目覚めよ!

文明批判と心の探求と

オリムピックはそも必要なのか?

 

まずオリムピックのことですが、此の問題は矢張りコロナウイルスに突き付けられたところでの文明に対する具象的限定=抽象的な文明の形が維持出来なくなる=限定されざるを得ない、だと云う部分にこそ本質的意味があります。

 

尚私の其の「具象的限定」論とはズバリ直観智によるものであり私が持つ知性其のものがさう判断して居るのでは御座りません。

知性とは所詮は部分知のことですのでむしろ其れを抑える形にて事象をより大きく統合的に見詰めることで其の結論を得たものである。

 

 

さて其のオリムピックをやりたいのがまさに文明の側なのですが其処には主に経済的利益の問題が横たわって居ます。

よって最終的には社會の側による功利的価値観の追求ー現世利益主義ーと個としての論理としての命を守る為の価値観が其処にぶつかり合いまさに二元対立化する訳です。

 

なのですが其の折角の具象的限定ですのでむしろ私は其れに従うべきなのだらうと思う。

 

ですが、社會的に齎される事象とはあくまで矛盾的推進ですのであくまで個としての立場からは其れに反対して置くこともまた必要な価値なのだらう。

 

さうして國民が反対しつつも結局無観客にて其れが行われる可能性がどうも高いことだらう。

かうして社會組織は巨大化すればする程に理性的な意思決定を失い相対的矛盾を引き起こして行くのだらう。

 

特にスポーツを媒体とする組織は矛盾化し易く此の問題の遥か以前より其処での様々な問題が浮き彫りにされたりもして来た訳だった。

 

 

何より問題であるのはまさにオリムピックをやらねばならぬ状況へと文明が追い込まれて居ることだらう。

やらねばならぬ状況へと文明が追い込まれて居ることの最大の理由とは「人間は進歩する」動物だからでもあることでせう。

 

もしも其の抽象的に規定される「より良くなる」価値即ち「より速く、より高く、より強く」を全的に履行するのであれば限定物である人間、また自然の性質上いつかは其のバランスを崩しむしろ破壊へと勤しむこととなるのが必定です。

即ちむしろ人間にとってはむしろ何処にも「より速く、より高く、より強く」なるやうな義務など御座りません。

 

むしろ人間にとっては「より考え深く、より慎み深く、より何もしない=弱くなる」と云った価値の方が今や明らかに向いて居りませう。

即ち其のイケイケドンドンの社會では無くまさにやる気無し系=所謂ふるカフェ系、またヴェニシアさん系、或は鴨 長明系の其のなーんとなーくシアワセーな感じ、即ち知性又は意識の高さだけはあるのですがまるで社會を動かして居ないと云ったタイプでの生き方こそが文明にとり望まれるのではないか。

 

 

だが其は競争社会を否定する日教組のやうな思想だな!

いや確かにかって私は日教組を批判して居りました。

また左翼思想なども認めて居りませんでした。

 

ですが私は昔むしろ左寄りだったのです。

ところが左の國の体制か又は日本の左翼思想は矛盾だらけでまるで理窟に合わぬのでもうイヤになりまだしも保守化した方がマシだとさう考え拾年間位は保守としての立場を貫いて来ました。

 

 

なのですが最近の保守勢力の頭の悪さにもうほんたうに嫌気がさして仕舞いこれではイカン、むしろこのままではボクもバカになって仕舞うぞ。

第一僕は頭が良いとさう思い込んで居ることだけが取り柄だと云うのにこのままではもうほんたうに其の馬鹿がじぶんの脳に移り其の頭の良さが破壊されかねぬ!

