目覚めよ!

文明批判と心の探求と

『いま世界の哲学者が考えていること』よりー環境問題とは一体どんなことかー

「理性の機能不全こそが文明の自己崩壊を招く=文明を自己矛盾させ崩壊へと至らしめる」

 

尚私はそも文系インテリと云うものが一体何を問題として捉え且つ自ら考えることで今後の世界のあり方ー文明のあり方ーがどう規定されて行くべきなのかと云うことを此処にて論じて居る訳です。

勿論理系インテリはあくまで理系インテリで数式だの何だのを駆使しつつ其れはこうすべきだのアレは止めて置くべきだのと色々とやってる筈なのだ。

 

ですが理系の人々の考えることは抽象的に過ぎ具体性に欠ける部分があるのやもしれぬ。

逆に申せば文系の人間が考えることはまた非合理的で且つ感性の部分に流れ過ぎて居り普遍的な論としてなかなか其れが成り立たぬ部分さえもが御座ります。

 

なのだが例えば其れが哲學的次元で統一される場合にはそんな一種の感性論、感情論の域を離れ一応誰もが納得出来る論理構造を有することが可能なのだらう。

 

 

そんな意味からこそ私は哲學的考察をこそ重視して居る訳です。

尤も哲學は其の役目をすでに終えた、其のまさに役立たぬ思考から役立つものを紡ぎ出すことはほぼ不可能に近い。

 

などとも言われてすでに久しく要するに其れが役立たぬものの代表格のやうにさえ思われ疎んじられたりもして居るのやもしれません。

なのですが、文明其れ自体に問いが突き付けられる今だからこそ哲學的な思考の需要はむしろ大いに増して居り其れは何故かと申しますと所謂役立つ方の思考からかうした危機のあり方に対し大局での処方箋は紡ぎ出せぬからです。

 

まさに其れは逆方向を見詰めた価値観であるかどうかと云う事であり、且つ過去を見詰め且つ未来を前提とする大きな思考をして居るかどうかの違いなのでもある。

で、其の大きな思考をするとまずは役立たずの考えとなり易くなります。

 

即ち役立たずとは今の儲け、今の腹一杯には繋がらぬ観念力であるに過ぎぬと云うことだ。

 

 

ですが宗教などの場合などもまたさうなのですが、釈迦がまたキリストが今の儲け、今の腹一杯のことー現世利益ーを求めて居なかったことだけは確かなことでせう。

其の点からしても哲學はまた文學は現世利益では無い何らかの価値を追い求める為の精神的営為なのだともまた言い得る訳だ。

 

で、むしろ今は其の現世利益では無い何らかの価値を追い求める為の精神的営為にとっては決して悪い時では無い訳です。

其れこそむしろ其の精神的な価値を最大限に発揮し得る時なのだとも言えさうです。

 

 

尤も私は哲學者では無くあくまで自称の文人です。

ですが哲學的思考には強いと云うか兎に角其れが得意な方です。

 

と云うことは感性の感度の一方文系論理の方も一応は備えて居ると言えることでせう。

 

 

いま世界の哲学者が考えている「5つの問題」とは? | いま世界の哲学者が考えていること | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)

例えば今私が読み進めて居るのがこんな本です。

 

其れも福岡先生による生物学の本と同時に読み進めて居ます。

其れがどちらも素晴らしく面白い内容の本です。

 

此処拾年ばかり私は文學作品では無くかうして社會問題を論ずる一般教養のやうな内容の本ばかりを読んで居ます。

其の理由のひとつには21世紀に入り現實其のものが虚構化しつつありつまりは文明乃至は社會が何やら怪しいものとなって来て居ると云う事實があります。

 

其処からもどうも文學の役目こそが終わりつつあるのではないか、などとも屡思ったりも致します。

つまり文學と云う虚構の枠組みを飛び越えて現實其のものがドラマ化して居りますので其処にあえて虚構としての枠組みで挑む根拠に欠ける訳です。

 

 

