年末臨時特集 人文の徒としてのAIとの對決
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まあ70代でも皆かうして死んじゃいます。
人間の寿命が延びてると云うのは単なる幻想ですので皆様是非考え直して置くべきでせう。
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此の問題などもまた面白さうだが壱つには立憲君主制がおそらく限界を迎えつつある可能性がソコには高くあらう。
其れも立憲君主制其れ自體が悪いと云うのでは無くおそらく現代と云う時代に其れがそぐわないのだらう。
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さて本日は其のAIの問題を人文詩人がどう解釈するかと云うことに就き解説させて頂く。
でもってしてまず其のAIの問題は基本的に不要不急の問題であると自分は捉えて来て居るのだ。
其の理由
1.AIは電源からコンセントを引っこ抜けば動かない=ほぼ死んだも同じ
2.AIは合理領域に特化した単なる物
1.に就いて
事實上現代文明が電気を使わなくなることは考えられない訳ながら今後の展開其れも自然現象からの限定に對し文明の諸機能は次第に不完全となって行かざるを得ずよって文明の諸価値の大幅な制約を余儀なくされて行くことだらう。
まさに其のやうに次第次第に其の文明による拡張主義に對する歯止めが其れも自然界より齎されると云うことだ。
其のやうな状態で人類はまだAIなどの人工物に頼るのだらうか?
従ってAIを使えない状態へと今後半世紀のうちに戻るとまず我は考える。
特に2050年辺りからは世界人口の増加と生態系の破壊による「飢餓」の問題こそが深刻化して来る。
いざさうなれば其処ではすでにAIもクソも無い訳だ。
よって人類が抱える問題の本質とは其のAIの問題ー科学技術の野放図な進歩ーなのでは無くむしろ物理的な地球の破壊であり且つ其のことによる文明の限定の問題である。
其れはむしろ自然VS文明ー人類ーの問題でありまた其れを集約すれば現存在が何故地球を破壊するに及ぶのかと云った哲學上での問題となる。
即ち科学的論議の多くがまさに其の人間存在としての「限定」性に就き正しく向きあって居らずむしろ其の「限定」性を外した上でつまりは現行の文明の営為が続くと仮定した上での論議となって居るがまずは其の認識こそが甘いと言うものだらう。
要するに現存在なんぞはまさしく吹けば飛ぶやうなもので「自然」に睨まれれば即終わりであるとの認識こそがそも其処には欠けて居るのだ。
まずは其の点がまさしく「文明ー人間共ーの思い上がり」の部分なのである。
2.に就いて
其のAIはそも生きては居ない。
生きては居ないものは単なる物である。
また石などもそも生きては居ないので単なる物である。
なんだけれども其れは自然物なのでAIなどとはそも違う。
其のAIに電気を流すと確かに将來は「超知性」となり神的な能力を獲得して行く可能性は高くある。
だが先にも述べたが将來科学者さえもが飢えるやうな状況で果たして誰が其の「超知性」に電気を流すのか。
要するに現在AIに於いて論議されて居ることの根拠となって居ることだらう「文明に對する全幅の信頼」其のものに我の場合は大きく疑問を持つ訳だ。
詩人が今所謂「直観」することで感ぜられて居る地球の危機とは「文明による自身の破壊」其のものでありむしろ其れは『自滅』と云うことなのだからして。
さて其の「超知性」化したAIは所詮嘘の神である。
なんとなれば其れは電源からコンセントを引っこ抜くと物化するまるで石みたいな奴だからなのだ。
AIは敵か(上)石黒浩教授の確信「やがて宇宙戦争が始まる」:日経ビジネス電子版 (nikkei.com)
さて其の大阪大學の石黑はキチガ〇なんじゃないかと我は以前何度か此処でも取り上げて居た筈だ。
但し此処でスイッチを切ればAIは終わりだとさう述べて居る部分はあくまで正しい。
ー石黒氏:より強い者を残すためには、生存競争が必要だと思います。その大規模なものが戦争だと思います。昔は隣の村と戦っていたのが、隣の藩との戦いとなり、そして国家単位の戦争となりました。そして将来、地球上で奪い合う資源がなくなれば、宇宙に進出するはずです。ーAIは敵か(上)石黒浩教授の確信「やがて宇宙戦争が始まる」:日経ビジネス電子版 (nikkei.com)
だがさう云う思想は屡右翼馬鹿が述べたりするまるで「幼稚」な思想であるに過ぎない。
どだい其の「より強い者を残す」考えに今凝り固まって居るのはまさしくアンタの頭の中身であらう。
まるで同じやうなことを近現代の進歩主義がさう言う。
「より速く より高く より便利に」だとか何とか。
だがさう云うのはあくまで詩人に取り「幼稚園児」位の理性レヴェルでのものでしか無い。
じゃあさう豪語するアンタは果たして何を人類の社會が目指すべき価値の理想だと捉えるのか?
