ー何用あって月世界へ?
月はながめるものである 山本 夏彦ー月探査と科学より
さて其れでは月は眺めるだけのものなのか其れとも人間が行って良いものなのかと云う点に就きこれから論じてみやう。
まず重要な点は月は文明にとり以前から神話や寓話などと云った範疇に属するもので合理的に理解されたものでは無かった訳なのである。
かうして確かに見えては居るのだけれど其れでも其の正体は見えなかったと云う意味であくまで神話や寓話の世界に属するものであった。
其れでも科学的な世界の捉え方が可能となるにつれ其の姿を客体視することが次第に可能となって行った。
宇宙に於ける其の客体視を可能とさせるに至ったのがまさにコペルニクスの地動説によるものだった。
ーしかし、1616年、ガリレオ・ガリレイに対する裁判が始まる直前に、コペルニクスの著書『天球の回転について』は、ローマ教皇庁から閲覧一時停止の措置がとられた。これは、地球が動いているというその著書の内容が、『聖書』に反するとされたためである。(因みに「聖書」には天動説が載っているわけではなく「初めに、神は天地を創造された」という記述があるだけである。「ヨシュア記」か「士師記」にイスラエル人が戦っている間神は太陽を天空に留めた=ふつうは動いている、という記事がある。) ただし、禁書にはならず、純粋に数学的な仮定であるという注釈をつけ、数年後に再び閲覧が許可されるようになった。ー『天球の回転について』とローマ教皇庁・キリスト教より
ちなみに私は合理的なものの見方を全否定して居る訳では無い。
但し合理的なものの見方を半分位にして置かねばおそらく社會は破滅に導かれるとさう考えても居る。
何故なら世界の安定的なあり方とはむしろ二元対立としての認識上の均衡を図る部分にこそ尽きて居るからなのだ。
まさに其れこそが人文知の上で私が生涯を費やして得た結論なのだ。
左様に二元対立は其の二元対立の侭に程良く均衡させて置く必要があらう。
何故なら、
右⇔左
と云う概念対立に於いて右と云う概念分離を否定し且つ左と云う概念分離を同時否定すれば其の概念対立は消滅する。
其の消滅をこそ目指すのがまさに釈迦の佛法であるのだが其れは人間にとってはまず不可能なこととなる。
二元対立を超克し涅槃か又は神へと至るのが人間救済の仕方であるが神へと至るのが難しいこと以上に涅槃へと至ることは難しい。
其れは人間にとりほとんど不可能なことであると言っても過言では無い。
其の分離された概念同士には相剋し尚且つ相即する関係性が常に生じて居る。
要するにいがみ合いつつも無関係では居られぬと云う状態が生じて居る。
佛教では概念対立其れ自体の抹消を図る訳だが、キリスト教では其の概念対立其れ自体を神へと丸投げする。
つまるところは其の対立を神の領域での分離対立に変換し、
善⇔悪、
と云う最終対決を行い悪を滅ぼし全てを其の善なる神の全能性の元に統べて行くのである。
だから二元論から発して最終的には一元化して行く動きこそが宗教の名のもとに行われる救済の過程となる訳だ。
今一度言おう。
佛教とキリスト教とでは其の方法が異なるだけで人間に救いを齎すと云う点では一致して居る。
キリスト教に於ける唯一の神は分離の神だが人間の理性ー信仰ーにより其の分裂は統合されやがて善知識其のものとなる。
対して佛教はもっともっと理性的に反省するとでも申すか理性其のものの働きを停止させて仕舞う方向へ歩むのであるからもう此れはトンデモ無く難度が高い訳だ。
要するに今私が述べて居る事とは其処でほぼ最大限としての人間の理性が要求されて居ると云う事實のことである。
即ち正しく理解されるところでの宗教的な営為とは至極理性的な領域にあることだけは是非ご留意頂きたい。
よって宗教は因習でも無く迷信でも無く根っから非合理的なものなのでは無い。
