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文明批判と心の探求と

『インターステラ―』の視聴より見るコロナ禍

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ー近未来。巨大砂嵐が日常的に発生する異常気象により地球規模で植物・農作物の大量枯死が発生し、人類は滅亡の危機に晒されていた。ーインターステラー より

 

其の人類滅亡は有り得ることだ。

理性を持ちながら其の理性を誤った形で使うことから其れは引き起こされるのだと思う。

 

最終的には其の理性の使い方こそが文明の存続への死活問題となる。

 

我我還暦世代が小学生の頃は「気候変動により災害が多発し壊滅的な被害を部分的に受ける」ことなど誰も考えては居らなんだ。

我我還暦世代が小学生の頃はむしろ月面着陸と万博開催による科学の勝利を高らかに謳わんが為の時代であった。

 

 

だが誰しも冷静になりー独りになりー考えてみれば分かることながらどう考えても近現代は無理ー負荷ーを重ねて来て居る。

其の無理ー負荷ーの蓄積により地球が壊れ始めて居ることはほぼ間違い無いことであらう。

 

其の無理を止めれば破壊はもっともっと緩やかなものとなり或は何とかあと百年程も文明は生き延びられるのやもしれぬ。

でも止められません。

 

止まりません。

其のまるでカッパえびせんの如くに欲望には打ち克てぬものなのだ。

 

止めたい。

でも美味い。

 

我我は左様に食欲、性欲、さらに征服欲に深く捉えられて居り要するに其処でガマンがならぬものだ。

 

ガマンがならぬので個人的には欲のスケールの縮小の方へと向かいまさに其処に腐心しつつやって来たつもりである。

即ち欲望の対象其れ自体を限定しより小さな欲の範囲で其れを解放してやれば危険性其れ自体をより小さなものにすることが出来る。

 

だからソコまで理性的な人はまさに夜中の筆記でガマンが出来る。

否其処でこそすでに解放されておる。

 

綺麗な姉ちゃんの尻を触るよりも其の「カリカリカリ」ですでに法悦境へと達しておったのだった。

 

さらに石、コレを眺める。

嗚呼其の石の何と美しいことか。

 

是非其の石と戯れ石人間となれ。

石人間はな、孫など一切可愛くは無いものだ。

 

 

どだい我と同い年の宮崎 美子はな、何を隠そう其の石人間だ。

だが最近マクドナルドのCMでは母親役?をやって御座る。

 

だがどう考えても其の六拾弐の母親役はオカシイ。

どう考えてもすでに宮崎 美子はババアである。

 

でも宮崎 美子は其の辺のババアよりは明らかに若い。

其れはおそらく宮崎 美子に子が居ないからなのではないか。

 

 

さて其の『インターステラ―』を再度視てみましたが相変らず此れも難解な映画である。

 

正直何度視ても??と云うSF映画です。

 

ー出演はマシュー・マコノヒーアン・ハサウェイジェシカ・チャステインマイケル・ケインらであり・地球を離れ新たな居住可能惑星探索を行うためワームホールを通過し、別の銀河系へと有人惑星間航行(インター・ステラー)する宇宙飛行士のチームが描かれる。三次元に於ける不可逆性の時間と重力場特殊相対性理論ウラシマ効果)、特異点ニュートン力学スイングバイ航法、漆黒の宇宙空間、音の伝達、運動の三法則など科学的考証を用いた演出の他、人類存亡を賭けた未知の世界へ挑戦する倫理と勇気、信頼と愛、人生という限られた時間、ヒューマニズムも織り交ぜた物語の構成となっている。ー


クーパーは土星の軌道上に建造された巨大スペースコロニー内部の病室で目覚める。そのコロニーの名前はクーパー・ステーション。彼は宇宙に放り出され漂流中にたまたま探索中だった宇宙船に発見され、酸素の切れる直前にTARS共々救助されていた。救助された時点の酸素残量は2分だった。マーフの功績でスペースコロニーの建造と打ち上げが成功し地球の人類が救済されたのだ。コロニーにはマーフの功績を称え、彼女がかつて地球に住んでいた頃の家が再現されていた。クーパーはコロニーの病室で年老いたマーフと彼女の大勢の子や孫たちとともに再会を果たす。マーフは約束を果たしたクーパーを、エドマンズの惑星へ一人で向かったアメリアを捜索しに行くよう、優しく諭す。クーパーは修理したTARSとともに小型宇宙船に乗ってコロニーを後にする。ーインターステラー より


但し其の宇宙移住計画と云うもの其れ自体がコロナ禍以前には百%不可能なものとしては認識されて居なかったやうに思われる。

だからなのか此の映画も結局さうした意味で樂観的でありかうして結局文明は存続し人類は宇宙へと出て行く訳だ。

 

ところがコロナ禍による具象的限定がむしろ文明に於ける眞の姿を我我に提示しつつあるのだと言えやう。

其れは宇宙移住どころか大きくなり過ぎた格差や公権力の無能振りつまり危機を見通せず未来を築けぬ各國政府の危機管理のレヴェルの低さをまさに露呈することとなった訳だ。

 

 

無論のこと左様なことでは宇宙移住どころでは無くむしろ此の宇宙船地球号にへばりついて居るだけで精一杯の態である。

要するに人間は頭が悪過ぎて自分等が何処に立って生きて居るかと云うことさえもがまるで分からぬ訳である。

 