其れ即ち自らの知恵にて「限定」し神か又は佛の御導きに従いつつ自然と共に生きることこそが人類の社會の理想としての価値観である。
また自然科学者は屡「文明の宇宙への進出」に就き述べまた其れはかのホーキング博士なども其れに就き語った案件だがしかしながら其れは如何にも「合理主義に頭を毒された」可能性が高い考えなのだと個人的にはさう考えざるを得ない。
對する根っからの文系人間は考えの方其れ自體が合理領域に特化して居らず要するにあくまで地球上での現實を見詰める力にはむしろ長けて居る。
よって宇宙もクソも無く要するにさうしてのべつまくなしに「増える現存在」であり同様にのべつまくなしに「自然を破壊」するに至る現存在であることこそがむしろ壱番の問題なのであり其れは合理領域以前での心のあり方の問題であるつまりは倫理観や道徳観念の欠如の方での問題だらう。
科学者が懸念「人類滅亡を招きかねない」2つの事 | 先端科学・研究開発 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)
即ち理系での頭の使い方と文系での頭の使い方がそも違うと云うことをこそ我は今此処にて是非述べて置きたい。
尚自分は意外と持ってる偏差値の方が高くは無いのですがとりあえずは高校の文系弐クラスでもって現代國語の成績は常にトップでしたので単なる馬鹿では無いのです。
また哲學的な考え方に對してはおそらく瑞穂区壱に強いことだらう。
其れもまあ日本壱だとはまさか申して居りませんのですが…。
AIは敵か(下)「人類は滅びる」英オックスフォード大哲学者の憂鬱:日経ビジネス電子版 (nikkei.com)
面白いのが其の哲學者であるニック・ボストロム教授が「超知性」は極端化するとさう此処にて断言されて居ることでせう。
其れ即ち、
超知性=合理領域の極大化⇔超おバカ=非合理領域の極大化
のことである。
つまり其の「合理領域の極大化」=超利口な部分には「非合理領域の極大化」=超おバカな部分がかうしてちゃんとセットになり仕込まれて居ざるを得ない。
なのでつまりは其の「クリップ」の無限の生産のやうな御話ともならざるを得ない。
つまりはまさに幼稚園児でもやらないやうなことを其の理性的なバランスを欠くAIが何故かやっちゃう訳だ。
だからAIなんぞは幼稚園児以下だと我は以前よりさう述べて来て居るのだ。
要するに其の「理性としてのバランス」を崩し合理方面へと異常に進化させたものこそが其のAIとしての本質であり正體です。
尚其の理性としてのバランスとは、
合理的理性⇔非合理的理性
ー分析的理性⇔非分析的理性ー
のことである。
人文學は主に右側を対象として論理の考究に至るものである。
よって特に文學の分野に於いては、
おおまさに「大宰のやうなドロドロの心中」又は「安吾や漱石のやうな半分発狂」また「三島の右翼自決」の如き滅茶苦茶が入りませうが其れはあくまで人間味の壱つなのですから。
エエッ?
あんな文豪共のハチャメチャ振りが所謂「人間味」なので?