其の文學と哲學と云う人文としての枠組みで言えば哲學の方が實はより現實的で此の世で生じて居る事實には即して居ります。

其れは文學には必然として入ることだらう作家としての感度の部分が哲學ではより抽象的に論理化されるが故より客観的な視野を有するからなのだと思う。

 

ちなみに此の本を読むのは此れで参度目です。

かうして私は気に入った本を何度でも読み返す訳です。

 

 

さて、今哲學者が考えて居ることとは、

 

1)「IT革命」は、私たちに何をもたらすか?
(2)「バイオテクノロジー」は、私たちをどこに導くか?
(3)「資本主義」という制度に、私たちはどう向き合えばいいか?
(4)「宗教」は、私たちの心や行動にどう影響をおよぼすか?
(5)私たちを取り巻く「地球環境」は、どうなっているか?

いま世界の哲学者が考えている「5つの問題」とは? | いま世界の哲学者が考えていること | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)より

 

と要するにそんなことであり要するに私の考えて居る事とまるで同じことばかりです。(笑)

 

どだい文明がもしも此の侭下り坂を転がり落ちて行くやうならば其れこそ文學も何も無い訳だ。

何故なら文學だの絵画だの音樂だのと云うものは所詮は其の文明の継続を前提として成立するものなのだから。

 

藝術とは所詮はさうした類での文明の産物其のものでせう。

つまるところ藝術は其の社會の崩壊に関してはあくまで無力なのやもしれません。

 

 

ー1970年代以来、地球環境問題が人類にとって重要な課題と認識され、国連をはじめ多くの国や組織で、繰り返し議論されてきました。たとえば、2015年末にフランスで開催されたCOP21でも、20世紀末の「京都議定書」に代わる新たな枠組みが提唱されたことは、ご存じのことでしょう。

こうした「地球環境問題」が語られるとき、いつのまにか「定番話」――世界の生態圏は人間によって破壊され、やがて地球は人間にとっても生存できない環境になる――が形作られるようになりました。そもそも、「定番話」が警告するように、はたして環境破壊によって、人類は滅亡するのでしょうか。

この問題を考えるためには、どうして20世紀後半に、「地球環境問題」がクローズアップされるようになったのか、理解する必要があります。というのも、「地球環境問題」が唱えられるようになったのは、近代社会の変化と密接にかかわっているからです。そして、この変化を捉えることによって、「定番話」とは異なる未来への展望も開かれるのではないでしょうか。

人間中心主義はそもそも「悪」なのか、道徳と切り離した形でプラグマティックに環境を考える態度の必要性など、この領域もまた様々な議論の余地が存在します。ーいま世界の哲学者が考えている「5つの問題」とは? | いま世界の哲学者が考えていること | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)より

 

 

で、私はまず其の地球環境問題から論じて行くこととしてみます。

 

尤も此の本の著者である玉川大學教授である岡本 祐一郎氏は以上の纏めの如くにむしろ至極冷静に此の地球環境問題に対されて居ます。

 

まず私が思いますことは、地球環境問題とはあくまで人間ー社會又は文明ーにとっての問題なのであり基本的には動植物にとっての問題では無いと云うことです。

ところが其の被害者として彼等は否応無く其れに巻き込まれて仕舞う訳だ。

 

要するに地球環境問題とは人間存在にとっての固有の問題なのですが其の問題がデカ過ぎるが故に他を破壊し始めても居る訳です。

であるならばむしろ其れがほんたうの意味での問題ともなることでせう。

 

例えば世界恐慌だの戦争だのさうした社會的に齎されて来た問題とは異質であり別次元での問題ともなり得るものだ。

よってまさに其処に人間存在のそもそもの意義又は意味、即ち其れが悪なのか其れとも善なのか、むしろ此の侭では明らかに悪の権化なのではないか、何故君等は其れに気付かぬのか、と云った所謂気付きの問題、宗教的な課題なのでもまたあると云うことである。

 

ところが他方では學者の中にも地球環境問題への懐疑論が屡見受けられる訳です。

 

