目覚めよ!

文明批判と心の探求と

宗教が必ず正しいとは限らない、だが正しいと思わせられる価値がまた其処にはある。ー「倫風」誌より思うことなどー

さてあくまで眞理方向での考え方とすればなるべく所謂生臭い方向性での頑張り乃至は幸福である状態を継続させてはむしろならない訳です。

何故なら其の誤った侭での価値観でもって突き進めばやがては世界を破壊して仕舞うことに即繋がるからです。

 

しかしながら其の誤った侭での価値観と云うものがほぼ大衆にとっては理解出来ません。

何故なら眞理とはむしろ逆方向での価値を内包するもの、むしろ其の逆方向での価値を基調として追求されるものだからなのです。

 

従って自分の考えが善でしかも正義であるなどともしも考えて居たのであれば其れは大変なこととなります。

勿論社會的な意味での公正さや誠実さ、また良い方向性での考えか又は善なる心と云うものが確かに此の世にはあるやうに見受けられます。

 

其れでも實は其の正義を証明する手立てなどは何処にもありません。

もしも証明するのであれば其れは宗教的な次元に於いてのみのことで、しかも其の宗教的な価値さえもが此の世では分裂して居り即ち自己矛盾を抱えては居らぬ宗教など此の世には無い訳だ。

 

其の種のまさにニヒリスティックな荒野をあえて歩まねばならぬのが理性の宿命であると云うやうなことを述べて居ります。

其処から逃げることもまたた易いことですがまさに其れでは我我人間が理性を持って此の世に生まれて来た甲斐が御座らぬと云うものだ。

 

社會的な価値のほとんどが其の種のカラクリにて相対矛盾を引き起こしますので其れをあえて捨て去って置く位である方が誤った方向へ行く危険から逃れる手立てともなりませう。

要するに所謂しがらみが利己的自我を拡大させ誰しもが其れを守る為には鬼にも👿にもなると云う其の事實のことを述べて居ります。

 

 

またほとんどの人が信じて居ることこそがまさに此の種の社會的に齎される愛であり価値なのです。

 

ですが例えば戦時中は其れが間違って居たことさえもがありました。

なのに現在の文明のあり方が間違って居ないと果たして言えることでせうか。

 

文學を始めとする藝術の分野はまさにさうした本質的価値、本質的な問題に就き考え且つ意見を表明して行くものです。

 

かっては多くの藝術家ー詩人や音楽家や画家ーが生其れ自体と闘い其のドキュメントとしての作品を遺して行ったものだった。

尤も現代に於いてはそんな本質的価値の追求は時代錯誤のものとなり要するに藝術家其れ自体がサラリーマン化ー現世利益化ーして行って居るのやもしれません。

 

其れでも尚藝術の世界は個としての観念的闘争の場であることは確かなことだ。

他方で宗教はあくまで社會的な闘争の場であることからは逃れられない。

 

私は其処にある種の危惧をまた感じても居ります。

何故なら組織即ち社會による意思決定は必然的に誤ったものになり易いからなのです。

 

 

エッ、逆ではないの?

いや確かに私もかってはさう考えて居た。

だが熟慮の末、社會的な価値観に対し盲目的に従うことはむしろ悪を増幅させると云う事に気付き且つ實人生の経験からもまさに其のことを學んだ訳だ。

 

要するに此の世は綺麗事ではカタが付きません。

良いと喧伝されて居る価値が實は悪であったりもまたする訳で、だから初めから疑ってかかり話半分位に社會のことを考えて置かぬとまさに其れに振り回されて仕舞いませう。

 

其のやうに私はまず宗教的自我を生きる者では無く謂わば理性的自我を生きる者なのだ。

其の理性的自我とは眞理に対して潔癖なことだとさう考えて居ります。

 

眞理と申しましても其れが科学的眞理なのか其れとも文學的に追求される文士としての眞なのか、また其れこそ宗教としての眞理であるのかと云う問題がまずは御座りませうが私に限れば其れは全体的統合的に規定される眞理のことです。