だってかうしてみんな「人間なの」ですもの。
まあ然し文學の酷さの方もまた困ったもんです。
ですが實は其れ以上に「困ったちゃん」なのが實は合理領域に特化した技術開発の領域だらう。
であるからこそ技術開発の領域を「限定」し要するに其れを「自然破壊への対抗策」としてのみ使うことこそが特に今後はより望ましく思われる。
ちなみに我は其の「技術開発本部」なる処に13年間勤めて居た経験を持つ。
其れも其の研究開発とはまるで違う単なる下っ端での仕事ではあったが兎に角長きに亘り其の様を見聞きして来ても居る。
其処では其れこそ「燃料電池 - Wikipedia」だの「生物工学 - Wikipedia」の分野での研究開発が無論のこと行われて居たのだった。
さて以上により我は壱つの提言をさせて頂いた積もりです。
まさに其れは、
「AIにより人類が滅ぼされる前に人類が自然により滅ぼされる」可能性の方がむしろずっと高くあると云った部分です。
即ち本來自然は人類に取り「愛」其のものであるべきものだ。
しかしながら其の「合理領域に特化」した思考が其の「愛」を脇へと押しやり其の代わりに「合理的な特化物」を其処に無理やり嵌め込んだ。
するとどうなりますか?
「合理的な特化物」即ち加工物の群れと化した文明はむしろ悉くに自然との離反であり背反の過程を生じて行かざるを得ない。
現在現代文明が抱える問題の本質部とはまさに其のことにこそ尽きて居る訳だ。
また其のことを根本の部分で即ち抜本的に変えやうとするのであれば「合理領域への特化」を抑える=「限定」することでしかもはやあり得無くなる。
合理的理性⇔非合理的理性
ー分析的理性⇔非分析的理性ー
其の合理的理性領域では元元其の考えが壱義的に過ぎる。
逆に非合理的理性領域では元元其の考えが多義的に過ぎる。
其のバランスを取ることこそが人知に於ける眞の意味での理性の働きである。
また其れ即ち其れがやれて居ないので誰が何を言っても幼稚園児並みでの結論しか導き出せませんのです。
じゃあ人文詩人さんの言うことだけが正しくて文明はほぼ全部がバカなのか?
でもさう云う論理は屡精神科で入院する人達が良く言って居たりする論理ではないか。
あー、また自称詩人をさうしてバカにしたあ。
こんなにけなげで可愛い詩人さんをさうしてコケにしたあ。
でも自称の詩人はね、かの加島 祥造先生や養老 孟司先生の御弟子さんなのだ。
ほーれまた嘘をコイた。
そんな嘘コイてどうも御免なさい。
何せ御墨付きの部分が何処にもありませんものでつい…。
であるからして結局は「自然」VS「文明」のことがむしろ現存在即ち人類に取っての喫緊の課題であらう。
さて最近わたくしが良く思うのは本來「自然」は恵みを齎す神だと言うことである。
されど其の神をまさに暴虐なる破壊神に変えて仕舞うのもまた人間の営為=文明の営為によるものなのだ。
さうして其の変化とは畢竟人間の認識=文明の認識がさう変えて行って仕舞うものなのだ。
其れもより正確に述べればまさに其の認識としての方向性の誤りから文明其のものを自然に對する破壊者へと変えて仕舞うとのものだ。
故に自然に對する破壊を即刻止める為には文明の目指すところでの価値観を180度シフトして行く必要が是非ある。
其れ即ち「人間ー文明ーの為に自然を改変する」思考ー思想ーから「自然の為に人間ー文明ーを改変する」思考ー思想ーへとシフトして行かねば文明の未來はやがて途絶えやう。
「わたしたちーがーのーぞーむものーはー社會のためのーしぜんではなくー
わたしたちーがーのーぞーむものーはしぜんのためのー社會なーのだあーーーー!!」
※作詞者ー自称詩人
まあこんな年末までバカ文明と付き合ってるとまた可成に疲れます。
なのでまた自宅の捨て石の鉱山より石を掘り出し其れを今洗って居たりもする。