 

ですが、

 

1.気候変動による災害の多発

2.食料危機へと連なる人口過剰の問題

3.温暖化による社會活動の制限

 

との点により其の懐疑論を取る根拠は次第に失われて行くことでせう。

 

究極的に言えば其れはたとえ宗教であるにせよ解決出来ぬことだらうまさに人類にとっての最後の難問なのです。

其の最後の難問がまさに今此の21世紀に於いて我我に突き付けられて居る訳だ。

 

尤も其れは急激な変化を齎すものでは無い。

であるからこそ分かりにくいものなのだとも言える。

 

 

つまりは感度の悪い人々にとっては分かりにくい訳です。

ですが感度が高くある人々はすでにとっくの昔にさう気付いて居る筈です。

 

私の場合は40代位から次第に其れが危機感として顕在化して来て居ます。

尤も其れ以前は朧な危機感であるに過ぎなかった。

 

 

さて其の「人間中心主義」は屡哲學者の梅原 猛先生が批判されて居た近代的要素であり価値です。

西洋文明による合理主義は所詮此の「人間中心主義」により成り立って居ます。

 

但し東洋の文明の価値観はむしろ其れとは異なる道を歩んで来たやうに見受けられる。

特に日本人は元々自然が好きだと申しますか少なくとも其れと寄り添って社會、文化を育んで来た筈だ。

 

其れは西洋流の文明が自然を搾取し其れを合理的に改変することとはまた異なるまさに自然との共生の思想の産物であらう。

 

ひとつには其れは日本の自然が特に豊かなものであったー世界的に見てーからなのだらう。

其のやうに豊かなる自然が日本人の繊細な感受性を育み其処に溶け込む文明、文物のあり方を生じて行った訳だ。

 

ですので其処にはむしろ問題は生じて居なかった訳です。

其のやうに文明を限定するが故にむしろ豊かな心の領域を保って居たのだと言える。

其れもかの幕藩体制の頃までは。

 

 

尚其の「人間中心主義」はキリスト教の教義から生まれたとの説もまたある訳です。

 

対して神道にせよ佛教にせよ自然とは仲が良く特に佛教などは「🐜を踏み殺さぬやうに注意して歩く」ことが僧侶としての心構えであるなどともされて居た訳だ。

だから私なども夏はまた歩くのが大変なのです。

 

兎に角家の庭には🐜の巣が多く其処から🐜共がまたウジャウジャと出て参ります。

其れを一匹も踏み殺さずに果たして歩けませうや?

 

なのではあるがとりあえずは兎に角一匹も踏み殺さずに歩かねばならぬのです、ー本来佛教徒であるのであれば其れは当然のことだがー

 

其れに印度の宗教には自然の形態を纏う神々が出て来たりも致します。

いや日本のアニミズムに於いては巨岩や山など自然其のものが神であり其れが即ち侵さざるべき領域のものなのだ。

 

 

其の「自然」に対する解釈其のものが即ち観念的な理解其のものが洋の東西でもって此のやうにほぼ百八十度異なって居る訳だ。

 

要するに西洋文明は自然を「利用」することに終始し其の度が過ぎた為に其れが「搾取」の域にまで高められて仕舞った訳だ。

逆に東洋文明は自然と協調する道をあえて歩んで来たがやがて近代化の圧力により其の路線を捨てざるを得なくなりかうして東洋の国々も経済成長なるものに邁進せざるを得なくなった。

 

と云うところがむしろ文明レヴェルでの眞相の部分なのだと思う。

 

西洋文明⇔東洋文明

との二項対立が本来的な文明のあり方での軸です。

 

ところが、いつしか、

東洋文明→西洋文明へと進歩することこそが求められる近代的普遍性が確立されて行くこととなる。

 

其の「今哲學者が問題として捉えて居る地球規模での課題」とは結局は其の全てが近代合理性が齎したバランスの欠如の問題なのであり其処でもって対自然との軸の中で合理化が過ぎたことによる各次元に於ける破壊の問題です。