要するに自分でもって心の痛みを伴う理性的闘争をなし其処で得られるものこそが私にとっての眞理である訳で従って其れは純粋にはどんな社會的制約をも受けぬものです。

 

社會的に齎される愛であり価値には其れとは異なりしがらみによる偏向を多分に受けて居り多くは其れが正しいとされるだらう全体主義的な価値へと変成されて仕舞う訳だ。

よって宗教に於いてより注意深く気を付けて置かねばならぬものがまさに其の全体主義としての宗教的価値なのだ。

 

 

但し事實として私は大乗佛法としての価値をかってない程に重視するやうにもなった。

また二つの団体に対しても現在私は好意的に解釈して居る。

 

其れは創価学會及び實践倫理宏正會に対してのことです。

 

其の創価学會への疑問は多々あるにせよ与党の壱員として常に自民党とは違う視点から発言し政策の変更を迫る其の心意気はまさに宗教政党としての大した實力です。

個人的には學會が日蓮宗から離れたことは最大の汚点かとも思いますが、かってはあれだけ批判して居た筈の自民党とこともあらうに組んで政権の一翼を担ったことに関してはまさに脱帽と云うところです。

 

私個人にはさうした實行力には欠けかうして外野でもって理想論ばかりを滔々と述べ立てて居ること位が関の山なのですから其の部分に就きまさにおみそれ致しましたと云うところです。

 

 

また實践倫理宏正會ですが、其の會報としての「倫風」誌が何と壱年に亘り無料となって居る。

其れはみんなが苦しい時なのでむしろ組織としても其の苦しみに付き合いませうと云うことなのではなからうか。

 

いずれにせよ其の弱者への視点、弱き眞面目な人達を如何にして助けるかと云う視点こそが大事なのだ。

逆にアノ元法相は権力をカサに着てやりたい放題をやりしかも其の妻も一緒になりやって居た訳だった。

 

 

うわあ、コレぞ悪の夫婦だ。

其の夫婦と云う皆が認める絆をあえて悪用し自己利益、👪としての利益を何処までも追求せし其のおぞましき心根よ。

 

おまえらなどはもはや死んでも決して救われぬぞ。

 

其のやうに権威権勢、金や👩、富と壱族の繁栄と不老長寿等の価値。

おおまさに其れをこそ求め願う世俗としての心理こそがまさに其の悪の内容なのだ。

 

 

ではどう生きるべきなのですか?

欲など其の全てを捨てて死ねとさう仰るのか。

 

いやだから、頑張ることの方向性がそもオカシイ訳だ。

 

頑張るのは企業が大儲けして一番になることの為にでは無くまたスポーツ選手が一流になる為になどでは無く地球を壊さぬ為に、また🐻などを撃ち殺さずとも良いやうにバランスを取り生きることではないのか。

また生命を讃美することでは無く逆に文豪の先生方に殉じて特攻することでも無く間違って居る社會を間違って居るとして断じ悲観性を保った侭で兎に角申し訳無さそうにしつつ生きて行くことではないのか。

 

 

幸福⇔不幸

進歩⇔退化

 

より大きく幸福を得ようとすればともすれば不幸の方もまたデカくなる。

より進歩しやうとして躍起となればむしろ他の面でもって退化さえもが引き起こされる。

 

要するに其の社會的に妄想されて居る+の価値こそがむしろ-の集積を生み出して居るのだ。

 

さて其のニヒリスティックな生のあり方は壱個人が幾ら悩もうが悩むまいが元々どーにもならぬものなのだ。

さうして母ちゃんの腹からドロリと出て来る我我は其の点ではみんなが同じでよって何処かで線を引いて置かねば其のドロドロな様に浸り切っても仕舞いませう。

 

 

ひとつには確かに宗教的営為が其の獣であることから個を救う営為である訳ですが逆に其れに浸り切って仕舞えば其の団体の教義なり教祖様への服従なりと云った部分に洗脳されて仕舞い易い。

 

だから個人的にはもはやさうしたものとは距離を取ることを心がけて来て居ります。

ですが宗教的営為を實践的に行う方が救われる方々も確かに居られることでせう。

 

