にすでに其の人口爆発に就き危惧して居た私でさえ實はいつも其のことを気にして居る訳では無いからだ。
要するに人間には気付きにくいことがあると云うことなのではないか。
特に自分等に取り都合の悪いことにはあえて知らぬフリを決め込み我我人類は此処まで発展して来たのです。
其の反面我我はたとえば👪の現状のことや其の将来のことやまた自分のことや身近な人々のことなどに就き至極敏感に出来て御座る。
また其れは地位や名誉がある人であれ基本的には同じなのです。
即ち我我は常に限定された心の範囲ー利己的範囲ーに居て其処から基本的に大きく思考することなど出来ません。
大きく思考することが好きな人もたまには居られますがたとえば宮澤 賢治だの三島 由紀夫だのと云ったレヴェルでのデカい考えをすることはまず大衆レヴェルでは無理と云うものです。
要するにみんなの考え其れ自体がちっこい、つまるところみみっちい訳だ。
へへへへへ、つまりは単なるチビのことですな。
尤も其の割にみんな夢やら希望やらがデカいんですね。
曰く早く宇宙旅行がしたいだの、アンドロイドの美人妻を迎えるのだのと言った具合に。
其れもたとえ頭が良い=偏差値が高くある人であるにせよみ其のみみっちい心の奴が實は多い訳だ。
「哲学は、人間の主観・認識が、己の性質・欲求に従いつつ、主体的かつ漸進的に、試行錯誤を経ながら、現実と調和していく形で、真理・絶対知に到達していく過程・道程として、また、その最終的な結実として、捉えられなくてはならない。」ー弁証法#ドイツ観念論による弁証法的回答より
近代的な進歩の概念とはつまりはさうした部分から形成されるものなのだらう。
人間が眞理としての絶対智に到達すると云う此の弁証法的帰結はしかしながら人間の自尊心を擽り如何にも魅力的なものです。
即ち人間は進歩し世界を改変させることで次第に神の認識の領域へと近づいて行く訳です。
なのですが、實際には今文明其れ自体が具象的に限定されるに至って居る。
ワクチンの接種により或はコロナ禍が終わるにせよ究極の課題としての温暖化の大問題は愈これからなのです。
此処からしても近代的な進歩としての概念に誤謬が含まれて居たであらうことは明らかです。
では一体何が間違って居たのでしょうか?
先に申しましたが、我我人間の欲望の本質とは常に認識上狭くてみみっちいものであるに過ぎません。
故に皆自分や👪が大事で適当に夢だの希望だのが叶えられればおそらくは其れで良しとすることでせう。
さう人間とは元々そんな限定的な存在だと云うこと、言い換えれば具象的に規定された現象です。
ですが、近代以降は社會は其の限定性を解除し人間其のものを巨大化して行くことに迫られた訳だ。
何故なら進歩を奉じる近代思想は種としての人間を繁栄させることでまさに観念的にー抽象的にー運命を切り開いて行かねばならぬ羽目に陥ったからだ。
其の進歩こそがそんなデカい夢や希望ー抽象的価値ーを實現して行く思想其のもののことですので其れに寄り掛からねばならぬやうにいつの間にかなっちまいましたとさ。
何故なら人間はデカい=偉いとされて仕舞ったので其の偉い人間様はいつかは神の如くに全知全能とならねばならぬからです。
逆に本来人間はちっこい、みみっちいと私は述べておる訳ですがそんなことを申しますればみんなは此の自称詩人は頭がおかしいとさう決めつける訳だらう。
ですがあえて言うたりますわ、人間とは其の人間とは只の🐵山の大将のやうなものです。
其れは神とはまるで違うものだと云うことです。
また佛とはまるで違うものだと云うことです。
要するに其の🐵が進歩しただけのまさに只のウンコたれのことですな。
ーつまり、カント等に見られるように、その時々で、あらかじめ、ある形式や真理を先決して、体系を構築したとしても、その真理はその形式・体系の中における限りでの真理であるに過ぎず、現実の将来的見通しをもたらす普遍的真理になるわけでもないし、条件が変わり、その形式・体系が変わるに伴い、雲散霧消して、また別に新たに生み出されるような、仮初の真理に他ならない。したがって、本物の普遍的真理に到達するためには、そうした先決や、時々の形式・体系への固執は、むしろ不要・邪魔であり、避けられなくてはならない。