其れがむしろさう見えて仕舞うのは釈迦の弟子の多くやキリストの弟子の多くが凡人であり即ち常識的発想に留まる俗人ばかりであったが故に其の教えが決して正しくは受け継がれなかったからなのだ。
其の合理性の問題に就いては正教としての宗教は充分に合理的なのだが其れは所謂科学的に合理化されたものでもまた無いのである。
なんとなれば宗教とは分析的知性ー還元知ーの集積では無く謂わば全体論としての知性の集積ー叡智の集積ーでこそあるからなのだ。
であるから私はまず其の知としてのバランスのことに就き述べまた同時に宗教への誤解に就き述べて置いた。
よって科学はむしろ宗教から生まれ宗教の元へと戻るものである。
あらゆる知の其の母胎となるものが正教に於ける知としての源なのだ。
でも邪教は…。
そんな邪教のことなどは此の際どうでも宜しい。
教祖様がそんなに威張りたければ威張らせて置けば良い。
でも教祖様がたとえどんなに威張ったとしても此の社會はまた人間共は救えやしない。
さうしてアナタが威張るから…。
だから何度も申して居りますが私は金輪際威張ってなど居ない。
邪教の教祖様とは違い私は至って謙虚なのだ。
ーガリレオが地動説を唱え、それを理由にカトリック教会から有罪判決を受けたことはかなり有名である。このことから、当時地動説を唱えるものはすべて異端とされ、それによって科学の発展が阻害されたと考えられてきた。しかし現在では、ガリレオが神父たちよりもキリスト教の本質をよく理解し、科学的な言葉でそれを説いていたために快く思われず、でっちあげの偽裁判で有罪判決を受けたのではないかと指摘されている[27]。ーガリレオ・ガリレイ #裁判より
ー地動説について言及する際に、必ずといっていいほど、地動説がキリスト教の宗教家によって迫害されたという主張がされる。ローレンス・M・プリンチペは、「科学者」と「宗教家」の勇壮な戦いという19世紀後半に考案され普及した闘争モデルは、現在(2011年)においては、科学史家は皆否定していると述べている[1]。このモデルでは、歴史的な状況を正しく理解することはできない。ヨーロッパ近世初期の自然哲学者は、自然を知ることは神を理解することであると考えており、信仰と科学的探究に矛盾はなかった[1]。ー地動説#太陽中心説とキリスト教より
かうしてキリスト教と科学はまるで無関係なものだったのでは無く且つ完全に対立して居た訳なのでもなかった。
科学⇔キリスト教
とのことであるから其処には相剋し尚且つ相即する関係性が認められむしろ科学として神による被造物としての自然を理解することこそが神其のものを理解することでもあった訳だった。
西洋の學者の中には資本主義とキリスト教の関係を論じて例えばピューリタニズムが資本主義の母胎となったとされる説さえもが其処には存する。
其処の部分をいま少し掘り下げ考えると科学や資本主義と云った唯物論が近代以降盛んになって行く訳だが其れの母胎となったものこそがまさにキリスト教であり其のキリスト教には何より神の叡智が備わって居る筈なのだ。
我が國での大乗佛教にせよかっての僧侶は日本を代表する知性の集まりであった筈なのだが其れがいつの間にか宗教的なもの=非合理的な眉唾物であるかの如くに歪曲され理解されるやうに至ったこと自体が残念なことであった。
ー月は眺めるだけのものなのか其れとも人間が行って良いものなのかー
尚今宇宙開発競争が熾烈なものとなって居ることであるらしい。
だが一体全体何の為の宇宙開発競争なのだらうか?
かうしてみんなが何時コロナに罹り何時死ぬるかも分からぬ時であると云うのに何故國家はそんな意味無き宇宙での争いに血道を上げて居るのだらう。
おそらく其れは社會が目指す価値が抽象化されて居ることー合理化され過ぎて居ることーによるものなのだらう。
其の抽象化され過ぎた価値を如實に示すものこそが科学技術の進展の速やかさである。
だが其の科学技術の進展で進むべき方向性を見誤ってはならぬ。
其れは何故か?