と申しましても其れは石では無くガラス片なのだが見やうによっては石のやうにも見える其の表面がすりガラス状になった5センチ程の物である。
其れもまた相生山にて壱年程前に拾った物であり人工物と気付いてからはずっと庭に捨ててあった物なのだ。
されど奈良時代とかそんな頃には其のガラスこそが高級品であり要するに御宝だった訳なのでひょっとすれば此れもまた御宝のやうなものなのやもしれぬ。
そんな訳で其れは今手元で鈍い光を放って居る。
だけれども其のAIにはそんな實存としての壱つの物語が感知出来ぬ訳なのであくまで其れは単なるゴミのやうなものとしか認識することが出来ぬことだろう。
所謂合理化の無味乾燥な部分とはまさにさうしたことなのである。
其の合理化を何処までをも推し進め挙句に宇宙領域まで拡張することの愚を此の際詩人はしかと此処に述べて置きたい。
現代文明に必要なこととは其の合理化領域の拡張のことでは無く逆に其れへのCUT OFF=「限定」である。
まさに其れが其のゴミを御宝として見られる迄に豊かな人文的感性を育むと言うことなのだ。
其の人文的な感性ー又は宗教的な感性ーはさうして地獄を天國へと変える働きさえをも持つ。
ならば何で文豪がああして皆死んでるのか?
だから文豪はきっと皆甘かったんだ。
要するに原稿料が如何にも高過ぎたんだ。
だから原稿料の相場でもって理想的なのはむしろゼロ円だらう。
…君がさうだよね、確か。
はい、残念ながらわたくしの原稿料はたった今ゼロ円です。
でもさうして原稿料にも拘らずまたゴミをも御宝の壱つと思う其の心こそが非合理主義者としての価値観であり認識なのだからして。
…そんなゴミと壱緒に毎日寝てろ、バカ詩人!
おや酷いことを仰いますが其れではアナタは其の宇宙への移住浪漫とやらと心中でもなさる御積りですか?
そんな空気も無く重力も変な他の惑星へ行き👽としてやって行く御積りですかアナタは?
でもわたくしの場合は地球が滅びるのと運命を共にする積もりで御座ります。
地球が壊れたーーーーーー!!!
と同時に、
わたくしも壊れたーーーーーー!!!
あくまでそんな運命共同體ですので宇宙なんぞには壱歩も出ません。
自分はあくまでかうして地球上で是非石を撫でつつ此の生涯を終えたい。
其のAI開発は合理化としての極のものだらうがかっての文豪達の自死などは非合理化の極での現象だったと考えられるのやもしれぬ。
要するに極へと偏り過ぎるとまともな認識とはなりません。
或いは其のことにより「愛」を失うのやもしれません、其の自然より我我現存在に對し差し伸べられた愛のうてな其のものを。
「自然」VS「文明」の問題は言うまでも無く人類に取りあくまで究極の問題です。
其処には常に根本のところで価値の對立、価値の齟齬が生じて仕舞って居る。
わたくしが言いたいこととは其の本質部を抜きにしてAIの問題を語ることなどは出来ないと言うことです。
でもって最も重要なことが「果たしてAIなんぞ要るのか?」と云った部分でせう。
勿論わたくしの論理で言えば其れは要らず逆に相生山で拾ったガラス片の方がどうしても實存に取り要る物なのだ。
其の要らない物には電気を通さない方が良いと云うことなどもまた言える。
つまるところAIは抽象的な思考の果てでの産物です。
其のAIにはそも生命體としての實感が欠けて居る。
そんなものを社會に入れて行けばまさに便利さと共にリスクが幾何級数的に増大しやう。
ですからこんなに豊かな心を持つ詩人が心底より分からないのは何故皆ー學者をも含めーは文明の価値を其れも盲目的に信ずるのかと云う部分です。
わたくしの場合は端から其れを疑ってかかって居ますのでほとんど何をも信用などしては居りません。
であるからこそ逆に神や佛や自然其のものを信用出来る訳なのです。
要するに其の心のあり方の違い、価値観としての立ち位置の違いこそがこんな破壊者としての文明を存立させることの基盤となって居るものでせう。