そのため、彼にとっては、哲学がなすべきことは、あくまでも「時間的に過ぎ去りゆくものの中に、内在的・現在的かつ永遠なものを (外的な形態化されたものの内にも脈打つ、内的な脈動を)概念的に認識する」ことであり、「実体的なものの中にいながら、主体的な自由を保持しようとし、それでいながら、特殊的・偶然的なものの内にではなく、即自かつ対自的に存在するもの(自覚・認識と充足の一体性、形式と内容の一体性)の内にいようとする内的な欲求に従った、現実との熱い和解・平和」である、ということになる。ー弁証法#ドイツ観念論による弁証法的回答より
いや、だから、生きる為の其の指針が何も普遍的眞理で無くとも良い訳だ。
カント先生はまさに其のことを何よりも御存じでもってして其れでもって毎日毎日規則正しく同じことをやられ最後に「コレで良い」と一言述べられつつ死んでいかれたのだ。
逆に普遍的進歩だなんてまさにそんな大それた、第一不遜なまた不穏な思想の確立により近代以降我我にはロクなことが無かったよ。
第一経済的進歩に縛られ我我には鉱物採集をする暇さえもが無いではないか。
で金持ち共が豪華客船に乗り世界一周の豪遊を決め込んで居たところ其の豪華客船内の金持ち共が皆コロナに罹って仕舞った。
無論のこと其の中にはコロナ死した奴等もまた居る事だらう。
でコロナが下火になったと思いもう一度船を出してみたところまたコロナに罹って仕舞う。
「時間的に過ぎ去りゆくものの中に、内在的・現在的かつ永遠なものを (外的な形態化されたものの内にも脈打つ、内的な脈動を)概念的に認識する」ことが可能なのであれば確かに其れは観念性の優越を指し示すものであり其処を足掛かりとしての抽象的進歩を可能とするものなのだらうがまさに其の抽象的進歩の中には観念としての悲劇性がしかと刻み込まれて居やう。
世は諸行が非常にて価値は保存出来ずまた我も非我にてそも保存出来ぬので逆に全ての価値を観念化し其の抽象性の枠内で進歩するー観念的進歩=抽象的進歩ーことを人間の生の目的化して仕舞った訳だ。
だが其れは欲望の単なる抽象化に過ぎぬのではなかったか。
動物の中では一番頭の良い🐵は好奇心が強くまさに色んなことを工夫し生きて行かうとする。
🐵の其の好奇心は具象的欲望と抽象的欲望の中間辺りにある。
だが其の抽象的欲望がより進化することでまさに進歩の領域へと踏み込んで行く訳だ。
具象的欲望→抽象的欲望=進化→進歩
で、文明化ー社會化ーされることで我我人間の進歩の領域は其の極へと達した。
其処では限りない其の強欲が全部抽象化されるに及び野っ原でウンコをたれるのは止め便所を造ったりもする。
やった、やったぞ!
ようやく其の獣であることを卒業したぞ!
俺等はもはや単なる獣では無い。
かうしてスマートに且つグローバルに生きられる理性の従僕である。
ばか。
そりゃおまえらの其の欲望が単に抽象化しただけのことだわいな。
だから逆におまえらこそが強欲生物だわい。
おまえたちなどもう何かに食われ去勢でもされて仕舞え!
あれコロナだ、やれ温暖化だ、うわあ小惑星の激突だー、ほーれ宇宙の肥溜めだ!
落ちよ、落ちよ、今すぐにでも其処へ落ちよ!
でも僕等こそがかうして洗練された感性と知性の持ち主で都市にて最新のモードを身に纏いかうしてグローバルに活躍するのだ。
ほんたうに君は馬鹿だなあ。
其れもまるで駅前の高級分譲マンションのCMの如くに薄っぺらいしかも如何にもバカバカしい価値観をまるでお題目の如くに述べ立てやがって。
ではおまえの眞の姿を今此処に示そう。
何を隠そうおまえは其の強欲資本主義に踊らされて居る只の🐵だ。
おまえはすでに社會に洗脳されて居るのだ、其の強欲の👿の論理にこそさうして醜く踊らされて居やう。
でも僕らはもう山の中でウンコなどたれてはおりませんが。
だから逆だらう、ソレ?