では此処でひとつ最近私が感心したことを述べさせて頂きます。

まさに其れが個別の宗教的営為の正邪を見極める基準に就いてのことです。

 

まず創価學會は現在間違っては居らず逆に世直しをしやうとして居る点に於いて大いに評価出来ます。

 

但し個人的には其れが佛教であるとは思って居りません。

結局佛教に近い何かを信じ団体生活ー社會性ーを重んじる団体なのだとさう思う。

 

で、結果的に其れが悪いなどとは思えぬ訳だ。

悪いのはむしろ自民党による非民主化への實践の方でせう。

 

また官僚や日銀の方でさえまさに其れとグルですね。

 

但し學會は宗教的にはもはや不純なる団体です。

是非其の事を忘れずに謙虚な気持ちで突き進んで下され。

 

 

次に実践倫理宏正会の會報である「倫風」誌に就き述べます。

 

「倫風」誌は現在私が定期的に購読して居る唯一の「宗教的」會報です。

 

ですが私が此の本を読むやうになったのは其処に好きな作家が連載をされて居るからなのです。

 

其の作家こそが林 望先生です。

まさに此の方の随筆が読みたくて「倫風」誌を読むやうになったのだと言えやう。

 

古臭い言い回しを好んで書かれる私よりも丁度拾歳上の學匠作家の方ですが世を見詰める其の眼差しは真っ直ぐな方です。好書好日

 

 

ーそもそも「実践倫理」とは、「明るく幸せな生活」を実現するための、誰にでもたどることができる最も確実な「すじ道」のこと。実践倫理宏正会の目的は「生活の改善、道義の昂揚および文化の発展を図るため、生活倫理を実践することを宏めると共に、これを各人の生活に融合せしめ、人生の苦悶を解脱し、人と争わず、家庭を明朗化し、各々の業務に精励せしめ、人類永遠の平和を目標に、祖国の再建に資する」こととされる。また理念の特徴として、日本固有の文化と伝統を重視し、親・祖先を重んじながらも宗教を説かず、むしろ宗教以前の人間にとって不可欠の問題として倫理を考える。したがって、宗教団体ではなく、社会教育団体であることを強調する。ー実践倫理宏正会より

 

今の私の生きる目的とは「明るく幸せな生活」を目指すものでは無く「人類永遠の平和を目標に、祖国の再建に資する」ことでも無い訳です。

私がやってるのは人類が抱く誤った価値観への批判其のものだ。


其れも徹底的に其れをやります訳ですので途中でみんなは次第について来られなくもなりませう。

ですがまあギリギリのところ位まではひとつやったらうかとさうも思って居ります。

其の理性的闘争とは並大抵のものでは無くまさに激しい周囲との軋轢、摩擦を生じさせて仕舞うものです。


逆に申せば周囲と仲良くやる考えにはどんな愛も込められて居ないものなのです。

愛と云うのは實はさうした鞭打ちのことで、であるからイエス様は「汝の敵をむしろ愛せ」と逆向きの価値に就いてかって述べて居られやう。



其の「明るく幸せな生活」をやる為には私の場合にはむしろ徹底的な社會批判がどうしても必要なのだ。

また「人類永遠の平和を目標に、祖国の再建に資する」為には悪を糾弾し根絶せしめて行く必要があり其の悪とは必ずしも悪人ばかりでもありません。


さうして私は今人間の所謂善なる欲望の中に大いなる悪を見詰めても居ます。

其の種の精神的闘争はタイプで言えば宗教的闘争と云うよりはまさに文人的闘争でせう。



結局私はソチラの方の人間ですので教祖様だの教義だのに従えば幸せになれるなどとはまるで思っては居ません。

私が嫌うのはむしろ其の種の自己放棄した上での精神的な「御勤め」が醸し出す面妖さです。


ですが、他方で私は其れに救われたいと願う方々の苦しみと申しますか心の痛みにはほぼ同調しても居ります。

またさうした団体に属した上での活動で自らの心が癒されるのであればまた其れもひとつの意義あることなのではなからうか。


何故なら至極現實的に世は悪いからなのです。

世は悪く全く不安もエエ処なのだ。



  • 今日一日 三つの恩を忘れず 喜んで進んではたらきます
  • 今日一日 人の悪をいわず 己の善を語りません
  • 今日一日 気付いたことは 身がるに直ぐ行います
  • 今日一日 腹を立てず 不足の思いをいたしません
  • 今日一日 三つの無駄を排し 新しく大地に生き貫きます