 

自然⇔文明

個⇔社會

肉体⇔観念

 

と云うやうに価値は二元分裂します。

 

また先に述べたやうに、

 

東洋文明⇔西洋文明

 

でもまたある訳です。

 

 

近代以降の文明の価値は拡張主義となりますのでより人間の属す範囲をよりデカくして行く訳だ。

ところがデカくなればなる程に人間は社會の奴隷とされ近代と云う全体主義的な体制の中に押し込まれて行かざるを得なくなる。

 

たとえ社會主義を奉ずる國であれかくして現代人は「不自由」な社會の枠の中にさうして押し込まれて行く訳だ。

其れが窮屈だからイヤだ、などとはよもや言えぬ訳です。

 

何故なら我我個としての現代人を生かせて呉れて居るのはまさに其の近代による便利な生活のお陰である訳なのだから。

 

さう我我は核の軍拡競争を繰り広げ自然を壊しまくる「悪」としての社會の壱員であるより他に生きる道が無い訳です。

いや其処から逃れる方法が無いでは無い。

其れはドロップ・アウトするか其れとも狂信的サイエンティストとなり全人類を宇宙へ移住する計画を推し進めることです。

 

どちらもイヤなのであれば其れはもう其の全体主義の牢獄の中で「悪なる善人」としての役目を全うして行く他は無い。

 

社會との価値のことで我我個に取りむしろ一番恐ろしいことが其の全体主義による罪の履行のことです。

我我にはさうして知らず知らずのうちに悪を履行する性質を有する者なのです。

 

たとえ個の次元では冷静に理性を働かせるのだとしてもさうして全体の意見にはとても逆らえぬ訳だ。

其れに逆らうのは反体制派や文人やまたルンペンをやって居たい変わり者だけなのだ。

 

 

尤も文人は特に其の「やらされる」ことに対し我慢がならず其れでもってかの漱石などは兎に角物凄い癇癪持ちだった訳だ。

要するに反体制派か又は文人さん、ルンペンさんなどにならぬ限りは其の此の世での全体主義からは逃れられやせぬのです。

 

 

學者さんなどもまたどんなに頭の良い方でも其の社會的なしがらみによるバイアスが必ずやかかり其処で言いたいことを全部言える訳では無いのであります。

また作家さんでもどんなに高名な方でもまさに其れを言っちゃあ責任が生じて仕舞うのでむしろ言えぬことの方が多いのでは無いでせうか。

 

況や一般の人々は家庭だの家だのまた属する會社だの組織だのの手前何をどう考えやうがほんたうのことなんぞ言える筈が無いでは御座りませぬか。

 

要するにすでにみんなは雁字搦めですよ。

其の点では少なくとも私の方が自由ですよ、自由。

 

 

私が述べて居ることとは其の「自由」とは理性的に求めて行くべきことだと云う其の壱点に於いてです。

ではどう求めて行くべきなのかと云うこととなりませうが、

 

其れは、むしろ本質的に人間は限定者でしか無いと云う事實に就き理性的に受け入れて行くことでしか無い訳だ。

人間が不可能への挑戦を今後もやり続けるのでは無くむしろさうした立場を放棄し自ら抑制して行く部分にこそ理性はまた自由は存して居るとさう申して居るのである。

 

理性とはさうした反省であり抑制でこそあるべきであり、其れは帝國主義だのグローバル経済の推進だのと云った搾取体制の構築のことなどであってはならぬものなのである。

また理性とは宇宙へ進出し其れを植民地化することであってもならぬ訳だ。

 

また男女の性別をフリー化し所謂伝統的な価値観をないがしろにすることであってもならない。

要するに今の社會、其の合理的に推進されることだらう近代文明世界には理性と云う部分が何処にも無い、むしろ其れが壊されて仕舞って居る。

 

 

つまるところは、

 

「理性の機能不全こそが文明の自己崩壊を招く=文明を自己矛盾させ崩壊へと至らしめる」

 

とのことである。

 

で、問題は、

 