別にウンコは垂れてもいいのだよ。
第一そんな裸でもって毛むくじゃらでも其れが自然なことなのだから全然恥ずかしいことじゃ無い。
逆にそんなおかしな服を着込んでグローバルに金融資本主義をやり大多数の人間をイジメることこそが其の獣の仕業なのではないかいな。
逆にそんなおかしな会社などつくり其処でもって自然を搾取しやりたい放題に自分等の望む物ばかりで満たして置いて其れでもじぶんがむしろ利口だとさう述べて居る様こそが大馬鹿でありおおまさに理性無き様であり心のウンコたれ其のものなのではないかいな。
さて其の時近代の開始と云うタイムリミットが間近に迫っても居た。
其れは近代以前の具象的進歩に頼るやり方ではとても人類の人口爆発を支えることなど出来なんだが故にだ。
さう近代の開始とは其の弁証法的歴史過程とはまさに其の歴史としての人類の危機を救う為にこそあった訳だ。
其の弁証法的進歩がもしも成らねば近代は開闢することが無く従って我我の父ちゃんや母ちゃん、其れに数世代前までの御先祖様は皆飢え死にする位が関の山でよって我我が今此処に居る筈も無いのである。
なので近代はまず何より偉い!
偉いのだがまさに其処には大きく問題点が畳み込まれておった。
其の意味では近代とはまさに捨て身の新世紀であった。
おおまさに奇跡の世紀、奇跡の歴史過程であったのだとも言えることだらう。
ところがそんなまさにミュータントみたいな或は超人みたいな社會は兎に角やることが全部やり過ぎばかりなのでいつの間にかバランスが取れぬやうになっちまう。
其のバランスを取ったと云う意味ではむしろカントの哲學の方がしかと其れを取っても居やう。
でもヘーゲルの弁証法は兎に角正しくしかも優れた考え方なのだ。
うーむ、どうしても其れを否定することなどは出来ぬ。
何故なら其れをイザ否定するとなるとむしろ自分が今此処に居ることを否定することとなって仕舞うからだ。
「其の抽象的進歩の中には観念としての悲劇性がしかと刻み込まれて居やう。」
詩人が其処まで言うならちゃんと其れを証明してみよ。
だがヘーゲル弁証法の概念規定にはちゃんと生の具象性の部分も組み込まれて居て其れを批判するのははなはだ困難だ。
ーそれでいながら、特殊的・偶然的なものの内にではなく、即自かつ対自的に存在するもの(自覚・認識と充足の一体性、形式と内容の一体性)の内にいようとする内的な欲求に従った、現実との熱い和解・平和」である、ということになる。ーー弁証法#ドイツ観念論による弁証法的回答より
あえて言えばカントの考えは限定的ー繰り返しーなもので、ヘーゲルによる弁証法はまさに発展的ー前向きーである。
近代以降の社會ー文明ーは其の弁証法により生き延び尚且つ発展することさえをも可能として来た訳だ。
「現実との熱い和解・平和」
もしや其の熱いと云うのがやり過ぎなのじゃなからうか。
何も其処まで熱くならずとも…。
で、結果的に進歩は調和もまた平和も齎しては呉れぬ。
と云うことは当時からやる気の無いショーペンハウアーによる悲観哲學の方がどう考えても解脱思想には近い筈だらう。
さても此れは分かり易い。
- 弁証法は、対立するものが一つであることを証明する。
- 歴史はただ繰り返すのではなく、弁証法的に発展していくものだ。
- ヘーゲルが主張する弁証法は、お互いの意見を統合していくことである。
- 「ラーメンを食べたい人」と「カレーを食べたい人」が弁証法的に考えた結果、「カレーラーメン」が生まれた。
- アリストレスは自然学に則り、弁証法的に考えることを重視した。
- マルクスは唯物論の考え方に基づき、唯物論的弁証法を唱えた。
- 心身二元論を統一した考えにするには、弁証法的な思考が必要だ。
但し歴史が元に戻らぬものだとはもはや言い切れぬところがあります。
要するに具象的限定がイザ強く働くと文明社會は過去へと逆戻りする可能性が無いでは無い訳だ。
實際21世紀は感染症の流行や温暖化の大問題などで文明の進み方にもある種のいびつさが出て来て居ます。
或はもはや理念的な発展ー抽象的進歩ーだけに寄り掛かるやうな時代では無いのかもしれません。