 

 

実践倫理宏正会より

 

1.すみませんが私は喜んでも進んでも決して働きません。

むしろ搾取文明をどうやりこめたらうかと其ればかりを最近は考えて来て居ります。

ですが素直に喜んでしかも進んで働くこともまた大事なことかとは思います。

じぶんには決して出来ぬことですがさうしたことが出来たら其の人は偉いなあとは思いますのです。

 

2.すみませんが私は人の悪ばかりを述べ立て己の善をひけらかしたりも實はして居ります。

だから私は悪い奴でありひょっとしたら悪の権化なのやもしれません。

 

でも文人ってもしやさういう奴が多いのではないでせうか。

 

3.すみませんが兎に角身が重く何でもやるのに時間がかかります。

かうして何でも考え込む癖があるので考え込んで居る間に🚙に轢かれたり暴漢に襲われたりもするのではないか、實は其処が自分でも少しく心配な程だ。

 

4.また申し訳御座らぬのだが常に腹を立てて居り其れもかの信長公並にいつも機嫌が悪いのです。

但し最近は不足を感じることは無く要するに観念の方がかうしていつも目一杯ですのでむしろ其れだけで満足し且つ其処に生き甲斐さえをも感じて居る訳だ。

 

5.其の無駄を排すると云うのはまさに素晴らしい観点です。

現代文明が近く滅亡するのであれば其の主因となることがおそらくは其の「無駄」の集積でせう。

 

 

要するに要らぬ価値ー末梢的価値ーばかりを増幅させ本質的な価値を軽視するに至るから此の文明は滅びへと至るのです。

宗教やまた其れに準ずる活動が重視するのは本来ならば其の本質的な価値の方でせう。

 

本質的な価値を見詰めることは間違いでは無く正しいことですがまさにオウムのやうにやり過ぎると其れもテロと化して仕舞う訳だ。

また三島先生の場合もああしてやり過ぎちゃってるのでまんまテロだとさう思われて仕舞ったのです。

 

なので是非やり過ぎず宗教やまた其れに準ずる活動の良いところを見詰めて行くことこそが大事だ。

尚私は早寝早起きは良いとさう昔から思って居ます。

 

ですが昔私は神経症となり昼夜が逆転し酷いことにもなって居りましたが其れでもかうして生きて来られたのですから絶対に早寝早起きが良い訳でもないことでせう。

ー第一かの五木 寛之先生などはもうどう見ても遅寝遅起きですー

 

 

實践倫理宏正會は眞面目系の団体であるやうで其処は元々眞面目な私も好感が持てる。

逆に申しますと酒飲みでもって且つ👩遊びの好きな人々にはまず理解されぬ精神的次元を生きる団体でせう。

 

ですが何度も述べて居りますやうに其の眞面目をむしろ反省しつつやって行くことこそが實は最も大事なのではないだらうか。

また共産主義などもまた右の思想とはまた違った面でむしろ潔癖なのですが、其処もむしろ其の潔癖さに対し疑いの眼差しを向ける位の方が良い訳だ。

 

でもそんなんですと何処の組織にも与せずでまたどんな信念も生じない訳ですが詩人さんの場合だけは其れでもって行くとさう仰るのですか?

だから僕が信じて居るのはあくまで理性なのであり宗教でもまたどんな組織的活動でも無いのである。

 

でもそんなんですともしや地獄に堕ちて行くのではないか、アナタの其の精神のあり方其のものが!

ですからあくまで其れが自灯明であり法灯明なのです。

 

なのでボクは地獄などには決して堕ちぬ。

逆に地獄に堕ちて居るのは現代文明だ、此のクソ野郎共めが!