ではあるが今回のことでむしろ我我が學んだのは想念ー観念ーだけで我我の幸福が形作られる訳では決して無いと云うことだ。

何故ならコロナ禍による具象的限定で我我は分かち合うパイの部分を著しく限定されて仕舞った訳だ。

 

其れにも関わらず我我はまた以前の文明の状態へ戻りたいとさう願う。

 

だが其れは全体主義による洗脳の結果でさう思って居るだけなのだ。

正しくは「宇宙移住」をも特権層の繁栄をも永久に放棄する社會の制度をこそ今こそ確立せねばなるまい。

 

 

第一コロナ禍は文明が何処ぞオカシイからそも起きたことなのだ。

其れは自然災害なのでは無くして人災である、其れも謂わば文明災なのだ。

 

其れも欲ボケやら破壊に対するボケやらで文明其れ自体が狂って仕舞って居るから起きた謂わば価値観に対する罪の過程なのだ。

其の文明災を引き起こした責任は社會にこそあるから私は其の社會が悪いとさう述べて居る訳だ。

 

地球が壊れた→宇宙へと逃げやう

 

其れは非現實的な合理的観念主義である。

では誰が地球を壊したか?

 

 

我我です。

其れ見よ、お前等がまさに其の手でやって来たことだらうが。

 

どんな猛獣でもな、またどんな大食いの草食獣でもな、全くのところお前等よりはずっとマシだ。

お前等の其の強い獣の欲が何と抽象化されるに及んだのだ。

 

しかも抽象化された其の獣欲を理性的なものだとしてむしろ喜んで御座る始末である。

 

 

ばーか。

ほんたうに利口な人はむしろ何もやらないんだな。

 

 

だからむしろ其れが理性のことを誰よりも良く分かって居る状態なのだ。

「理性的なものはむしろ動かない」

 

何故か?

 

其れは實際に獣ほど良く動くからなのだ。

良く動き始終何かを食いさうして諍い合って居る。

 

 

其のスペースコロニーの建設には莫大な予算が必要だが事實上コロナ禍では其れをどの國も捻出出来ぬ。

かうしてコロナ禍とはまさに文明規模での大問題であり其の本質は具象的限定としての日常の破壊である。


具象的限定としての日常の破壊からどう脱するかと云う部分につき現在各國政府は其れこそ必死となり対応中である。

だが事實上問題が大き過ぎるが故に問題に対し本質的には対応し切れて居ない。


其の問題を大きくして居るのはあえて學問的に言えば近代と云う社會構造が必然的に其れを齎して居るのである。

だったら近代を止めれば良いのですね?


いや事は其れ程単純なものでは無い。

逆に言えば近代のお蔭でもって我我は今此の時を享受して居られる訳だ。



なる程、すると其れがそも大矛盾であると云うことなのですね。

まさに其の大矛盾だ。


だが科学は特に科学技術は其の矛盾を矛盾として認識する力には元々欠けて御座る。


確かに。

科学技術はかうして何かあっても反省せずひたすらに正の価値ヒエラルキー構築へ向けて歩み出す。


かって理系の教師である宮澤 賢治が「科学は冷たく暗い」とさう作品中で述べて居た。

科学はむしろ心を取り戻す努力を最大限に行うべきだ。



文人はさうして少々頭がおかしくもあり芥川だの太宰だのまた三島だののやうに何仕出かすか分からぬ部分さえもがあるのだが實は心の根だけは眞っ直ぐなのだ。

だから結局みんな死んじゃうんだよ。


其れはきっと矛盾を矛盾として認識する理性の力が強過ぎたのだらう。


でもって『インターステラ―』の御話の方はどうなりましたか?



『インターステラ―』の映画の終わり方は最終的には現實的ではまるで無い訳だ。

よって此れは科学を批判する映画では無くむしろ其れを礼賛する映画となる。


但しコロナ禍以降は社會の枠組み其のものが揺らいで来て居る。

社會の枠組み其のものが万全であれば其の手の映画もまた出来る訳だが現状では極めて難しいところに来て居る。


要するに社會はより不安定化しむしろディストピア化されて行く様相さえをも帯び始めて居る。

だけれども文明にとっての打開策はあくまで其の科学技術によるものでしか無い訳だ。


そんなまさに矛盾の極みであるかのやうな状況を俯瞰しつつ我我個は自らの世界をそれぞれに構築して行くより他は無い。

社會的な価値に盲従せずむしろ其れから距離を置きまさにあっけらかんとして我が道を行かねばむしろ個こそが破壊されて仕舞うのではないか。



オリムピックをはじめとする運動の世界に於いても基本的には社會の為に運動せぬことの方がより純粋且つ個の範囲でのものとならう。

だがさうした観念的規定を踏まえた上で面白いものは面白いと認めまた感動出来る部分に対しては其の侭素直に感動して置けば良いのである。


我我人間はさうして常に文明と云う社會的制約の中で生かされ其れも多くの場合は其れに盲目的に従い生きる形を取って居ざるを得ない。

其処から逃げるには文人、學者達のやうに社會の批判者であるかまたは宗教的自我の面より其れを諫めて行く他は無い訳だ。


また其れー社會ーが捨てられずとも少なくとも距離を取った上で自分自身の思考と照らし合わせてみる作業が是非共必要となる。

自分自身の思考を持つことが出来れば我我はすでに文人や哲學者の一人でありまた社會の常識と闘う信仰者の一人でも有り得る訳だ。