発展と云うことはより高次な段階への文明の移行ー止揚の過程ーと云うことでせうが何より其れは資源的な且つ精神的な意味での限定を考慮して居ない考え方です。
ところが實際には個としての欲求と社會としての欲求に乖離がある即ち即自かつ対自的に存在するものの間には内的な欲求としての差異が認められる筈だ。
要するに其の社會の欲求とは至極抽象的なものとなり易く逆に我我個の欲求は常にもっともっと限定されたものでせう。
ー例えば社會は抽象的利益に群がる。GDPだのまたAIだの宇宙開発だのさうしたものに何故か拘る。対して個は自分と周囲の具象的存続を究極的には願うばかりである。ー
さうだ、我我は別に宇宙など行かなくても良いから毎日ちゃんと飯が食え例えば庭に出てキイチゴを摘んだり猫共とじゃれあったりすることが何より幸せ♡な筈だ。
別に再生医療で復活したりクローン化などされずともたまにはルンペンさん達ともお話の出来るそんな自由な意思こそが与えられてしかるべきではないか。
其れなのにかうして毎日会社で訳の分からぬ仕事をさせられおまけに生意気な妻や子に毎日小言を言われ続けさらにこんなコロナ禍にて兎に角金が無い。
そんな状態で良くも宇宙開発だの会社の利益だのとそんな抽象的なことばかりを述べて居られるものだ。
第一そんなものに俺らを巻き込むな、社會よ此のボケが。
其の抽象的な社會の目的とはな、結局自分等が神にならうとする妄想に起因するところでのもので嗚呼其れぞまさに獣の欲望のことだ。
でも近代は偉い!のでは無かったのか?
だから近代が偉い!ことの為にはまず肉体を維持する具象性こそが不可欠であらう。
其の具象性も与えずして何が進歩だ、何が弁証法的歴史過程だ。
何が自然科学だ、一体何が科学技術の進展だ。
かうして食うや食わずのみんなが死んでも其れでも社會は進歩するとさう仰りますのか!
社會はな、一遍頭を冷やせ、其の頭でっかちの頭をな。
さうだ、是非進歩を止めて其の分の金をベーシックインカムへと回せば良いのだ。
さうだ、イチローやTOYOTAなどの大金持ちから大金を毟り取り其れでもって其れをみんなに配れば其れで済むことだ。
さうだ、人間は決して神になどなれぬぞよ。
カントはな、其の神をちゃんと神として認めて居たぞ!
もう頭がオカシイぞ。
もしやじぶんの頭がオカシイのか?
いや現代社會としての頭ー思想ーが何よりオカシイのだ。
尚個人的に私は其の二元対立を統合に導くことなど誤りだとさう考えて居る。
そも二元対立は統合など出来ぬので其の侭で矛盾であり苦の種である。
其の矛盾であり苦の種に寄り添うところにこそ慈悲の心がまた異の苦への理解が生じるものとさう考える。
ところでおまえはさうして庭の木苺を摘んだのか?
はい、實は昨日摘んだところです。
其の木苺を食ったな?
へい、食いました。
さても今年の出来はどうであったか?
ほい、其れが何故か豊作で沢山採れたので御座ります。
庭の木々がまさにボウボウに生えて居り其の自然状態のところへ木苺が繁茂し沢山實を付けたので御座ります。
しかも何故か鳥などが食いに来ず其れでもって其の全部が我のものとなったのです。
果たして其れはどんな味でしたか?
うーむ、要するに進歩思想とは眞逆の實に素朴な風味が致しました。
謂わば其の弁証法的過程ー進歩主義ーなどには毒されて居ない自然物其の物の風味、今此処に其の侭に与えられて居るであらう作為無き優しい味がしたものだった。
ところで弁証法的発展は良いのですか其れとも悪いのですか、まさに其れが問題なのだが…。
だから其れはあくまで社會にとっては良いことです。
でも個にとってはむしろ要らぬものでもある訳だ。
なる程、最終的には次第に自他対立がどうしても大きくなる考えだと云うことですね。
なので理想的には社會は共同体レヴェルでの統治がより望ましい訳なのですが其れがそも近代の推進力とは矛盾して仕舞う訳だ。
とのことですのであくまでやるだけやってむしろやり過ぎて現代文明はドカーンと其の宇宙の肥溜めやら歴史の🐜地獄やらへと落ちて行くことでせう。
でも私などはもはや其れには付き合わずさうして庭でセッセと木苺でも摘み其れを食ってることこそが何より幸せなのだ。