 

是非其れだけは阻止せねばなるまい。

との一心から保守の看板を思い切って下ろしまた急に「赤旗」などを読み始めたので御座ります。

 

 

ですので元々競争社会は嫌いだと申しますか性に合わずよって資本主義経済システムに対しても批判をやれともし言われればもう何処までもやれる自信だけはあります。

でもより正確には其の右や左も無く現代社会全体への不信感と申しますか疑いと申しますかむしろそんなものにこそ深く深く捉えられつつある。

 

 

ー「より速く、より高く、より強く」は、より優れた存在になることを目指すという意味で、オリンピックや競技スポーツの代名詞のようにも使われます。この言葉はもともと、高校の校長をしていたドミニコ会のアンリ・ディドン神父が考案し、1891年に生徒たちの陸上競技大会で学校のモットーとして述べた言葉です。すべての生徒が、自分のレベルの中で少しでも向上できるように頑張ろうという意味で、他人と比較しての優劣ではなく、基準はあくまで自分自身であり、現在の自分から一歩でも前に進もう、そのために行動しよう、ということを説いています。

この競技会を参観していたクーベルタンは、1894年のIOC設立時の会議で「より速く、より高く、より強く」をオリンピックのモットーにするよう提案し、採用されました。「より高いパフォーマンスを通して、人間の完成に向けて永久に励む(努力する)こと」を意味するこの言葉は、単に競技力の向上だけではなく、競技力を高めていく中で、人間としても日々向上していくことを目指す考え方なのです。先にご紹介したオリンピアンたちは、まさにオリンピズムの体現者であり、素晴らしいお手本といえるでしょう。ー人類にプラスのレガシーを 〜オリンピックの素晴らしさ〜より

 

然し其の人間の完成と云うことには此の種の構築つまりはプラスの面とむしろさうしたイケイケドンドンの面を抑制するマイナスとしての作用がある筈です。

 

イケイケドンドン⇔イケイケドンドンの否定

 

と云った具合です。

かうして価値には必ずや二面性があります。

 

其れは此の世界の構成要件がそもさうした二元的対立を基調とするものだからです。

 

イケイケドンドンでもって欲望を全部プラス化して仕舞えばイザ其れが抽象的に規定された場合には即破壊に直結する訳だ。

他方でイケイケドンドンを否定しますと市場経済が齎すやうには我我は豊かにはなれぬ。

 

ですがイケイケドンドンを否定したにせよ一部の左翼の方々のやうに田舎でもって農園をやってみたりまた山にて炭焼きをやるだので生きて行けぬ訳では無いのでせう。

其のイケイケドンドンが何故イケナイ思想であるのかと申せば結局は其れが矛盾的推進となり自然に対し高い負荷をかけ其れを破壊へと至らしめて仕舞うからこそイケナイのです。

 

 

では暴力革命にて全世界を共産主義へと導くことこそが社會に対する救済策なのですか?

確かに其の純粋な共産主義の實行による計画経済の世界的な樹立は地球温暖化や行き過ぎた技術開発の抑制には繋がることでせう。

 

また無政府主義としての共同体統治と云う形で計画経済的なシステムを築いて行くことなどもまた望まれることである。

要は廿世紀的なイケイケドンドンとしての体制は経済体制にせよ政治体制にせよもはや望まれては居ないと云うことに尽きて居るのだとさう思われる。

 

 

ところが、です。

ところが其の計画経済的なシステムをたった今構築したにせよもはや地球温暖化を止めることには繋がらぬ可能性すらもがある。

何故なら今世界が抱える本当の意味での危機が此の近代三百年に於ける文明により行われし負の遺産としての自然への破壊です。

 

だったらもはや傍観して居るしか無いのか?

もはや傍観して居るしか無い面も半分程はある位に思って置く方が良いことだらう。

 

 

ー「より高いパフォーマンスを通して、人間の完成に向けて永久に励む(努力する)こと」を意味するこの言葉は、単に競技力の向上だけではなく、競技力を高めていく中で、人間としても日々向上していくことを目指す考え方なのです。ー人類にプラスのレガシーを 〜オリンピックの素晴らしさ〜より

 

其のレガシィとはさても一体何どんなレガシィなのだらうか。

其れはそも破壊の為のレガシィなのか?