バランスの良い二元対立の方向性が其処に崩されるからなのだ。
科学技術の進展で進むべき方向性を見誤ることの例こそが其の宇宙開発である。
対して正しい選択として科学技術の進展を許容し得るのはまさに其れが環境保全、地球温暖化対策に関連した分野に用いられることなのだ。
科学には元々一元化性があり其れは科学が還元知に基づき構築される価値であるからのことに他ならない。
だが科学には文系知と理系知とがあり重要なことは其の人文知ー全体知ーの方が理系知ー還元知ーよりも広い領域を対象とする學問の集積であることだらう。
其の人文知には宗教の分野もまた含まれるのだと思う。
厳密には其れもまた二元対立する筈であるがとりあえずは宗教とはさうして人文知としての母胎でもあり且つ理系知の母胎でもまたある訳だ。
ー月は眺めるだけのものなのか其れとも人間が行って良いものなのかー
当時拾歳になったばかりの私は其の日両親から遅くまで起きて居るやうに言われ其の通りにまさに夜中まで起きつつずっと白黒TVを見詰めて居たのである。
即ちまさに其れが1969年の7月20日の有人月着陸船イーグル着陸による月面着陸の模様のTV中継であった。
「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である(That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind)」月面着陸 #アポロ11号の初着陸より
「Here men from the planet earth first set foot upon the Moon July 1969 AD. We came in peace for all mankind(西暦1969年7月、我等惑星地球より来たれり。全人類の平和を希求してここに来れり)」月面着陸 #アポロ11号の初着陸より
当時は此の月面着陸だのまた翌年の大阪万博だのと云った人類の進歩に関することが大きな話題となって居りむしろ学校の勉強などよりもそちらの話題について行くことの方が忙しい程であった。
ー人類にとっては大きな飛躍ー
ー全人類の平和を希求してここに来れりー
当時の社會の価値観からすれば確かに其の通りなのだらう。
だが当時はまさに御立派なことだと思えた此の種の科学技術による勝利宣言が今や虚ろな響きを伴って居るのは一体何故なのだらうか?
平和を希求し眞の飛躍をなす為に我我人類が今為さねばならぬこととはズバリ申して其の宇宙開発などでは無い筈だ。
平和を希求し眞の心の飛躍をなす為に我我人類が今為さねばならぬこととはむしろ其の種の抽象的成果から遠ざかることだ。
地球から眺める月はさうして決まって静かに光り輝いて居る。
だがイザ月へ降り立てば其れは穴ぼこだらけークレーターだらけーでほとんど大気の無いまさに殺伐とした世界であらう。月周回軌道から見た地球、1968年12月22日(NASAより)
ー大気が少なく、磁場が弱いために宇宙線や太陽風なども直接月面に到達するため、月面での生命活動に際しては、これらを防ぐ必要がある。また、昼夜の表面温度変化も大きく、赤道付近で昼は約110℃、夜は約-170℃となる。ー月 #性質より
無論のこと生命の維持どころか此処に月基地を造り暮らすなどと云う考えもほぼ妄想の域を出ないものであることが其れこそ客観的事實として其処に認識されやう。
宇宙とはつまりは生命にとり地獄のやうなところばかりである。
対して💎の如くに光と陰に彩られ命を育む場こそがかの宇宙船地球号なのである。
其れも此の宇宙船地球号ばかりでのことなのだ。
生命のオアシスは宇宙として認識される遠方には無く今此処にかうして💎の如くにおおまるで夢の世界の如くに今しかと此処にあるばかりでのものだ。
だが其の生命のオアシスはすでに病んで居る。
其の生命のオアシスを病むに至らせたのは誰あらう科学技術によるものであった。
科学とはさうして矛盾である、其れもより大きく突き付けられし矛盾である。
宗教⇔科学
だが元来其れは理知的なものでもある筈だ。
科学者が皆マッドつまりは狂って居るのだとはまさか思いたくは無い。
思いたくは無いのだが結果的に科学技術は我我をおかしな方向へと導いて行くやうな気がしてならぬ。
人文知⇔科学技術
謂わば人文知はウェットなものー非合理領域をも含む知ーであり還元知はドライなものー合理化されし知ーである。
然し地球は元来ウェットな場なのだ。
何故なら月は地球から見るものが一番綺麗なものとなるのだからこそ。ー所謂観月の宴での月の姿のやうにー
何、宇宙が浪漫?
宇宙は人類に残された最後のフロンティアでもって浪漫其のものなのだと?