全ての二項対立は其の「理性の機能不全」こそが引き起こして居ることなのです。

 

自然⇔文明

個⇔社會

肉体⇔観念

東洋文明⇔西洋文明

 

いや二項対立は元々さう云うものでどうにもならぬものなのです。

ものなのですが、人間以外の動物達は此の種の二項対立に苦しめられて居る訳では無い。

 

何故なら彼等は文明など創って居らず其処に抽象的思考能力がある訳でも無い。

 

 

逆に申せば、文明をやって居るからむしろ其の二項対立矛盾ー社會的矛盾ーに苛まれることとなる。

しかも其の文明の枠組み、社會的枠組みとは西欧近代型による合理化文明と云うこととなる。

 

西欧近代型による合理化文明はむしろ其の合理化を徹底的に推し進める為の文明のあり方です。

ですが東洋には東洋の文明の価値観があり且つ文化伝統があり其れこそ禅だの空手だの剣道だの柔術だの法隆寺だの興福寺だの薬師寺だの高野山だのがまたある。

 

要するに其の西欧近代型による合理化に対し理性的に抗するには他方で別の価値の方を向いてやれば良い訳だ。

 

こと文明の進歩思想から言えば此れ等は全て二元的対立なのですが例えば其処からむしろ個として避難してみる。

さすれば其の二元対立がいつの間にか相剋し相即する関係性を取り戻す訳です。

 

其の二元的要素が相剋し相即する関係性が築かれて居る限りは所謂破壊は生じない訳だ。

但し其処に劣化は生じますが其れは諸行非常での範囲内での劣化でありあくまで破壊ではありません。

 

 

よって其の強靭なる個としての理性こそが今世界に求められて居るものです。

要するに目覚める人が多い程此の世界が救われる可能性もまた高くなりませう。

 

いやでもしかし、世界は結局救われはしないことでせう。

社會又は文明と云うものはさうしてあくまで救われぬものなのです。

 

よって釈迦は一度世俗とは縁を切り修行へ邁進する訳なのですしキリストは社會は間違って居ると声高に叫び正しい信仰への道を説いたのです。

だから最終的には個により救われるか否かであり個により其の理性的立場を選択出来るか否かです。

 

自らの理性的立場さえ正しく選び取れば此の種の二項対立に苦しめられて居る文明社會の様を相対化して見て居られるのでモロに其の悪と申しますか大矛盾と申しますかさうしたものから距離が取れるやうになり可成に気分的に樂になるものだ。

要するに文明か又は社會を斜に構えて眺めバカにする程に理性を磨いて置けば案外其れに就き悩まずとも良くなると云うことを述べさせて頂いた。

 

 

1)「IT革命」は、私たちに何をもたらすか?
(2)「バイオテクノロジー」は、私たちをどこに導くか?
(3)「資本主義」という制度に、私たちはどう向き合えばいいか?
(4)「宗教」は、私たちの心や行動にどう影響をおよぼすか?
(5)私たちを取り巻く「地球環境」は、どうなっているか?

 

じゃあアンタの理性の場合は此れ等の大問題を一体どう解決して行くつもりなの?

だからもう其のやり方のことは上でもってしかと説明したじゃないか。

 

其の宗教の問題と云うか宗教的課題の場合も相対化し個の内側に止めて置いた方が良い。

 

宗教⇔科学

 

宗教と科学はさうして結果的に相反するものだが實は関連し合っても居るものだ。

宗教の場合でも理性的選択を為す為に一度家や共同体でのしがらみのやうなものから脱し個として選択し直した方が合理化出来ることだらう。

 

要するに現代社會の価値観は西欧近代のものとして倒錯、顛倒して居り直しやうの無いものだとさう基本的には捉えられる。

なので後は其の科学技術を文明を終わらせる方向に使うことが出来るのみなのである。

 

だが東洋の此の自然豊かな島國に折角生まれてそんなことばかりを考え込んで居るのはまさに精神的に不毛であり時間の無駄だとも強く思うのだ。

 