 

また其の人間の完成とは大金を投じて物凄い施設を造り其処でもって凄い宙返りをやったり百分の壱秒速く走ったり六メートルを跳んだりすることでは無いやうに思う。

人間の完成とは大金など無くとも幸せに暮らせることにむしろ気付くことであり其れも抽象的にでは無く具象的に与えられし人間としての生活に満足し且つ感謝しつつ生きることであらう。

 

 

さてそも運動部がバカだとは申しませんがどちらかと言えば其れは縦社会其のもの、縦の正のヒエラルキー組織ですので馬鹿化するに足る組織としての非合理性をも充分に有して居ることだらう。

さてもスポーツとは本質的に馬鹿が行うことなのでは?

 

まあ其処は軍國主義と高校野球が結び付いて居るやうなもので確かに馬鹿の祭典なのだらうが個人的にはむしろスポーツのことを擁護して参った。

何故ならスポーツとは「役に立たぬ」価値だからなのだ。

 

さうだらうか。

でも其れこそオリムピックでは國家間の熾烈な競争だの経済的な儲けだのが優先され其れぞまさしく「役に立つ」価値其のものなのではなからうか。

 

だからまさに其れが馬鹿がやるスポーツ大會のことなのです。

対してお利口なスポーツの祭典とはまさに其の克己であり努力のことなのです。

 

アレ、努力などは要らぬのではなかったか?

 

まあ本質的には要らぬのだが其れでは理想論ともなって仕舞うのでたとえば獣共には獣に応じた競いの場を設けてやらうと云うお話をして居ります。

だから其れはあくまで克己としての努力であり社會の努力などであってはむしろならぬのです。

 

 

例を示せばギリシャの昔になどは詩作を競う競技などもまたあった訳だった。

だから其れこそがまさに「役に立たぬ」桂冠詩人としての価値ではなからうか。

 

お役立ちの為にだけ、其の社會の為になることだけを目標に掲げ挙句の果てにはまさに戦争の代わりに優劣を競い合いさらに其処で経済的利益を貪る人々を多数生み出すなどと云うことはむしろ人類全体の利益にはまるでならぬ価値であり其れ即ち役に立つやうで居てまるで「役立たず」としての抽象的妄想のことだ。

 

左様な論理から所謂近代オリムピックなどもはや我我にとり不要なのだ。

但しスポーツの祭典を全否定して居る訳では無い。

 

其のスポーツとしての意義を社会情勢などから鑑みより理性的に構築して行かねばならぬ時期にさしかかって居ると云うことなのだ。

 

まずはスポーツを金まみれの侭に放置して置くべきでは無い。

次にスポーツが出来ることが全的に人間として偉い訳なのでも無いことに気付くことだ。

 

 

IOCは、近年、オリンピックの価値を卓越性(Excellence)、友愛(Friendship)、尊重(Respect)という3つのキーワードで表現し、世界の若い人々がこれを頭で理解するだけではなく、身をもって行動することを求めています。オリンピズムが個人から社会へ、国や地域へ、そして世界へと、言葉だけでなく実践を伴って深く浸透していったとき、どのような世界が実現するのでしょうか。

オリンピックは、競技スポーツを中核としながらも、そこには国や地域間問題、ドーピング、放映権とジャーナリズムなど、さまざまな分野の世界が絡み合い、各方面に大きな影響を与える巨大イベントに成長しました。オリンピック自体もまた、人類の英知を結集して、それらを連携・調和させ、人類にプラスのレガシー(遺産)を残し続ける模索の中で歩んでいるといえるでしょう。ー人類にプラスのレガシーを 〜オリンピックの素晴らしさ〜より

 

 

其の近代オリムピックの理念とは自由、平等、博愛と云う仏蘭西革命としてのテーマに進歩思想としての弁証法過程を融合させたものであらう。

 