だが残念ながら其の考えは✖だ。
其の浪漫はね、地球上に存在するものだけなのだ。
しかも美など宇宙には何処にも無い。
超新星の爆発などで宇宙基地も宇宙船も皆吹き飛ばされて仕舞うだけのことだ。
でも超新星の爆発を地球上で眺めて居る限り其れは極めて美しいものだ。
今から35年程前に貪り読んだ覚えがある立花氏による主要な著作である。
私は当時宇宙論が好きで其の種の啓蒙書ー文系の人にも分かる本ーを屡読んで居た。
宇宙論を其れなりに學ぶと次第に宇宙的な次元と地球上の次元の違いのやうなものに気付きまさに其のことが自らの感性と合致して居たのですでに其の頃宇宙は私にとり浪漫でも何でも無くなって居たのだった。
其んな折に此の本に出遇い、さらに其の宇宙が不毛の曠野であることの認識が高められて行ったのだと言える。
其の後私は古生物學や絶滅に関する啓蒙書ー文系の人にも分かる本ーを屡読むやうになって行った。
宇宙のことよりも生命の歴史の方へとさうして興味が移って行ったのである。
其の無機的な世界である宇宙と有機的な地球上の生命との差はあえて難しく言えば合理的領域に留まるか其れとも非合理領域をも内包するものであるかと云う違いであらう。
で、こちらでも語られて居るやうに宇宙を体験すると物の見方が変わって来る、其れも否応なくさう変化するのである。
其れは全体論的な視野が得られることなのだと個人的には解釈する。
だが当時から文學の研究もして居た我はまさに此れは詩人としての視野なのでもあるとさう理解した。
たとえばかの宮澤 賢治や詩聖タゴールが地球に居ながらにして保って居た視野こそが其の全体論的な視野である。
全体論的な視野が得られるとものの見方が変わり価値観も変わる。
下らぬものと眞に必要なものとの区別が付くやうになり価値観が百八十度変わるのだと言っても良い。
アポロ計画での宇宙飛行士の中には其の後熱心なキリスト教の伝道師となったり特に宗教を限定せず神を信じるに至った人が居たさうである。
つまるところは宇宙には神の視座を感じさせる何かがあったと云う話のオチである。
また自分としての視座もまた変わりより大きく地球を見られるやうになる。
即ち地球はひとつきりのものであり宇宙の他の場所に其れと同じやうなものがあり代替し得るやうなものでは無いことに気付く。
さう其れこそがまさにかけがえのないものなのだ。
でも其のかけがえのなさのことをすでに詩人は気付いて居る。
さうして地の上を駈けずり回りつつも彼等は其の意味に就き気付いて居る。
「地球はひとつきりのもので人間は其の部分であるに過ぎない」
其の事は分かる人には分かるのだがいかんせん人間には分からぬ人の方が多いのである。
「人間は地球でしか生きられない」
などと云うことも其の宇宙体験から齎される感覚であると云う。
でも其れも文學を齧った人にはすでに分かって居ることなのだ。
元より其れは分かり切って居るのだけれど、でも相変らず社會が分からず屋だから其の社會の推進者に限り余計に其れが分かって居ないと云った矛盾にも突き当たる。
いずれにせよ、其の文學の上での人間との苦闘を抜きにした上で此の本は若き頃の私の精神の指標ともなったものだった。
確かに私にも其の宇宙からの視座があった。
少なくとも私なりに創り上げて来た世界観のやうなものがすでに其処にはあった。
そんな風に全体論的に或は統合的に物事を見られる其の素地だけはすでに出来つつあった訳だ。
重要なことは意識的に認識上の転換を図って行くより他には手が無いと云うことなのだ。
其れはものの見方を変えることであり地に居ながらして行うことが出来るものだ。
持って生まれた其の意識が変わらねば何も変わりやうが無い生き物こそが人間なのだ。
見識を高く保ち大きく見る。
何故ならさうしなければ決して分からぬことが此の世には確かにあるのだから。
「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である(That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind)」
人類はだが月へ降り立つことで大きく飛躍し過ぎて居たのかもしれない。
何故なら地球から見る月こそが柔らかで、浪漫に満ち且つ美しいものであるからなのだ。
其れは地球の目から見て初めて成り立つ美の世界のことである。
地球を離れて我我の感覚は無くまた地球を離れて我我の思考はなり立っては呉れぬ。
地球を通して我我は宇宙を見る、だからこそ其れが美しく見えるのだ。
逆に宇宙から地球を見ればむしろ地球だけが光り輝いて見える。
其れが命の輝きであり知の輝きであり同時に信仰の輝きである限り其の美が損なわれることは無いのである。