だから折角与えられた其の一級の自然環境に触れ得ずしてどう哲學して行かうが其れではまるでもって意味が無い。

だからもうそんなことは忘れて其の自然の豊かさに触れることを目的として特に老後は生きて行くべきなのではなからうか。

 

 

問題への其の答え

1、ITは虚であり不要

2.バイオテクノロジーも虚であり不要

3.資本主義はもはや虚であり不要

4.宗教はアンタが個と云う理性として選ぶもののこと

5.文明の営為により結局地球は滅びませうがアナタの観念だけは生き残ります

 

要するに今後文明の齎す価値をまるで金科玉条の如くに大事にして居るとまさにトンデモナイ失望だの絶望だのに陥り易くもなることだらう。

だから最初から其れは虚的でもって不要の価値の集積でありさらに言えば其れこそが「悪」であることにでもして置けば余分なものに己が振り回されずとも良くなる訳だ。

 

まさに其れが個として理性的に築く文明との距離感のことだ。

イザ其のやうな距離が出来れば現代社會のバカバカしさに振り回されずとも良くなるので實は其の点で大いに心が救われるのであった。

 

つまるところ宗教以前の段階で、個が現代社會から洗脳を受けて居るまさに其の部分を理性的に粉砕して置くのである。

 

 

 

結局のところ、現代文明による一方通行的な価値観を廃してむしろ価値を相互に行き来する位の寛容さを是非取り戻して行くべきことだらう。

東洋の文明は元々其の種の相補性、対立軸の中でのバランスの取り方には長けて居てまた元々進歩主義などでは無い訳だ。

 

其のやうな価値をむしろ日本人の場合は大事にしつつ見詰めて行くべきなのだ。

然し多くの日本人は其の西欧近代への理解が一般に及ばず従って其れに対する批判精神も無い侭にさうして只みんなでもって近代化をやり流されて行くばかりなのだ。

 

 

じゃあ儒教文化だの武士道なだのを是非見詰めて行くべきなので?

 

つまりは東洋のもの、又は日本のものが壱番なのか?

 

個人的には日本の自然は壱級品だと思うのだし或は飯の美味さなども矢張り最高なのだらう。

また文化的にも大変洗練されて居り其処に伝承されるものもまた美しいものばかりである。

 

なのだが何故か日本人は自ら思考しやうとしない。

其の自ら考えることが不得意であるばかりにメダカもタガメもザリガニも絶滅に追い込まれるのでは如何にも其れは情けない。

 

 

だから逆に考えに考え逆に文明を切ってやる程に考えて置くべきだらう。

 

「理性の機能不全こそが文明の自己崩壊を招く=文明を自己矛盾させ崩壊へと至らしめる」

私が問題として捉えることとは最終的には認識としての理性の誤謬、選択の誤りの部分に帰結する。

 

誤った選択を為した理性が自らを追い込んで行くことこそが文明の自虐過程即ち自己崩壊への道なのだ。

誤った選択をせぬ為にはむしろ切ってやること、現代の価値を至上のものとして祀り上げずむしろ貶してやることこそが最も大事なことである。

 

環境問題等もまた其の理性的選択の上で初めて見えて来るものなのだと思う。

自己の頭で考えある程度文明の齎す価値を切らねば決して見えては来ぬ大問題なのだとさうも認識して居る訳だ。

 

 

ちなみに環境問題は人類全体にとっての死活問題であるばかりかまさに生態系にとっての死活問題となって居る点こそが重要な点である。

要するに其れは自分等のことだけでは済まぬ問題なのだ。

 

かくして問題をデカくしたがる癖のある西欧近代が必然として陥った大問題こそが其の地球環境問題なのだ。

 

近代文明は力の論理にて自然を屈服させ其れをやがて搾取するに至る人間中心での文明のあり方を営む。

其の文明のあり方にこそ問題があるのでたとえどう革命しどう体制を変えて行こうが本質的には其の人間中心主義であることからは免れ得ぬ訳だ。