 

 

実践倫理宏正会の教理は朝起を重視し禁欲的修養をうたう点でひとのみち教団倫理研究所と類似点が多いと沼田健哉が1978年に指摘した[7]実践倫理宏正会は「大自然の法則にそって確立した生活のすじ道を会員に教え実践する」ことを目的としており、祖先から受け継いだ「伝承の重み」を重視する[17]

家族関係については、「目上、目下のけじめ」をつけること、主婦は、主人に反抗してはならず、夫が無理な要求をしたときもまず妻が反省すべきであること、親は子を自然のままにおき「捨て育て」をすべきことなどが教えられる[17]。ー

 

 

其のケジメをつけると云うこと其れ自体が戦後民主主義が進むと同時にまるで機能しなくもなって居る。

要するに価値観の上での合理化の流れが伝統的な東洋の価値観を駆逐し人間の分限を排除し平板に平等化して行って居る。

 

其の平等化は一見良いことのやうに見えて事のケジメを失わせて居る元凶でもある。

 

ところが労働環境などは酷く悪化し且つ格差社會となりしかも特権層が威張って居ます。

なので本来ならば其処のところこそが平等にならねばならぬと云うのに変なところを平等にし其れでもって職業婦人が威張ったりまた障碍者が神様となりおまけに教師が大抵は下の事件を起こして捕まったりもする。

 

要するに社會のあり方がそも相当にオカシイです。

 

 

ですので、

 

👩は👨に反抗などしてはならず、

 

また罪深い其の女体としての罪を自覚し、

 

子は親を敬わねばならぬ。

 

 

なんですが、其れもそのうちに共産革命がもしも勃発すれば此の際共産党の言うことにみんなは従って下さい。

元より伝統的価値観は大事なものですが、其れが正解であるとは言えぬのが此の世での常の様なのだ。

 

 

其の禁欲的修養と云うことは強欲的放蕩とはまさに逆のことでまさに正解のことなのですが其れ自体が単独で良いとは實は言い切れぬ部分をも抱えて居りませう。

 

禁欲的修養⇔強欲的放蕩

 

宗教⇔世俗

 

眞面目⇔不眞面目

 

とのことですので、

 

正しいのだが正しくはなくなる可能性が常に生じて参りますのがむしろ此の世での価値分別の部分です。

 

 

だから精神的な価値ー観念的に規定される価値ーは必ずや逆方向をも視野に入れたものとして置く必要がある。

其れが出来た状態でこそ眞の意味での理性的選択が其処に為されて居るのだと言えやう。

 

精神的な価値とは所詮は言葉の価値であり言葉の価値の本質とは虚偽性ー虚構性ーにこそある。

要するに實体が伴わぬ価値である他無いのが文としての価値なのだ。

 

 

だから其れはどうとでも言える。

またどんな風にも移り変わって行く。

 

時代や社會が其れをさう規定して行く訳ですのでたとえイヤでも其れに従わねばならぬことになって仕舞い易い。

よって其の抽象的に齎される価値、抽象的な論理にはむしろ惑わされぬやうにして行く方が良い訳だ。

 

場合によってはむしろ社會的な価値を遮断することで其れを求めて行く場合などもまたあらう筈だ。

 

 

尚「倫風」誌では上廣 哲治会長が毎号「倫風宏話」と云うものを誌頭に載せて居られるが今年に入り其処から大きく感銘を受けた部分があった。


其れは盲目的に何かに従わずに自己としての意見、自らの考えを大事にせよ、と云うやうな内容のことで私は其れを読みつつまさに目を疑ったものだった。

第一かうした類の精神修養団体のトップの人がまさかそんなことにまで踏み込み述べられるものだらうか?


但し申し訳無いのだが其の号が今出て来ず其の話の内容の確認が出来ぬ状態にある。

其れは私がダラダラだからいや掃除中でゴチャゴチャだからたまたまそんなんなって仕舞ったのだ。


兎に角私は其の時に初めてもしや此の団体は正しいのかもしれないとさう思わさせられたのであった。