確かに其れはまさに良い意味でも悪い意味でも近代的な価値を實現して行く為のものである。

であるからなのか次第に其れは肥大化、巨大化の一途を辿り人間のあり方の限界、また國家としてのあり方の限界に達して仕舞って居るきらいさえもがあらう。

 

人類の英知とはむしろさうしたやり過ぎのものへの抑制を行うもののことであり、むしろさうした過剰な部分を止めることの勇気の為にこそ使われるべきことではないのか。

出来得れば早々に虚ろに巨大なるスポーツの世界に於ける抽象的に構築されし価値が解体されスポーツが個としての具象性ー克己としての努力ーを取り戻さんことだけを今切に望みたいところだ。

 

 

スポーツとしての肉体性の歓びとは運動することによる素朴な歓びであるべきだらう。

 

逆上がりが初めて出来た→嬉しい、しかも樂しい

初めてドライヴァーショットが200Yも飛んだ→嬉しい、しかも樂しい

 

美味い飯にありつけた→美味い!、しかも樂しい

 

其れ見よ、まずは個による運動ー行動ーこそが全ての基本であらう。

其処にデカ過ぎる社會的な要素が加わる程にスポーツの世界は歪曲され純粋なる其の肉体の歓びからは乖離して行くこととならう。

 

 

との訳で、其のスポーツとしての意義は大いに認めますが近代オリムピックに対しては大いに懐疑的であると云うことをまさに述べさせて頂きました。

またコロナ禍の元其れを行うことにも当然ながら批判的なのですが最後に少し其れとは違うことも述べて置きたい。

 

 

其れは人間の生を司ることだらう社會生活がそも矛盾的推進により営まれて居るであらうことだ。

 

たとえば戦争は人間の社會をむしろ大きく進歩させて来て居る。

我我が今享受する便利な社會生活はむしろ其の殺戮の上に築かれて来て居るものだ。

また戦争が起きれば何よりも儲かることだらう。

 

其れは我我が抱く素朴な感情とはまた違うところで社會が生み出す抽象的な価値の一つである。

 

対してオリムピックは屡平和の祭典などとも言われる訳ですが本質的には其れはまさに戦争と同じやうに全体主義としての性格さえをも帯びて居るものだ。

そんな社會に於ける正の歩みであれまた負の歩みであれ本質的にはあくまで其れは全体主義としての傾向を帯びざるを得ない。

 

たとえば先進國化して行くこと、つまりは地球上の國國が皆近代化に勤しむことこそが其の全体主義である。

また民主化して自由経済体制を布くことなども其の全体主義である。

 

故に近代オリムピックもまた其の全体主義としての性質を色濃く持って居るものだ。

 

まさに其れは人間が「より高いパフォーマンスを通して、人間の完成に向けて永久に励む(努力する)こと」をやらねばならぬやうに仕向けられて居ると云うことなのであり且つ常に「より速く、より高く、より強く」あらねばならず其れが出来て初めて偉い近代國家であり偉い人間様だと云う事にいつの間にかされて仕舞って居る訳だ。

 

逆にパフォーマンスをせずに公園のベンチにて昼間から寝て居たりさうして好きな石採りばかりをして居ると頭がオカシイ人のやうに思われるのだがどうも私には其のやらねばならぬことの価値としての方向性がそも違って居るやうに思えてならぬ訳である。

其れぞ即ち放棄としての価値、あえてやらぬことの中に潜むいま一つの理性の方向性としての価値なのではなからうか。

 

其の「役立たず」にして役立つ価値、其れをこそ見詰め最近の我は此のコロナ禍を生き続けて来た。

克己と努力は實はさうした方面にさえ拡がって居て故に私は決して日々を遊んで暮らして居るのでは無いのである。

 

むしろ其れこそが新たな価値観を私の心中に醸成させつつあるのだとも言えやう。